第29話 『 裁き (2) 』
僕たちは、両親が到着するまでのあいだ、保健室へと連れていかれた。気分は最悪だった。いや、ただケガや打撲が痛み出してきたから、というだけではない。体の芯がひどく冷えて、胃の奥にぽっかりと穴が空いたような感覚があった。
父さんが来る――それが、何よりも恐ろしかった。どうなるかなんて、もう分かっていた。
もっとも、散々な状況のなかで、ひとつだけ運が良かったことがある。打撲は多いものの、看護師さんの話では鼻は折れていないらしい。血さえ止まればどうにかなるとのことだった。僕自身は折れたと思っていた肋骨も、診察の結果なんともなかった。ただ、歯が一本ぐらついていて、このまま放置すれば後で痛むと言われた。
一方で、ほかの連中はというと、大したケガもしていなかった。せいぜい擦り傷程度だ。ただし、龍だけは違った。顔に入れた拳がよほど効いたらしく、あちこちが青紫に腫れはじめていた。唇と頬の片側も大きく膨れてきていた。
保健室の先生は、そのすべてを丁寧に記録していた。後になって「殴られた」「いや、殴っていない」などという無意味な争いが起きないように、ということだろう。その記録の控えを校長先生へ提出し、さらに何部か複製を作って、それぞれの保護者に渡すつもりらしい。
はあ……。また、あの考えが僕の頭をよぎった。父さんが来る――それだけで胸の奥がざわめいた。そのあいだ、僕は一言も発さなかった。ずっと俯いたまま、視線はどこにも焦点を結ばず、ただ「世界が終わればいい」とか「地面が割れて呑み込んでくれればいい」などと、子どもじみた願望だけが頭の中を巡っていた。
けれど、世界はそんな願いを叶えてくれるほど甘くなかった。
三十分ほどして、僕たちは再び校長室へと連れて行かれた。そこで――彼を見つけた瞬間、顔から一気に血の気が引いた。
父さんは、いつも距離のある人だ。昔は同じ家に暮らしていたはずなのに、ほとんど顔を合わせた記憶がない。僕が起きる前に出ていき、帰るのはいつも夜の九時を回ってからだった。その点については、昔の麗華に少し似ている気がする。
たまに一緒に過ごせても、父さんが感情を表に出すことはなかった。ポーカーフェイスというやつだ。だが――長年の経験で知っている。滅多に見せない表情を、ひとたび見せれば、それは恐ろしいほど極端なのだ。笑えば本気で笑い、怒れば底知れないほど怒る。言葉では伝わらない。実際に見なければ、誰にも分からないと思う。
お母さんだけが、そんな父さんの態度を「可愛い人ね」と言っていた。
僕たちは教師に背中を押されて校長室に入った。
中には何人もいた。校長先生、担任らしき先生が二人、そして見知らぬ大人が五人。おそらく龍とその取り巻きの保護者なのだろう。
痩せ型で声の甲高い女性が、僕たちを見るなり大げさに叫んだ。
「ちょっと龍! あんた、今度は何やったのよ!」
「ま、待ってよ母さん、これは――」
「来なさい!」
女性は龍の耳をつかんで前へ引きずり出した。龍の取り巻きはビクリと肩を震わせ、自分たちも同じ目に遭う前に慌てて前へ出た。僕はというと、俯いたまま父さんの元へ小さな歩幅で近づき、その横――一歩後ろに立った。
父さんは何も言わなかった。目さえ向けなかった。
龍の母親は龍を小声で叱り続け、ほかの保護者たちもそれぞれ子どもを責め立てていた。
「だから言っただろ、虎。あの子とつるむなって」
「剣二、お前は本当にトラブルしか起こさないな」
「兄さんに言いつけるからね」
まあ、いろいろ言っていたが、俯いていた僕には誰が誰に言っているのか判別できなかった。
校長先生は机の向こうで黙り込み、保護者たちの怒りがいったん収まるのを待っているようだった。
「……藤村くん」
父さんの低い囁きに、僕は小さく身をすくめた。結局、何か言うつもりはあったのか。
「恥を知れ」
返す言葉もなかった。唇を噛んだ。
校長先生が机を軽く叩き、ようやく口を開いた。
「皆さま、お集まりいただいたのはほかでもありません」
髪を手櫛で整えながら続ける。
「ご存じのとおり、こちらの教室で生徒同士の大きな乱闘騒ぎがありました。本校として、これは到底容認できるものではありません」
机の上で指が「パチン」と乾いた音を立てた。
「教室を破壊し、机や備品も壊れています」
さらに机を叩く。
「これは、ただの反省では済みません」
龍の母親は片手で額を押さえ、首を振った。
「本当に……いつまで問題を起こすのよ」
ほかの親たちも落ち着かない様子で叱責を続けた。
「どうしてケンカになったのですか?」
低く淡々とした声で尋ねたのは父さんだった。校長先生はため息を漏らした。
「龍くんの話では、藤村くんが突然殴りかかったとのこと。ですが、藤村くんの父上のお話では、龍くんが彼の物を持ち去り、返さなかったことが発端だと」
「物……ですか?」
「ええ。たしか……指輪だったかと」
父さんの体がかすかに動いた。その反応だけで、どれほど不快なのか分かった。
「それは本当なのか?」
龍の母親が息子をにらむ。
「ち、違うんだよ母さん! 返そうとしたのに、あいつが急に殴ってきたんだ! 俺たちはただ拾っただけで――!」
また嘘だ。腹の底が煮え返るようだった。拳を握り締めなければ、今すぐ怒鳴っていた。
龍の友達も口々に嘘を並べたてた。
「そうです、お父さん。拾っただけなんです」
「殴られて、僕たちは止めただけで」
「悪いのは向こうです!」
指差され、拳が震えた。
「教室を壊したのも向こうです!」
ここまできて、もう我慢できなかった。
「ち、違います!」
