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「ええ、あなた。」
そういえば、周子ちゃんのママは、私の名前を知らなかった。もちろん私も、周子ちゃんのママの名前を知らない。二人きりでしか会ったことがないから、名前を呼び合うことなんてなかったし、言ってしまえば、関係性がそれだけ希薄だったのだろう。
「……私? 別に、とくには、なにも。普通にしてます。」
答えた私の声は、幾分ぎこちなかったと思う。なにを問われているのかよく分からなくて、ふわふわした回答になった。これまで周子ちゃんのことしか話してこなかったから、話が急に私のことに飛んで、戸惑ってしまったのだ。それに、周子ちゃんのママが、私の日々の生活になんて興味があるとは思えなかった。
「周子がよく、あなたの話をしてくれるの。……お父様が、お仕事でいらっしゃらない晩に、ここに来ているの?」
周子ちゃんと私は、クラスでは一番よく話す間柄だったから、考えるまでもなく、周子ちゃんがママに、私のことをなにかしら話しているのは当然のことだった。そして私に関する話の中で、一番物珍しいのは、パパが仕事で度々夜に家を空けていることだろう。テレビ観放題なんだよ、と以前言うと、周子ちゃんは、いいなぁ、と、素直に羨ましがっていた。それでも私はそれまで、自分の生活が周子ちゃんと周子ちゃんのママの間で話題に上っていると考えたことがなかったし、なぜだか深く、裏切られたような気がした。裏で、周子ちゃんと周子ちゃんのママが手を結んでいたのを知ってしまった、みたいな感じ。ふたりは親子なんだから、当たり前のことなのに。
パパがいないから、さみしくてここに来ているわけじゃない。そんなに私は、子どもじゃない。ママがいないことだって、私はちゃんと受け入れている。受け入れて、今はもう、全然平気だ。
そういう趣旨のことを、私は口にしようとした。ママがいないことを周子ちゃんに話したことはなかったけれど。それなのに、なぜだか、口から出て来たのは、頭の中で組み立てたものとは全然違う台詞だった。
「キスして。」
唐突過ぎる、意味不明な、そのひとこと。
私は一瞬、自分がなにを言ったのか分からなくて、目を瞬いてしまったくらいだった。でも、一度口にした言葉はもちろん、飲み込み直すことなんかできない。だから私は、人一人分の距離をあけて、ソファの隣に腰掛けている周子ちゃんのママを、じっと見つめた。それ以外にできることがひとつも思い浮かばなくて。
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