第2話 幼なじみ
夕暮れの町を抜け、暁が自宅へと辿り着くと、出汁と醤油の香りがふわりと鼻をくすぐった。
父・高松朔太郎(さくたろう)は、料理というものにまるで縁がなかった。
仕事帰りに肉屋の惣菜を買ってきたり、隣近所からおかずを分けてもらったりして、何とか食いつないでいる。
それでも父なりに、息子と二人、笑って暮らしてきた。
そんな家庭で育ったせいか、暁はカレーライスだけは誰にも負けない腕前になっていた。
今日も、トキコに貰ったコロッケを添えて、コロッケカレーにするつもりだったのだが。
台所の窓から、白い湯気が立ち昇っている。
「……? おかしいな。隣のおばちゃんでも来てんのか?」
首を傾げながら、玄関の引戸をガラリと開ける。
「――げっ! ガチャ子!」
そこにはショートヘアの少女が立っていた。
前掛け(エプロン)を腰に巻き、真剣な顔で鍋をかき回していたが、サッと包丁を手に取ると、じろりと暁を睨みつけた。
「げっ、とは何よ、この野蛮人!」
「野蛮人て……お前なぁ、勝手に人んち入るなよ!」
「勝手じゃないわよ! あんたの家、いつも鍵開いてるでしょ!不用心にも程があるわ!!」
少女は、持っていた包丁をピシッと暁の胸元に向けた。
その勢いに、暁は思わず一歩引く。
「あんた、また町で大喧嘩したでしょ?なんでそう血の気が多いのよ!幼なじみとして恥ずかしいわ!」
このガミガミと叱りつける少女は
仙石綾子( せんごく・あやこ)
暁の幼なじみである。
「喧嘩じゃねぇよ!盗っ人を捕まえてやっただけだろう?!」
「だからって大捕物を演じることないでしょう? お巡りさんだって呼んでたのよ!」
綾子は食器棚から皿を取り出し、できたての料理を手際よく移した。湯気が立ち上り、醤油と出汁の匂いが二人の間にふっと満ちる。
「ヒーロー気取りか何か知らないけど、調子に乗ってると痛い目見るわよ!」
前掛けを外すと、彼女はそれをテーブルの上にバンと叩きつけた。
暁はわざとらしく肩をすくめ、にやりと笑う。
「おお、怖っ……。よくもそんなに、ガチャガチャガチャガチャ騒ぎ立てられるねぇ。口から先に生まれたのかねぇ、ガチャ子さんは」
その呼び方に綾子の眉がピクリと動く。
「今日も、月子先生はバカどもにスカートめくられて、真っ赤になって怒ってたけど、可愛いもんだぜ。女ってのは、あのくらいの可愛げってもんがないとなぁ!」
「月子先生は関係ないでしょ!」綾子が拳をぎゅっと握る。その指先が白くなる。台所の空気がきゅっと張る。
「全く、同じ女とは思えんよ〜」
「――あきら!!」
バゴォーン!!
暁の脳天にフライパンが叩きつけられた。
「――え?」
フライパンを叩きつけたのは、綾子ではなかった。
暁の父、高松朔太郎である。
「いってぇ〜……!」
「いてぇのはお前の脳みそだ、たわけが!」
怒鳴りながらも、どこか調子の抜けた声だった。
朔太郎は、呆然とする綾子に向き直ると、軽く敬礼してからフニャリと笑った。
「綾ちゃん、いつもすまねぇな。ほんと助かるよ」
その笑顔に、綾子はふっと肩の力を抜いた。
だが、素直になれず、そっけなく答える。
「おかえりなさい。別に、うち弁当屋だし、作り置きのおかず作るのは慣れてるから」
そう言って、そそくさと前掛けを畳み、鞄にしまう。
「それじゃおじさん、これ、適当に食べてね」
綾子はチラリと暁を見やり、チロっと舌を出した。
「んなっ……てめぇ! このブス!ブスブス、ブース!!」
「やめねぇか、バカタレ!」
バチン!
朔太郎の手刀が暁の頭をはたく。
同時に、炊飯器が「ピーピー」と炊き上がりを告げた。
ちゃぶ台には、綾子の作った料理がずらりと並ぶ。
里芋の煮っころがし、厚焼き玉子、ほうれん草の胡麻和え、きんぴらごぼう、鰯の干物、豆腐とわかめの味噌汁。
まるで三日分はありそうな量だ。
二人は向かい合って黙々と箸を動かす。
テレビからは「クイズ100人に聞きました」のテーマ曲が流れていた。
ブラウン管の光が、二人の頬を淡く照らす。
しばらくして、朔太郎がぽつりと言った。
「暁……綾ちゃんは女の子だぞ。もう少し優しく出来ねぇのか?」
「は? あんなもん女じゃないね。昔っから男みてぇだったけど、最近じゃあ、口うるせぇババァと変わんねぇぜ」
「お前なぁ……」
朔太郎は味噌汁をすすり、湯気の向こうで目を細めた。
暁は箸を止め、ぽつりと呟く。
「それに……俺にとっちゃ、女は母ちゃんだけだ」
不意に、部屋の空気が静まった。
テレビの笑い声が、どこか遠くで響いている。
「母ちゃん以上の美人はいねぇさ。この先、誰と出会っても……」
その声には、寂しさとも誇りともつかぬ響きがあった。
朔太郎は箸を置き、息子の顔を見つめる。
「暁……お前、母ちゃんが恋しいか?」
暁は、厚焼き玉子に箸を突き立てたまま、少しだけ目を伏せた。
そして、低く答えた。
「別に。死んじまったもんを恋しがったって、どうにもならねぇだろ」
それだけ言うと、玉子を口に放り込み、茶碗と汁椀を重ねて立ち上がり台所の洗い桶に投げ込むと、食卓を背にして言い放った。
「――銭湯、行ってくる!」
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