僕は父さんを見上げ、必死に言った。
「父さん、あいつらが嘘を……! 指輪を盗んで返さなかったんです。蹴ったり、弄んだりして……それで、あいつが!」
龍を指差す。
「隙間に投げて、なくしたんです!」
父さんは横目でちらりと見ただけで、静かに言った。
「黙れ」
その一言で、僕の体は恐怖に縛られた。父さんは親たちの言い争いを無視し、校長先生へ歩み寄った。
「校長先生。指輪の件は事実ですか」
校長先生は深くため息をついて頷いた。
「ほかの生徒の証言によれば、少なくとも“返さなかった”という点は事実のようです。ただし――」
身を乗り出す。
「藤村くんが先に手を出したことも、また事実です」
父さんは目を閉じ、言葉を噛みしめるように沈黙した。
その言葉に反応したのは、ほかの親たちだった。
「では、責任は藤村くんにあるのでは?」
「先に殴ったんですから」
「たかが指輪のことで」
「暴力は訴えられますよ」
「もちろん、うちの子も悪いですが……」
「全員に責任があると思いますね」
「まず状況を把握しないと」
「子育てって本当に……」
龍の母親も食い下がる。
「こちらが訴えることだってできます」
僕は口を開きかけたが、父さんの声がそれを封じた。
「結構ですよ。どうぞ訴えてください」
父さんは龍の母親を見据え、そしてほかの親たち全員へ視線を向けた。
「その代わり、私は“窃盗”でそちらを訴えます」
静寂が落ちた。
やがて、ひとりの親が弱々しく言った。
「た、ただの指輪でしょう?」
父さんは淡々と返した。
「その“ただの”指輪は、百五十万円します。もし“ただのもの”で構わないなら――今すぐ支払ってください」
空気が凍った。先ほどより、さらに深く、長く。
龍の母親が震える声で言った。
「は、百五十……嘘でしょう……?」
「証明書が必要なら、お見せしますよ」
父さんは腕時計をちらりと見て、時間を気にするように言った。
「ですが、たとえ百五十万円を払われても、私は訴えを取り下げません。私はそういう甘い人間ではないのでね」
「お、脅すつもりですか?」
龍の母親は必死に反撃しようとする。
「こちらにも言い分があります!」
「皆さんもそう思うでしょう?」
ほかの親も続いた。
父さんは眉ひとつ動かさず答えた。
「脅す? いいえ。私は脅しません。藤村の名を背負っているので」
その瞬間、龍の母親はようやく父さんの“立場”に気づいたらしい。顔から血の気が引いていくのが分かった。権力、金、影響力――父さんはそのどれもを持っている。本気を出せば、龍を一晩で牢屋に入れることだってできる人だ。相手になどなるはずがなかった。
校長先生が沈黙したままなのも、その証拠だった。
「では、どうなさるおつもりで?」
龍の母親の問いに、父さんは静かに頷いた。
「訴えは互いに起こさない、ということで。まず第一に、今後は互いの子ども同士を接触禁止とする。二度と関わらないように」
僕へ視線を向ける。
「こいつは守ります。そちらは?」
龍が何か言いかけたが、母親に肘で止められた。
「うちも守らせます」
ほかの親たちも賛同した。父さんはまた時計を見た。
「第二に、指輪代は請求しません」
「ほ、本当ですか?」
「その代わり、この五人には、返済が終わるまで私の元で働いてもらいます。自分たちのしたことは、自分たちで償わせます」
虎が前へ踏み出した。
「な……なんでだよ! あいつが先に――!」
「黙れ」
父親に髪をつかまれ、後ろへ引き倒された。
「今、話をまとめてるだろうが! 指輪をなくしたのはお前たちだ。働いて返せ」
「五人もいるんだ。しっかりやれよ」
「ま、待って母さん……」
「ここで叩かれたいの? やるのよ。分かったわね!」
叱責はしばらく続いた。だが、時間が経つにつれ、父さんの提案が現実的な落としどころだという空気が広がっていった。
そして、ついに合意に達した。
訴訟なし。今後の接触禁止。五人は父さんの元で一定期間働く――。
だが、これで終わりではなかった。親同士の話がまとまったとしても、最後の裁量は“学校”にある。そして、その決定権は校長先生一人に委ねられていた。
全員が息を呑んだ。校長先生の言葉を待つ。
「皆さまのお子さんがしたことは、本校にとって到底看過できるものではありません。とくに、外部からの生徒を招いているこの状況下では、なおさらです」
校長先生は僕たちをゆっくりと見回した。
「すでに決めております」
椅子に深くもたれ、言葉を続けた。
「まず、外部の五名については、それぞれの学校の校長先生に判断を一任します。すでに連絡済みで、明日、そちらへ戻る予定です。次に――本校の生徒である藤村くん。その処遇は、私が決めます」
沈黙。数秒なのに、まるで永遠のようだった。
「私は、校長としてこのような前例を作るわけにはいきません。開校以来、このような乱闘騒ぎは一度もなかった。本校の名誉に関わる重大な問題です。見過ごすことも、軽い処分で済ませることも、到底できません!」
校長先生は両腕を大きく広げ、演説のように続ける。
「ここで厳しい措置を取らなければ、再発を招きかねない。二度と繰り返させないためにも、強く示す必要があります!」
深く息を吸い、そして――
「総合的に判断したうえで。藤村さんのご父君には申し訳ありませんが、決定はすでに下りました」
僕は唾を飲み込んだ。
「――退学処分とします」
その瞬間、全身から血の気が引き、世界の音が消えた。
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