月の裏側で君を待つ
@moonrider
第1話
私が
午前二時。本来なら閉館しているはずの大学図書館の四階、天文学書架のコーナー。私は卒論のために忍び込んでいた――正確には、バイト先の先輩から借りた非常階段の合鍵を使って。
「こんな時間に、誰か来るなんて思わなかった。君は……何を探しに来たの?」
突然聞こえた声に、私は心臓が止まりそうになった。
書架の影から現れたのは、見たこともない男子学生だった。黒い前髪が目にかかるくらい長く、白いシャツの袖は肘までまくられている。手には分厚い天文学の専門書を三冊も抱えていた。
「誰……?」
「質問を質問で返すのは、今が真夜中だとしても、フェアじゃないよね」
彼は私の問いかけを無視して、書架に本を戻し始めた。その指先が本の背表紙をなぞる動きが、なぜか音楽を奏でているように見えた。
「あなた、こんな時間に何してるの?」
「ん……月の裏側を、探してる」
「……?」
「だから、月の裏側」
彼は振り返り、私の目をまっすぐ見た。その瞳は図書館の薄暗い照明の中でも、妙に透明で、吸い込まれそうだった。
「地球からは絶対に見えない、月の裏側。でも確実に存在している。そういうものを探してるんだ。ここには、そのヒントがあるかもしれないから」
意味が分からなかった。でも、彼の真剣な表情は、ふざけているようには見えなかった。
「あのさ、もしかして天文学専攻?」
「違う。音楽学部」
予想外の答えに、私は目を丸くした。
「音楽? でも天文学の本を……」
「音楽と天文学は、同じなんだよ」
そう言って彼は、指で空中に何かを描き始めた。その動きは、まるで見えない鍵盤を弾いているようだった。
「ピタゴラスは言った。『天体の運行には音楽がある』って。惑星の公転周期、恒星の脈動、銀河の回転――全部リズムとハーモニーでできてる。僕はそれを、音として聴きたいんだ」
彼の話す声には、不思議な響きがあった。低すぎず高すぎず、まるで波の音のように心に沁みてくる。
「あなた、変わってるね」
「そう?」
「名前は?」
「七瀬蒼。君は?」
「私は星野ヒカリ。天文学専攻の二年生」
「ほしのひかり、か。いい名前」
その言葉に、私の心臓が変な音を立てた。別に特別な意味じゃないのに、なぜかドキドキする。
「僕は行くね。邪魔してごめん」
「え、もう帰るの?」
「うん。今日は満月だから、外で聴きたい音があるんだ」
そう言って彼は、書架の間を滑るように歩いていった。その後ろ姿は、まるで影のように静かで、でもどこか儚くて。
---
翌日から、私は図書館で蒼を探すようになった。
彼は、いつも予測不可能な場所に現れた。ある時は楽器室で一人ピアノを弾いていて、ある時は屋上で空を見上げていて、ある時は食堂の隅で古い楽譜を読んでいた。
「星野さん。また会ったね」
三日目に声をかけられたのは、音楽棟の中庭だった。彼は芝生に座り、ヘッドフォンをつけていた。
「何聴いてるの?」
「土星の音」
「……土星?」
「NASAが録音した、土星の電波を音に変換したやつ。聴いてみる?」
差し出されたヘッドフォンを耳につけると、不思議な音が聞こえてきた。低いうなり声のような、風が吹いているような、でもどこか音楽的なリズムがある。
「すごい……」
「でしょ。これは宇宙の音楽なんだ」
彼の横顔を見ながら、私は気づいた。蒼は、いつも少しだけ遠くを見ている。目の前にいるのに、心はどこか別の場所にあるような感じ。
「ねえ、七瀬君はどうして音楽を?」
「
彼は芝生に寝転がった。空を見上げて、小さく笑う。
「多分、音楽なら、見えないものも表現できるから。言葉にできないことも、伝えられるから」
「見えないもの?」
「うん。例えば、誰かの心の中とか。宇宙の果てとか。失われた時間とか。そういうの」
その瞬間、彼の表情が少しだけ影を帯びた気がした。
私たちは、そこから不思議な関係になった。
週に二、三回、どこかで偶然会う。いや、偶然じゃなかったかもしれない。私が意図的に彼がいそうな場所を探していたのかもしれないし、彼も私を探していたのかもしれない。
ある日、蒼は私を音楽棟の練習室に誘った。
「聴かせたい曲があるんだ」
「私なんかが聴いても大丈夫?」
「大丈夫も何も、君のために作った曲だから」
その言葉に、また心臓が跳ねた。
練習室の古いピアノの前に座った蒼は、一度深呼吸をしてから、鍵盤に指を置いた。
