4【「 」でなく「 」】
暖かくなるまでは何もする気は無かったけど、今年は天狗参りの日が迫っていた。
天狗参りの道。
村内の小学生、七歳くらいから、成人前、十七歳くらいまでの子供たちに、山伏を模した格好をさせ、湯田寺の裏手にある山道を通って、お堂にお参りをさせる行事だ。山道、と言っても上からも下からも一望出来るように切り開かれて、傾斜も杭で固めた階段になっている。ほとんど境内の一部と言ってよく、位置情報も端末で監視しているので、麓よりも安全、というほどではないが、よほど自ら茂みに向かって行かないと、失踪するのも困難なほどだった。
冬眠から早く目覚めた野生動物が出ないように、朝から音を鳴らしている。
狼の尿を撒いている。
罠を仕掛けている。それでも出た場合に備えて、警官と猟師まで呼んでいる。
あとは、それでもまだ何か出るとしたら、あとは天狗、そうでもなかったら、天狗参りに参加しなかったけど様子を見に来た大人くらいだろう。村のほとんどの大人は、山道にこそ入らないけど、お堂に通じる二つの道や、寺の裏手、山の周辺を見守っている。でも全員というわけじゃない。たとえば、大沢可知哉は寒いと関節が痛むからって、あんまり外には出ない。
私も作務衣の上に通学用のダッフルコートを、下に吸湿発熱のインナーを重ね着して、厚手の黒タイツを履いても震えていた。冷たい両手には軍手、擦り合わせると、黄色い滑り止めが引っ掛かって気持ち悪かった。乾燥も辛いけど、寒すぎるから焚き火からも離れられない。
集まった誰も動き出そうとしない寒々とした光景は、まるで氷像の群れのようだ。
揺れる火柱に照らされる顔を眺めていると、見覚えのある顔を見つけた。
誰だっけ、と考える時間も無駄なので、目を動かす間に、視界の端で溶け出している。袴を穿いた波瑠斗が歩いて来て、始まる前から、婦人部の人達が大鍋で作っているお汁粉を貰っていた。袖を掴み、波瑠斗、と呼び掛ける。「美味しそうなの食べてるじゃん、いいの?」
波瑠斗は首を振った。「しろも今日やるの?」と、首に下げた形代を見せて来る。
それは亞の字に似ている。
「やらないよ、大人だから。私は見守り番」形代は十字型、木板を削って作られ、厚さは一センチメートルもなく、横幅は十センチメートル、縦幅は、もう少し長いくらいだ。名前を書いてお堂に奉納し、後日まとめてお焚き上げをする。その間、三日くらいで、天狗が厄災を持ち去ってくれるというが、同時にそれは子供が神隠しに遭いやすい期間でもある、という。
これが節分と被ったり、前後したりするけど、一緒の行事では全然ない。
「いつまでやってた?」
「十、七八くらいだったかな、高校生まで」
「ニートはやらないの?」と波瑠斗が言葉の意味も、たぶん知らずに聞いた。
「まあ、まあまあ。るるは居ないの?」
「怖いってワガママ言ってる。あっちで」姉の醜態について、殊更に呆れた風な白けた口振りになって、他人事みたいに波瑠斗は言った。騒いでる、ってほどじゃないけど、確かに本堂の近くで二、三人の大人の輪が、下の方を向いている。その真ん中に瑠々璃香が居るらしい。
「まあ、怖いよね。私がやった時、中一だったかな、一人……まあいいか」
「なに?」
怖がらせても仕方がない。
首を傾げる波瑠斗に、なんでもないと答え、両肩を持って瑠々璃香の方に押し遣った。
後ろから抱き寄せると体が冷たく、芯は溶けかけの氷だ。前後になって歩いていると、いきなり横から声を掛けられ、生返事で通り過ぎようとすると、今度は波瑠斗の肩を掴まれた。私は波瑠斗を前に、反対側に回りながら、相手の顔を見た。逆立てた短髪、二十代半ばくらいの痩せた青年は、役所の手伝いをしてた、えーっと、二人組のタカかトラ、どっちかだろう。
「誰ですか」と聞くと、その男は眉根に深い皺を入れた。
「あの移住者が来た時、一緒に手伝ったろ。羽毛田武一」
ナイロンっぽい上着、ポケットに突っ込んだ手を広げ、彼は体を大きく見せた。
「あー、覚えてないですね」
「ないわけないだろ。今日はおまえ、参加するのか?」
「大人なんで」
「そうか。今年は」と彼が山道の入り口に目を向け、声を少し抑えた。「警察が多いな」
神辺さん以外にも、紺色の制服が暇そうに動き回っている。
反射板、規制線、三角コーンはライト付きのオレンジで、茂みを完全に切り分け、こちら側から書き割りの自然を見ている気分だ。動物や、子供は潜ってしまうから、それでも足りないけど、わざわざ鉄柵は設置しないし、その為にわざわざ支柱を地面に埋めたりもしない。
パイプ椅子を持ち出して、ストーブの前、座って見張っている人も居る。
狐のような笑みを、ふと思い出した。サイズの合わないジャケット、素足にサンダル、ネクタイは星柄で、きっかりと十三個。長い黒髪を横に分け、胸に垂らし、邪魔な時は頭を左右に振る仕草、それから不遜な物言いをする、二、三回くらいしか会ってない人を思い出した。
なぜだかその人に少しだけ会いたくなった。
十時前、天狗参りは僧侶の犬間良顕が山道の入り口を開く事で始まった。
結局瑠々璃香は参加しない事になって、波瑠斗が二つの形代を首から提げた。
まるで、神隠しの神頼みをしに行くみたいだって、波瑠斗がまた姉を泣かそうとした。
今年はそれでも十人も居ないから、この人数では確かに怖いかもしれない。ずなちゃんが居たら、最年長で参加したのだろうか、ちょうど参加しなかったのだろうか、どっちみち参加したがらなかっただろうか。そうなった場合は、私が代わりに参加させられていただろう。
何の代わりかは、私が村の全てを背負えない事に対してかまでは、分からないけど。
大人達は山道に入らないように決まっているが、ほとんど森の一部のように子供達に纏わり付いていた。これで迷ったとしたら、人混みに、と言った方が卑近だろう。こんなに恥ずかしい事はないけど、そうでもしなければ大人の身空では天狗になど遭えるはずもないのだ。
三人目が戻って来る頃、テントの方から婦人部のおばさんが走って来た。
「蔵の方で人が暴れてるって」と言いながら、蔵に向かう道に人差し指をぴんと立てた。
すぐに警官が二人、蔵の方へ走り出して、神辺さんがおばさんに話を聞いた。その人は高羽清音、三十代後半、村内では珍しい独身の女性だ。私と同じ、いや、十五個くらいの年齢差は大きいようで小さい。「お酒に酔ってるって」慌てているのか、要領を得ない話し方だ。
「人数は。凶器を持ってるのか。誰か襲われたのか」
「無い、誰も、一人だけだった」と答え、高羽のおばさんはゆっくりと辺りを見回した。
神辺さんがどこかへ連絡する。私はそっと立ち上がり、蔵の方に向かってみる事にした。
自分に何が出来るわけでもない。誰か、居るんじゃないかって思って、それだけだ。セキュリティシステムがある以上、蔵に対しては心配は皆無、むしろ暴漢の身が危険に晒される可能性がある。それと私の体調もだ。近づこうとしただけで、やっぱりもう全身が重くなる。
蔵の方に回ると、汚いジャンパーを着た白い髭面、長髪の老人が暴れていた。
垢染みた顔には憤怒の様相、だけど何に怒っているかは本人も分かっていない。口角から飛び出した飛沫が自らの袖を汚して、それに気付かず、気付くと激しく激昂する。嗄れた声は罵倒なのか、懇願なのか、判別が付かない。「だあっ、くそっ」みたいな、吐き捨てる勢いに当たり散らしている。この辺りの老人や、地元に長く居る人がよく出す符牒みたいな発声だ。
警官二人はセキュリティの事を知っているから、社務所の角から様子を見ていた。
見ようによっては仙人にも見え、それは賤人の言い換えだったんじゃないかと思う。
あの人はそうだからと言い、どちらだとは明言しない言葉。
生地の薄い作業ズボン、化繊か綿混か、その両膝にはファッションではない差し迫った理由で大きな鉤裂きが出来ていた。露出した膝から、脛の側面までズボンは泥だらけで、どうせ転んだんだろうけど、擦り傷は出来ていない。強運か、生来の頑丈さが見え隠れしている。
右手に持った錆だらけの文化包丁が彼自身を傷つけていない事にもそれは通じている。
「あれは、包丁か」と警官の一人が言った。「凶器は無いんじゃなかったか」
もう一人は腰の警棒に手を伸ばし、その手が隠れるように体の向きを変えた。
警官が私を見た。「朱田さんとこの。何で来たんだ。離れてなさい」
「蔵が心配で」顔を出してみると、飛沫ばかりで意味の為さない罵声が、やけに遠くから聴こえ、やけに不明瞭だった。包丁に午前の陽光が反射し、一瞬刃物のように鋭く感じられる。そして目が合った。「あっ、やばっ」と顔を引っ込めた私を、警官が背後に庇ってくれる。
そして腰の右側、つまり拳銃に手を、伸ばそうかとひどく迷っている。
撃て撃て、と囃し立てる事も出来ないけど、何かそうせざるを得ない事態が、ぐっと近くに迫るような感じがする。後退りながら、角の手前に居る二人の様子から、老人がどのくらいの距離に居るかを読み取ろうとした。「距離は。……回って壁際に。……時間を稼いで」みたいな事。そこに私が混じったって、真っ先に狙われて刺されるか、刺される代わりに、誰かが撃たれるか、どっちかだ。「3で行くぞ」と言い、もう一人が警棒を抜く。「1、2の」
その背中が背後に吹き飛び……違う、別の何かが、それこそ真上から、降って来たのだ。
枯れ葉のような、汚いジャンパーの擦れる音が、カサカサ、強く耳に触れ、カサカサと、頭を抱え込まれるかのような、恐怖。どこに……下腹部。前蹴りを繰り出しながら、背後に下がった。老人はほとんど同じ位置で、私の足首は彼の手から滑り落ちて、地面を強く踏んだ。
更に追い縋って来る。振り上げた包丁、その白銀の閃きが一瞬、目に焼き付いた。
代わりに喉元ががら空きになる。
手首、肘、肩の連なる動きが順番に見え、喉に繋ぐその中継点に私は入り込める。
田中先生。決して二つを一つにして教えなかった、けど田中先生は、全部教えてくれた。
まず包丁を止める。だからまず手首を、止めないといけない。いけないのに。
手が動かない。全身が冷たくて、余った熱が粘る汗になって噴き出しそうだった。
粘液に包まれたように体が固く強張り、時間が湯のように緩慢になる。息が苦しい。老人の手が遠くなる。影、もっと大きい影が迫り、そして激しい金属音が鳴った瞬間、羽毛田が老人の右手を腹に抱えている。刃の、根元までが横から見え、その先は深々と消えて、いや。
包丁は薄手の上着に刺さり、しかし横滑りしたように、斜めに突き刺さっている。
