ⅳ. 百鬼市

 橙色の空を横切る鴉の影が、ゆっくりと夕暮れに溶けていく。

 ほんのり冷たい風が屋敷の庭を抜け、縁側に座る紫乃の頬を撫でた。

 乾いた地面と夕陽の匂いが混じる中、彼女は無心に剣を磨いていた。

 その静けさを破るように、廊下から軽やかな足音が弾む。

「紫乃様!」

 振り返ると、樹が嬉しそうに走り寄ってきた。

 小さな両手には、買い物鞄と、ぎゅっと握りしめた赤いがま口。

「今日は、わたしが夕餉の準備を致します!」

「……買い出しに行くの?」

「はい。茜様から市場に行くようにと、お金も頂きました!」

 樹が広げた手のひらには、何を買うつもりなのか溢れんばかりの小銭と紙幣の束が光っている。

 紫乃は胸の奥にふと不安が過ぎり、そっと立ち上がった。

「私も行くわ」

 磨き上げた剣を置くと、夕日を跳ね返して静かに光った。



 立派な松と石の彫刻が佇む庭を越え、二人が門へ向かって歩き始めた時。

 背中に、ひっそりとついてくる気配があった。

 振り返ると、茜が数歩離れた場所を歩いている。

 口には野草を咥え、腕を頭の後ろで組んだまま、気怠げな足取りで。

「……なによ。ついてくるの?」

 紫乃が眉を上げると、茜はそっぽを向き、わざとらしく鼻で笑った。

「お前なんかについていくわけないだろ。自意識過剰なのも大概にしろ」

 べ、と舌を出す。

 後ろで揺れる尻尾は、嘲笑しているくせに、どこか機嫌よさげだった。

 紫乃はむっとしたが、樹が手をぱっと広げて仲裁に入る。

「まあまあ、お二人とも、仲良くお買い物しましょう」

 その天真爛漫な声に、紫乃は小さく息を吐く。

 茜は相変わらず何を考えているか分からない表情をしていた。

 咥えていた野草を吐き出し、そっと天を仰いでいる。

「もうすぐ妖の市場だ。せいぜい取って食われないようにすることだな」

 棘のある言い方。しかし、不思議と忠告にも聞こえた。

 夕暮れの切なさ混じる匂いに、どこか焦げた匂いが入り乱れる。

 紫乃が顔を上げると、何もなかったはずの前方に、巨大な市場が突如として姿を現していた。

 妖の市場―――通称「百鬼市ひゃっきいち

 その名のとおり、よろずの妖が店を構える妖のための市だ。

 夜が深まるほど活気づき、今のような黄昏時は準備の最中らしい。

 紫乃は至って冷静に、平静を保ちながら歩いていたが、ある店の前を通ったときに「ひっ……」と短い声をあげてしまった。

「なんだ、怖いのか?」

 茜の嘲笑が、むしろ救いのように聞こえるほど、おぞましい景色が広がっている。

 店先には、目玉が怪しげな色の液に浸された瓶がずらり。

 その隣では、血のような赤い液を滴らせる果実が積まれ、もう片方では“何か”の丸焼きを店主が豪快に切り分けている。

「怖いわけ、ないわ。少し……驚いただけよ」

 香辛料や薬草の匂いが混じり合い、焼けた獣の匂いも漂う。

 通りの奥からは怪しげな煙がふわふわと浮かんでおり、それを除けるように紫乃は樹の手を引いた。

「……紫乃様、大丈夫ですか?」

 樹が紫乃の手を握り返す。

 紫乃はそっと手の力を緩め、微笑んだ。

「大丈夫よ。変わったものがたくさん売っているのね」

 すると、樹はぱちくりと目を瞬かせる。

「変わっていますか? たしかに人間は食べないものが多いかもしれませんね」

 昔よく食べたと樹が指さした先には、見たこともない生き物の丸焼きが陳列されており、紫乃はそっと息を飲んだ。


 普通の市場へ買い物に行くつもりだったのだから、こんなの予想外だ。

 


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