流れてきたメロディは、とても美しかった。
静かで、でも力強くて。悲しいようで、でもどこか希望に満ちていて。まるで星空を音にしたような、夜の海を音にしたような、そんな音楽。
私は涙があふれそうになる。でも、簡単に涙を流してはいけないような気もして涙を堪えた。
「なんていう曲?」
「『月の裏側で君を待つ』」
演奏を終えた蒼が、私を見ずに答えた。
「この曲、ずっと完成しなかったんだ。でも君と会ってから、最後のメロディが浮かんだ」
「どうして……」
「分からない。でも、君と話してると、なにかを思い出せた気がするんだ」
「なにかって?」
「さあ、わからない」
彼は笑顔でそう言って、初めて私の目をまっすぐ見た。その瞳には、何か言いたいことがあるような、でも言えないような、複雑な感情が渦巻いていた。
「蒼君は、何か探してるの?」
「うん」
「それは、見つかりそう?」
「わからない。でも、今は、見つかるかもしれないって思えてる」
その日から、私たちはもっと頻繁に会うようになった。
蒼は私に、様々な「宇宙の音」を聴かせてくれた。木星の嵐の音、パルサーのビート、太陽風のざわめき。そして私は、彼に星座の物語や天文学の不思議を話した。
「星野さん、なんで天文学を選んだの?」
ある晩、大学の屋上で星を見ながら、彼が聞いてきた。
「うん。これはあまり人には話さないようにしてるんだけど。小さい頃、母を亡くしたんだ。その時、父が言ったの。『お母さんは星になった』って」
蒼は黙って聞いていた。
「最初は子供騙しだと思った。でも、星野ことを勉強し始めたら分かったんだ。私たちの体を作ってる元素は、全部星の中で作られたものだって。私たちは星の子供なんだって」
「星の子供……」
「うん。わかってるんだ。これはきっと自分を守るために自分で作った幼い幻想なんだけど」
「……そんなこと」
「ううん。だから、私は星を研究する。それで今も母とつながってる気がするだ。」
「……そうか。それが、君にとっての『月の裏側』なんだね」
彼のその言葉で、私は理解できた気がした。蒼が言っていた「月の裏側」の意味を。
それは、目には見えないけれど確実に存在するもの。失われたようで、でもずっとそこにあるもの。
「蒼君の『月の裏側』は何?」
その質問に、彼は少し躊躇した。夜風が吹いて、彼の前髪を揺らした。
「僕の妹だよ」
静かに、でもはっきりと、彼は言った。
「三年前に、病気で亡くなった。最後まで、ピアノを弾く僕の音を聴いてくれてた」
私は何も言えなかった。
「妹はいつも言ってたんだ。『お兄ちゃんの音楽は、夜の星みたい。』って『星の音が聞えるみたい』だって。だから僕は、本物の星の音を聴きたくて、天文学を勉強し始めた」
「それで、図書館に……」
「うん。音楽だけじゃ足りない気がして。」
彼は空を見上げた。満天の星空。
「でも、君と会ってから、妹が言ってた『星の音』の意味が、分かってきた気がするんだ」
「どんな意味?」
「多分、技術じゃなくて、心の問題。誰かを想う気持ちが、音楽に星を宿すんだと思う。君は、お母さんを想って星を見る。僕は、妹を想って音楽を作る。それが、『星の音』なんじゃないかな」
蒼の声は震えていた。でも、その表情はどこか穏やかだった。
私は、彼の手をそっと握った。彼の手は冷たくて、細くて、でも確かにそこにあった。
「ありがとう、聴かせてくれて」
「こちらこそ。話せて、楽になった気がする」
それから一週間、蒼は姿を消した。
練習室にも、図書館にも、屋上にもいない。連絡先も知らない。私は焦った。
音楽学部の掲示板で、ようやく情報を見つけた。
「学部定期演奏会」
出演者の中に、七瀬蒼の名前があった。曲目は『月の裏側で君を待つ』。
演奏会の日、私は会場の音楽ホールに駆けつけた。
客席はほぼ満席。舞台には大きなグランドピアノが一台だけ、スポットライトを浴びていた。
「次は、オリジナル作品の演奏です。作曲・演奏、音楽学部三年、七瀬蒼」
アナウンスと共に、蒼が舞台に現れた。
いつもの白いシャツに、黒いスラックス。でも、その雰囲気はいつもと違っていた。もっと凛として、でもどこか壊れそうで。
彼はピアノの前に座り、一度客席を見渡した。
その視線が、私を捉えた。
彼は小さく笑って、鍵盤に指を置いた。
音楽が始まった。