脇の下に何か入れられ、引きずられる間にそれが人の腕だと分かった。警官の一人が私を遠くにやり、もう一人が老人の背後から迫っていた。包丁が抜き取られる。先が斜めに欠けた銀色が再び翻り、滑るような一歩と共に羽毛田の首元に入る。羽毛田はその腕を捕らえ、壁を駆け上がった。十字架というには横棒が片側に寄り過ぎ、それぞれ長い方が二股に分かれているので、何とも言えない奇妙な形、少し違うけど複雑さで言えば『戈』みたいな形だった。
脇下から喉元へと、地面では有り得ない形で組み付きながら羽毛田が壁を歩いた。
そして老人は、空中に投げ落とされ、それから地面に叩き付けられた。
再び壁から地面に降り立った羽毛田の手には包丁があり、彼はそれを、ほんの遠ざけるつもりで私の方に投げて来た。回りながら地面を滑る包丁、杉材のハンドルが私に向いていた。黒ずんだ表面は、長年の垢や、血を吸ったように禍々しく、しかし刃は全く汚れていない。
「切られたと思った」と警官が誰へともなく呟いた。「急に横向きになるから」
切られたからって、そうなるわけではないけど、じゃあ何でそうなるかって言えば。
横向きになるのは、二つある。そうだ、それを今ちょうど思い付いたんだ。
天狗が人を斬る時、人が天狗を斬る時だ。なぜ道場に通い、武術を習い、そして山に入って祈願するのかと言えば、我々村民が天狗を恐れ、天狗を倒したいと願うからだ。その為には、調理用の鉄板を腹に仕込んだ状態で、超高圧の電磁力を発揮する壁に張り付いてみせる。のかもしれない。後ろで手錠を掛けられた老人は、倒れたまま地面で暴れ回り、土混じりの飛沫をまき散らした。「はいはい、いいから立って。どこもケガしてない? じゃあ大丈夫だ」
「酒に酔っている、ような事を言ってたな」
「村の人だったら、いつも飲んでるか、飲んでそうって思われてる、って事かも」
私の返答に、警官が首を傾げた。「あれは村の人なのか?」
「見た事はないですけど。全員見て、覚えてるってわけでもないですけど」
「いや。あの、投げた方の事だ、あの若い男」
「あー、たぶん。役場の仕事してたんで。道場にも通ってるみたいな事を」
「そうか、あれは道場で習ったのか」と、一つも納得してない様子で、村外の警官は頷いてみせた。羽毛田は手持ち無沙汰そうに老人を見下ろし、何か話し掛け、何も返答が無いと分かると、こっちに向かって歩いて来た。包丁を見て鼻を鳴らし、警官がそれを慌てて回収した。
「動けないなら、こんな危ない所に来るなよ」と羽毛田が言った。
「塀を飛び越えて来るなんて思わなかった。さっきの何?」
「あ、知り合いなら後は任せても」警官が去ってしまうと、羽毛田はそこに立ったまま、連行されていく老人を見つめていた。門の前にパトカーが付けられても、行事は恙なく進行し、犬間良顕が少し様子を見に来て、また山道の方に戻って行った。褐色の肌をした、小柄な二人組も蔵の近くまで来ていた。「さっきの奴は」と羽毛田が言った。「酔っ払いの暴漢だろう」
「だから、壁に。壁歩いてた?」
「助けられといて、その前に礼くらい無いのか」
「なに、お礼に乳揉ませろとか言い出しそうな顔して」
「昔流行っただろ」私の言葉を無視して、彼は左足を前に踏み出した。それと同時に左手、そうなると必然、全身が右向きに開かれて、私とは反対を向いた。「昔の武士は手と足が同時に出ていたんじゃないか説。なんだったか、和装だか帯刀してるからだかでそうなるって」
動作はまるでピボット、片足を軸に全身を回し、またその軸は体の中心に置く事も出来る。
「本当に昔のやつじゃないですか。聞いた事あるけど確か、ナンパ歩き、みたいな」
男の第三の足がある、とかいう嫌なジョークを、道場の誰かが言っていたのを思い出した。
「ナンバだかな。よく知らんが、地名の難波だとしたら、ここに一つの啓蒙がある」
「土地の名産……歩法を作って観光客にアピールするとか?」
「はっ」と鼻で笑って、彼は言った。「困難な場所で難場かもしれないし、それは波間かもしれない。そのまま船の難破かもしれない。和装だか帯刀だかが時代性の反映なら、そこにもう一つか、いくつか、反映されるべき物がある。果たして武士は平地で戦っていたのか?」
とりあえずイメージするのは平坦な場所、だけど当時は舗装されていない気もする。
「合戦だと、あー、桶狭間とかは、狭間っていうくらいだから谷間だったって事ですか」
「城攻めにしろ、海戦にしろな。傾斜地での戦闘に適した運足があるべきだと」彼が山の方を見上げると、ちょうど一陣の風が巻き起こり、頭の上、激しい葉擦れの音が降り注いだ。「天狗はそう考えた。いや、傾斜地なら過去にもあったんだろうが、天狗だったら壁面や、空中にも立って戦わないといけないからな。だから昔流行ったようなのとは違うって話なんだが」
「道場で、それが出来る人って何人くらい居るの?」
「ゼロだよ。俺らが天狗を見るみたいに、外から道場がそう見えたらいいけどな」
顔を掻いて、そのまま髪を掻き上げた羽毛田の左手、薬指にはステンレスのリングが嵌まっている。前会った時は、もう半年以上前とか、それから一度も会ってない。それだけ他の誰かと会う時間には恵まれてたって事だ。その間にも、彼は天狗に近づいていた。「平らな地面に立った天狗なら、倒せるかな」私は呟きながら、さっき老人を蹴った時の、踏み込んだ地面に薄く残った跡を見ていた。青みがかった砂利、その下の細かい砂にも、靴底の溝なんて残っていない。天狗にとって、地面の方が苦手だったらって、そんな事は有り得ないだろうけど。
瑠々璃香がお参りを終え、わざわざ私を呼びに来たので、一緒に戻ってお汁粉を食べた。
天狗に会ったのか、聞く事は出来なかったけど。
傾斜地に関する、その記憶が蘇ると、自分が置かれている状況が分かる気がした。
遠くから声が聴こえて来た。
「ABC兵器なんぞ持ち出して」その声は、狐のような目、真っ直ぐな黒い髪で、オーバーサイズのジャケットを羽織った女性の声だって、確信めいた物を感じたのは、私は視界を封じられていたからだ。真っ暗闇に、頭を一周する圧迫感と、冷たさ、柔らかさはタオルだろう。後ろ手に縛られ、インシュロック、結束バンドのような物が手首に食い込んでいた。地面に尻を付き、両膝を外に折ってぺったりと座っているのは、しかし平地ではなく傾斜地だった。
前に、分からないけど十度か、二十度は落ちていて、今にも滑り出しそうだ。
感触で言えば湿った土、下草が生えた、森の中のどこかまでは分かる。
「あ……」と思わず声が漏れたのは、克聖の自転車が落ちてたのを、思い出したからだ。
「起きたみたいだぞ」という女性の声が、前方の少し低い所にあった。
正面に向かい合って、少し遠く、またパイプ椅子に座っているようだ。
唐突に肩を掴まれ、背中に何かが当たる。人の脚、首元には薄い金属が触れ、その冷たさが体中に広がった。「まあいいですけど」と私の左後方、男の声が答える。「ABCというのは何かの符牒ですか。少なくとも我々は、兵器なんて物騒な物持ち込んだ覚えはないですよ」
「え、だれ」
「黙ってろ巫女」と星縞聖名が言った。「誰かじゃない、我々こそが敵だ」
「ヒガシ、黙らせろ。その拳銃の事を言ってるわけじゃないですよね」
アメリカ製フォーティファイブを、恐ろしい事に星縞聖名は人質にも向けているらしい。
「アトミック、バイオロジカル、ケミカル。代表的な近代戦兵器の事だよ」
「なぜ核の話が出て来るんでしょう。あなたには、あれがキノコ雲にでも見えたのかな」
「いや。お前らの場合はBだろう」
「バイオ、それはつまり病原菌やウィルスといった生物兵器の事では」
「我々はそれにブロークン・ウィンドウという符牒を与えた」銃口がゆらゆら、適当な場所に向けられ、無関係の人が撃たれる姿が、見えない視界に浮かび上がる。「それは窓を割るように容易い、あるいは割れた窓から侵入するように容易いという意味だ。バイオロジーのマクロ解釈。大量に送り込まれて来る人間すらも、我々にとっては細菌兵器のような物だろう?」
今度のそれは水鉄砲じゃないだろう。実際に今も遊底を引く音が聴こえた。
拘束という形で私に伝わって来る、背後の緊張、捻られた肩が痛みを訴えた。
「随分な事を言うもんですね。まるで我々が潜入工作員でも送り込んだみたいに」
「じゃなきゃ天使をか?」薄笑いを浮かべた顔が透けて見える。「それを生物と呼ぶかは個々に委ねるが」はっきり分かるのは、こちらを見ず、助けようともしない事だけだ。自力で抜け出せるだろうという、信頼を声から感じるわけでもない。ただ座って、見ている。襲い来る物だけを銃で撃とうとしている。星縞聖名にとっては全ての人が、誰かじゃなく、敵なのだ。
「天使、そうですね。それが生物かはさておき、元部下の、敵と呼ぶ事は出来ます」
ポケットに財布が残ってて、ただの強盗でも、人質でもないって事だけは分かった。
でも、潜入工作員って。生物兵器って。一番先に思ったのは「あの、蔵を。酔っ払いの」襲撃があった日、その老人は結局、蔵を狙った事を自白した。それも蔵には金目の物がある、行事で手薄になる日がある、寺は汚い方法で金を得ているなどと別の老人に吹き込まれて、憤りに任せて行動しただけだ。その別の老人は、素性も何も不明で、遂に見つけられなかった。
「聞いてない話だな。消したか」と星縞聖名は言った。「その巫女も消すのか」
財布にはカード型ナイフが入っている、けど怪しまれずに取り出すのは難しい。
「いいえ、そんな事は」ファイルを捲る音、フィルムが擦れ、ページが重なる。「そんな悲惨な目には遭いません。相応の死者はこちらに用意してます。指紋、眼球、毛髪、義歯。少しの間だけ、名前を変えて死んでいただく事にはなりますが、これはお互いの為でもあります」
それを聞いた瞬間、私はエバープランニングという社名への違和感を思い出していた。
何をする会社かは説明されたはずだけど、ちょうどいい言葉が今嵌め込まれた気がした。
顔も見ず、耳だけで聴いたから、余計にそれが印象に残ったのだ。
増戸涼太。四人の移住者を連れて来た人。
「どうせ焼くだろう。そうなったら誰だって変わらないんじゃないのか」
「方法は色々ですね。連れ去られた形跡や、映像や、証拠、証言を残し、縋りたくなるような物語を用意するんです。そしてこれも」と増戸が指一つ立てずに示したらしいのは、私の後頭部であるらしく、見えない注目が二つ、ともう一つくらい肌に刺さるのがとても白々しく感じられた。「家族にとっては、まだ生きているかもしれないという希望を持たせられます」
「そいつの家は次女が消えてまだ一年二年だぞ。何も期待しないだろう」
「いいえ、きっと二人目だけは、と」
