ウツクシキ物語

蓮根三久

本文

 殺人を行う前と後で人間性とやらは変わるのかどうか、それは三月九日と三月十日の彼の生活を見ていれば明白であろう。



××



 三月九日、朝。税込み二百二十八円、五玉入りの冷凍うどんの一玉を、鍋の中の沸騰した水の中に入れる。菜箸でそれをほぐしてやって、良い頃合いでざるにあげて冷水にさらす。水を切り、丼に入れたそれにほんの少しめんつゆを垂らしてやって完成。


 出来上がったそれを口に運ぶと、ぽろり、と落ちる。痙攣にも似た震えが僕の手には発生していた。それがうどんを箸から落としたのだ。


 僕はあまり気が強い人間ではなく、寧ろ弱い方であり、産まれてから今までずっと誰かの尻に敷かれて生きている様な感覚があった。何者かによる、あるかも分からない監視に日々怯えながら、普通の人ならば平然と行う小さな罪(例えば道路の車通りが少なくなった時を見計らって道路を横断するだとか)を何が何でも行う事を許さなかった。それはある種の強迫観念のようで、僕はこの世界を生きにくい世界だと認識しながら、自分からこの世界を生きにくくしていたのである。


 そんな抑圧された僕にもそろそろ限界が来て、日頃ため込んだ暗い思考、それを発散させてしまおうと思ったのである。


 人は死んだらどこへ行くのか。人を食べたらどんな味がするのか。死姦はどんな気分なのか。中学二年生で培ったそのグロテスクな思想を成人になってもなお持ち続けていた僕は、今日ここにその単純な問いへの答えを導くことに決めたのである。


 手の震えは、そこから来ていた。


 武者震い、とでも言うのだろうか。これから自分がしでかすことがどれだけ罪深いことなのか、未来の自分の生活が思い描けない不安と、これまで歩んできた自分を殺してしまう事になるであろうという恐怖、それになんだかどうしようもなく心が高ぶっていた。


 僕が生涯で殺したのは双葉夕と志村楓の二人のみである。初めに僕はたまたま目の前を歩いていたからという理由で双葉夕を人気のない路地に連れ込み、あらかじめ携帯していた包丁で胸を二回、首を一回刺し、殺した。


 手にも包丁にも服にも赤黒い血がべったりとついて、最悪の気分だった。でも人を殺すことが出来て少し嬉しかった。また、彼からは有益な情報を得ることが出来た。


「な、あ、死んだらどこへ行く?」


 人と喋り慣れていない僕は、たどたどしい口調で聞いた。すると彼は、僕の顔を睨みつけながら、首からあふれる血を左手で抑えて言った。


「けい………むしょ…」


 その回答はとても面白く、ああなるほど、刑務所か、そう唸った。確かに人間はよく罪深い生き物だとされている。“死んだ”ことを“捕まった”ことと捉え、その罪を洗い流す“地獄”という“刑務所”に放り込まれるのだ、そう考えるなんて、なかなか面白いセンスだ。僕は彼に感心し、殺してしまったことを後悔した。


 この時、実際僕が後悔したのは彼を殺してしまったことによって彼とこれ以上話せなくなってしまったということであり、おおよそ人間性のある後悔の仕方ではなかった。


 さて、これで僕は人が死んだらどこへ行くのか分かったわけだが、やっていないことが二つある。それは食人と死姦である。


 食人に関して、僕は双葉夕を殺した後、すぐに彼の二の腕の一部を採取し、毛を削って皮をむいて、ぶよぶよした黄色い組織を口に入れたが、あまりにも不味くすぐに吐き出してしまった。これは火を通していなかったことが原因であろう。トンカツにして口に入れると、言われなければ気づけない程トンカツであり、ほんの少し、一般的なトンカツよりも硬かった。思ったより食べることが出来たのが意外だった。何事もやってみることである。


 食人はこれで完了した。最後に死姦だが、僕に男の趣味は無い。仕方なく二人目を探そうと、トンカツを作っていたせいですっかり暗くなった街を歩いていると、僕のすぐ目の前の曲がり角から女性が現れた。死姦したいときに女性が現れるなんて、これはもう運命だと思って、僕は彼女をすぐ近くの公園の公衆便所に連れ込み、首を絞めて殺した。


 彼女は多分二十五歳くらいで、濃いめの化粧をしていた。しかし首が絞まっていくことで、徐々にその化粧が彼女の顔の色味に振り回され、みっともない色になって面白かった。まるで林檎とそれに付着したブルームのようで、ほんのちょっぴり、昔旅行をしに行った青森の農園のことを思い出して、懐かしい気分になった。


 さてと、僕の目的である死姦だが、そもそも僕は死姦以前に生姦をやったことが無い。少し戸惑いながら、重たい彼女の肢体を洋式便所に置いて、とりあえず性器を挿し込んでみた。ああ、こんな気持ちの良い事がこの世にあるなんて。僕は一心不乱に腰を振って、その度に揺れる彼女の小さな顔と大きな胸部にまた性器を高ぶらせ、腰を振るのに合わせて漏れ出る彼女の吐息を更に浴びたいと考えてしまうのであった。


 一通り終わった後、これはいけない事だろうと思って、もう二度とやらないことを誓った。誰に?自分に。


 そうして三月九日は終了していく。僕は家に帰り、汚れた衣服を洗いながら、また汚れてしまった体を洗い、床についたのだった。


 三月十日、朝。自分の口から溢れ出たぐじゅぐじゅの吐瀉物によって目を覚ました。


 僕はベッドから床に落ちて倒れこみ、フローリングを吐瀉物と涙と涎と鼻水で汚しながら、額をゴンゴン打ち付けた。


「僕はなんてことを…僕はなんて……ことを……!」


 双葉夕の顔が思い出される。首から胸からおびただしい量の血を流しながら、こちらを睨みつけていた彼の顔。殺してやる、ふざけるな、許さない、頭の中の彼がそう言っている気がして、嗚咽が漏れる。


 志村楓の性器の感覚が思い出される。生暖かく、ぬるっとしていて、ところどころ引っかかる。気持ちよさと、人を殺めてしまったのだという罪の意識が混ざり合って、僕の頭ではもう正常な思考が出来そうにない。


「じ、自首しよう」


 決心して、立ち上がる。汚れたフローリングには目もくれず、しかし一度洗面所へふらふら歩いていき、口の不快感をすっきりさせた。


 そこまでのほんの数歩であったが、その数歩が、僕が自首することを留まらせることになる。


 途端に腹が鳴り、ああそういえば昨日はうどんとトンカツ以外何も食べていないな、と思い立って僕はうどんを作り始めた。いつも通りの手技で、いつも通りの品が完成した。それを腹に落とし入れ、なんとなく満たされた気がした。


 今日は何をしようか、そう考えていると家のチャイムが鳴らされた。宅配便は頼んでいない。僕に友人はいない。家の中にテレビは無い。僕は宗教二世である。


 昨日人を殺した。昨日人を食った。昨日死体を犯した。


 双葉夕の言葉を思い出した。人は死んだらどこに行くんだ?


「刑務所」


 正確に言えばそこは人が死んで行く場所ではない。ただそこには死んだ人間しかいないのである。


 四六時中刑務官によって抑圧されながら過ごす自由のない場所。地上における地獄。精神疾患患者ばかりの灰色の箱。


 その時、僕の眼にはキッチンの流しに置かれた包丁が映った。



 僕はもう何者かに圧し潰されるように生きるのも、圧し潰されて死ぬのもごめんだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ウツクシキ物語 蓮根三久 @renkonsankyuu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