練習室で聴いた曲と同じメロディ。でも、何かが違う。もっと深くて、もっと広がりがあって。
静かな導入部から、次第に盛り上がっていく。高音が星のように煌めき、低音が夜の深さを表現する。
そして中盤、一瞬の沈黙の後に流れてきたのは、新しいパート。
それは、まるで二人の会話のようだった。問いかけと応答。探求と発見。喪失と再生。
客席の誰もが、息を飲んで聴いていた。
私は、涙が止まらなかった。
この曲は、蒼の妹へのレクイエムだった。同時に、私の母へのオマージュでもあった。そして、失われたものを探し続ける全ての人への、希望の歌だった。
クライマックスで、メロディは天へと昇っていく。まるで魂が星になるように。でも、完全には消えない。余韻として、ずっと残り続ける。
最後の一音が、ホールに響き渡った。
数秒の沈黙。
そして、大きな拍手。
蒼は立ち上がり、深く礼をした。その表情は、涙で濡れていた。
演奏会が終わり、私はロビーで彼を待った。
「星野さん」
「すごかった。本当に、すごかった」
「聴いてくれて、ありがとう」
「なんで言ってくれなかったの? 演奏会のこと」
「言えなかった。もし失敗したら、君をがっかりさせると思って」
「がっかりなんて」
彼に伝えたいことがたくさんあるような気がする。なのにそれは言葉にならない。
「ねえ、星野さん」
「何?」
「僕、見つけられたと思う」
「何を?」
「月の裏側。妹が僕に残してくれたもの。そして、これから僕が進むべき道」
彼は私の手を取った。
「君がいてくれたから、見つけられた。君は、僕にとっての星なんだ」
その言葉を聞いた瞬間、私の心は決定的に動いた。
これは恋なのか、憧れなのか、それとも魂のつながりなのか。分からない。でも、確かなのは、この人をもっと知りたい、もっと近くにいたい、ということ。
「私も、蒼君のこと……」
言いかけて、私は止まった。
なぜなら、彼の表情に、また別の感情が浮かんでいたから。
それは、決意のような、諦めのような、複雑な何か。
「実は、僕、来月から留学するんだ」
彼はそう言った。
「ウィーンの音楽院。奨学金が取れたんだ。この演奏会も、その最終審査の一つだった」
言葉が出なかった。
「いつから決まってたの?」
「二ヶ月前。でも、君に会ってから、言えなくなった」
「どうして……」
「君を悲しませたくなかった。それに、僕自身、君と離れたくないと思い始めてた」
蒼は私の両手を握った。
「でも、行かなきゃいけない。これが、僕の『月の裏側』にたどり着く道だから」
「いつまで?」
「三年。でも、絶対に帰ってくる」
「……待ってるって、約束できないよ」
「分かってる」
彼は笑った。寂しいような、でもどこか嬉しいような笑顔。
「だから、これは約束じゃない。僕の一方的な願い」
「どんな?」
「三年後、僕が帰ってきた時。もし君がまだ星を見上げていたら、その時は、君に新しい曲を聴かせたい」
「どんな曲?」
「それは、まだ分からない。でも、きっと今よりもっと良いものを作れるようになってる」
ロビーの大きな窓から、月が見えた。
少し欠けた月。でも美しい。
「ねえ、蒼君」
「うん?」
「月の裏側って、地球からは見えないけど、宇宙から見たら見えるんだよね」
「そうだね」
「じゃあ、いつか一緒に、宇宙から見に行こうよ。本物の月の裏側」
彼は目を丸くして、それから大きく笑った。
「それ、いいね。約束しよう」
私たちは小指を絡めた。
別れの日、空港で。
「行ってきます」
「いってらっしゃい」
「星野さん」
「何?」
「君は、僕の星だよ。どこにいても、君を見上げるから」
「私も、蒼君の音楽を、ずっと心で聴いてる」
彼は搭乗ゲートに向かった。
何度か振り返りながら、でも迷わずに。
私は、彼の後ろ姿が見えなくなるまで、手を振り続けた。
三年後、彼は本当に帰ってくるのだろうか。
私たちは、また会えるのだろうか。
分からない。
でも、確かなのは、彼が私の中に残していった音楽は、これからもずっと鳴り続けるということ。
そして、私が彼に見せた星空は、彼の音楽の中で輝き続けるということ。
月の裏側は、まだ見えない。
でも、いつか必ず、辿り着ける。
空港の窓から見える空は、今日も無限に広がっていた。
月の裏側で君を待つ @moonrider
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