「だからどこにも行かないように大事に囲っていたら、村の中まで入って来たわけだ」星縞聖名は楽しそうに声を弾ませて、私と、私を取り巻く全てを平等に眺めている。「敵がな。東西南北だったらその真ん中は何だ。お前は黄龍か、四天王なら帝釈天か、それとも白板か」
「ハクか、それはいいですね」
「気に入るなよ。名誉の白人が、移民を使役してスパイの真似事をさせたくらいの事で」
あるいは紅中、しかしその色別の思想は関係なく、あるいは緑發かもしれない。
「それはあなたも一緒では?」
「我々のする事に、名誉など何もないよ」
心の秘密に鍵を掛けたまま、禿鷲に屍肉を食われ、顔も名前も分からなくなるから。
首筋に何度も冷気が走り抜けるが、尻の据わりの悪いかのように、何とか腰を浮かせてポケットから財布を出す事が出来た。偶然落ちたみたいに、抜き取ったカード以外を斜面に放り出しさえする。ヒガシはそれを拾わなかった。こんな時に外に出たような人間が、光熱費の支払いなり、何なりと大金を動かすような用事を思い付くわけがないと、思っているんだろう。
実際のところ、入っているのはたかが二千何円、でも拾わせれば、それも隙だった。
真ん中で折り曲げ、細く畳めば、薄くて脆い文房具みたいなブレードが現れた。
刃渡りは六センチメートルも無い。それでも細いナイロンくらいは切れるし、手の中に握ったら隠してしまえる。身を捩り、当てられた刃物を、怯えたように大袈裟に避けてみせる。斬られる寸前まで、斬られない隙間があれば、星縞聖名に対する人質としては充分なのだ。知り合いだから、って甘く見ているのはお互い様だろう、後悔するのは斬られてからでいい。
「ボス」と小柄なヒガシが小声で言う。「落ち着かない。少し眠らせるか」
「いい、押さえておけ。それで、あなたはこれをどうしたいんですか」
「別にどうもしない。それは、お前らが解放するかどうかというだけの問題だろう」
「助けようともしないんですね。そんなに……頭を下げるのは嫌ですか」
「頭を下げるのはお前らの方だよ。助かるかどうかの分水嶺があるのは、そこだろう」
ゆらゆらと目を向けた銃口、その先には増戸と、ヒガシと、私が居るのだろう。
あとは目隠しさえ、縛っているタオルさえ取れれば、何とかなるかもしれないのに。
手が自由である事、拘束を解ける事、つまり刃物を持っている事を覚られてはいけない。
「下げるっていうのは、我々を見上げているあなたよりも低くですか」
「そうだ。俯せになって、地面に額を擦り付けて懇願でもすればいい」
「容赦のない人達だ。こんな」ランドルト環の、指先が触れる寸前、彼は言った。「隙間しか与えないとは。下手に出れば相手が言う事を聞くとでも思っているんだろう。愚かしい事ですね」大袈裟な嘆息は頭上の背後から、前方の低い所からは鼻息を強く吐き出す音がした。
腕取り、それしか無いという確信に沿って、私はその起点を耳に肌に探ろうとした。
少しだけ後ろに動くと、尻の下に何かを踏み、背中に細長い物が当たる。それは私を押し退けてから横に開き、土に擦れてざらついた音を立てた。視線を感じる。一瞬身を縮め、手元を見られないように仰け反る。「くそっ」と言ったか知らないが、ヒガシが悪態らしい外国語を吐いた。すぐ目の前でも、傾斜の下に座っている人間の首に、彼は包丁を当てているのだ。
腰を屈めるか、でなければ、腕を下に伸ばして、ほとんど肩に置くようにだ。
斬るつもりも無いのだから、うっかり斬らないように、という注意もしていない。
ここを押さえて、あともう一つ。たとえば足の、アキレス腱の位置を私は感じている。
動きは見えるが、その起点、何か私から注意を逸らせる物があれば。
「聖名さん」と呼び掛けると、肩を押さえる手が強くなる。「増援はまだですか?」
「……来るなんて言ったか? お前と会う時はいつも一人だっただろう」
「そのモチーフ、連邦捜査局だか安全保障局だか中央情報局だか知りませんが」
探るような言葉、星縞聖名は何も反応しない。増戸は息を止め、吸い、また言った。
「そのような傲慢さで、世界中に発生した天使を何人も狩って行ったんですね」
「増援。絶対に待っても来ませんか?」
今度はすぐには答えず、星縞聖名はあるいは増援を要請する手段を吟味していた。
「そうだな。爆撃機には」そう言いながら彼女は空いた左手で空を指したかもしれない。「母や恋人の名を冠するのが通例だ。作戦名『ディープ・スロゥン』もその一人だった。第三の新型爆弾『オールドレディ』を大連市に落とすという大役を背負った息子を重圧から救う為、爆弾と、爆撃機を奪い、彼女は大空に飛び立った。今どんな状態で機内に存在しているのかは知らないが、息子が地上でその名を忘れられ、半世紀以上が過ぎ去った今も、彼女は上空から我々を見続け、彼女の息子を傷つけるあらゆるものを事前に探し出し、撃ち落とそうとする」
「それは」一瞬間、空は薄暗く、雲が遠くに掛かっていて、増戸が言った。「何の事を」
左手で、手首を押さえる。
右手で、踵に刃を走らせる。咄嗟に引かれた足が腕の中から消えた。
内腿、右脇腹、右腋窩、右手首に縋りながら、懐に踏み込んだ。正面、傾斜が後ろに落ちている、修正。少し上向きに塞がれた目を向け、右肘、その内側に刃を走らせた。ヒガシの重心が低くなる。違和感。違和感は左手、相手が軽くなったように感じた。肘の外側を取り、背後に回ろうとすると、正面、鋭い風切り音が通り抜けた。空中で彼は包丁を持ち替えたのだ。
ただ追って来ない。
肘を極めて姿勢を崩すか、足から崩して喉元を刺すか。
不意に湧いた疑問、増戸は銃を持っているのだろうか。どうでもいい。死んでたら死んでるだけで、それは夏休みの終盤かもしれないし、もっと前の事かもしれないのだ。奪われたら奪われたままだ。その後で悲しむ事は出来ないのだから、自らを悲しむ事に意味なんて無い。
既に死んだずなちゃんは怒れない。
怒れるずなちゃんに代わる物が要る。
居ても居なくてもいい私が死ねばいい。
背中が遠い、遠くに落ちていくし、追ってはいけない気がする。しかし迫っても来る。
右手首以外、何も触れていないし、伝わって来る事はない。決して手を離してはいけない。分かっているのに、倒れる、と同時に思った私は、手を離すしかなかった。ざらついた、何かが滑る音。後退、そして左手で後頭部に触れ、目隠しのタオルを解こうとした。強い光に警戒し、瞼を固く閉じる。時間は昼前、気を失って運ばれ、まだ長くは経っていないはずだ。
こんなに眩い世界で彼らは会話していたのかと考えるだけで畏怖に襲われる。
瞬間、閃く閃光は、安っぽいステンレスの、鈍角な先端を映していた。
首に滑り込む寸前で、そこに丸い穴が穿たれ、刃先はどこかに飛んでいった。
届かなかった包丁が僅かに喉の遥か手前を通り過ぎ、私の背後に薄い金属片が落ちた。
光の中、今にも蒸発しそうなスーツ姿、細身で紺色。目の前にジャンパーとジーパン、ヒガシが身を屈めている。私の、右手に小さなナイフ、左手に薄汚れたタオル、そしてパイプ椅子が、気が遠くなるほど遠い所にあった。星縞聖名は椅子の上で大きく足を組み、斜めに座っている。右手にフォーティファイブ。左手も銃を真似て人差し指、親指を立てて構えている。
包丁が落ちた辺りから、指先はヒガシの方へ照準を移し、引き金は、付いていない。
「負けたな」と星縞聖名が言った。「見ようとした時点で終わりだった」
「は、なんで……」喉が急に渇き、息が急に詰まる。
ヒガシがゆっくりと倒れ、胴体に空いた穴から鮮血が流れ出した。
「それまで奴らはお前の目を狙おうとしなかったからだよ。そして我々もだ、母を呼べ」
ヒガシの頭が半分になる。「母を敬え」手足が途切れ途切れになり、血溜まりになる。
「母の名を呼べ。我が帝国の偉大なる母、ディープ・スロゥン。子殺しの罪を逃れるな」
よく見れば、星縞聖名の背後にある木の、幹にも丸い穴が開いていた。高い位置から枝が次々に落下し、真下にある細い枝を巻き込み、堆積し、地面を揺さぶるほどの衝撃を伴って斜面に落下し、滑り落ちていった。「それに、お前はその男のボスを取り逃してしまったな」
ヒガシが居た真っ赤な印の近くに、どこにも紺色のスーツ姿は見当たらなかった。
「え、逃げた。っていうか。なんで今、一緒に撃てばよかったんじゃ」
「どれだけ距離があると思ってるんだ」そう言って、星縞聖名は祖国の空の方へ指差し、仰け反って顔を向けた。もちろん何も見えなかった。「お前に当たらなかっただけでも奇跡に近いと思えよ。後を追うんだったら、早く追え。どうせここで話す事なんて何も無いんだから」
こんな事をしておいて、連発は出来ないとか、信憑性の欠片も無い話だ。
追う、というか。「捕まっ、襲われた子が、居て。さっき自転車を見かけて」
「そのうちベトナム出身の学生にでもなって見つかるんじゃないか、焼け死んでたらな」
「どっちでもいいですけど、捜さないとそっちも。あの、手分けして」
「しないよ。放っておけ、別にお前、そいつに純潔を捧げたってわけでもないんだろう」
思わず彼女の顔を見返し、その服の下を見透かし、下半身に注意が向いていた。
小柄な体、起伏の無い体にオーバーサイズの服、それが彼女をより子供っぽく見せる。
そう見せているだけだ。顔を背けると彼女は「マジなのか」と言って気まずい沈黙をあえて流し、親指でデコッキング、フォーティファイブをベルトに挟み込むと、やけに居住まいを正して、椅子の上に背筋を伸ばした。「それでも、放っておけ。それにあと一人居るからな」
慌てて周囲を警戒する。動く物、自分の落ち着かない手元ばかりが見える。
「東西南北で言ったら分からないが、虎か亀か、広目天か多聞天かだな」
「キタは、死んだみたいです。たぶん。車に轢かれたのさっき見ました」
葉が揺れ、やけに大きな音が鳴った。私達の頭上、梢が柔らかい風を受けていた。
ほんの最近、三月の中旬くらいの事だった。
卒業式前、最後の土日か、もう春休みで、平日の午後だったかもしれない。
克聖は家に一人、留守番をしていて、駐車スペースの車は一台が出払い、一台が停められていた。表札はアルファベットで『SATOH』と書かれ、家族構成は書かれていない。門の脇に洋風のメールボックス、インターホンはカメラ付きで、赤いランプが警戒を促すように点灯し続けていた。抱えていた紙袋を片手に持ち替え、インターホンを二度、鳴らして待った。
反応は無く、すぐに玄関が薄く開き、飛び石を渡って行く間に閉じられてしまった。
家の中に入ると、他人の家の匂いがした。
「おじゃまします」と言うと、克聖が声に出さず、曖昧に頷いた。
克聖は中学のジャージ、ハーパンという恰好で、玄関に出る時も裸足だった。
スリッパを借りて、上がる。「何で制服着てんだよ」と言われ、全身を睨め付けられる。
