第10話 道化師と少年
新人冒険者「コハク」として宿に身を落ち着けたギンは、硬いベッドの上で目を開けた。窓の外はまだ夜明け前。ルーメンの町は深い眠りについているが、彼女の心は休まらない。
(道化師は、危険依頼を受ける冒険者を狙って現れる。それは、何よりも『力』を欲する冒険者を奴が知っているということ……)
彼女は音もなく身支度を整える。盗賊の衣装ではなく、新人冒険者の地味な格好に身を包む。腰には、刃に麻痺毒が塗られた細身の剣を差している。
「さぁ、今回もスマートにいくわよ」——ギンは自分にそう言い聞かせ基本的に臆病な性格の自分を奮い立たせる。
ギンは、道化師が現れるという町の川にかかる橋へやって来ると、気配を消し橋の近くにあった物置小屋に身を隠した。川は腐敗した水の匂いと、冷たい湿気が充満している。
ギンは、気配を消し身を隠しながら周囲の気配を探った。すると、ギンのいる物置小屋から数メートル離れた橋脚の影に、別の人影があることに気づいた。
フードを深く被り、ボロボロのマントで全身を隠している。体躯は細身で、どう見ても戦闘経験豊富な冒険者には見えない。
橋脚の影に身を潜めてはいるが、気配を消していないところから察するに、エデンを求めてやって来た道化師の客だろう。
その人影は、微動だにせず、橋の下に身を隠し待ち伏せるように見つめていた。
ギンがその謎の人影に話を聞くため動こうとした次の瞬間、静寂を破るように、甲高く、そして調子の外れた歌声が響いた。
「夜の帳の下、ネオンの残滓よ♪
獲物はどこかな? 甘く煮詰めた憎悪を抱えて
眠れぬ魂に三日の夢を売ろう♪」
「キィ〜ヒャヒャヒャヒャ」
道の奥から、派手なストライプの衣装に、不気味に笑う白い仮面をつけた男が現れた。道化師だ。彼は両側に、フードのついたローブに身を包んだ護衛らしき者たちを二人連れて歩いていた。
道化師は、片手に琥珀色の小さな小瓶、エデンを弄びながら、ギンが身を潜めている橋へとゆっくりと進んでくる。
そして、その道化師の視線は、ギンではなく、先に潜んでいた少年の人影へと向けられた。少年は気配を隠すこともせず潜んでいたため道化師たちにあっさり見つかってしまった。
「おや、おや。今日は随分と若いお客様だ」
隠れて待ち伏せていた少年は、まさかいきなり見つかると思っていなかったのか、驚き、言葉が出てこないようだ。
彼は細身で、見るからに場違いな清潔感があるが、その顔は憎悪と悲しみに歪んでいる。首元には、小さな銀のペンダントが揺れていた。
「道化師!ボクの姉さんを……ユリア姉さんを返せ!」
ギンは息を呑んだ。この少年は、エデンを求めているのではなく、道化師を標的としている。彼の目には、狂気が宿っていた。
(この子……自分の姉を狂わせた薬の売人に復讐しようとしていたのね)
ギンは、今動くべきではないと判断し、しばらく様子を見ることにした。この少年は、道化師にとって予期せぬ相手であり、彼を泳がせることで、道化師から話を引き出せるかもしれない。
「ユリア。ああ、ユリア。あの美しい瞳が、私の薬で虚ろになっていく様は、実に芸術的だった。…そして、お前は、その復讐に来たというわけか」
道化師を守るように両側の護衛たちが道化師と少年の間に割って入るが、道化師は護衛二人を右手で制し下がらせた。
「俺は、お前を殺すために来た。ユリア姉さんの敵を討つ!」
少年は腰に隠していた粗末な短剣を抜き、道化師に向かって突進した。
道化師は迫ってくる少年に対し指をパチンと鳴らす。すると、少年は金縛りにでもあったかのように突進を止めた。
「ユリアと違い君はあまりにも醜い。そんな醜い君には私のペットたちの餌になってもらうとしよう」
そう言うと道化師は橋の下を流れる川に向かってパンパンと二回手を叩く。すると、川から見たこともない悍ましい魚が大量に顔を出した。
身動きできなくなった少年は、持っていた短剣を取りあげられると、護衛の一人に持ち上げられ、腹を減らした悍ましい魚たちのいる川に今にも落とされようとしていた。
「ヒヒヒ、哀れだな。冒険者だったお前の姉は、高難度の依頼を受けるために力を欲した。騎士を夢見るお前を養い騎士学校に入学させるために金が必要なんだと言っていたな」
道化師は、少年から取り上げた短剣を足で踏みつけながら少年を嘲笑った。身動きがとれない少年は怒りと悔しさの籠った目で道化師を睨みつけている。
「その憎悪、実に美味そうだ。だが、お前には力がない。力とは、金で買うものなのさ。金も力もない醜いお前に価値はない。たが優しい私は、お前のような無価値の者にも最後に私のペットの餌になれたという価値を与えてやる」
少年は、動かない体で必死に抵抗し手を伸ばす。彼の復讐心は、この絶望的な状況の中でも目の前にいる姉の仇を睨みつけ諦めていなかった。
少年を掴んでいた護衛の腕が振り下ろされる。
少年の体が、闇の川面に吸い込まれていく。次の瞬間──水面を割って、銀色の軌跡が走る。
ギンの体が横薙ぎに滑り込み、悍ましい魚たちが口を開け餌を待つ川へと落ちていく少年を抱きかかえていた。
川の水が少年の靴先をわずかに濡らす。
ギンは道化師たちから少し距離をとり、少年を抱えたまま橋の上に着地した。それからすぐに抱えていた少年を地面に寝かせると、道化師たちに背を向けたまま素早く仮面を被り、道化師たちの方へと振り返る。
ギンは少年を自分の背後に庇うようにして立ち、仮面越しに道化師を睨みつけた。水滴がギンの頬を伝う。
「……姉さん……ユリア姉さん……?」
少年の掠れた声が震えていた。
ギンは小さく首を振る。
「違うわ。私はギ⋯⋯コハク。普通の新人冒険者コハクよ」
そして、彼女は剣を抜き静かに告げた。
「不本意だけど、本当に本当に不本意なんだけど、、、、アナタのお姉さんに代わってアナタを助けるわ」
「……ユリア姉さん……やっぱり……生きていてくれた」
(だから違うんだってば⋯⋯)
ギンは、ため息を吐きながら道化師たちの前に立ちはだかった。
「いろいろ話を聞かせてもらえるかしら?」
道化師たちを威圧するように警戒する。
「おや、また愉快な飛び入りだ。妙な仮面をつけてはいるが、格好からして新人冒険者といったところか?……ヒヒヒ、隠れて震えていればいいものを」
『本当にその通りだ』と、ギンは内心道化師に同意する。この少年が余計なことをしなければギンは隠れて様子を見ていればよかったのだから⋯⋯。
だが、そうも言っていられない。
ギンはため息を吐きながら腰の剣を抜いた。その剣先は、道化師とその護衛たちに向かって冷たい光を放っていた。
その時、地面に倒れていた少年が、ギンを見上げて、震える声でその名を呼んだ。
「……姉さん…ユリア姉さん⋯」
少年は、朦朧とする意識の中、突然現れたギンを姉であるユリアと錯覚しているようだった。ギンは少年の無事を確認すると、優しく微笑み、そして静かに剣を構え直した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます