彼が、そろそろ家に帰らなくては、などと言って、私を急かしたことはない。態度にそんな色を滲ませたことだって、一度もない。だから私は毎回思う。このままずっと、私がベッドを出なかったら、彼をここにとどめておけるのではないかしら。

 もちろん私にはそんなことはできず、今日も夕暮れに差し掛かる前にはベッドを出て、シャワーを浴びに行く。怖いのだ。ぐずぐずと引き伸ばしみたいなことをして、とうとう彼に急かされてしまうことが。彼は多分、奥さんが待っているから、とか、奥さんに怪しまれるから、とか、そんな理由ではなくて、私とこれ以上一緒にいたくないから、鬱陶しくて面倒だから、といった理由で私を急かすだろう。私はそれに耐えられそうもないし、彼に気が付いてほしくもない。つまり私が、鬱陶しくて面倒な女だと。

 真っ白いシャワールームで、化粧を落とさないように気を付けながらシャワーを浴びているときが、一番惨めな気分になる。ひとりきりだからだろうか。素顔を見せられない関係だからだろうか。分からないけれど、どっと惨めさが堰を切ってきて、私は危うく泣きだしそうになる。もちろん、ぐっと涙はこらえる。シャワーを浴びながら泣きじゃくるなんて、そんな昔のトレンディドラマみたいなことは、死んだってしたくない。

 「帰るの?」

 彼は、シャワーから戻ってきた私の手を取って、まるで私の方に帰らなければならない理由があるみたいな言い方をする。

 ずるい。

 そう思うのに、愛おしい、とも思ってしまう。彼が私のために時間を作ってくれている。それは確かなことだったから。

 「帰るよ。」

 私は彼の手を握りかえし、子どもがするみたいにぶらぶら揺らしてみながら、とにかくあっさり聞こえるようにそう言った。私の方に帰らなければならない理由があるみたいに、いつも。

 次の約束は、いつもしない。私は、彼からのラインを待つだけだ。彼からのラインを待って、職場から離れた駅の近くで食事をして、そして結局はホテルに行くだけの関係だとしても。

 彼と肩を並べて、ホテルを出る。辺りは薄水色の夕暮れに包まれていた。

 じゃあ、と、軽く手を振っただけで駅前で彼と別れる。なんでもないような顔を取り繕って。本当は、狂おしいくらいに願っている。今から彼と別れてひとりの家に帰るのではなくて、彼と二人で住んでいる家に帰るところだったらいいのに、と。でも、そんな場所はこの世には存在しないので、私は瞬きを繰り返し、コンタクトレンスがシャワーの水気のせいでずれかかっているのに苛立ちながら、ひとりで電車に乗り込むしかない。

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