MIMICS

draw_bayday

スポットライト-1

 朝、アラームが鳴る前に目を覚ますと、天井の白い塗装がかすかにひび割れていた。そこに差し込む光が、細い線になって床を撫でている。外からは雀の鳴き声が聞こえてきて、世界は今日も回っているのだと突きつけられる。伸びをしながら欠伸する男——彩川さいかわ色人しきと

 八畳のワンルームの部屋は狭い。ロフト、キッチンと風呂、そしてベランダだけがある古いアパート。寝ていたソファの上には映画雑誌や舞台に関するパンフレットが広げっぱなしになっている。冷蔵庫のモーターの駆動音と時計の針の進む音が部屋に響いていた。


「兄さん、起きたー?」


キッチンから弟の形人けいとの声がした。

やかんから湯気が立ち上る。焼きあがったトーストの香ばしい匂いがする。

色人は空気が通るような抜けたような声で小さく返事をして、寝癖でぼさぼさになった髪の毛をかきあげた。床に散らばった照明器具のカタログを避けて歩く。部屋には私物が少ない。衣装ケース、ノートパソコン、そして観葉植物のように放置された電球。どれも使われていないのに、捨てられずにいる。


 「トースト焦げたけど、平気?」

 「平気」


テーブルにはいつの間にか二枚の焦げたトーストを乗せた皿とコーヒーの入ったマグカップを目の前に置いてあった。黄ばんだカーテンの隙間から入る朝日が、湯気を透かして燻った煙がきらめいていた。何も特別な朝ではない。ただ、色人にとっては唯一、世界が正しく形を持っている時間だった。


 「ね、兄さん、今日も現場?」

 「多分」

 「無理しないでね」

 「無理なんてしてない」


淡々とした返事。それでも形人は何も気にせずくふくふと口元を隠して笑っている。コーヒーをすすってその顔を見ながら、自分の口角が上がるのを感じた。

 つけていたテレビからは、どこかの政治家が謝罪会見をしている映像が流れて、コメンテーターがコメントを返して映像は続く。色人はじっとその様子を見ながら表情、目元、手元の仕草を観察する。色人はぼんやりと画面を見つめながら、パンの端をちぎって口に入れる。味はしない。ただ、噛むという動作が生きている証のようで、それで十分だった。


「ねぇ兄さん。あの人本心じゃないよね」

「うん」

「演技下手だね」

「…素人だから」


そう返すと何が面白いのか、にこにこと笑う形人。その笑顔が朝日に照らされてよく見えなかった。色人はその笑顔を記憶するように、なぞるように口角を上げた。


 「兄さん、今日は夜遅い?」

 「うん。いつもの照明。終わんの九時くらい」

 「また、あのいやな先輩いるの?」

 「いやな人じゃない。ただ少し言葉が強いってだけ」


 形人が口を尖らせる。


 「兄さんさ、ほんとは違うことしたいんじゃないの?」

 「違うこと?例えば?」

 「…わかんないけど」


 色人は少し笑った。

 「俺はいいんだよ、お前がいれば、それで」


 パンを口に放り投げてそう言った。コーヒーで流し込んでまたテレビを眺める。

 形人は何か言いたげに眉を動かしたが、特に何も言わず顔を見つめた。

 テレビが、名前も知らないどこかの俳優のスキャンダルを報じている。

 光の当たる場所の話は、いつも遠くてまぶしかった。


***


 最寄り駅まで歩き、電車に十分ほど揺られる。窓の外に流れる街並みは、いつもの通勤風景のようでいて、どこか他人事のようだった。五分ほど歩けば、いつもの劇場。

 

色人の一日は、決まってこの道筋から始まる。


 だがこの朝、すれ違う人々のざわめきがいつもより重く響いた。耳を触りながら焦った声で電話をするサラリーマン。大げさに笑い合う女子高生。その雑踏の中に、不自然な気配をまとった二人がいた。悪人面の男たち――目つきが鋭く、笑い方が乾いている。そして、その二人が、すらりと背の高いサングラスの男とぶつかった。サングラスの持っていたコーヒーカップからコーヒーがこぼれ、柄の悪い男のコートに掛かった。

