第9話 ルーメンの道化師

 アジトの私室で、ギンは窓の外の夜明け前の闇を眺めていた。バルカス一派の始末は、組織を守るための冷酷な決断だったが、彼女の心を深く抉っていた。


​(血の匂いや狂気とは無縁のパン屋……。でも、まずはこの組織を守らなければ、その夢にさえ手が届かない)


​        エデン───三日薬。


この薬が、彼女の仲間たちを狂気に陥れ、影の牙を崩壊の危機に追いやった。元凶を断つ以外に、彼女の葛藤を終わらせる道はない。

​先日、影の牙の団員がルーメンという町を訪れた際、エデン中毒者が町で暴れているのを目撃したという報告がお頭であるギンの下へと挙がっていた。


あの恐ろしい薬を二度と影の牙に持ち込ませないためにもお頭である自分が片付けなければならないと思い、ギンは一念発起する。


机の上には町の地図が広げられており、その地図には『冒険者ギルド』と書かれた建物に×印が打たれていた。


​「ゴウに告げるわけにはいかない」


​ゴウはギンの身の安全を優先するあまり、お頭自らが調査に出ることに対し必ず反対し止めるだろう。万が一、ゴウが調査に出ることを了承したとしても、彼は間違いなく同行すると言い出すはずだ。そうなれば目立ってしまい、かえってギンの潜入調査を妨げることになるのは十中八九間違いない。


  そう、これはあくまで潜入調査なのだから……。


​ ギンは、音もなく自室を出た。夜も更けて闇が濃く世界を覆う中、彼女は得意の『パン屋を開いた際、早朝、近所迷惑にならないように静かに作業をこなす』ために磨き上げた回避術と鍛えた体幹を駆使し、崖のアジトから谷底へと滑り降りていく。


​アジトを出た彼女の背中には、町で買った薄手の生成りの布袋が背負われていた。中には、エプロンと、パン屋の見習いとして使っている偽名『コハク』の文字が入った町の住人であることを証明してくれる認識票、そしてわずかな銅貨が入っている。


​「……ふぅ」


​崖を下りきるとギンは盗賊団の連中に尾行されていないか確認するため気配を探る。ギンを追ってくる気配は無いため、どうやら尾行はされていないようだが、念のため、ギンはいつもの魔女から買っておいた『身に着けた者の気配を消す』認識阻害のマントを羽織る。


それから一気に森の小道を抜けると、ギンがコハクという名で働いているパン屋『まどろみベーカリー』があるパックスヴェイルの町へと辿り着く。そして、更にそこから馬車を乗り継ぎ、疲労困憊でルーメンに到着したのは翌日の夜だった。


 ​ギンがコハクとして働く町パックスヴェイルとは違い、ここルーメンの町は夜中でも活気と薄汚れた欲望が入り混じる独特の空気で満ちていた。ギンは、認識阻害のマントを脱ぐと、まだあまり稼ぎのない新人冒険者たちが羽織っている目立たない薄汚れたマントを羽織り、町で最も喧騒に満ちた一角にある冒険者ギルドへと足を踏み入れた。


​ギルドの中は、荒々しい熱気に満ちている。新人冒険者「コハク」として仮登録を済ませたギンは、早速、ギルド内にある依頼が貼られた掲示板を眺めるふりをしながら、近くにいる冒険者たちからエデンの情報を聞き出そうとした。


だが、冒険者たちはなかなか口を割らない。当然だ。明日をも知れぬ生活を送っている冒険者たちにとって情報というのは生命線であり飯のタネでもある。情報不足によって無策で危険に突っ込み命を落とした冒険者は数知れず。そのため、情報収集、分析、そして秘匿は冒険者にとって基本中の基本なのだ。


そんなことは『新人冒険者』のコハクも重々承知している。そしてその冒険者にとって重要な情報を聞き出す手段も……。


「今日は私の冒険者デビューを記念して一杯奢らせてもらうわ!」


ギルド内に響き渡る大きな声でギンがそう宣言すると、冒険者たちは色めきだって歓声を上げ、皆一斉に『新人冒険者コハク』を歓迎すると同時にギルドに併設された酒場でエールを注文する。


それから新人冒険者コハクは多くの冒険者たちに挨拶回りした。美しい容姿も相まって、大半の冒険者たちから新人冒険者コハクは好意的に迎えられ、いろいろな話を聞くことに成功した。その中には今回の目的である三日薬と呼ばれる薬『エデン』の情報も含まれていた。


​「三日薬……。飲めば三日寝ずに動けるってやつか。あれさえあれば、俺の今のランクに見合わねぇ依頼だって達成できるのにな」

​「道化師の格好をした男が冒険者たちに高値で売ってるぜ。三日も休まずに冒険できるうえに実力以上の力を引き出してくれるってんだから、冒険者にとってこんなありがたいことはないぜ。道化師様様だ」


​ギンは、盗賊団の頭領として培った鋭い観察眼と、パン屋での見習いとして身につけた穏やかな表情を使い分け、自然な会話の中から情報を抜き出していく。エデンは、「道化師の格好をした男」によって取引されていることが、すぐに判明した。


​(道化師……。命がけの冒険者を狙った悪質な商人ね。まぁ商人なのかも怪しいけど……)


