幕間Ⅰ ―眠りの底で―

――闇が、呼吸をしていた。


音のない世界。

まるで水の底に沈んでいるような、重たく、柔らかな静寂。

勇人は、その中に漂っていた。

足も、手も、動かせない。

けれど不思議と苦しくはなかった。

むしろ心地よい、懐かしいぬくもりが胸の奥を包み込んでいる。


(……ここは、どこだ)


問いは音にならず、ただ水泡のように消えていく。

視界の彼方に、白い光が見えた。

そこに、ひとりの少女が立っている。


髪は風もないのに揺れて、白いワンピースが淡く光を帯びていた。

顔は霞んで見えないのに、

その輪郭だけで――勇人は“知っている”と感じた。


少女は静かに手を伸ばした。

その指先が勇人の胸に触れた瞬間、

遠い記憶が波紋のように広がる。


――海辺の町、夕焼けの坂道。

小さな男の子が泣いている。

“怖い夢”を見たと言って、膝を抱えて。

その隣に、少女がしゃがみこんでいた。

「大丈夫。夢なんて、私が追い払ってあげる」

そう言って、優しく頭を撫でた。


その笑顔が、今の“澪”と重なる。


(……これ、俺の……?)


勇人の胸が締めつけられた。

忘れていた記憶。

いや、“奪われていた”のかもしれない。

あの夢の夜から、少しずつ彼の中の“何か”が変わり始めていた。


少女が囁く。

「思い出して。あなたが“門”を開けた日を」


世界がざわめいた。

水面のように、空がひび割れていく。

その裂け目の奥から、黒い影が覗く。

無数の口、歪んだ眼。

“異形”が、夢の底から這い上がろうとしていた。


勇人は無意識に後ずさる。

だが、足元が崩れ、落ちていく。

少女の声が、遠ざかる。


「……あなたが選ばれたの。“境界”を超えられる、唯一の人として」


(選ばれた……? 俺が……?)


闇が全身を包み込み、

心臓の鼓動が遠くで響く。

その音と共に、少女の声がもう一度囁く。


「恐れないで。あなたはまだ、“夢”の外にいる。でも――いつか、現(うつつ)と虚(うつろ)の境が消えたとき、その名を呼ぶの。“私”を、思い出すために」


光が弾ける。

勇人の意識が現実へと浮上する。


目を覚ますと、見慣れた天井があった。

だが、胸の奥に“彼女の指の温度”だけが確かに残っている。

それは、ただの夢ではなかった。

そして勇人は、はじめて“恐怖”と“安堵”が同時に存在することを知った。


朝の光がカーテンの隙間から差し込み、

目の奥に淡く焼きつく。


(……もう逃げられないんだな)


勇人は、静かにそう呟いた。

夢の底から聞こえたあの声――

「思い出して」という言葉が、

心の奥で、何度も、何度も、波のように響き続けていた。

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