次の瞬間、二人が男の肩を掴み、路地裏へと引きずり込もうとする。色人は、ただその光景を見ていた。目が、離せなかった。


「オニーサン、なにしてくれてんの? コート汚れちゃったじゃん」


 声のトーンが低い。挑発を含んだ笑みが、朝の光に鈍く光った。

 胸ぐらを掴まれたサングラスの男は、顔を上げずに淡々とした声を返す。


「いやいや、俺なんにもしてないですよ? そっちが勝手にぶつかっただけじゃないですか」

「あぁ?」


 声が荒れた瞬間、体が勝手に動いていた。

 色人はチンピラの腕を掴み、静かにその場に割り込む。

 息を整え、柔らかく口を開く。


「……お兄さんたち、どうも。こんなところで暴力沙汰はだめですよ」


穏やかな笑みを浮かべたまま、胸元に手を添える。昔、ドラマで見た私服警官の動きを真似て。演技でも本物でもない“虚構の身振り”が、なぜかこういう時には自然に出る。


「やめましょう。ほら、みんな見てますし」

「……おまえ、サツか」

「行くぞ、もういい」


吐き捨てるような声とともに、男たちは背を向けた。 去っていく背中を、色人は無意識に目で追う。歩幅、肩の揺れ、靴のすり減り方――どこまでも“観察して”しまう。人の癖を見つめ、記憶の奥に保存してしまう。


「……出しゃばって、すみません。じゃあ、自分はこれで」

「え、警察じゃないの?」

「ただの一般人、ですね」


 軽く会釈し、劇場へ向かって小走りに歩く。

 だが、背後から足音がついてきた。


「君、舞台俳優?」


 その声に振り返ると、先ほどのサングラスの男が立っていた。茶色の髪が朝日に透け、整った横顔に軽い微笑が浮かんでいる。近くで見ると、ただの通行人ではないとわかる。何か“場慣れした”人間の匂いがした。


「ただの照明係です」

「え、ここの劇場?」

「はい。ここから先は関係者以外立ち入り禁止なので」


 裏口の取っ手に手をかけた瞬間、男の手が自分の手首を軽く掴んだ。

 反射的に肩が強張る。


「待って、これ。受け取って」

「……名刺?」


 そこには「御影 剛」と書かれていた。白地に真っ黒のインクでの印刷。


御影みかげつよしです。劇団をやってまして。今度ゆっくりお話ししようね」

「お断りします」

「え、ちょっ――」


 御影の言葉を遮るように、色人は裏口の扉を押し開けて閉じた。冷たい金属音が響き、世界が外と内で分断される。中に足を踏み入れると、暗がりの中にほのかに漂う照明の焦げた匂い。外の世界では、演じる必要も、演じられる必要もない。


 渡された名刺の裏には「劇団mimic」の文字と、電話番号が書かれていた。


「ミミック…?」


だが、色人は思考を続ける間もなく、怒号が耳に飛び込む。


「おい!おせーぞ彩川ァ!」


色人は無表情のまま顔を上げ、名刺をスマホケースに無造作に差し込み、声のする方向へ足を運ぶ。


「泉さん、おはようございます」

「何もたもたしてんだ!すぐに調整入れ。この後すぐリハだぞ!」

「はい」


 舞台袖に入り、色人は天井の吊り照明に向かう。無駄な動きはなく、足取りも淡々としている。手順は常に一定で、無駄な確認や感情の揺れは一切ない。

まず、トラスの接合部を目視で確認し、各バトンのねじを順に指先で触れて締め具合を確かめる。緩みがあれば微調整、重さをかけて揺れがないかを確認する。

ケーブルが交差していないか、照明機材の重量バランスが崩れていないかも、目で追いながら検査する。吊り下げられたライトの角度、光軸、ゴボやフィルターの固定も、欠けやずれがないか確かめる。

その間、監督の指示が無線で飛んでくる。


 「彩川、右手バトンの照明3、45度回して」

 「上手、サイドライトの調光30%」

 「彩川、右手バトンの照明1、いつもより少し高く上げて。調光も80%で」

 「下手のサイドライト、パン角度を逆にして、少しトリミング寄せろ」


色人は声の指示に従い、照明のパンやティルトを機械的に操作する。微細な光の角度、照射範囲のぶれ、調光の反応速度まで確認する。彼の動きには、疲労も焦りもない。あくまで手順を遂行するだけだ。ただ、作業中にひとつ、微妙な違和感があった。下手のサイドライトの固定用クランプの一部が、わずかに緩んでいる。