大きな襟にスカーフを巻いた紺の上衣、プリーツの入った同色のスカートは膝下まで。
ソックスも紺色、ワンポイントは狼のロゴマークで、親指の所だけ少し薄くなっている。
「平日の昼間ってさ」考えながら、言い訳が苦しくなる。「出歩くの後ろめたいから」
克聖は足先から襟元、また襟元から足先まで視線を動かし、何も言わなかった。「部屋行ってていいの?」と聞くと、返事が無いので、私は階段を上った。ドアの隙間から、投げ出された衣類と、ベッド、学習机、テレビゲームが見えた方の部屋に入った。ベッド脇の床に腰を下ろすと、すぐに克聖が上がって来た。青いラベルのスポーツドリンク、それとコップを二つ持って来て、それを近くの床に置くと、買い替えたらしいキャスター付きの椅子に座った。
「それ飲んでいい」と克聖が言った。「その紙袋なに?」
「今日は、夜までかつ一人?」
「夕方くらいに帰って来るって、言ってたけど。なんで?」
「なんでもない。制服、意外とまだ着れた。ウェストとか全然きつくないの、凄くない?」
「別に前からそのくらいじゃん」克聖が下腹部を見ながら言った。上衣を捲ると、インナーの黒いキャミソールに包まれた薄いお腹が露わになり、克聖が目を逸らした。昔だったら、体操着を下に着てたんだっけ。スカートの下の黒スパッツ、昔はハーパンを穿いてたんだっけ。
コップにスポーツドリンクを満たし、一気に飲み干すと、克聖が生唾を飲み込んだ。
「嬉しくない言い方。痩せたとか綺麗になったとか言えばいいのに」
「痩せたの?」
「少し、最近体重減ったかも」
食欲はある。睡眠も足りてる。元気が無いわけじゃないけど、まさに少しという感じに日常が支配されている。少し食べれて、眠れていて、少し元気がある。お腹を撫でると、どちらかと言うと内側にへこんでいる感触がして、怖くなって息を吸い、あえて膨らせた。克聖が椅子から下りて来て、青いラベルのペットボトル、直飲みしようとするのを手で掴んで止めた。
「コップほら」と差し出し、注ぎ終わった所に声を掛ける。「お腹触ってみる?」
「なんで」と怒ったような強い語気に、私の方が気圧される。
「少し痩せたの、触ったら分かるから」
「前までの体重知らないから、触っても分からないと思うけど」
「ああそう、知らないか」膝で隣に這って行って、克聖の右手首を取った。上衣の中に入れ、スカートのベルトの、もう少し上辺りに置くと、鳩尾が熱くなる。反射的に指が動き、揉むような、掴むような、縋るようなでも何でも同じような、微かな力が加わるのを肌に感じた。
「なんか、や、弱いっていうか」言い方を考えに考え、克聖が手を止めた。「薄い?」
柔らかいって言うのは、やらしく受け止めたみたいに思っちゃってるらしい。
皮下脂肪もあって、それで薄かったら、本当に柔らかい部分しか無いみたいじゃないか。
ただ弱いだけの存在の、塊みたいな物が皮膚を巻き付けて生きているみたいじゃないか。
そんな風に頼りなく自覚させるのは、その意識の向け方自体が、もはや暴力的だった。
手を放り出すと、克聖は慌てた様子で喉を潤し、その勢いで気管支に飲み物を招き入れ、内に抑え込むように咳き込んだ。「大丈夫?」コップを床に置いてやり、背中を叩いてやる。咳は底意地悪く続き、少し涙目になった克聖がやがて、私の手を嫌がって身を捩ったので、叩くのをやめた。肩に置き、その手で髪を撫でて、引き寄せて克聖の顔を私の胸に押し当てた。
「制服、嫌いじゃなかったな。ずなちゃんと同じ格好できるから」
「じゃあもう……」その先には言葉はない。一人でも出来るかという問題しかない。
「かつもさ、ずなちゃんの制服着れると思うけど、着てみない?」
「なんで」
離れようとする克聖を、強く押さえ付けないと、その顔を見ないでは済まされなくなる。
「サイズ同じくらいだなって思って」
近くに置いていた紙袋からファッションウィッグを取り出した。ピンクアッシュのセミショートボブ、人工繊維だから少し光沢が強く、少し絡まりやすかった。それとセーラー服、冬服の上下と、下着は私の、スポブラとボクサーショーツ。入るとしたら一応、こっちだろう。
嫌がる克聖にウィッグを被せ、前髪を整えると、それらしいセミショートになる。
鏡は見せない。
「これ、みずが持ってたの?」克聖が頭を押さえながら聞いた。
耳のすぐ上、アジャスターの辺りを引っ張って、左右の傾きを直してやる。
「通販。もっと似てる色が来ると思ったんだけど。きつくない?」
「平気だけど」
「次、服」
「いいって。なんでそんなの着させたいんだよ」
下着だけはどうしても付けたくない、と半裸姿の克聖が言うので紙袋に戻した。
左開きタイプは襟のホック、胸当てのスナップを外し、頭から被らないといけない。
体にぴったりの服だから、着替えも窮屈で、毎回スナップを留め直さないといけない。
そして襟の下に水色のスカーフを通し、緩く結んでスカーフ留めに通した。
スカートは左前にアジャスター付きのホック、ファスナーに沿って内側にポケットが縫い付けてある。全開にしても、脚を通すには少し狭く、硬いヒダが纏わり付くようだ。裏返ったプリーツを直しながら、シルエットを見ると、ストンと落ちていて見栄えがあまり良くない。
ベルトをウェストの位置まで上げても変わらないのは、腰が細いんだ、女子よりも。
「ハーパン。穿いていいよ」と言ってやった。「中で裾捲って、上げてね」
克聖がスカートの下にハーパンを穿き、手を入れたその動きで見えるトランクス、濃紺色のつまらない格子柄、ずなちゃんはそんなの穿かないし、弛んだ皮膚の、薄茶色の、突っ張った袋状の、そんな物はぶら下がってないし、見えてもいない。でも、ずなちゃんのそこがどうなってるか、姉妹というだけの間柄で知ってるわけ、ない。なかったし、知りたくなかった。
映像に残ってさえいなければ、ずっとそうだったはずなのだ。
目を逸らしても、逸らしても、十インチもないタブレットの画面は全て目に入る。
音声は耳に残る。
意外と綺麗って。未使用って。既に濡れて、膜、指で広げて……何の役にも立たない。
イヤホンを外そうと耳に手を触れる癖、それから音が漏れていないか確かめる癖。
味や、匂いや、手触りは分からない。五感の、半分もない情報に触れる度に、目の前に死体が現れるような異様な生々しさに襲われ、触れたくなり、嗅ぎたくなり、舐めたくなり、まだ生きている部分を探したくなる。あるいはそうされる事で、生きてる物に触れられ、私の様々な部分が知覚されるのを実感したくなる。したくない。したら、正しいのかを考えるだけ。
目の前の克聖はずなちゃんじゃなくて、制服の中で居心地が悪そうに身を捩っている。
肩に触れると、パッドが入って角張った肩回りが更に窮屈そうだ。こんな小柄に見えた克聖もずなちゃんと比べれば骨格がしっかりして、男子というか男性、とさえ言える存在なのかもしれない。スカートは似合わないし、妹には見えないし、騙されて汚されて死にはしない。
「なに?」と克聖は言わず、見上げる目が弱々しく訴える。「何を見てるの?」と。
私は克聖の事を見ているし、その体に触れようと、手を伸ばしている所だ。
胸に滑り落ちた手の平、微かに厚みを感じる平らな胸を押し、そこに指は食い込まず、脆くもなく潰れもしない。先端に不快なむず痒さが残り、肉とか、神経とか言うよりも率直な弱点が剥き出しになっている感じはしない。脇の下から、脇腹に手を沿わせ、上衣の裾から中に手を入れた。空いている方の手が肩を引き寄せて、私と克聖の体が密着しそうになっている。
姉と妹、学生と学生、私と私自身が、という風に言い換える事も出来なくはない。
その途中で不意に下腹部に異物感を覚え、見るとスカートの一部が浮き上がっている。
ポケットよりも正面に近く、ずなちゃんの体なら、そこには何も無いような場所だった。
克聖が腰を引きながら「あ、いや」と慌てて離れようとするのを、その勢いで体ごとベッドの方へ押し込んで、マットレスの縁に座らせてやった。寝心地の悪そうな薄い、硬いマットレス、掛け布団の四隅に花でも何でもない模様があった。ウィッグの旋毛には、シリコンの薄片で作られた偽物の頭皮が透けて、定規で引いたようにわざとらしい分け目が走っている。手を置いて撫でてみても、硬い髪の下に、硬い何かの隔たりがあって、克聖は気づきもしない。
すぐ横に片膝を置いて、覆い被さるように克聖の体を押さえ、スカートに手を乗せた。
「何、してんだよ」弱々しい怒声と共に手を払い除けようとするが、私は引かない。
映像の中の毛深い手は、パンツを細く引っ張って、脚の間の間に食い込まされていた。
「これどうしたの?」耳元で囁き、スカートを押し上げる物に手を当てる。「ずなちゃんにはこんな物は無かったよ」左に傾いているのを見つけて、そちらに指を沿わせ、軽く、もしくは彼にとっては強くそれを握った。これ以上大きくならないように、間違いを犯してしまわないように、しかし引き千切ったりする事も出来なくて、克聖の吐息が湿っぽく、生臭くなる。
鯉口に手を添えた時の緊張感を思い出し、腹の奥底が鉛のように冷える感じがした。
映像では、それに手を。
口を。
唾液を。
違う、そういう事をするんじゃない。そういう事をさせたくはない。
仰向けに押し倒した克聖の胸に手を置き、半ポリ半ウールのサージを撫でる。指の背に当たるスカーフは、薄く剥いだ皮膚のように頼りなく、微かに湿り気を感じるような冷たさだ。生地は固く、襟元の形に沿って、形は変わろうとしない。左胸にポケット分の厚みがある。左脇にファスナーの硬さがある。箪笥の奥に仕舞われていたスカート、そのプリーツは緩くなって克聖の体の上で広がっていた。折り目の一つ一つが、頼りない両脚を守ろうとするようだ。
一気に捲り上げると、見慣れた濃紺のハーフパンツが露わになる。
学校で、教室で、体育の時にだって見た事ないくらい、固く突っ張っている。
両手を掛け、ハーフパンツを脱がそうとすると、克聖が両手で押さえて抵抗した。
「大丈夫だから」と焦って私は言った。
見ても、驚かないから。怖がらないから。気持ち悪がらないから、と。
結局、暴力に訴えるほどの抵抗を受けなかったから、強引に脱がす事は出来た。
トランクスに手を掛け、引っ張ると、怯えた克聖がウェストのゴムを押さえながら腰を浮かせていた。自らの傷ついた姿を見せて、相手を傷つけてやろうという、自暴自棄な加害衝動によって彼は支えられていた。私が、ただ興味本位で彼を傷つけようとしているだけだと、彼は思っているようだった。実物なんて見た事は無いのだと。それが何を汚し、何と交わり、何を傷つけるかを知らないのだと。そんな映像を検索し、購入し、あるいはサンプル動画を、違法アップロードを、どんな物であれ見ようとはしないのだと。だとしても、それが事実であっても、その生活に暴力的に介入して、実際に経験するより生々しく見せつける動画が、存在するなんて思っていないようだった。見せてやりたい。ずなちゃんがどのように汚されたかを。
