第34話 『 説明 』

麗華の視点


……どうして。


どうしてこんなことになってしまったの。どうして、せっかく関係が少しずつ良くなってきていた、このタイミングで。


……どうして。


喉の奥に心臓がせり上がってくるようだった。


……はぁ、どうして。


正直、優一から電話をもらってからのことは、あまり覚えていない。クリニックへ向かう間、頭の中では同じ言葉が延々と渦を巻き、ひと息つく余裕すらなかった。


海斗が怪我をした。優一が電話をしてきた。何かあった。きっと重大なことが。


どうして飛鳥が一緒に来たのかも覚えていない。私が頼んだのか、彼女が強引についてきたのか、それとも私の様子を見て黙って車に乗り込んだのか。どれも思い出せない。ただ、クリニックに着いた瞬間、鍵を差したまま車を放り出し、扉も閉めずに走り出したことだけは覚えている。


優一は外にいた。最初、彼だと気づかなかった。考えるより先に彼を避けて通ろうとした。けれど、彼が進路を塞ぐように立ちはだかった瞬間、私の喉は完全に閉ざされた。


彼がここにいるということは――本当なのだ。全部、本当。まだどこかで抱いていた「ただの思い違いであってほしい」という淡い期待が、一瞬で潰れていった。


「海斗はどこ?」


そう問いかけた。


優一の口が動いた。しかし、何も聞こえなかった。私の欲しい言葉ではなかったからだ。私が求めていたのは、たったひと言。


「無事だよ」


それだけだった。


なのに、そのひと言が出てこない。


その沈黙が、秒を追うごとに私を追い詰めていった。


気づけば両手で優一の胸ぐらをつかみ、揺さぶっていた。


「教えて。全部。嘘なしで。」


優一は黙り、視線を横に逸らした。その態度が腹立たしかった。遠回しにする余裕なんてない。失うかもしれないのに――。


さらに力を込め、彼のシャツを握りしめた。


「話して。」


その時だった。ようやく気づいた。


私はただ不安なのではない。怖かったのだ。言葉にされるのが、事実を突きつけられるのが。だけど、それだけではない。もっと醜い感情が胸の奥に渦巻いていた。誰かを責めたかった。怒りをぶつける相手がほしかった。


――あぁ、本当に嫌な人間だ。


優一は何度か口を開き、結局何も言えずに唾を飲み込んだ。そしてようやく、しぼるように声を出した。


「義姉さん……少し、落ち着いてください。」


彼はそっと私の手を包み込むようにして押さえた。私たちはしばらく見つめ合った。どうしてこんな態度を取っているのか、私自身わからなかった。


「麗華ちゃん、もうやめて!」


飛鳥の声が、その恍惚にも似た緊張を断ち切った。彼女が私を引き離したことで、ようやく自分が何をしていたのか理解した。近くの椅子に手を伸ばし、そのまま崩れ落ちるように座った。


「麗華ちゃん……何が起きてるのか全然わからないけど」飛鳥が膝をつき、私の目を覗き込む。「大丈夫だから。深呼吸して。」


指先で私の前髪を整え、顔にかかった髪をそっと払ってくれた。私は曖昧に頷くしかなかった。


少ししてから、ようやく声を絞り出した。


「……優一さん。」


「うん、なんでも聞いて。」


「私……自分でも、どうしてこうなってるのか……わからない。」


「気にしなくていいよ。」そう言いかけた彼は、突然言葉を止めた。視線が廊下の奥へ流れる。そして小さくつぶやく。


「……来た。」


「え?」


「ほら、あそこ。あの人……運転してた人。」


示された方向へ顔を向ける。


数メートル先を、ひとりの男が落ち着きなく行ったり来たりしていた。迷っているのか、怯えているのか、そのどちらにも見えた。白いシャツに灰色のジャケット――どこにでもいるような、記憶に残らないタイプの男だ。けれど、その肌は灰を塗ったように血の気がなく、手は震え、何度も太ももにこすりつけては汗を拭っていた。


「運転してた……って、何の話?」


尋ねると、優一は「わかってないの?」という目をした。そして、短く告げた。


「海斗が……」


言葉は続かなかった。


しかし繋げるのに時間はかからなかった。膝から力が抜けた。


「……嘘……」


「海斗は、車にはねられたんだ。」


「え……?」


頭から色が抜けるような感覚だった。勢いよく立ち上がり、椅子が後ろで音を立てた。


「優一さん、冗談はやめてよ。」


震える指先で彼を指す。


「もういい加減にして。こんなの茶番よ。本当のことを全部話して。そして今すぐ、海斗のところへ案内して。別の病院に連れて行くから。」


「待って、麗華さん。落ち着いて。」


優一は両手を上げ、私を沈めようとするように宥めた。しかし、もう限界だった。どうして彼が黙っているのか。どうして「医者が来るまで待て」なんて言うのか。彼自身が説明すればいいことなのに。黙っているほど不安が膨らみ、見えない何かに追い詰められていく。


「優一さん。ふざけないで。私を誰だと思ってるの? 家同士の関係を忘れない方がいいわ。全部話しなさい。今すぐ。」


「わかってます。でも……」彼は視線を落とした。「――複雑なんです。」


「黙っている方がよっぽど複雑にしてる。」


自分の声が震えているのがわかった。最後はほとんど泣き声に近かった。その時だった。


先ほどの男が、こちらへ駆け寄ってきた。


「す、すみません!!」


唐突に深々と頭を下げた。軽い会釈ではない。礼儀正しいお辞儀ですらない。謝罪のために体ごと折り曲げる――そんな角度だった。


「ほ、本当に……申し訳ありません……。私が……私が全部悪いんです。気づくのが遅れて……曲がったら、そこに彼が……。ブレーキは踏みました。でも、遅かった……。全部、私の不注意で……。」


震える声で言葉を重ね、頭は一度も上がらない。


「治療費は全額、負担します。全部です。ですから……どうか、警察には……その……示談ということで……。揉め事にするつもりはありません。あなた方も、きっと……望んでいないはずです……。」


何も返せなかった。返す言葉が見つからなかった。


男の震える声を聞きながら、私の耳に届いていたのは、頭の奥で鳴り続ける鈍い音だけだった。本当に? 本当に海斗は――?


飛鳥がそっと私の腕に触れ、呼吸を促すように軽く押した。


優一は一歩前に出て、私と男の間に立った。たぶん、私が何か取り返しのつかないことをする前に止めるつもりなのだ。


「……あなた」ようやく声が出た。「言っていることは……本当なの?」


男は動かなかった。頭を下げたまま、小さく答えた。


「申し訳……ありません……。」


「嘘でしょう。」口元が引きつり、小さな笑いが漏れた。だが、それは笑いと呼べるものではなかった。空洞のような音だけがこぼれた。


天井を見上げ、唇を舐める。そして飛鳥を見る。彼女は事情もわからないまま、ただ必死に私を気遣っていた。


その瞬間、私は決めた。


踵を返し、歩き出した。


「……もういい。直接行く。」


どこにいるのかも知らない。何階なのか、どの部屋なのか、どの棟なのかすらわからない。


それでも――


見つけるまで探すつもりだった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る