Track.01_テレビの向こう岸
その一報を最初に聞いたときの俺は、人間として最低な奴だったのだと今でも思う。
ユーラトピアへの侵攻、か。最近色々ときな臭かったけど、ちょっと今回はこれまでより事態が大きくなりそうだし、東欧方面の便はエアーもシップもやばそうだ。俺の頭の中には、そんな機械音が流れていた。
「下田さん、いまチャットに入れたニュース。速攻で部内に回しといて。デリバリーさんと納期とフォーキャストの再確認はお願いできるかな。他部署への横展依頼は俺のほうでやっとくから。玉の抑えは後で一緒に案を練ろう」
「はい、承知しました」
車業界向けの商社に勤めだしてもう5年。社会人歴としても12年。特段すばらしい成績を収めているわけではないにしろ、ほどほどに営業マンとして脂も乗ってきたころ。
大地震やコロナ禍による供給網の断絶などをそれなりに乗り越え、鍛えてきた嗅覚により、部下へとっさにそう判断できた俺は、中小企業のいち係長の動きとしては及第点はもらえる動きをできていただろう。
そう、思っていた。
ここまでの時間、人間らしさを取り戻すのに五分。
だがしかし、その5分は自分に失望するには十分たる時間だった。
「……リュミナ」
ようやく浮かんできたのは遠い国の又従妹の名前。
今年で確か20歳、渦中の国に住む彼女の大学の場所はどこだったか。
大叔父さん家は確か首都だったはずだから、トップニュースとなっている問題の国境からはまだ遠い。
しかし、直接であったのは、俺が中学3年、彼女が5歳の一度きり。
それ以降は彼女のおねだりでヒーラームーンなどのアニメのキャラを描いたグリーティングカードを、年に一度やりとりしていた。
日本人である俺の祖父の妹であるリュミナの祖母が、ネイティブな教師替わりだったとはいえ、普段使う場のない日本語を自ら覚えるほどに日本のアニメが大好きになった彼女は、来日以降もずっと俺の中途半端なレベルの絵を、すごい、すごいとほめてくれ、いい気になった俺はなんだかんだ年一のやりとりを今でも続けていた。
だが俺とリュミナの間には、しょせんその程度の付き合いしかない。
リュミナの祖母も、その娘である彼女の母も、病気で早く亡くなったと聞いている。
だから余計に、リュミナとその家族のことが気になった。
彼女が農学部に行っていることは、白衣を着て麦畑にいる写真から十分に伺えたが、詳しい大学名や就学先の都市など、俺には知る由もない。
「連絡先はカードにしかないか。くそっ────母さんならわかるか?」
昔と違っていろいろな連絡手段がとれるようになった。
大阪へ遊びに来るなら案内するから連絡しろと、こちら側のメールアドレスは一応書いていたし、確か向こうも書いてくれていた気がするが、それをアドレス帳に転記した覚えなどなかった。
「多智花係長、珍しく荒れてるじゃないですか。どうしました? まさかフォースマジュールとかですか?」
2年目社員に気を遣わせたな。よっぽどさっきの俺はひどい顔をしていたのだろうか。
「いや、大丈夫。やっと最近落ち着いたのに今回は長丁場になりそうだし……変なとこ見せてすまん。珈琲、買ってくるけど、下山さんは微糖でいい?」
「はい、ありがとうございます係長」
割と離席には寛容な会社で良かった。エスカレーターではなく、人目につかぬよう非常階段を下りながら実家のグループラインへ取り急ぎニュースの状況と、リュミナたち家族の状況を知らないかと連絡を入れる。8階分降りきった後でも付かない既読。
頼む、早く、連絡をくれ。
「……もしもし、母さん、全然ライン見てないだろ」
スマホになれていない母からの返信を待っている心の余裕はなかった。
会社の隣にある自販機の裏側で俺は実家の固定電話をかけ、ようやく繋ぎがとれた。