ずなちゃんが、自分と全く異なる存在で、少しも似通ったところがないという事実を。
茂みのような体毛が現れ、色素が沈着した濃い皮膚が現れ、その下に一瞬、ほんの一瞬だけ陶器のように白く滑らかな肌が現れると共に、引っ張られた反動で、それが、激しく起き上がって腹に打ち付けられたほどだった。映像よりも、何かが違い、映像のように、概ねそれは憎む理由が醜く詰まって破裂しそうだった。泣きそうな顔をしながら、しかし期待もしている。
被虐的な笑みが吊り上がるのを抑えられず、歯を剥き出した隙間から荒く息をしている。
胴体に跨って、自分のスカートに手を入れる。
スパッツとショーツを一気に下げ、片方ずつ膝を抜いて、手に持ってみると生暖かくて、急に克聖の視線が気になってベッドの脇に落とした。スースーするとか、冷えるとか、そんな感覚もない。お尻に当たるプリーツが固くて、少し居心地が悪いくらいだ。スカートに覆われた克聖の腰の部分に手を入れて、根元、あんまり汚くなさそうな、直接、触れなくても済みそうな、やっぱり抵抗があって、なんとなくの角度だけを合わせて、先端を私の中心に向けた。
動画では緊張で頭が真っ白にとか言うけど、実際にはそんな風にはならなかった。
私は何か大きな脅威とも呼べる物が眼前に迫って来る鮮明な光景を見下ろしていた。
そのまま、下に。
映像と記憶の音声が混じり、同じ言葉を決して口にするまいと思わされる。
そのまま、自重に。
最も速く動けるのは落下の力、というのはレトリックであり、つまり嘘だった。
位置エネルギーと落下エネルギーの変換は一瞬では起こらない。
私達は宇宙に静止した物体ではなく、摩擦や遠心力の釣り合いで立っている動体だ。
溜め無くして動けるのなら、それは常に動きたい方向に動いているか、全ての座標に同時に存在しているか、でしかないのだ。抜く、とは。相手の意識を、という事。どれだけ緩慢にだって、たとえば迫り来る空気を捉えられず、吹き抜ける風を感じられるように、意識は抜かれてしまう。それを知覚したいのなら、始まりと終わりの静止を知っていなければならない。
でなければ、自分が何と戦っているのかを、一生掛けてさえ理解出来ないままだ。
克服しなければならないのは、重力などという些細な出来事ではない。
その始まりと終わりがどれだけ重く、存在しているかという事実だけだ。
私は確実に互いの余剰と欠落を捉え、それぞれが交換されるところまで達していた。
それなのに私の内にある激しい抵抗感が彼を拒絶し、押し潰そうとした。
なぜ、抵抗し得るのに、抵抗する事が出来なかったのか。
希望も絶望もない白けた目が私を見上げてこう訴えていた。「するのか、しないのか」
「したくないし、しないといけない」と、答えたかった。
もし避けられる方法があるのなら、それは過去にあってはいけないのだ。
「やめるの、やめないの」と言う克聖は、実際は顔を背け、私の腕を掴んで支えていた。
そして私は、その後に身投げする場所を考えて、克聖と自分、どちらが飛ぶのかを決めてない事に気づいた。そうだ。その時、私は二階の克聖の部屋に居て、窓から外を見ると、砂利を敷いただけの、周囲を低い塀に囲まれた小さな庭、白いワゴン車が停まっていた。全ての壁を伝って、鍵を捻って錠を上げる玄関の音が反響し、私の頭が固く閉じられるようだった。
何をどう片付けて、どう家に帰ったのかは忘れたけど、二着の制服は手元にあった。
体の中心には痛みも何も無く、喪失感は、頭から足の先までちょうど一人分だった。
今目の前にある民家は、佐藤家でも、四人組に貸した空き家でもなく、井戸のおばさんの親戚の、老夫婦が暮らしている家だったはずだ。だから、こんな静けさに包まれていても、畑に出ていたり、サークル活動をしていたり、家に籠って何もしていなかったりするだけで、生きていないとは限らない。二車線の、歩道も路側帯もない道路を挟んで、こちら側には銀色の自転車が倒れている。後輪のカバーに、赤い駐輪許可シール、保之函分校と、まさかの一桁、数字の6が印字されている。こんな物無くたって、学校の外だって村のどこだって、停めてあっても誰も注意はしない。端に寄せるか、庭に入れといて、取りにおいでと連絡するだけだ。
老夫婦でも、生け垣の隙間から向こうの脇道に放置された自転車には気づくはずだ。
そう思って、気づいていて欲しいだけだ。
持ち主にも、それがすぐ近くに倒れたり、縛られたりしてるなら、それも同じ事だ。
畳んだパイプ椅子を小脇に抱え、空いた手にフォーティファイブをぷらぷらと振りながら、星縞聖名が小走りで道を渡っていった。私は空を振り返り、誰かの偉大な母に怯えつつ、後に続いて刈り込まれた木々に挟まれた小道に入った。どこも砂利の小道、小さな庭、土臭い物置を並べた、同じような民家の一つでしかない。しかし足下に血が点々と落ち、それが黒く乾き始めている道では、落ち着いてはいられず、しかし急いで向かおうという気にもなれない。
「敵が獣なら、我々は誘い込まれているようなものだな」と星縞聖名が言った。
「この家に何があるんですか?」
振り返り、真下の地面を指差した。「ここに家がある」青々とした砂利が敷いてある。
木々に囲まれた民家は、山奥に建って孤立しているようで、何もかも遠ざかったようだ。
その時、水面が限界まで張り詰めたような音が打ち鳴らされ、光の破片がシャワーのように降り注いで、その一つ一つは暗い青空を移し込み、庭に落ち、地面に突き刺さった。割れたガラスの破片の中を勢いよく落下していった黒い塊は、地面に打ち付けられ、聞き漏らしてしまいそうな小さな悲鳴を漏らし、動かなくなった。もう一つ、影が窓枠から身を乗り出した。
井戸の、と言いかけた口が違和感に満ち、他人の唾液を含んだようで吐き捨てたい。
もっと痩せ細った壮年の男性が、庭を見下ろしていた。
着ているのは薄茶色の作業着、窓に掛けた足は編み上げの安全靴、手は刃の薄い文化包丁を持っていて、赤黒い物を擦ったような汚れが付いていた。白髪交じりの頭は後ろに撫で付けていて、眉が薄く、耳が鋭い、攻撃的な容姿をしていた。「おお、朱田の」と彼が言った。
「あの、井戸のおじいさんかおばあさんは」
「居ないな。おい、あんまり近づくな。待ってろ、今下りるから」
彼が窓に引っ込んでしまうと、出て来るまでの間に星縞聖名が椅子を開いて設置し、玄関の正面、少し後ろ向きに傾いた位置に腰掛けて、建物を睨みつけた。引き違いの硝子戸が開け放たれ、作業着の男は落ちた方の男を慎重に迂回しながら、私達の近くまで歩いて来る。その途中で彼は右手に持ったままの包丁に気づくと、それを腰の後ろに目立たないように回した。
星縞聖名に警戒するような目を向けるが、同じ誰何の視線が彼にも跳ね返っている。
「あ、この人は知り合いの、星縞聖名って人で、さっき助けて貰って」
「そうか。ああ、朝太郎は知ってるな。俺あ、その孫なんだが」
「祖父、にしては若いな」星縞聖名が明け透けに感想を述べ、呆れられる。
「そうだ、そう。朝太郎が孫だな。うん。外を出歩いて、どうしたんだ二人とも」
「あ、克聖が……、佐藤克聖。そこに自転車が倒れてたから、どこに居るか心配で」
「そりゃ、心配だな。見てないが、危ないから家に……待て」と左手を突き出される。
右手は、今度は私達に背を向けた彼の体の前面に隠れ、見えなくなってしまう。待って、三人の誰も動かない中、砂利の擦れる音を鳴らしてるのは、さっき落ちた方の男だろう。大柄な体、あんまり日に焼けていない、一見すると柔和な顔、しかし不気味さを感じさせる雰囲気はミナミだ。血で赤く染まったパーカーの袖を押さえながら、ゆっくりと彼は立ち上がった。
「ヨウジは済んだんで、ワタシはこのまま帰ってもいいでしょうか」と。
彼は松尾朝太郎の祖父に向かって、急用を思い立ってすら居ないように呑気に尋ねる。
「こっちは済んでねえな。小さな子供にまで手を出しただろう、自首しろよ」
「ジシュ?」と、幼さと老いが混じったような顔が傾けられる。「サレンダー?」
「じゃなきゃ、ここで終わりだ」
「ああ、待って待って」腰を僅かに落とし、踏み込んでいく松尾朝太郎の祖父の背中が、破裂音に包まれた。銃声……背中を丸め、小さくなって彼はその場に蹲り、右手を前方に伸ばそうとする。その向こうでミナミは右手に小さな黒い機械を持ち、その向ける先を松尾朝太郎の祖父から私達に移した。「おっと」二歩ほど後退して、彼は言った。「このまま帰りますが」
「待って」思わず駆け出そうとした私、銃口、お互い目が合い、深い闇の奥は見えない。
鉛に触れたみたいに心臓が冷え、鈍足の弾丸がじわじわと冷気を降下させる。
「弾切れだろう」と、背後から嘲るような声がした。パイプ椅子がガチャガチャ鳴って、人が立ち上がったみたいだった。「コッキングしなかったな。弾倉が丸見えだよ。警官から奪ったとしても、今時Jフレームを持たせる方も持たせる方だが、使うならもっと慣らしとけよ」
「本当に弾切れか、試しますか?」
頭がジリジリと痛み、息が上がる。ミナミが何を言ったか理解する時間が欲しくなる。
「構わない。だがこっちはまだ六発あるぞ」
「それは怖い」と銃口を下ろしたミナミは、松尾朝太郎の祖父に近づき、包丁を奪い取った。
弱々しい抵抗のままに、前方に伸ばされた手をミナミが踏み付け、その首に包丁を当てる。
「これも怖い」と彼は言った。「拳銃をワタシに投げて、そのまま地面に寝て欲しいです」
星縞聖名の沈黙は、松尾朝太郎の祖父をどのくらい見捨てるかの算段のようだった。
六発もあれば実際、見捨てられそうになった人質の口封じまでも出来てしまうだろう。
「中学生、黒い、制服の、見てないですか?」と私は溜まっていた疑問を吐き出した。
時間を稼ぎたかった。誰も彼も、撃ってしまうし、首を、切ってしまうと思ったから。
ミナミは首を振り、考えるフリを見せておきながら、ゆっくりと立ち上がり、踵を返して走り出した。逃げた、と思い咄嗟に、追わねば、とはなれない。星縞聖名は片手で銃を構えたまま、松尾朝太郎の祖父と見比べた結果、玄関に飛び込み、姿が見えなくなったミナミに向けて記念の号砲を一つ、響かせようとしたかもしれない。畳んだ椅子を引き摺って、倒れた松尾朝太郎の祖父に近づけると、その脇に腰を下ろし、仰向けになるように彼を引っ繰り返した。
