第6話 お客様は盗賊様です

「あ、あの……何かお探しでしょうか?」と、ギンが尋ねる。


​「な、何でもない!何でもないんだ、お嬢、いや、コハクさん!その……」


​ゴウは、パンが並ぶガラスケースの中をまるで初めて見るかのように真剣な顔で覗き込んだ。彼の視線は、パンではなく、ギンがパンを並べる手元に集中しているように見える。


​「わ、わしは、その、焼きたてチーズパンを……」

「ち、チーズパンですね。おいくつ入りましょうか?」

​「えーっと……そうだな。わしは、その、大家族だからな!全部だ!」

​「ぜ、全部ですか!?」


​ガラスケースに並べられた焼きたてチーズパンは、優に三十個はある。


​「あ、ああ!そうだ!全部だ!ええい、お前、何をまごまごしている!早く包め!」


​ゴウは、急に四代目お頭のような威圧的な口調に戻りそうになり、慌てて口元を押さえた。そのとき、彼の不自然な付け髭が、鼻の頭までずり上がった。


​ギンは、胃がキリキリと痛むのを感じながら、悟った。


​(ああ、これ私の様子を見に来たんだ……。そして、大量に買って行って、アジトの荒くれ者たちに配る気ね!)


​「は、はい!ありがとうございます! これは私コハクが心を込めて焼いたチーズパンですよ!」


ギンは、あえて「コハク」を強調して返した。


​ゴウは、数十個のチーズパンを包んだ布袋を受け取ると、大金貨を一枚差し出す。


​「お、お釣りはいらねぇ!おじょう、いや、コハクさん。今日も一日、頑張るんだぞ!」

「あ、あの⋯⋯いくら何でも大金貨は貰いすぎ⋯⋯」

「いいから!本当にいいから!! おじょ⋯⋯コハクさんが作ったパンなら大金貨一枚でも足りねぇくらいの価値があるってもんだ」


​そう言って、彼は盗賊の俊敏さで店から飛び出していったが、店の前で大量のパンが入った袋を抱えながら、きょろきょろと周囲を警戒する姿は、どう見ても不審者だった。


​「ふふ。あの人、パンがよっぽどお好きなんだねぇ」とは夫人のメアリー。

​(あの人は、ただの心配性で、私を裏切り者から守ろうと必死な、盗賊団の副長よ……)


ギンは店主夫婦に申し訳ない気持ちで心の中で訂正する。


​しかし、ゴウの訪問は始まりにすぎなかった。次なる客は、十時を回った頃にやってきた。


​今度の客は、背が低く、筋肉が異常に盛り上がった男だった。彼は普段、アジトではチェーンと鉄鋲の付いたレザーベストを着ている、影の牙きっての荒くれ者だ。


しかし、今日は、水色の花柄が刺繍されたレース付きのエプロンを身に着け、小さなバスケットを手にしていた。


​「い、いらっしゃいませ!」ギンは声を絞り出した。

​「よ、よう。コハクちゃん。今日のパンは、なんだか芸術的だねぇ!」


​男は普段のような野太い声で「ぶっ殺すぞ」と言う代わりに、異常に高い裏声で「芸術的だ」などと、普段使ったことがないような単語まで使い必死に正体を隠そうとしたがバレバレだ。


彼の体格と普段の声のギャップに、ギンは思わず顔を引きつらせた。


​「あ、ありがとうございます……」

​「わ、わしは、その、全粒粉の固いパンを三つ。ええ、三つでいいんだ!」


​男は、明らかに店で一番固く、ゴツゴツとしたパンを選んだ。それは、彼が普段アジトで、ナイフやフォークを使わず、手で引きちぎって食べているものだと、ギンは知っていた。