母もグリーティングカードを同じようにリュミナとやり取りをしていたため、メールアドレスは把握していたらしく、アドレスの載った写真を送ってもらう。
なんと連絡をすればいいのだろうか。
おそらく現地は非常に混乱している。
知らないアドレスである俺のメールなど見てくれるかどうか非常に怪しい。
だが一縷の望みをかけ、できるだけ単純に、押しつけがましくならないように考えて英文でメールを送った。
『無事でいてほしい。何かあったら日本に来い。金の心配ならいらない』
多少自動翻訳機能にも推敲を手伝ってもらったが、ざっくりとそんな内容だ。
そして普段はサボりなのでやらないが、事情が事情だ。
俺は証券会社のマイページにログインし、コロナ禍のころにかき集めた格安株を一気に利確させる。
売りそびれがないように、板よりも多少下で指値を入れて確実に売りさばく。
まだ楽観論も多いのか、そこまで大きく値動きはしていないからタイミングは今しかないと思った。
本当なら買いのチャンスでもあるが、今は現金を作ることが重要だ。
今の価格でも十分利幅は稼げた俺はとりあえずさっきのメールが嘘にしないようにできた。
もともとこの五年は独身貴族だ。
転職で給料も上がったし、先ほどの利確した分で十分に余力は作ることができた。
その後、待ちに待ったリュミナから返信がきたのは侵攻から7日後。
ユーラトピアの首都でもミサイルによる死者が出始めた頃のことだった。
署名とタイトルに一応は俺の名前をわかりやすく記載しておいたとは言えど、俺の想定どおり、リュミナには知らないアドレスのメールを見る余裕がなかったらしい。
そもそもメールソフトを日常連絡で使うことが稀なのだ。向こうの国でも。
そうしてようやく知ったのはリュミナは西の隣国、国境の街へそろそろ避難できそうだということ。
だが色々な手続きが国境内外共に停滞していること。
リュミナの父は徴兵で、祖父も自ら志願で軍に合流してしまったこと。
それから毎日1通は彼女と連絡を取り合った。
実家の母にも相談したが、介護の状況や経済力、引き取った後の進学先や就職先、行政の支援規模の諸々を考えると熊本の片田舎より、俺の住む大阪の政令都市に来てもらったほうがよいという結論になった。
想定通り、俺の本業も市況や物流網の荒れで混迷を極めていたが、適度に部下へ仕事を振りながら、隙間を縫ってできるだけ下調べと根回しに時間を割くようにした。いつでも彼女がこちらにやってこれるように。そうしているうちに3週間が過ぎ去った。
段ボールに名前を書いたボードを手に持ち、空港のロビーでその時を待つ。
待ち人の少女は、とても美しく成長していた。
おおよそ日本人が想像するスラブ系美人の典型的なモデルさんのようだ。
身長は、目算で俺とほぼ同じ約170程度。
胸元まで伸ばした長いブロンドの髪に雪のような白い肌、透き通る碧眼の瞳。
だが、それ以上に感じる儚さと危うさが、綺麗だという俺の感想を一気に拭い去る。
グリーティングカードで見た写真とは明らかに違う。
あきらかに軋んでいる毛髪と、ノーメイクなせいと色白すぎる肌のせいもあって、どうしても隠し切れない隈の跡。 肉体的にも、精神的にも疲弊しているのが見て取れた。
前の晩から用意していた言葉は吹き飛んだ。
英語版も、日本語版も10パターンほどは考えていたのにだ。
おかえりも、ようこそも、元気でよかった、のどれもが、今この場に相応しくないことだけは十分わかる。
小さく会釈をするリュミナもまだ声を発するタイミングを伺っている。
ふた呼吸ほどおいて、俺はできるだけゆっくりと言葉を絞り出した。
「ウェルカム、リュミナ。まずは一緒に、ランチを食べよう」
空港内にある飲食店街のほうを指さすことが、そのときの俺の精一杯だった。
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