其の十 寝ずの番②

 古い木材の匂いがする。

 埃っぽさはなく、空気は澄んでひんやりとしている。長く閉ざされていた静けさがあり、どこか寂しい。


 物置と呼ばれてきたわりには、異様なほど何もない。六畳ほどの空間。あるのは掛け時計と、棚に置かれた湯呑みと急須だけ。


 ――そして、目を疑うものがあった。


 奥に、扉付きの小部屋。その中に小さな水洗トイレ。

 物置にトイレなど聞いたことがない。だが、すぐ理解した。


 これは物置ではなく、お役目のための部屋だ。

 懐剣役のためだけに整えられ、維持されてきた場所。


 その認識が形になった瞬間、背筋がぞくりとした。

 人の死など頻繁ではない。まして懐剣役は籤で決まるのだから、数十年に一度、あるいは一生経験しない者もいる。

 それなのにこの部屋は、「必要な日が来る」と当然のように存在している。


 壁に祖母の筆跡で張り紙があった。


> 「用足しの際も懐剣、手放すべからず」


 奥の扉を開けると、中は丁寧に掃除されており、小さな木製の台には懐剣を置くための浅い溝が彫られていた。


 どこまで準備が良いのかと思っていると、追い打ちのようにもう一枚。


> 「不浄の手で刀に触れるな。必ず手水鉢で手を清めよ」


 当たり前だ。手を洗わず何かに触れるような人間の存在を想像しただけで胸がざらつく。

 内心で苦々しく息を吐き、私は設備を確認し終えて中央に座った。


 懐剣役は耳を塞いではならない。音に気づき、警戒する役目だからだ。

 眠ることは最大の失態であり、許されない。

 読書などで意識を保ちつつ、常に耳を澄ませていなければならない。


 ふと気づいた。


 私が向いている正面――東。


 狭名倉山のある方角だ。


 幼い頃から見ていた景色を思い出した。幼馴染のナナミ宅も、祖父母の家も、多くの家が東側に物置を置いていた。

 「魔が来る」とされる方角に懐剣役を置き、死者を護るため。

 そうであるなら、この地域の家は皆、この儀式のために一部屋を確保し続けてきたことになる。


 では――名倉ノ神は、何のための神なのか。

 もし悪しきものを封じている神だというなら、そもそも人が刀を持って構える必要などない。

 なぜ、神ではなく私たち人間が、死者のそばで夜を明かし、刃を携えるのか。

 あるいは、この役目は神とは別筋――そういう可能性もあるのか。


 答えは出ない。ただ、疑問だけが膨らんでいく。


 時計の針は十九時少し過ぎを指していた。

 読み始めてから一時間ほど経っていたらしい。

 遠くから親族のざわめきがかすかに届き、線香の香りが静かに満ちている。


---


 通夜の前の日であるから、家の者はまだ何人も起きている。

 廊下の足音、衣擦れ、笑い声ともつかぬ声が、扉越しにささやくように続く。


 だから、深刻に身構えてはいなかった。

 これまでおかしな音もなく、私は楽観視していた。


 小川洋子さんの小説を読み終えようとしていたときだった。


 ――急に、音が消えた。


 本当に、突然。


 まるでテレビの音量をゼロにしたかのようにぴたりと。


 耳が痛いほどの静寂。


 これはただの静けさではない。

 本能で、そう理解した。


 私はゆっくりと本を置き、懐剣に手をかけた。

 膝を立て、腹に力を入れる。抜く姿勢のまま耳を澄ます。ちらりと、掛け時計を見ると午前一時四十七分。


 ……呼吸が浅くなる。


 その瞬間。


 トン。


 壁が鳴った。


 家鳴り――そう処理する前に、身体が先に動いた。


 懐剣を抜く。

 刃が鞘から離れる小さな音が、静寂を裂いた。


 三秒。息を止めたまま耳を澄ませる。


 何もない。


 緊張をほんの少し緩め、鞘へ戻そうとした――そのとき。


 ぎ……。


 今度は近い。

 畳の軋み。

 この部屋の中だ。


 ぞっと血が引いた。


 視線は動かさないまま、私は刃先を正面に向け直す。

 右手が、わずかに震えた。


 音は――東。

 最初から私が向けられている方角。


 姿は見えない。

 だが、居る。


 畳がさらに軋む。

 間を置いて、またひとつ。


 沈黙が重たく降りる。

 心臓が喉にせり上がるような感覚。


(……住職も悪いものは金気を嫌うと言っていた。刃なら、退いてくれ……頼む、ここに居座るな――)


 祈りとも願望ともつかない思いが、頭の奥でまとまらず渦巻く。

 論理でも知識を捏ねる余裕もなく、ただ必死だった。


 ――そのとき。


 「刃を薙げ。」


 耳元で声がした。

 息の温度を持つ声で。


 反射で柄を握り直し、横へ切り払った。


 空気がゆらりと揺れ――気配が消えた。


 幻覚と言えるならそれで良い。

 しかし、私の手は震えていた。

 歯の噛み合わせが狂い、音が漏れるほどだった。


 そのとき、襖がゆっくり開いた。


 身が跳ね、振り返る。


 祖母、両親、兄妹、そして住職が立っていた。


 住職は息をひとつ吐き、目を細めた。


> 「……無事で、良かった。」


 その表情を忘れない。

 そこにあったのは――安堵と、確認。


 襖が開いたということは、夜が明けたということだ。

 私は、どれほど同じ姿勢で構えていたのだろう。


 緊張の糸が切れ、視界がにじんだ。

 力が抜けた瞬間、私は倒れたらしい。

 数時間後に目を覚ましたとき、母からそう聞いた。

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