作業着の左上腹部から下が真っ赤に染まり、湿って重くなっていた。
「胃か、脾臓の辺りか。そんなに致命傷ではないよ。止血帯を、ほら」
と言われ、差し出された手に対し、開き直って立ち竦む事しか出来ない。
「避妊具でも、ジュードーのブラックベルトでも、縛れる物なら何でもいいから」
「本当に何も無くて。あ、服? それはさすがに」
「いい、なんとかする」と濁りきった喘ぎ声で松尾朝太郎の祖父が言った。
「あの家の中に取りに行けばいいと思ってるんじゃないか。それは出来ないよ」
「ちがう、そっちの、物置だ」という言葉に従って星縞聖名が向けた視線の先、私は急いでトタン張りの小さな建物に飛び込み、埃と黴の臭いに息を浅くして、三方の壁に設えられた棚を漁った。草刈り鎌、枝切り狭、電動ノコギリは、電源が無ければ使えない。剣鉈の鞘をズボンに挟み、農具の柄を外して持ち、物置を出て直接、開け放たれたままの玄関の前に立った。
静かな家だ。誰も居ないか、生きてないかのような、乾いた空気に包まれた家。
磨りガラス越し、玄関に居ないのは分かってる。この家の廊下の形は覚えてる。真っ直ぐ奥と、手前に曲がって縁側、射線は通らないはずだ。靴を履いたままで三和土を越えて、手前の和室を覗いた。「おい、見つからなかったのか」と星縞聖名が急かして来る。まだ入ったばかりだけど。「家の中じゃ何も得られる物はないぞ」って、失うまであるような言い方を。
さて二階、台所、浴室のどれか、もしくは玄関のすぐ近くの物陰だろう。
目の前の壁、柄の先端で突き、貫きそうな衝撃で鈍い音を向こう側に響かせる。
居間、奥に台所、土間も付いてる。廊下の奥側はトイレ、浴室、物置に続いてる。
手前側は和室が並んで、ふと何か。
縁側の方に動く物が見えた気が、したかもしれない。襖の隙間は指二本程度、そして向こうの隙間も、だから重なる一瞬に見える物なんて、影か、光が差してるかくらいだ。台所に引き返し、影は、戸口いっぱいを覆うほど大きな、そこに人影が立っていた。「なぜここに?」
右足を前にして、左腕は肘を上げ、刃じゃないから右手は広く持って、頭をカバーする。
剣道に三所避けという防御法がある。いや、あってはいけない物がある。
左から柄を上げて剣先を前方やや下向きに構えると、面、胴、小手の有効打が隠される。
日和った門下生は例外なく、教えてもいないのにそこに行き着き、そこから動けなくなる。
当然だ。攻め手が用意されてるわけでもなく、攻めに行けるなら守りに閉じ籠る必要がない。
あくまで剣道の中では、の話ではあるけど。
「撃たれたの、治療しないと」口が渇き、心臓が焼ける。「包帯か何か、探そうと思って」
「それは素晴らしい」ミナミが温厚そうに笑い、しかし包丁を向けて来た。「その為にリスクを冒してデンジャーに当たる、仲間の事だから出来るんですね。素晴らしい。だけど村の人はどうして、そこまで勇敢なんですか。素晴らしい。素晴らしいです。だから殺さないと」
挑発か時間稼ぎか、心底からの感想を伝えているのか、何一つ分からない。
ただ、そこまで勇敢になれないから、私は彼の言葉を真剣に聞いて考えてしまう。
勇敢なら、私は。違う、ずなちゃんは、私を頼りになるくらい勇敢だとは思わなかった。
「キタとヒガシは死んだけど、あと残ってるのは、二人?」
「えー東西南北東西南北。南南東と、東南東と、北北西と、西北西と、いっぱい居る」
「そんなに」十六方位の四方は、それぞれのリーダー格か、それなら、チーム分けはどういう割り振りになるのか、考えながら横に歩き、布団を蹴り退け、壁までの距離を確かめる。刃物と刃物じゃない武器の関係は、平行線。一度は攻撃を受けて、技を繰り出さないと、相手には届かない。大きく息を吐き、ゆっくり静かに吸う。緩急は無くせ。力が入る瞬間を無くせ。
田中先生が最も多く教えた理念の一つが、陰と陽。静と動でも、何でもいい。
息を吐く時に力が入るのではなく、力が入る時に息が吸えない事を考える。
もしも水中で、あるいは宇宙で戦うとしたら、どこで力を抜くのかを考える。
天狗、羽団扇を持って風を起こし、風に乗って大空を自由に飛び回る天狗。
天狗の仕業。
「ここの人はもっと多い。消しても消しても、また出て来るんですよ」
ミナミが姿勢を低くして、包丁を逆手に持ち直すと、その手を前に突き出した。
あくまで剣道の中では、有効打は隠される、しかし。全てが隠されるわけじゃない。
喉への、突き。逆胴。左小手。脛斬りだってそうだ。
守りに徹するのではなく、隠して終わりというだけの、それが弱みだから。本来なら、そこで詰まってしまう。腰を落として、ほとんど畳に膝を付く、その恰好で相手を見上げる。これは刀の下に身を丸めて、許しを請うような姿に見えるだろう。ミナミも、半歩下がって、盛んに動く目で様子を探っていた。分かるだろうか、彼には。たとえばここが壁面で、私が彼を見上げ、彼が私を見下ろしているとしたら、その位置関係の優勢、劣勢を覆せるだろうか。
しかし彼は降っては来ないし、真下に向かって、動き出しはあまりにも緩慢だ。
こちらからは落ちるよりも速かった。
懐に入る寸前、梃子でも入れるように、下から突き上げる。
ミナミが体を引いて避ける、と同時に左手で柄の中ほどを掴もうとした。
触れた位置は、新たな起点、農具の柄はその導線に過ぎなくなり、次の瞬間には消える。
刃じゃないから。
死んだ攻撃と向き合って、そのどちらに入ろうとか考えてしまう。
斬られなかったから。
こちらから柄を引けば、彼の手は抵抗せざるを得ず、しかし私は引いたのではなく、むしろ前に踏み込んでいる。その左手側、コールドゾーンから、私は全てを見ていた。逆手で振り抜かれた柄を屈んで避け、その陰から突き出される包丁を、先に上から押さえて、首に手刀を打ち込んだ。浅い、けどそのまま右腕を取ってしまえば、そこを軸に新たな起点が生まれる。
投げ、いや体重差が大きすぎ、じゃあ。右手を外し、鉈に手を伸ばした。
狙いは首、トップの重さに従って真っ直ぐに刃が、入ると思い、しかし遠かった。
天井が迫る。髪、引っ張られてる。
後ろ、誰か、違う。ミナミの左手だ。
足が浮き、天狗じゃない私の体は床に引き倒されて、布団の上に叩き付けられた。
肺が揺れて一瞬で空になる。空咳、そして窒息が襲う、喉に何かが引っ掛かっている。
靴の裏、影になっていて、そうか土足で上がったのかと思ったけど、それは私もだった。
踏み付け。
私には全てが見えてるはずだ。
軸足が、顔のすぐ横、向こうから自分の足を引き寄せ、腕を相手の膝裏に絡ませる。
目を塞がれていても同じように動ける。やっぱりグラウンドは基礎が重要だ。八本足や無限軌道と組み合う機会なんて無いんだ。このまま引き倒してやろうとした、その瞬間、軸足は消える。抜いた、どこに。片足のままでは無理。いや、目の前に持ち上がった靴の裏、一つ……二つ。空中にミナミが浮いていた。あっ……、足を伸ばし、咄嗟に真下を転がって潜った。
畳を押し退けるように、素早く立ち上がりながら、鉈を、逆手に引っ掴んだ。
着地前から振り返っている、その右肘を後ろから手で押さえる。
真っ直ぐな人、最速で刃物が飛んで来るから、一手目だけ止めれば危機は離れる。
そのまま奥の左手。逆回転、例えば後ろ回し蹴り。体当たりなら甲武では開山という。
どれでも来いって、手の中で鉈の柄を反転、その重みを感じながら思った。
体当たりの、上半身が開山、下半身は閉山。
下半身は、当てるのではなく、地面に据え付けて、向かって来る相手を受け流すのが閉山。
呼吸投げの怪しいパフォーマンスのようだけど、必ずすり抜けるように動くわけじゃない。
どちらかと言えば、吸い付けて……ミナミが逃げようとしている。
咄嗟に肘を掴み、引き寄せるか、追い掛けるか、ミナミが前につんのめる。
衝撃、が。腹部を貫く。腹部、腹部を。違うもっと。
例えば、だ。それを理解するには一瞬以上も遅かった。
「うぅっ、ぐ……いだ。いぃっ」
だから鈍痛と悪寒と激痛と嘔気と熱痛と麻痺と疼痛と虚脱と幻痛と羞恥と、が。
蹴り上げられた踵が離れるにつれ、順番に股の間から漏れ出し、一つ一つが私に、私の痛みの如何に大きいかを訴えかける。貫通は為されなかったかのように。たった今、無垢を汚されたばかりかのように。一瞬浮いたかと思った体は、膝を失い、地面にへたり込みそうだ。堪えたのは私の、怒りだけだった。この一撃がどれほどの効果を与えたか、ミナミは知らない。
ただの中三の少年が隠そうとして隠しきれない情欲のように、それが矮小だった事を。
何も知らない。
あの上気した顔、切なげな吐息、粘液が擦れ合う生々しい音を、妹に見せられた事を。
自由になった右肘を庇いながら、目の前でミナミが振り返ろうとする。
まだ。首、首を。切る。
最短で鉈は顎の下に入った、ように見えたが、指が二本、そこで潰れていた。
もう一撃、無理……包丁の切っ先、後ろに飛び退って、間一髪で避ける事が出来た。
下腹部の鈍痛は止まらない。出血、あるいは不正出血とか、してないといいけど。蹴られた事なんて、本気で蹴られた事なんてない。蹴った事も。金的は古武術の基本、回避術もあるって聞いても、生殖を担う器官、その剥き出しの生物の部分と向き合い、奪い合う覚悟なんて、出来るわけがなかった。私達のそれは体内にある。毎月、血を流し、痛みに耐えている私達には、その苦痛を分け合う権利があるなんて思わないけど、その奪い合いは、蹴ったり、掴んだり、握ったりは出来ない、私達の体内にまで及ぶのではないかって、不安に襲われたのだ。
「はは、すばしつっこい、ですか?」
「それっ、だと。貶してるんだか貶してるんだか、まあその。もう負け。です」
「どうかな」ミナミは自分の血を垂らす左手に目をやり、順番に動かした指が、三本目、四本目で何の反応も示さなくなる。示すべき物が無くなっていて、それは床に転がっている。急に彼は激しく咳き込みだした。喉からも血、結構深いみたいだ。「足にパワーが無い……」
言われるまでもなく、私は今にも膝を付きそうで、障子じゃない壁に手を置きたかった。
息が苦しい。浅くしても止めても、痛みだけが呼吸をなぞって波打っている。
「対空中の技なんて、普通の武術にもある。飛ぼうが跳ねようが、今度は逃げられない」
「さっきのキック。あれは子供が作れなくなったらゴメンナサイ、でも」
「子供!」言いたい事、まとまらない。「中学生、制服の、黒い、見てないんですか?」
「見てたら、言わない」咳をして、ミナミが笑う。「見てなかったら、言わない」
息が浅く、早い。だめだ、落ち着けないと。「言わない、なら」
