起詞回声 ~ウクライナ少女と作詞おじさん、農大バンドで再起する~

蒼山みゆう

Disc.1_起詞の章(来日編)

Track.00_干からびて、しまえばいい_Acapella.ver ☆

 笑い方を置いてきた西洋人形が、瞬きさえすることもなく、ただ真顔で俺を見つめている。


 大丈夫だったか、心配したんだぞ、リュミナ。


 そんなありきたりの言葉は、声にならず。

 紺碧よりも仄暗い、開ききった瞳孔に呑み込まれてしまった。


 夜の農芸池への入水事件。

 決して酒癖などではなく、本気で彼女は歩みを進めていたらしい。


 彼女の学友たちを現場に導いてくれた神様に、俺は初めて感謝を捧げる。


 一方で、結局俺がリュミナのためにやってきたことは、ただの自己満足だったらしい。


 異性、ひと回り以上歳上、又従兄という微妙な縁。諸事情で保護者になっただけの俺は、配慮と言い訳しつつ、時間帯にも物理的にも、リュミナと距離を取りすぎていた。

 

 だから、膨れ上がった彼女のストレスが暴発することを防ぐことも、その場に居合わせることもできなかった。


 その結果が、この泥に塗れた人形姫だ。


 慰めるための言葉など、とうの昔に使い果たしているし、リュミナを取り囲む同性の友人たちにケアを任せるべきなのかと思う気持ちも嘘じゃない。


 ただ、なんとなく。ここで任せきりにするのは違うという直感があった。或いはこれが初めての啓示だったのかもしれない。


 こちら側へ引き留めなければ、馬鹿なことをしかねないと、そう確信に至る何かが脳内を駆け巡っていた。


 昔、俺はどうしたっけ。

 誰にも言えないから、その後悔を空に叩きつけて。


 そうだ。あのときの俺は。


「────干からびて、しまえばいい のに」


 リズムを敢えて噛み千切り、呪詛を撒き散らす。

 

 向こう岸にくために。

 こんな池、干からびてしまえばいい。


 別に、音楽の力を信じているわけではない。信じているのは言葉の力。

 

 ただ喋るのでは、軽すぎる。小さすぎる。


 それだけの理由で腹の底から絞り出した声が、羞恥の代わりに、破れかぶれなメロディーを纏っていた。  


ミコト、さん?」


 リュミナ以外の誰かの雑音なぞ、無視しろ。

 もう一度だ。


「涙も 怒りも」


 あのとき、失ってしまいたかったものは他に何があったか。


「希望も 言葉も」


 拠り所がなく、彷徨う音程。


「全部 全部 全部 干からびて、しまえばいい────」


 それが定まるところを見つけるまで伸ばし切り、思考の汚泥の中に潜り潜り、潜る。


 そして、陸で溺れるまで酸素生命を吐き出し、ブレスと共に、静かに言葉を置いた。


「のに」


 池から這い上がってくる湿った空気が、肺を、生命を満たしていくのを感じる。


 少しだけ、リュミナと対等な立ち位置に近づけたかもしれない。


 でもこの歌は徹頭徹尾、自暴自棄だった頃の俺のための歌だ。今のリュミナのために歌えるほど、知ったかぶりはできない。


 だがこれが道標だと、代弁だと。

 彼女を騙せるのなら、やるしかない。


 たった3文字を伝えるためだけに、盛大な前振りを宛てがう。


 いつもの商談と同じだ。

 この話術に全てを注ぎ込め。


 さっきのフレーズは感情の転換点、Bメロラストとする。だから俺はBメロの始まりとなる少し前から歌い出した。


「笑い方 置いてきたの」


 1音目に強烈なアクセントを置き、喪失の動詞と共に一気に音量を絞り込む。


 あのときの俺が喪っていて、リュミナもそうでありそうなものは。


「赦し方 捨ててきたの」


 同じ音程とリズムの連打で畳みかける。

 単純だが、それでいい。


「眠り方 忘れていたの」


 ここだけ頭を緩やかに始め、音量と音程も最後の1音で一気に上げ、感情のボルテージを一気に加速させる。


「涙も 怒りも 希望も 言葉も」


「全部 全部 全部」


「干からびて、しまえばいい のに」


 明確なアクセントと畳みかけるリズムで1度目よりも勢いをつけながら、先ほど見つけた音程で修正をかける。


 暫しの沈黙。


 一度沈んで落ち着いた気持ちでサビのフレーズとなる言葉を探す。


 茂る葦の揺らぎと、季節外れの水鳥の羽ばたきが向こう側から聞こえる。

 首元が軋み、渇いた唾がその上をなぞる。熱い喉が冷える刹那。

 俺の代わりに泣いてくれた夜空が俺の頬の輪郭をなぞる。


 あぁ、これだ。


「喉に残る雪は」 


 20年以上昔、小学生の頃に流行った連想ゲーム。

 運動音痴な俺が無双できていた唯一の遊びの要領だ。


「いま」


 与えられた余白は1拍のみ、だが問題ない。


「融けて 濡れて 冷める」 

 

 連想の三連打に、掠れた裏声が混じる。


「そして 頬を伝う雨を また」


 手振りごと、その動詞を喉から出力しろ。


「拭いて 舐めて 飲んで」


 踵で刻んでいたリズムを、膝ごと持ち上げ、ここで大きく叩き潰す。


「このまま」


 そしてラストフレーズで言いたいことは明確だ。

 ここからは感情の勢いを落とさずに駆け抜ける。


「向こう岸が 見えない」


 音程など捨て去れ。

 ただ感情の蛇口を全開で捻るだけだ。


「水面で生きて 生きて 生きて」


 そうだ、俺はこうして生きてきた。


「息して」


 こうして恥を晒しながら生きている。


「不誠実なまま 生きる────────」


 それでもいいから、お前も生きてくれ。リュミナ。


 枯れ果てるまでのロングトーン。

 それで、この未完成なミュージカルは終幕だ。


 それなりに拍手の気配を感じるが、肝心の人形姫はどうだ?

 

「えっと……ドライブより音痴だね。ミコト」

「なぁ、即興を褒めろや。次はもっと上手く歌えるわ」


 声の温度感からすると、少しはいつもの調子に戻ったかもしれない。


「冷えたやろ。うどんでも行くか?」


 振り返ると、肯定インコになったリュミナがいた。本当にこういうときは分かりやすいな。


「着替え借りたら、部室棟のシャワー行ってこい」

「うん、そうする。すぐ戻るから待ってて」


 少なくとも、身体は生きたがってる。

 それがようやくこの目で確認できた。


 あぁ、充分だ。


 そして俺は1人、池のほとりで佇み彼女の帰りを待つ。


 傘を差すには至らない程度の五月雨───ひとくち分にも満たないそれを、手のひらに溜めてから口内を少し湿らせる。


 少しだけ、空気酔いがほどけた気がした。

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