第7話 三日薬

国は今、静かな熱に浮かされていた。


​「三日薬(みっかぐすり)」──それが、市場で流通するようになった新薬の通称だ。たった一錠飲めば、体中の倦怠感は一瞬で吹き飛び、まるで世界が鮮明な高解像度になったかのように感覚が研ぎ澄まされる。


そして何よりも、三日三晩、睡眠を一切必要とせず、人間離れした集中力と体力を維持できるという、その謳い文句通りの効果が人々を魅了していた。


​当然、最もこの薬に食いついたのは、闇に生きる者たちだ。そして、この国の東部一帯を縄張りとする最大規模の盗賊団、「影の牙」もまた、その影響下にあった。


​国境近くに広がる深い森にできた崖の上にある影の牙の隠れ家、その集会所の中央、磨かれた岩盤の上に立つのは、お頭のギンだ。


​その日、集まった約五十人の団員を前に、ギンは静かに、しかし、今まで見たこともないような厳しい表情と有無を言わせぬ響きを持つ声で告げた。


​「あの薬に手を出したらダメだよ」


​集会所に、ざわめきが広がった。


​「薬の名は『エデン』。効果は知っての通り、三日間、眠気を完全に消し去る。だけど、その代償がどれほどのものか、みんなは理解していない」


​ギンの横に控える副頭領のゴウが静かに息を呑む。ゴウはギンの右腕であり、彼の命令を絶対とする忠実な腹心だった。


​「あれはただの興奮剤ではない。あれは、『休息の先食い』だ。三日分の睡眠という、生きるために必要な根源的な時間を、未来から借りてくる。そして、借りたものは必ず返さねばならない。利息付きでな」


​ギンは鋭く周囲を見渡した。


​「影の牙の掟、第一条。『お頭の命令は絶対』。そして、今この場で、新たな命令を出すわ。いかなる理由があろうとも、『エデン』の使用は禁止」


​言葉は簡潔だが、冷たい鉄のように重かった。盗賊稼業において、三日も寝ずに動けるというアドバンテージは計り知れない。それを頭から否定された団員たちの中に、不満を持つ者が出てくることもギンには予想できていた。しかし、お頭の命令は絶対だ。影の牙の歴史の中で、この掟を破った者は未だ出ていない。


 集会から二日後、ギンの私室に、幹部格の男たちが集まっていた。中でも声を上げたのは、古参の一人であるゾルグだ。四十代前半のゾルグは、大柄で経験豊富だが、ギンのような若造がお頭に立つことに、僅かな反発心を抱いていた。


​「お頭、失礼ながら、もう一度お考えいただきたい」


​ゾルグは分厚い指でテーブルを叩いた。


​「俺たちは盗賊だ。巷で三日薬と呼ばれるエデンを使えば、通常の倍の効率で仕事をこなせる。二つの都市を跨ぐ長距離の運び屋を追うにも、昼夜逆転して三日間の警戒網をすり抜けるにも、これ以上の助けはない。特に最近は、国の衛兵の動きが活発だ。時間的なアドバンテージは、我らの『牙』をより鋭くする」


​他の数名の幹部も、ゾルグの意見に同意するように頷いた。彼らにとって、ギンの拒否は、単なる感情論や過剰な心配にしか映らなかったのだ。


​だがギンは動じない。


窓の外、わずかに射し込む光を眺めながら答えた。


​「鋭くするどころか、あのお薬は鈍らせるんだよ!」


​「どういう意味です?」ゾルグは苛立ったように問うた。


​「三日薬の効能は、身体的な疲労を消すことだけじゃないの。倫理観、計画性、そして何よりも『恐れ』を消す。人間は、眠りの中で恐れを整理し、計画を練り直す。常に冷静でいるためには、人間の体に休息が必要なのよ」