色人は触れたときにそれを認識し、すぐに締め直した。


 すべての照明をチェックし終えたあと、色人は再度全体を見渡す。光の輪郭、影の出方、照度の均一性。異常はない。確かに、完璧だ。


「確認終わりました」


舞台袖で、色人は淡々と照明卓のフェーダーを操作していた。

舞台上の俳優たちの動きを目で追い、言葉の間、仕草の小さな揺れ、表情の変化、呼吸の間合いに合わせてライトを動かす。

パン、ティルト、調光――微細な操作は、彼にとって単なる手順でしかない。

それでも、照明が正確に舞台を照らし、俳優の演技を支えていることを確認すると、どこか安心するような感覚が生まれる。


今日の舞台は、「オペラ座の怪人」をオマージュしたオリジナルシナリオ。

仮面をつけた怪人、舞踏会で踊る貴族、悲痛に歌うヒロイン――舞台上は緊張感と華やかさが交錯していた。

怪人が舞台奥からヒロインを見つめる瞬間、色人はサイドライトの角度を微調整し、仮面の陰影を際立たせる。

舞踏会のシーンでは、群舞の動きに合わせて天井からのスポットを緩やかに移動させる。

俳優たちの呼吸や足の運びに合わせ、光が滑るように舞台を包み込む。その正確さが、彼にとって唯一の秩序であった。


だが、次の瞬間だった。

天井の吊り照明のうち、一基が小さな振動の後、ゆっくりと落ちてきた。

鋼鉄とガラスがぶつかる金属音、悲鳴。割れる音。

舞台上の俳優が咄嗟に避ける。ヒロイン役の女優が転倒し、衣装の装飾に引っかかって立ち上がれていない。幸い、怪我はしていないようだ

袖から見ていた色人は、体が勝手に固まる。反射的に卓のフェーダーを確認するが、操作には異常はない。


「な、なんで……!?」


誰かの声が舞台袖を駆け抜ける。

監督が駆け寄り、俳優の安全を確認しながら怒声を飛ばす。


「何をやっている!照明はどうした!」

「彩川、お前のせいだろ!」

「…え」


 色人は固まったままフェーダーを見つめる。手順通り、無駄な動きは一切していないはず、だった。


「…お前は、クビだ」

「僕、は…」

「さっさと動け、木偶の坊」

「……はい」


 淡々と命令が下り、舞台袖での作業の手を止めることもなく色人は何も言えず、立ち尽くしていた。照明が消え、他のスタッフは控え室に消え、舞台に1人になる。ただ、静かに、照明卓を片付け淡々と現実を受け入れることにした。


**


 リハーサル後、本番の公演は延期になった。淡々と片付けをしている横でそう言った話をしていたのが聞こえた。色人はどこか他人事のように感じながら「無職になった」現実をどうしたものかと考えていた。生きるためには金がいる。どんなに嫌でも働かなければならない。

夕方、予定よりもだいぶ早くなってしまった帰宅を家で帰りを待ってくれているであろう弟に連絡

を入れようと考えつつ、働く人々を見る。その中に、見慣れた立ち姿が見えた


 「あれ、兄さん!」

 「形人」

 「買い出ししてて、兄さんだいぶ早く終わったんだね」


にこにこと嬉しそうに自分に駆け寄る。弟の顔は優しい笑顔でエコバッグを掲げた。


 「今日の夜はカレーにしよっかなって」


無邪気な笑顔でそう言う弟に、色人は居た堪れない気持ちになった。弟はちゃんとしているのに自分は今は何も持ち合わせていない。


 「…仕事、クビだって」

 「え」

 

弟に帰りながら話す、と言って。見慣れた帰り道を歩きながら色人は経緯を説明した。


 「…はぁ!?なにそれ!」

 「事故だけど、俺の責任だから」

 「兄さん仕事は完璧じゃん!誰よりも丁寧だし仕事早いし!嫌味な先輩より仕事できるしっ!」

 「お前がそんなに怒るなよ」

 「兄さんが怒らないからでしょ!」


その言葉は嘘じゃないとわかる。弟は「いい人間」だと思う。笑顔も怒った顔も、仕草も、いい人間が持つ雰囲気と同じだから。自分の目は、誰よりもいつも正しいから


 「…働くと言う行為は、贖罪らしい」

 

ふと溢れた言葉。誰に言うでもない、独り言。


 「兄さんは、そう思ってるの?」

 「…どうかな、でも、苦しいこととか、しんどいことをして好きなものを得るための手段を得るって言うのはなんだか…」

 「滑稽?」

 「…虚しくなるな,と思って」


自嘲するように笑う。何のために働いているのか、なんてとうの昔に忘れた。今はただ、形人がいる生活を守るために働いている。それだけだった。


 「贖罪、働いて、罪を許してもらう?」

 「…うん。でも、人は生まれてから罪を犯さないなんて,無理だから」

 「兄さんはどんな罪を犯したの?」

 「………さぁ」


ただ、風が頬を撫でていた。穏やかで、冷たいものだった。








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