「奥の部屋は、ベッドルーム?」
奥の廊下、物置から上に向かって、ミナミの視線が天井をゆっくり這い進んだ。
追うな、追うなと思っても、湧き上がる期待、それを追う事がやめられない。
倒してから階段を上るしかないのに、後でするって事を、自分に課したくなる。
二階に居るとして、会いに行けるだろうか。物音一つしない天井、その上には、外観を思い出す限りベランダに出る部屋があった。手前側、子供部屋、だとしたら一体どういう状態なんだろう。階下で人と人が戦ってて、それに気づいても下りて来たり出来ないほどの窮地、だとしたら。早く助けないと。早く、だから一秒も見上げてなかった。そんな隙、晒してない。
どさっと倒れた重い物、ミナミの顔、目の下に二つの穴が開いてるのを見つけた。
すぐに体を伏せる。窓の方に目を向けると、白い障子紙、丸い穴が開いてるだけだ。
玄関が開かれた。
靴を脱ぎ捨て、和室に入って来たオーバーサイズのジャケット、スラックス、それと長い髪を星縞聖名は鬱陶しそうに掻き上げ、振ってみせた拳銃、銃口がこちらを向く事はなくて、ハンマーは下ろされている。「救急車は呼んだからな。もう、お前は何も探さなくていい」
「え、いや。今襲われてて、そいつ。ミナミに」
「だがもう動かないな。さっさと出ろ、どうした、青白い顔して」
「アソコ蹴られた。お腹痛い」
「男じゃないんだから、そんな嘆くな。腰をさするか? 叩いたらいいのか?」
近づいてきた星縞聖名が腰を叩いてくれて、持ったままの拳銃、マガジンの角が当たって少し痛かった。それこそ飼い猫みたいに。強打した男子みたいに。それは体内に入り込んだ、急所を落とす為の行為らしい。骨掛けという、急所を隠す、あるいは異性に扮装する技術であるらしいけど、そんなのは嘘だ。それ自体には触れなくても、衝撃は体内に伝わるのだから。
潰れないだけでしかなく、揺さぶられ、捻じられ、押されただけで苦痛は果てしない。
らしいけど、ぶつけたりしても実際、彼らは静かに怒るだけで、どう辛いか分からない。
楽になっては来ないけど、横になって丸まってると、どうしても天井が気になる。
二階が。「あ、二階に。早く行かないといけなくて」
「何しに?」と星縞聖名が問う。「何も無いよ、誰も居ないし、今はただの空き家だ」
天井なんて見向きもしないのは、遠くの空から狙い撃つべき物を、知ってるから。
「でも……、そうですか。またあれ、ディープ・スロゥン使ったんですか?」
「使われているのはどっちだろうな。こんな寄り道にまで付き合うのも母の役目か?」
「少しくらい、いいじゃないですか」
「少し救ったところで誰も褒めはしないよ。さあ立て、歩け。捕虜も罪人もそうするように」
私は拳銃で守られ、腰を掴まれながら、覚束ない足取りで土足のまま玄関から外に出た。
そこでようやく鉈を持っている事に気づき、その赤い汚れが無性に誇らしくなった。
まだ同じ場所に倒れてる松尾朝太郎の祖父、着てた服を、千切って傷を押さえたようだ。
「ああ、よかった」と彼は言う。「生きてたな」
土気色を乗り越えた顔色、まるで古い写真でも見ているように距離感が失われる。
彼が微笑み、言う。「ここでは何も変えちゃなんねえ。ずっと続いてく事だけを考えろ」
「そんな事、無理です」
「やるんだ、何を犠牲にしても」
「犠牲が要るのか。弱い事はとても哀れだな」星縞聖名が心底から憐れんでそう言った。
救急車が来るまで、私達は無言で待っていた。今思えば村の誰かに連絡をすれば良かったのだけど、連絡手段、この家の電話は、線が切られてるかもしれない。それに私がミナミを倒すより、星縞聖名の連絡の方が早かった。二分後、サイレンが近づいてくる。ドップラー効果が起こる前に、砂利道に入って来た白い車体、赤い回転灯、アンビュランスの文字は青い。
黒い、か。
降りて来た救急隊員は二人、運転と処置の二人だけ、どこも人手が一杯一杯らしい。
ストレッチャーに松尾朝太郎の祖父は自ら横たわり、私と、星縞聖名も一緒に、後部から押し込まれた。「あ、私は乗らなくても」って声は誰にも聞こえず、ハッチが閉められる。すぐに服が切り裂かれ、止血処置、ステープラーで傷が塞がれる。「松尾夕一、AB型、七十二歳になる。腹部に盲端銃創、内臓に損傷は、無し。骨にヒビが入っている、付き添いは……」
「もういい喋らないで。銃創?」
「警察のサンパチだ。貫通してないんだな。先端を削ったか、薬量が少ないか」
「そう。喋れてるなら平気だと思うけど、他に怪我は」
「かすり傷だ」
「そっちの二人は」と、ヘルメット、ゴーグルの奥の目に探られる。
「朱田の娘と、その知り合いの」
「星縞聖名、観光客だ」星縞聖名が答えながらベルトに拳銃を差し込んだ。
「何で持ってるのか聞かないけど、朱田さん。その鉈も、しまってもらえる?」
「あ、ええと。これはもう」車内にはAEDとか、心電図などの測定器、酸素マスク、ガーゼや消毒液が入った棚にはプラ製フォークみたいな物があって、それはビニール包装されたメスだった。武器、として見てしまう。それはそれとして「あれ、仕舞う所が」無いようだった。
「腰に吊ってるシースじゃダメなのか、ナイロン製の」
「でもこれ、もうたたか、使わないのに。置いてくれば良かった」
「ちなみに輸血は無理だ。RH型が合わないからな」
「あ、私もBなんですけど、ABとBって大丈夫なんでしたっけ」
「血圧は大丈夫そうだから、今のところは」それで言いたい事も聞きたい事も無くなり、壁沿いのベンチに座ったまま、山道に揺られようと思った瞬間、慣性で前方に体が押し出され、遅れて急ブレーキが掛かったのだと気づいた。ちょうど星縞聖名が、軍の輸送トラックみたいな座席だって、どっちが先か分からない事を、つまらなそうに言い出した時だったので、相槌するかが有耶無耶になって良かった。隊員が運転席を覗き込み、運転手が隊員を振り返る。
「道の真ん中に、人が」
「避けて通れないの?」
人が……咄嗟に口が動く。「あの、降ります。降ろしてください」
隊員は二秒も躊躇していなかった。ハッチを開け、私と、星縞聖名が降りるのを見守られ、救急車の前に向かうと、道の真ん中、黒い塊が落ちていた。小熊の死骸、それか人間の死骸にも見える大きさで、黒いのは化繊の衣服で、学生服だ。黒い頭、手、白い靴が見分けられ、すぐに中学生だと気づいた。鋭く交わった青いライン、指定のスニーカーは履いた事がある。
「かつ?」と呼ぶと、微かに頭が持ち上がり、傾いた。「大丈夫? 救急車来たけど」
「誰か倒れてるのか」運転手が駆け寄って来て、克聖の肩に触れた。「息はあるな」
星縞聖名が懐を指した。「何か持ってるな。剣か? この村じゃよくある事か?」
彼女はパイプ椅子を置いて来てしまったので、立ったままなのが珍しい事だと思った。
というよりそれは、薙刀だ。
櫃が。柄の後ろ側、鍔のすぐ下の上端、それと下端に輪状の金具が付いている。
だから長い柄を差し込めば、それは薙刀として使える武器だ。
「バヨネットか、こんなサイズの……、いや、これは仕込み拳銃か?」
「薙刀です。かつ、これどこで拾ったの?」
仰向けに寝かされた克聖の目が動き、黒い鞘がこちらに、少し動く、それを掴んだ。
薄く開いた口を湿った息が往復し、その背後に遠く遠く震動を引き連れて重くなる。
いつ掠れた声に変わったのか、それが「あいつらが」って言ったのか、分からない。
「もういい、運ぶぞ。二人とも手伝え」
星縞聖名が足側に回り、隊員の人は脇の下に手を入れた。
私は薙刀を持ち、胸に抱え直し、ずっと立っていた。「手伝わないのか」え、どこを。腰の下、かな。星縞聖名はどことも言わずに、鼻で笑うだけだ。「見事に余ったな。そういう役回りばっかりで虚しくならないのか?」というか、聖名さんが手伝うなんて、思わなかったんだけど。隊員の人の訝るような目、それを持って行くのかという、痛い所を突かれないように身を躱し、克聖の横に付いた。私を見上げて来る、濡れた地面のような瞳、映り込んだ空は灰色で、無機質で固く、しかし揺れているように見えた。そのまま二人の手で車内に押し込まれ、怪我の具合から言っても松尾朝太郎の祖父よりは軽そうで、とりあえず椅子に座らされる。
「付き添う余裕も無さそうだな」と星縞聖名が言い、隊員の人も頷いた。「二人残るよ」
克聖の隣に行って、薙刀を反対側に立て掛けた。隊員の人が嫌そうな顔をした。
「かつ、大丈、夫、っと……え、なに?」
彼の手は肩に置かれ、冷たい石を当てられるような感触が、二の腕、胸に触れて来る。
こちら側の手を伸ばすから、バランスを崩した彼の体を支えた。断じて、隊員の人から見えないように、肩で庇う結果になってしまったのは、良かったと思っただけ。「無理に動かないでいいから。どうしたの?」揉んでる、か。押し付けてる、どっちかの動きを直に感じる。
耳元で空気が擦れる。「湯ぁ寺、に。あいつら……、みずが」
「分かったから。すぐ行くから」
胸が、私の何かが酷く空虚に解放され、何も触れていないとむしろ不安に襲われる。
手は再び肩、指を、爪を食い込ませて、彼が私に縋り付いて来るようだった。
「しろ。もう一回、ちゃんと。おれ、今度はみず、じゃなくて」
「分かったから。松尾のじいちゃん撃たれてやばいから、もう行きな」
私は薙刀を持ってハッチから飛び降り、お願いしますと言った。よく考えたら一人は乗れる余裕があって、付き添っても良かったのだけど、隊員の人は内側からハッチを閉め、救急車はゆっくりと発進した。「なんで二人残るんですか」遂に納得が行かず、私は呟いていた。
星縞聖名は救急車を見送りながらフォーティファイブを抜いた。
「あれが襲撃される可能性がある内はな。横転したり、崖から滑落でもしたら、どうだ」
「困る! んですけど、あの。かつも松尾のじいちゃんも乗ってて、怪我、してて」
「負傷者だろうが、救急車だろうが知ったこっちゃないな。さあ、寺に行くか」
分かりきった事をあえて聞くのは、それをしたくないからだ。
万に一つ否定が返って来れば主張を取り下げる事が出来るからだ。「何をしに」
「東西南北の、次は地水火風、木火土金水、風林火山。花鳥風月……ああ被ったか」
「まだ敵が居るって思ってるんですか? あの、全部火入ってるけど」
「敵が居るって事を、知ってるんだ」星縞聖名は救急車と同じ方向に歩き出し、動けない私を振り返ると銃身を振って指図した。「最後のは花の音読みだ。まずは先行して村に潜入したのが方角。それと、最低でも高所に潜んで村を偵察してたのが四人居た。村人じゃないだろ」
「まあ、確かに。でもお年寄りも平気で山に入るんで、見つからないなんて事」