​ギンはゾルグの方を向いた。その瞳には、いつものような優しさはなく、真っ直ぐゾルグを射抜くように見ていた。


​「みんなが寝ずに動き続けたらどうなると思う? 身体だけでなく、精神も壊れてしまう。その状態で、冷静な判断ができないわ。 計画を狂わせ、無関係な人間に過剰な危害を加え、影の牙の規律を乱す。それではただの野盗じゃない。私たちは『盗賊団』として、細心の注意と規律を持って、仕事をしなきゃならないわ。薬の利便性のために、我らの『牙』の矜持を失うわけにはいかないの」


​「しかし、お頭!」ゾルグが食い下がろうとする。

​「これはお頭命令よ、ゾルグ!」


​ギンは言葉を遮った。その声には、一切の議論の余地もないといった感じだ。


​「これは命令。一度薬に頼った組織は、その依存性から二度と立ち直れない。影の牙は、人力と知恵だけで成り立ってきた。その哲学を曲げる気はないわ。お頭である私の命令は絶対はず。これ以上、この件について議論するつもりはないわ」


​ゾルグは奥歯を噛み締め、深く頭を下げた。


​「……承知いたしました」


​お頭の命令は絶対。それが、影の牙の存在基盤だった。団員たちは、仕事の能率が上がるという魅惑的な可能性を目の前にしながら、渋々ギンの命令に従うしか術がなかった。

​ しかし、すべての団員がその命令を心から受け入れたわけではなかった。


​ギンの威光が強くなるにつれて、彼のやり方を快く思わない一派が形成されていた。彼らは主に古参の団員で、先代お頭に忠誠を誓っていた者たちだ。その不満分子のリーダー格こそ、ゾルグの盟友であり、同じく幹部の一人であるバルカスだった。


​バルカスは、普段からギンの「哲学」を軟弱だと嘲笑していた。


​「寝る時間すら惜しんで強奪を繰り返す。それこそが真の盗賊だ。なぜ三日ものアドバンテージを捨てる?」


​バルカスの独自に作った自分たち専用の小さな洞窟で、彼と数名の部下が膝を突き合わせていた。全員の顔には、不満と野心が入り混じった熱気がこもっている。


​「ゾルグはお頭の命令に屈した。だが、俺は違う」


​バルカスは、上質な皮袋から、琥珀色の小さな小瓶を取り出した。中には、わずかに光る液体が入っている。エデンだ。


​「お頭の命令は絶対? それは、お頭が正しい場合に限る。この薬を使えば、俺たちは三日間、誰よりも速く、誰よりも多く稼ぐことができるんだ。その圧倒的な成果をギンに見せつけてやれば、奴の権威は揺らぐ。成功すれば、奴の命令は愚かな失敗と化し、俺が新たな頭領として認められるだろう」


​古参の仲間たちは、バルカスの言葉に静かに頷いた。彼らが欲しかったのは薬の効能だけではない。ギンの下に抑圧されてきた、自分たちの実力と自尊心を解放することだった。


​   ───翌朝


​バルカスとその一派、十数名は、通常の二倍の人数で二つの大規模な襲撃計画を同時に実行に移した。彼らは事前に密かに手に入れていた三日薬(エデン)を服用していた。


​効果は絶大だった。


​気持ちを昂らせ、眠気という枷から解放された彼らの動きは、常人のそれを遥かに凌駕した。三日間、彼らは休むことなく、完璧な連携で、二つの異なる目標を同時に叩き潰した。一つは厳重に警備された金細工商人の邸宅、もう一つは隣国への重要な食料輸送団だ。通常なら成功率五割といったところの危険な任務を、彼らは無傷でやり遂げ、隠れ家へ帰還した。

​持ち帰った財宝の量は、影の牙の過去半年間の収穫に匹敵するほどだった。


​ バルカス一派の成功は、瞬く間に団内に熱狂をもたらした。


​隠れ家の中は、高揚した空気で満ちていた。三日薬の使用は死罪だと宣告されたにも関わらず、影の牙の団員たちの目には、その成果はあまりにも魅力的だった。他の団員たちもバルカス一派を羨望の眼差しで見ていた。