​ギンが情報を整理しているその時、背後から荒々しい声が響いた。


​「おい、そこの新人。ちょっとツラ貸せや」


​振り返ると、三人のガラの悪い男たちが立っていた。男たちの目には、エデン中毒者が持つ狂気のギラつきと警戒の色が混じっている。


​「私に何か御用でしょうか?」ギンは、平静を装い、声のトーンを抑えた。

​「お前、さっきからエデンのことを聞き回ってるらしいな。ここでのご法度だ」


​三人は、ギンをギルドの裏手にある人通りの少ない薄暗い路地へと連れ出した。


​「これ以上、余計なことをするな」


​男の一人が腰のナイフを抜き、ギンの喉元に突きつけた。


​「…あ、危ないなぁ。刃物なんて使うと、血が出ちゃいますよ」


​ギンは心の中で青ざめる。血は苦手だ。しかし、彼女の心には、仲間であったバルカス一派を狂気に陥れたエデンを根絶するという強い使命感が燃え上がっていた───ここは引けない。


​「ごめんなさい。あなたたちを傷つけることを、事前に謝っておきますね」


    ​次の瞬間、ギンは動いた。


​幼い頃から命がけの修行をしてきたギンにとって、ナイフを持っただけの男など赤子の手を捻るより容易かった。襲いかかって来る三人組を、まるで清流の流れのように躱し、武器を持った三人のうちの一人の右腕を捻り上げる。


​「ぐっ!」


​男のナイフがカランと音を立てて石畳に落ちる。ギンは、捻り上げた腕を折ることなく、男の鳩尾に一撃くわえると、肘で顎を軽く跳ね上げ、男を気絶させ無力化した。


​「……一人目」


​残りの二人が、鈍器と短剣を手に、同時にギンに向かって飛びかかる。

​ギンは、持ち前の動体視力で短剣の軌道を躱し、手のひらで短剣の柄を叩き、武器を弾き飛ばした。


​その直後、鈍器の男が振り下ろした腕を体を屈めてかわす。ギンは、地面を蹴り低い体勢から男の胴体に体当たりをした。

​ゴンッ、という鈍い音が響き、男は前のめりに倒れ込んだ。


​「二人目」


​二人目を制圧すると、三人目の男は両手を挙げすぐに降伏した。


こうして、わずか数秒でギンは一切の血を流すことも流させることもなく、三人組の冒険者を制圧してしまった。数秒とはいえ、あれだけ激しい動きをしたにもかかわらず、彼女の呼吸は乱れていない。


だがその動きが、「朝早いパン屋が近所迷惑にならないように作業をするため研ぎ澄ましてきたもの」だと知ったら、この三人組はショックで冒険者を廃業したことだろう。


​倒れた男たちは、痛みと驚愕、そして薬の反動による疲労で、身動き一つできない。


​「あんた、本当に新人冒険者なのか!?」ナイフの男が震えながら言った。


​「ええ、普通の新人冒険者よ」


そう言い放ったギンの瞳の奥には冷徹な意志が宿っている。

​ギンは、男たちの武器を回収し路地の隅に置くと石畳の地べたに座り込んでいる男たちと向き合うように座った。


​「本題に入わよ。エデンを売っている道化師について、全て話してもらえるかしら?」


​彼女は静かに、しかし、威圧的に言った。


​「黙っているのは、あなたたちが薬の売人の仲間だと認めたのだと判断するわ。その場合、私はあなたたちを徹底的に無力化しなければならないの。二度と動けないように、死んだ方がマシだと思うくらいギッタギタのボッコボコにするわ」


『ギッタギタのボッコボコ』とはギンが思いつく最大限の残酷な表現だった。それだけ聞くと普段であれば笑われて終わるところだが、目の前の、今まさに『ギッタギタのボッコボコ』にされかけた三人組には効果的だったようだ。


​その言葉に、三人は戦慄した。彼らの力とは比べ物にならない得体の知れない新人冒険者の強さを目の当たりにしたのだ。


​「ま、待て!言う!言うから、手を出さないでくれ!」短剣の男が叫んだ。


​「……道化師だ。最近、この町に現れた道化師の格好をした男が、俺たちにエデンを売っている。奴からエデンを買った冒険者は、実力の何倍もの力を得て、自分のランクに見合わぬ難解な依頼を達成している」


続けて口を開いたのは鈍器を持って襲ってきた男だった。


「奴は、薬の効能だけでなく、薬そのものまで金儲けの道具にしている。自分で使わず、高値で他の冒険者に転売している奴もいるんだ!」


​ギンは、静かに頷いた。彼女の得た情報が一つずつ裏付けられていく。


​「その道化師は、いつ頃、どこで現れるの?」

​「わ、わからねぇ……。だが、奴は必ず、次に最も危険な依頼が出る直前に、取引の場所を指定してくる。奴は、冒険者が限界を超えて力を欲する瞬間を、見計らっているんだ!」


​ ギンは、制圧した三人の冒険者たちを路地の隅に座らせた。


​「あなたたち、もう帰っていいわよ。だけど、この件について誰かに話せば……わかってるよね?」


​ギンは、裏路地の隅に置いた彼らの武器を取り彼らの足元に静かに置いた。だが彼らは、恐怖で武器に手を伸ばすことすらできない。


​「いい? もう二度と薬に手を出したらダメだからね!!」


​ギンは、そう言い残すと、夜の闇に溶け込むように、音もなく路地を去っていった。


​(道化師……そいつが自分で薬を作って売っているのか。それとももっと別の……また何か厄介なことにならなきゃいいけど……)


​明日、エデンの売人と思われる道化師を探すため、ギンはこの町で宿をとることにした。幸いなことにギンは今、コハクという名で冒険者になったばかりだ。冒険者ギルドでは、まだ稼ぎが少ない新人冒険者のためにいろいろと手厚い待遇が設けられている。その手厚い待遇の一つが冒険者ギルドの紹介で宿を安く提供してもらえるというものだった。


それからすぐにギルドから紹介された新人待遇で安く泊まれる宿へと向かい、案内された部屋で一息ついたギンは今日得た情報を整理しながら床に就いた。

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