​会計を済ませると、男は店を出て行かずカウンターにもたれかかり、ギンに囁いた。


​「コ、コハクちゃん。その、パンをこねる手つきが、しなやかだねぇ。まるで、敵の首を絞める一流の暗殺者のようだ!」


​本人としては褒めているつもりなのだろうが、ギンとしてはまったく嬉しくない。ギンは全身の力が抜け、その場にへたり込みそうになるのを必死で堪える。


​彼が去った後も、次々と「影の牙」の団員たちが現れた。 次に来店したのは顔に大きな傷跡を持つ見るからに堅気ではない団員だった。


普段無口な彼が、妙に丁寧な貴族の言葉遣い(「まことに恐縮ではございますが、こちらのブリオッシュを一つ頂戴致したく存じます」)などと言って、ギンとの会話を試みるが、途中で舌を噛みそうになり、結局小声で「パンひとつ」とだけ言って黒パンを一つ購入し逃げるように去っていった。


​四番目の客は身体中にタトゥーを入れた女団員。彼女は「ハーブティーとスコーンのセット」を注文し、小さなテーブルに座ると、上品にハーブティーを飲む。


店にいる間、彼女の視線は、常にギンの動きを追っていた。彼女に関しては、お頭であるギンですら、どういう人間で、何故、女の身でありながら盗賊などやっているのかわからなかった。だが、彼女が教養を身に付けた人間であることだけはわかった。


​五番目の客は盗賊団の会計係を務める、目つきの鋭い男だった。彼は、店に入るとすぐに、まどろみベーカリーの収支を心配するかのように、ガラスケースの中のパンの種類や、客の回転数を真剣な顔でメモしていた。


​こんな感じで、盗賊団の仲間が一日中、入れ代わり立ち代わり店にやって来ていたため、ギンは確信する。


​(私、全然こっそりできてない……!)

​「コハクちゃん、今日はなんだか賑やかだったねぇ。町の人が、一斉にパンを食べたくなったのかしら?」


そう言って、夫人は優しく笑った。



​その日の売り上げは、まどろみベーカリー開店以来、最高記録だったらしい。ガラスケースは文字通り空になり、店長夫婦は、ギンの働きぶりに感心した。


​「本当に助かるよコハクちゃん。仕事の飲み込みは早いし、あんたが来てから、パンを買いに来る、ちょっと強面だけど、気のいいお客さんが増えたしな」

​「え? 気のいい……?」


​(影の牙に忠誠を誓う荒くれ者たちを「気のいいお客さん」だなんて……)


​ギンは、彼らが不器用な変装をしてまで、自分の働く姿を見に来るのは、彼らがギンの夢を真剣に受け止め応援してくれているのだと理解し、泣きそうになった。


​夕暮れ時、秘密(?)のアルバイトを終えたギンは、帰り支度をし、店の裏口から出ようとしていた。太陽は完全に沈み、再び夜の闇が町を覆い始めている。


​「コハクちゃん」


​店の裏に男が一人立っていた。


今度は、派手な装飾品を避け、普通の旅装に身を包んだゴウだった。髭はなかったが、顔の大きな傷跡と、人を威圧する太い声は隠しようがない。


​「ゴウ!まだいたの!?」


​ギンは慌てて声を潜めた。


​「『まだいたの!?』じゃねぇですよ、お嬢。俺は、お嬢が盗賊団のお頭であるにも拘わらず、パン屋の仕事に音もなく、風もなく潜入し、朝早くから重労働をこなす姿を、その、遠くから見ていましたんで」

​「な、何を言ってるのよ!私はただのコハクよ!パン屋の見習い!」


​ゴウはため息を吐いた。


​「いや、もう遅いですよ。『ゴウ』って呼んじゃってますし」


ギンは少しとぼけてみたが、すぐに諦めた。


「……そんなことよりお嬢。今日、何個パンが売れたか知ってますか?」

​「ええと、全部で二百個くらいかしら?」

​「そのうち、八割は影の牙の団員が買ったってことを知ってますか?」


​ギンの目が、大きく見開かれた。


​「え……?」

​「あの馬鹿どもは、お嬢が誰にもバレないようにパン屋の修行していると思い、お嬢に気を使って無理やり『町の人間』になりきりパンを買いに来たんです。そして、お嬢の焼いたパンをアジトに持ち帰り、それを肴にヤケ酒ならぬ『ヤケパン』を食らっていましたよ」