​「お頭、どうお考えですか?」


​ゴウが、ギンの私室で尋ねた。ギンは、バルカスが持ち帰った報告書と、彼らの仕事の成果を静かに見つめていた。報告書には、薬を使ったことへの一切の言及がない。


​「計画はあまりにも杜撰ね。だけど彼らはやり遂げた。そして、三日間の連続稼働。ゴウ、彼らが薬を使ったことに疑いの余地はないわ」

​「団員たちは動揺しています。『お頭の命令よりも、成果が優先されるべきだ』と囁く者が増えています」

​「それが薬の、最初の利息よ」ギンは言った。

​「彼らは、薬の力で『不可能を可能にした』と錯覚している。そして、その『不可能を可能にする力』に、他の者も手を伸ばし始める。依存性とは、身体だけの問題ではないの。精神、そして組織を毒する病よ」


​ギンは、すぐにバルカス一派に対しお頭である自分の命令を無視して薬を使ったことを糾弾しようとした。だが、ゴウに止められてしまう。


彼らがもたらした巨額の財宝は、団員の不満を一時的に鎮め、ギンの判断への疑問を深めさせた。そんなバルカス一派を今ギンが糾弾するのは得策ではないと判断したからだ。


​そして、破滅はすぐに訪れた。


​バルカス一派が最初の任務から帰還した翌週、彼らは独自に立てた襲撃計画を実行するため、小規模な村落の倉庫襲撃に向かった。


もちろん三日薬は服用済みだ。


​最初の兆候は、些細なものだった。薬の反動による極度の疲労と、三日間の睡眠不足が彼らの精神を蝕み始めていたのだ。


​倉庫の鍵を開ける際、些細な物音を立てた部下に対し、バルカスは突如として激高し、必要以上に暴力を振るった。普段のバルカスであれば、現場での無用な争いは避けるはずだった。彼の顔はやつれ、目つきは獣のようにギラついていた。


​「てめぇのせいで見つかったらどうするんだ! 叩き潰してやる!」


​その後の襲撃は規律を欠いた。彼らは何の罪もない村人たちを殺傷し、抵抗しない村人にも過剰な暴力を振るい躊躇なく殺した。それは無用な殺生を厳禁とするギンの命令に反する行為だ。


​しかし、バルカスたちに、その規律を守る理性は欠片も残っていない。彼らの行動は「疲れを知らない集中力」が去った後、単なる「狂暴な衝動」に置き換わっていた。彼らは、薬から借りてきた『力』を、狂気と引き換えに返済させられていたのだ。


​ 村落での暴走は、すぐにギンの耳に入った。生き残った村人が、「狂った目をした」影の牙の奴らが村を襲ったと衛兵に訴え出たのだ。


​「バルカスは、掟を二重に破った」


​ギンは集会所で、ゾルグとゴウを前に冷酷に言った。

​「薬の使用、そして、無用な殺生。これで影の牙は、衛兵から『ただの殺人集団』として認識されてしまった。今後の我々の活動は、これまで以上の危険に晒されることになわね」


​ゾルグは顔面蒼白だった。


​「バルカスめ……、なぜあんな馬鹿なことを」

​「彼はもう、彼ではない」ギンは断じた。「薬に魂を食われてしまったのよ。私がみんなに警告した理由が、今、証明されてしまったの⋯⋯不本意だけどね」


​その夜、バルカス一派は隠れ家へ逃げ帰ってきた。彼らの顔は泥と血で汚れ、目はくぼみ、薬がもたらした疲労の利息に耐えきれず、時折痙攣していた。


​「お頭! 報酬です! 大成功だ!」


​バルカスは血まみれの袋を床に投げつけた。彼は、自分たちが犯した過ちを理解していなかった。それどころか、まだ狂気の熱に浮かされ、成功の歓喜に浸っている。

もはや正気ではない。


​「バルカス」


​ギンは低い声で彼の名を呼んだ。その声は静かでありながら、洞窟の空気を震わせるほどの重さを持っていた。


​「あなたの⋯⋯ いや、お前のやったことは、影の牙への反逆だ。掟の全てを踏みにじった」

​「反逆だと? 冗談じゃねえ!」


バルカスは逆上した。「俺は誰よりも稼いだ! お前が恐れて手を出さなかった『力』を使って、この影の牙を富ませたんだ! お前こそ、俺たちの力を恐れている臆病者だ!」

​「力ではない。狂気だ」


​ギンはゆっくりと腰の剣を抜いた。剣はギンの影を宿したかのように、深い黒鉄の光を放った。


​「お前の身体は、今、薬から『借りた力』の返済をしている状態だ。もうお前は、影の牙の団員ではない。ただの狂犬だ。狂犬は、組織の規律を守るために、五代目お頭として私自ら斬り捨てる」