「もちろん身を隠すくらいの事はする、プロかアマかは分からないが」
「じゃあ何で聖名さん……いいです、何でもないです」
「分かって来たじゃないか。偵察してるだけの人間を排除する義理も無いって事もな」
あ、そうか。ディープ・スロゥンで把握したとかなら、倒して貰っても良かった、って思うべきだったんだ。結果ダメだったけど。本当に、この人なら知る方法がある、としか思い付かなかった。オーバーサイズのジャケット、袖口から覗く小さな指を見ながら、それに対して大きすぎる拳銃を見ながら、一時間は掛かる距離をどうしようか、私は焦りに駆られていた。
自転車、車も探せば勝手に使えるのがあるかもしれない、特に今は緊急事態だ。
それで言えばディープ・スロゥンに、乗る、みたいな事だって出来ていいはずだ。
聞くのはさすがに躊躇われる。
「桜はもう散ったか」県道のど真ん中を歩きながら、星縞聖名が山を見上げて言った。
「散ってますけど、村の中には桜自体ほとんど無いです。お寺か、あと学校の校庭とか」
校庭の桜の木は、中部地方の高地だからか、早ければ二月から三月に掛けて満開を迎える。
卒業式までに桜の花はほとんど散ってしまって、枝が寂しげに揺れているだけだった。
冬枯れの頃と違うのは、枝の先の方から緑色が滲み、葉桜に移り変わろうとしている事だ。
どちらが寂しいかと言えば、卒業する事自体が何より寂しいに決まっている。
各学年に〇人から三人くらいずつ、そのうちの中学生は大体、三分の一ってところだ。
指定の制服自体、昔から学ランとセーラー服はあるけど、ほとんど毎日ジャージか体操着で過ごしていた。転校生なんて滅多に居なくて、少なくとも十年以内で一人、元の学校の制服のまま卒業した子が居たらしい。それくらいだ。その年の村内の卒業生は私一人だけだった。
冴香とは高校から。
同じ年、ずなちゃんは中一で、ちなみに烏川昂大とも高校から。
克聖もまだ小学生、瑠々璃香は、歩けるようになったばかりだったはずだ。
何しろ家族以外、村の誰でも式典を覗きに来るので、いつもみんな居る記憶しかない。
式が始まる前、私は急いで朝食を済ませ、家族より先に、一人で学校に向かった。
何ヵ月、下手したら一年ぶりの制服、スカーフは母にきつく言われて、前の日にアイロンを掛けておいた。パリッと伸びているとまるで、刃を帯びている、とまでは思わないけど。明け方の夜気の名残りは頭の芯まで冴え返る。十数分の間に手が悴んで、カーディガンでも羽織って来れば良かった、と思った。裏門から滑り込み、駐輪場なんて無いから、校舎裏に寄せて自転車を停めた。そこから体育館には向かわず、校庭の方に下り、そこで桜の木を見たんだ。
花びらは全て散り、校庭の周りに沿って地面を薄ピンク色に染めていた。
それが強風に煽られ、電光掲示板の文字が変わるように右に左に動いている。
風に舞って煙る細かな砂、そのカフェオレ色は、中年男性の焼けた顔色に似ている。
そうなると、冷たい風に晒された乙女の顔色が、桜の花びらの薄ピンク色だとして、それが少しずつ砂塵に汚されていくのは、冬が終わり、夏が近づく、その最後の抵抗に訪れる春のような、自然で無自覚で怠惰で能天気で、未来の事なんて何も考えてない時間の象徴だろう。
自分はもう学校をサボって子供達と一緒にサッカーをするような年齢でもない。
ここに戻って来る為には、もっと大人らしい真面目な理由を持たないといけない。
引き返そうと踵を返した視界にジャージ姿の人影が居て、近づいて来た。
学校指定のじゃない、濃い青色、白のツートンカラーに、赤いラインも入っている。
がっしりした細身、身長は百七十に届かず、だからその人は、私をいつも少し離れた場所から見て来た。「高羽先生」と呼び掛けると、先生は気さくに手を上げて、足運びを徐々に早めた。「もうすぐ始まりますか」と聞く。先生が首を振る。何だか、いつもより近かった。
「朱田、スカーフが」と背中を私の背中を覗く。「襟から出てるぞ」
「あれ、式の時は出すんじゃ」
「出さないんだ。ほら」って、だから抓んだらしいけど、後ろがどうなってるか見えない。
襟が持ち上がった感じはするけど、ほどきながら「離してください」って、背中を捩って避けようとすると、あっさり離してもらえる。そういえば、何回折って、ヘアピンか何かで留めるって話、してたっけ。そのままソファに転がって、背中に何かが刺さった事もあった。
「あれだろ、スカーフが出てたら彼氏募集中って意味があるんだろ」
端っこを三角に、って。「そんなトイレの清掃みたいな事しないです」
「そうか。朱田は、そういう感じの相手はまだ見つけてないのか?」
背中に手を回して、三角の端っこが出てないか確かめながら、セクハラ発言を聞き流し、先生の顔を横目で窺ってみた。「居たら、こんな時間から学校になんか来ないか」って、一人で納得した風な事を言い出し、先生が桜の木を見上げた。花だったら、埃っぽい地面の方が、まだ見られるけど。いつもより近くて、先生の体が、思ったより大きく逞しく見えてきた。
数学がちょっと好きだったってだけで教師になった三十過ぎのこの男性は、独り身だった。
「それだと、なんか」こっちを見られたくない、と思う。「私が先生の事を」
「なんだ、先生に何か言いたい事でもあるのか」
「ないです、あの。教室で待っててもいいですか」
「あっ、朱田」不意に掴まれた肩に、男の手が乗っているって、思った。
道場、道場でなら、掴まれる。引き倒される事もある。竹刀が当たった事だってある。
「いや! なに!」振り払った自分の手が、同じくらい信じられなかった。痛いとか、もっと酷いのだと、気持ち悪いとか言いそうになって、それは嘘だって思った。じゃあ、嫌なのは本当……分からない。何で急に触られたのかって、それは引き止める為で、じゃあ何で引き止めようとするんだろう。「すいません、なんですか」いつもの距離、真正面から先生を見る。
父親とも違う。ずなちゃんが母親派で、自分は、なんか嫌であんまり話さなくなった人。
だからいつも疲れて帰って来て、疲れたまま寝て起きて仕事に行くだけの人、とは違う。
でも教室、体育館、学校の色んな所、で時には二人きりになった時も、全部が冗談だった。
わいせつ教師が捕まったニュースをやっていた日に。
大学から続いていた彼女に振られて落ち込んでた日に。
急に血が垂れて来て内腿を伝ったところを見られた日に。心底から何も感じなかった。
それがもし自分がその人の生徒じゃなくなったら、その人は先生じゃなくなるのか。
「ちょっとだけ、いいか」と近づいてくる。同じだけ後退っても、歩幅は二歩で三歩、余計に詰められる。また肩。気持ち悪い、想像が頭を巡る。同じ手が、母や妹や門下生の子供達とは違って、そのまま服の下に、胸元に、あるいは唇や瞼や、耳朶や首筋に、とにかく有り得る事を想像してしまう。決して望んでなんかいない。ただ、憧れた物の裏面が、ちょうどこんな風に汚れていた事にショックを受けたのかもしれない。左肩と、右肩に手、引き寄せられる。
大きな壁に叩き付けられるように、私は腕の中に囚われ、全身に他人が触れていた。
「よく、ないかも、なんです、けど」声がジャージの柔軟剤の匂いに吸い込まれ、籠る。
何も言わない、動かない時間、私が何に慣れると思ってるんだろう。
「手が掛かる方じゃなかったけど、大変だったな」と先生が小声で言った。はっきり聞こえてるのに、こっちを見ようとするから、思わず目を背けてしまう。「言う事は聞くし、忘れ物もしないし、成績も悪くなかったけど、朱田は気が付くと電源が落ちて、違う場所に居るみたいに動かなくなって。相談しろ相談しろってよく言ったけど、うるさかったよな。自分が何に悩んでるなんて分からないし、何でもすぐに解決しなきゃいけないってわけでもないもんな」
「そう、そうだった、です。あの……それ今も」
安堵なんてない、全身が冷たく焼かれるこの感覚が、不安か興奮か分からない。
恐怖なのか、それとも恋心を持っていたら、同じくらい胸が高鳴ったのだろうか。
「もう会えなくなるわけじゃないけど、今までありがとうな。高校でも程々に頑張れよ」
すっと全身が軽く、寒々しくなって、視界の端、薄ピンク色を汚す砂の色が現れた。
ぬっと差し出された手を、思わず握ってしまい、上下に激しく振られる。
「じゃあ、あとでな。答辞覚えとけよ」先生は手を振り、先生は、校舎に戻っていった。
「あ、あの。はい。っていうか、答辞全部、ほとんど先生が……」
小さくなっていく先生の姿、伸ばした手の甲に隠し、まだ続いている緊張の原因を探る。
何の事はない、男子とも、誰とでも別れを惜しんでハグを求める人ってだけだった。
卒業生が一人だけだったら、たった一人の女子だったら、こんな風に二人で寒空の下で。
まるで二人だけの男女みたいに。でも、それで言えば二人は男女だった、確かに。
相手が先生じゃなくて、あるいは自分も自分じゃなかったら、今の出来事は、もっと素敵な匂いをさせていたかもしれない。何度も胸の膜をこじ開けて、覗き込んだ思い出の一つかもしれない。でも一番大好きな誰かとじゃなくたって、触れ合ったっていいんだ。それこそ、なんか嫌だからって。それに、なんかって何が嫌なんだろう。触れてしまった物が一番大好きな誰かになるくらい、誰かに、何かに、触れられる事を最後の最後の、王手だと思ってる、自分の詰んだ思考が悪いだけなんじゃないか。自らを穴熊に囲ったのは、自分を追い詰める為じゃなく、身を守る為だったはずなのに。将棋の例え、それこそ高羽先生に聞かされたんだった。
防御一辺倒、みたいに言われたのが嫌だった。
それも面と胴と小手だけ隠して、あとの事は放り出す杜撰さを指摘されたみたいで。
何がわいせつ教師だ、大学からの彼女だ、あの日だって、分かってたのに血が垂れて来たなんて、向こうから嫌われても仕方のない事をして、私から嫌われる事をさえ好いていて欲しかったみたいじゃないか。こんな杜撰な事をして、最後に頑張れなんて言われて、まるで。
それこそまるで、真っ向から好かれてた事に、私が目を背けてただけみたいじゃないか。
もう一度三年生がしたい、と唐突に思った。
そんな事をしたら、次は本当に二人が男女である事を確かめ合ってしまうかもしれない。
風にうねる桜は誰にも掃き出されず、校庭中に広がり、校庭は薄ピンク色に染まった。
これは、いつの記憶だろう。
そう思う事がある、っていうのはおかしな話で、自らの頭で何かを思い出してるはずだ。
じゃあそれは、いつかの、自分の記憶だ。
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