​「う、嘘でしょ……」


​ギンは顔を覆った。彼女が、盗賊の技術を駆使して「こっそり」と始めたパン屋の修行は、団員たちによって、一番オープンでコミカルな秘密になっていたのだ。


​ゴウは、普段の冷酷な顔ではなく、幼なじみとしての心配と、かすかな誇りを含んだ目つきでギンを見つめた。


​「お嬢は、四代目お頭の血まみれの教えを、人を殺さないやり方に変えちまった。悪徳領主に対してまでも、誰も傷つけないスマートな強奪なんてのをやってのけた」


​彼は、静かに続けた。


​「そして、冷たい崖の上の盗賊団に、焼きたてのパンのような温かく優しい希望を持ち込もうとしている。俺たちは、お嬢のそういうところに、魅せられているんですよ」

「温かく優しい希望?」


ギンは首を傾げた。ギンとしてはただ、自分の夢であるパン屋になるための修行を、ここ『まどろみベーカリー』でしているだけなのだ。


「俺たちみたいな盗賊にも、好きな道を選んでいいって……そういう“希望”を、お嬢が持たせてくれたんだよ」

「!?」


​ゴウは、懐から一つ、紙に包まれたパンを取り出した。それは、ギンが心を込めて焼いた、焼きたてチーズパンだった。


​「これ、今日三回目の来店で買ったやつです。…温かい。四代目お頭の時代には、アジトには血と鉄の匂いしかありませんでしたからね」


​彼は、チーズパンを一口齧ると、目を閉じた。


​「お嬢が、パン屋になるという夢を諦めない限り、俺たちもお嬢⋯⋯いや、コハクさんを応援します。まどろみベーカリーのお客として、この店に毎日だって来てコハクさんが作ったパンをたくさん買ってまどろみベーカリーの売り上げにだって貢献しやすよ、義賊らしくね」


そう言ってゴウが笑うと、ギンは胸が熱くなるのを感じた。


​「義賊……。まさか、パン屋での仕事まで『義賊』的な行動にされているなんて、不本意にも程があるわ」


​だが、彼女の口元には、自然と笑みが浮かんでいた。


​「ありがとう、ゴウ。じゃあ、私はこれからもコハクとして、パン屋の夢を追いかけるわ。そして、お頭としては、明日も誰も傷つけずに済む、とびきりスマートな仕事を選ばなきゃね。だって、汚れた手で作ったパンなんて誰も食べたいと思わないもの」


​彼女はゴウに背を向け、夜の闇に溶け込んだ。その細身の体つきは、盗賊の技とパン屋の夢を両立させるという新しい使命を背負い、軽やかに、そして力強く夜の闇を駆け抜けていった。


今の彼女の心の中には、血の匂いではなく、温かいチーズパンの香りが満ちている。


​ギンの夢は、依然として遠い。だが、その夢はもう、彼女一人の逃げ道ではなくなっていた。


それは、「影の牙」の荒くれ者たちをも巻き込み、『温かく優しい希望』として香ばしいパンの香りを広げようとする変化。


気づけば、崖の上の盗賊団は、もう昔の血生臭い連中だけじゃなくなっていた。





   ───翌朝、アジトの食堂。




 荒くれ者たちが朝から山盛りのパンにかぶりつきながら、目を真っ赤に腫らしている。


「昨日のお頭のチーズパン……やばかったよな……」

 「うるせぇ、泣いてねぇよ! 玉ねぎ入ってたんだよきっと!!」


崖の上のアジトには、今日も焼きたてパンの香りが漂っていた。

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