其の六 知識欲

 万年筆の細い筆致が紙を擦る音が、研究室の静けさの中にかすかに響く。


 青川さんは、私の説明を聞くたびに小さく頷き、必要な箇所だけ精密にメモを取っていく。


 拾うべき点だけを迷いなく抜き出す——ああいう筆記には、勉強のできる人特有だと思う。凡人の私には到底真似出来ない。


 蘆名教授は、少し離れたソファに腰を預け、こちらのやりとりを静かに見守っていた。


「……なるほど。名を呼ぶ前に“一拍置く”動作まで含めて、日常的に境界を意識していたんですね」


 ページをめくる青川さんの指先は落ち着いている。

 眼鏡の奥の目は真剣で、好奇心よりも探究の覚悟が勝っていた。風習の“核”へ踏み込む姿勢そのものだ。


 私はゆっくり頷き、言葉を選んだ。


「ええ。呼び名を間違えることは、境界そのものを乱す行為でした。

 だから、うっかり俗名を口にしてしまいそうなときは……手で口元を押さえて、すぐ屋号に置き換えるんです。子どもでも自然にそうしていました」


「訂正するとき、周囲へ何か特別な言い添えは?」


「小さく、“今のはうっかり”と釈明することもありました。

 誰かに聞かせるため、というより……自分の中で境界を整え直すための儀式に近いですね」


 青川さんは深く息を吸い、ペン先を止めた。


「……紙で読むより、動作として聞くほうが全然違いますね。境界が、生活そのものに食い込んでいるのが分かります」


 教授が口の端をわずかに上げる。面白い観点だと認めたときの表情だ。


「乃東くんの郷里は、名と存在を軽く扱わない土地だ。表面だけなぞっても分からん。大切な文化を守ってきた地域なんだよ」


 私は息をつく。

 ——ここまでは、まだ語りやすい部分だ。


 しかし、その直後だった。


「……乃東さん。もし可能でしたら——現地を拝見したいのです」


 空気が一段、沈んだ。


 私の指先はわずかに強ばる。青川さんは、その反応を慎重に読み取りながら続けた。


「今日のお話で、どうしてもフィールドワークでしか掴めない部分があると分かりました。


 屋号の使われ方、神社のある山、祠の位置……“距離感”を、自分の足で確かめたいんです。


 ……案内をご相談できますでしょうか」


 教授はゆっくり視線をこちらに向けた。

 “判断するのは君だよ”という無言の合図だった。


 窓の外では、雲の影が山の稜線のようにのびている。

 避け続けてきたはずの郷里の風が、胸の奥でざらりと起き上がった。


 ——戻らないほうがいい。


 そんな思いがかすめた。

 だが、青川さんの真摯な眼差しは、あの土地に流れる“真実”へ手を伸ばそうとする意志のまっすぐさを持っていた。


「……構いませんが。ただ、あそこは観光地ではありませんし、泊まる場所は一駅向こうの民宿になります。本当に、何もない田舎です」


 私がそう言うと、青川さんは深く頭を下げた。


「ありがとうございます。“何もない”というのは住んでいる方が必ず仰いますが……僕は、この世に本当に“何もない場所”なんてないと思っています」


 そう言って、にこりと笑う。


「ところで青川さん、三回生ですよね?その……就活は終わっている感じですか?時間の都合は大丈夫なのか心配でして」


 老婆心と知りつつ、つい口をついた。

 三回生といえば焦りで心が削れる時期だ。私自身、あの頃は常に落ち着かなかった。


「僕は大学院の博士課程に進む予定なので、大丈夫です」


 なるほど。焦りの空気がない理由はそこか。


「青川くん、研究熱心なのはいいが、乃東くんは社会人だ。学生みたいに自由な時間はない。

 フィールドワークの予定も、きちんとお願いせんといかんよ。研究者はとかく自分の都合ばかりになるからな」


 蘆名教授の皮肉混じりの言葉に、空気が少しだけほどけた。


「コミュ症極まれりの蘆名先生に言われたら心外ですよ。……乃東さん、時期について伺えれば嬉しいです」


 教授を軽く揶揄しながら言える青川さんは、やはり優秀なのだろう。

 蘆名教授は、努力しない者には冷淡だが、熱心な者には驚くほど穏やかになる——その距離感を理解している学生は、そう多くない。


 私はしばし考え、言葉を整えた。


「……もし現地へ行かれるのでしたら、年が明けてからという形でお願いしたいと思います」


 青川さんは、一瞬まばたきをした。


「年明け、ですか?」


「ええ。その方が落ち着いてご案内できます。冬道は少し不便ですが……それでも、そちらのほうがいい」


 必要以上に理由を語らず、淡々と伝える。


 ——本当の理由は、言わない。


 私の郷里では、晩秋の十一月後半に名倉神社の夜籠よごもり祭がある。

 土地の者以外を拒むわけではないが、内輪の濃度が強くなる時期だ、町の者は外の目を好ましく思わない。


 表向きはただ、“都合の良い時期”だけを伝える。青川さんは、理由を追及せず静かに頷いた。


「もちろん、その時期に合わせます。予定が決まりましたら、ご連絡いただけますか?」


 その真摯さに、胸の奥がわずかに疼く。

 ——ああ、本気で向き合おうとしているのだ。


 教授が腕を組み、穏やかに言った。


「年明けなら雪が残っとるかもしれんが……まあ、青川くんなら問題ないだろう。乃東くんが言うなら、それが一番安全だからね」


 “安全”という言葉に、青川さんが不思議そうに眉を寄せた。

 だが教授はそれ以上何も言わない。様々な土地の歴史や風習、祭りを研究してきた蘆名教授の言葉には重みがある。


 私は胸の奥に沈んでいるものをそっと押し隠した。


 ——あの時期を避けるのは当然のことだ。

 よその人を連れて歩くなら、なおさら。


 研究室の静寂の中で、青川さんの万年筆がサラサラと走り、キャップを閉じる小さな音がした。町を訪れる予定を書きつけたのだろう。


 現地に向かう話は、これで形をなした。


 だが、本当の意味での“境界”に触れるのは——年が明けてからだ。


 かちゃり。


 机に万年筆が置かれる。

 その小さな音が、私自身がうっすら開きかけた“境界の扉”の音のように聞こえた。

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