Ⅲ. 朝倉家

ⅰ. 料理

 とある昼下がり。

 朝露が濡らす庭の匂いと、台所の出汁の香りが入り混じっていた。

 それを掻き消すように、黒い靄が鍋の上でゆらりと立ちのぼる。

「樹くん! そっちお願い!」

「はい、承知しました!」

 慌てふためく二人分の足音。

 鍋がゴトゴトと奇怪な音を立てる。

 紫乃が蓋を開けた瞬間―――。

「熱っ!」

 蒸気がぶわっと立ちのぼり、紫乃の指先が真っ赤に染まる。

 じんわりと肌を焼くような熱が、皮膚の深層まで焦がすようだ。

「紫乃様、落ち着いて、落ち着いてください」

 樹が慌てて氷嚢を当てると、彼女は痛みに眉を寄せながらも襷を締め直した。

「ありがとう、大丈夫だからもう一度やってみるわ」

「は、はい……」

 やる気に満ち溢れる紫乃の隣で、樹の僅かに尻尾を下げた。


 木のまな板に包丁が触れる音。

 肉と野菜の焼ける匂い。

 どれも言われた通りにやっているはずなのに、紫乃がやるとどうやたって上手くいかない。

「次は、この油を……」

 樹は差し出した、並々に油の入った瓶をすっと引っ込めた。

「紫乃様、少し休みましょう」

「もう少し、今回は良い感じだから」

 樹の引っ込めた油を奪い取るように、紫乃が瓶を手に取った。

 鍋の中に僅かに黄みを帯びる液体が瓶の中できらりと光る。

 水より粘度の高い、それでいて透き通った油が鍋の中に注ぎ込まれた刹那―――鍋の上で大きく炎が上がった。


「紫乃様……」

「ごめん、樹くん……」

 がっくり項垂れる紫乃の隣で、樹は静かに鍋を洗っていた。

 そもそもなぜ彼女が台所に立っているのか。

 それは――先日の礼にと、茜へ夕餉を振舞おうと思ったからだった。

 流し台に積み上げられた焦げ付いた鍋。

 粉々に刻まれた野菜の山。

 先日料理を始めたばかりの樹だって分かる―――紫乃は料理が下手すぎる!

「紫乃様、妖に食事は必要ありません。そこまでしなくても」

「……分かってるわ」

 紫乃は、硬くなりかけた掌をぎゅっと握りしめた。

「でも……食べさたいものがあったの」

 もう豆なんてできなくなって硬くなった掌を握りしめる。

「食べさせたいもの、ですか?」

「ええ。こんな餅なんだけど」

 紫乃は指で小さな丸を作る。

「色とりどりの餅の中に、それぞれ違う餡を入れるの。母様の得意料理だったのよ」

 樹の尻尾がふわりと揺れた。

「美味しそうですね」

「とっても美味しいわよ。寂しい日の夕食でも、あれを食べると……なんだか安心できた」

 懐かしむように、紫乃の表情が柔らぐ。

「昔ね、母様が『片桐家に伝わる秘伝の味よ』ってよく言っていて……」

「紫乃様は、茜様に“家族の味”を伝えたいのですね」

 そう言われて、紫乃は不自然なほど素早く首を振った。

「ち、違うわ! 別に、そういうわけじゃない!」

 あまりに必死な否定に、樹は「はい」とだけ答える。

 しかし、紫乃はなぜだか高鳴る鼓動を抑えて再びかぶりを振った。





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