そう言うと、ギンは仮面を被りバルカスたちに剣の剣先を向ける。今まで見たこともない、普段のギンから想像もつかないような冷たい表情を見たバルカスは背筋が凍るような恐怖を覚える。


​「やれ!」


バルカスが叫んだ。


彼の周りにいた十数名の薬使用者たちも、極度の疲労と狂気のせいで、もはや正常な思考力を失っていた。彼らは武器を手に取り、ギンとその命令に従うゴウやゾルグに向かって突進した。


だが​、バルカスたちとの戦闘は、あっけないほど短く終わった。

​薬の反動に苦しむバルカス一派は、たしかに力はあったが、冷静な判断力も、連携も、何よりも「恐れ」を持っていなかったのだ。彼らは闇雲に斬りつけ、背中を晒し、疲労の反動による突然の脱力に襲われ、次々と崩れ落ちていった。


​ギンは、まるで流れる清流のような洗練された動きで剣を振るった。彼女の動きは計算され尽くされ、相手の隙を的確に突いた。彼女は狂気に支配されたバルカスの剣を弾き、彼の胸を切り裂いた。


​「……ぐ、あ……なぜだ、なぜお前なんかにこんな、力が……」


​バルカスは倒れ込み、その目は虚ろな空をさまよった。彼の身体は、三日間の活動の代償として、鉛のように重く、動かせなくなっていた。


​「薬に頼る者は、薬が切れた時、ただの屑になる」


​ギンは、剣についた血を払い静かに鞘に戻した。


​ 集会所は血の匂いに満たされていた。バルカス一派の者たちは、その場で全てが倒れ、沈黙した。


​団員たちは、ただ立ち尽くしていた。彼らは、薬がもたらす一時の栄光と、それが奪い去る全てを、目の当たりにした。狂気に身を委ねた者たちの、あまりにも哀れな最期。そして、あれほど殺生を嫌っていたギンが躊躇なくバルカスを断罪した冷徹さ。


​ゾルグは震える手で、バルカスが落としたエデンの小瓶を拾い上げた。その錠剤が、今や恐ろしい毒薬に見えた。


​「お頭……我々は、あなたのご命令の意味を、今、理解しました」ゾルグは深い後悔の念を込めて言った。


​「薬は、我々が盗賊として積み重ねてきた『規律』と『知恵』を一瞬で無価値にする」


​ギンは静かに頷いた。


​「影の牙が生き残ってきたのは、奪うべきものを見極め、奪わない一線を守ってきたからだ。その規律を失えば、我々は衛兵にとって討伐すべき対象になるだけだ」


​「お頭の命令は絶対」──ゴウが、深く、はっきりと復唱した。


​「この掟は、お頭の専横ではない。この影の牙という組織を、外部の狂気から、内部の誘惑から守るための『誓約』だ。命をもって、それを忘れるな」


​ギンの声は、戦闘前の威圧的なものではなく、深い悲しみと、組織を率いる者の覚悟に満ちていた。


​その日、影の牙は絶対の規律を取り戻した。バルカス一派の末路は、他の団員たちの心に、決して破ることのできない誓約として深く刻み込まれたことは間違いない。


​こうして影の牙の隠れ家から、エデンの影は完全に消えた。国中で薬による暴走と崩壊が相次ぐ中、影の牙だけは、その牙の鋭さと規律を保ち続けた。彼らは知っている。三日間という『自由』は、必ず、血の利息を伴って未来を喰らい尽くす、恐るべき毒なのだと。


​お頭であるギンは今回の件を深く心に刻み込み二度とこのような失態はしないと誓った。

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