3【手と手】
一年も過ぎたし、家族で桃鏨神社に初詣に行く事になった。
そしてたぶん、捜査が進展するよう神様に祈る事になったから、元日の早朝、父と母と三人で混雑するバスに乗って、街の方に出た。大通りのホームセンターや、ファミリーレストランの広い駐車場には、市外や県外から来た人達の車がいっぱい停まってて、そこから人の列がぞろぞろ、神社に向かって動いていた。店員か、社員か分からないけど、駐車場の入り口、光る棒で車を誘導している人が、勢いよく曲がって来た軽自動車に轢かれそうになっていた。
線路を越え、山道に入ってすぐに横道に入ると、大鳥居が現れる。
現世と常世ほどの境目ではないけど、街から山に入るだけでも、長い年月を遡るような隔たりを感じる。土と木の匂い。冷たく乾いた空気。青白い影の中に満たされた砂利は、古くなって固まった巨大な水滴のようで、踏んだら霜柱が潰れるよりも軽くて、嘘くさい音がする。
参道はなんとなく右から入り、左から出て行く流れが出来ていた。
真ん中は神様の通り道。
関東と関西で流れる方向が変わり、歩くか立ち止まるかも変わる。
いや特に変わらないか。
参道の両脇に屋台が並んでいて、色んな物の焼ける匂いが鼻に叩き付けられる。
「何か食べる?」と前を歩いていた母が振り返って聞いた。
「後でいいって」と後ろを歩いていた父が声を張って答えた。
母は歩調を緩め、私の隣に近づくと手を伸ばして来て躊躇なく私の左手を掴んだ。
水みたいに冷たくて、母の手の中、私は震えを返した。「冷たかった?」と母が聞いた。
「別に……何で?」と二つの手を持ち上げ、母に聞いた。
「なんでもない。こんな人混みではぐれちゃったらいけないから」
「こんなんじゃはぐれないって」手を下ろすと、母の手の力が少しずつ抜けていって、代わりに私は指先に少し力を入れて応えた。父が私と母の手元を見て、母の反対側、私の方に回って来た。目が合うと、父の手は上着のポケットの中、肩を小さく丸めている。「どうしたの」
「いや、こっちに来た方がいいかなって」
「小さい子供じゃないんだから」
「お父さんお父さん」と母が呼んで、父に左手を見せる。
挟まれても挟まれなくても、三人で手を繋いで歩くなんて小さい子供みたいだ。
掴んでないと居なくなるとでも思ってるのだろうけど、父も母も、私も、それが何でかは言い出さなかった。空いている右手、朝の冷気を触れ、寂しくなって何かを掴もうとする。ずなちゃんだったら、恥ずかしい、って言って、一人で先に行くかもしれない。私はフードを被った。父が母の手を取り、邪魔にならないように、三人で少し端に寄って歩調を遅くした。
賽銭を奮発し、二礼、二拍、一礼、一拍、零……悶々と思い出しながら、何も願わずに引き返した。おみくじは中吉、結ばずにポケットに入れて、屋台の方に向かった。「千円あれば足りるよな」と父が紙幣を取り出し、母も財布を取り出した。「朝ごはん食べてないでしょ」
二千円、願ってもない臨時収入に頬が弛んだ。
屋台を一往復し、反対側も見ておこうと思ったら、犬間良顕が立っていた。
コートを羽織っていて、剃り上げた頭に、ニット帽を被ってるけど、間違いない。
「あれ、お寺の?」と思わず声に出してしまった。
犬間良顕が私に気付き、微笑を浮かべ、あけましておめでとうございます、と言った。「そう、お寺なのに正月からお参りに来たりする人が居るので、こっちに来てるんですよ。朱田さん達は、今日はご家族で?」犬間良顕が私の後ろを見やって、少し寂しそうな顔になった。
「はい。今……父と母は何か買いに行ってます」
「そういえば、さっき稲島さんと会いました。珍しく本人が歩いてましたよ」
「あ、おじいさんの方? 邪魔にならないかな」
「いえ、本人が。クモみたいなロボットでうろつくわけにもいかないでしょう」
向こうの屋台、鉄板焼きのソースの匂いと、甘い匂いがする辺りに、女の子が居た。
おじいさんと、両親、波瑠斗、稲島家が全員揃っていた。近づいてみると、瑠々璃香が胸に小さな四角い箱を抱えているのが見えた。「るる、何してるの?」振り返る瑠々璃香、白いリボンの下、ポニーテールがしなやかに揺れた。「あけましておめでとう。何持ってるの?」
「おう、シロちゃん。もう出て来ていいのか」と稲島善人。
「喪正月は終わっただろう」と稲島魁人。
「あけましておめでとう。今年もよろしくね」と稲島理名が波瑠斗の頭を下げさせた。
「はい、今日は家族で。るるは、これ何を持ってるんですか?」
「お年玉が無いからって」理名さんがおじいさんを指して言った。「キューブ?」
「ジャイロキューブ。立方体のドローンだ」
「飛ぶんですか、これ」ジャイロキューブは、一辺が二十センチ、強化プラスチックで出来ていて、五面にプロペラ、一面には大きな穴が開いて、中は空洞になっていた。穴を覗くと、バッテリーや、各モーターに繋がってる配線が見えるけど、硬貨ほどもない小ささだった。
穴を跨ぐように取っ手が付いてるから、飛ばす時にはそこを掴んで放り投げる。
母が来て、肩に手を置いた。稲島家の全員がそちらを向いて、口を開くのを待った。
「あけましておめでとうございます、稲島さん。昨年はご心配をおかけして」
と母が言った。父は、目の端で探してみると、屋台で焼きまんじゅうを買っていた。
「どうも。おめでとうございます、朱田さん。今年は、良い事がありますように」
「良いも悪いも、ただ何も変わらず平穏な日が続けばいいんですけど」
「ああ」とか何とか、稲島魁人がはっきりしない返事をした。
「シロちゃんってドローンは出来るんか」と稲島善人が聞いた。「瑠々璃香の練習に付き合って貰えんかと思ったんだが」その手は、ゲームの想像のコントローラーを手に取り、想像でよくやるように、必要以上に親指以外も動かしまくっていた。その形のまま、右左に大きく傾けるのは想像力が豊か過ぎる。遠隔ロボットで外出するだけの事はある、のかもしれない。
「あんまり得意じゃないです。るる、ドローンやるんですか?」
「せっかくだし、一緒に覚えたら?」と母が言った。
「まあ、色々だな。ワームは怖いからって片付けさせられたよ」
それは、怖い目に遭ってるから仕方のない事じゃないかな。「いい。……考えとく」
「カメラを付けて飛ばせれば、瑠々璃香の様子も見れんのに」と、未練がましい視線を送られている瑠々璃香の元へ行くと、キューブを胸に抱え、瑠々璃香は屋台の方を見ていた。「なんか食べたいの? 分けようか、今日はお金持ってるから」裸の千円札を見せびらかした。
呆れたような目をされて、背中にも同じような身内のそれを感じた。
「あれ」と言い、瑠々璃香が指差した方向、屋台の前に奇妙な二人組が並んでいる。
奇妙さとして、村内にすっかり馴染んでいる、外国人の移住者。
「背が高いのはキタで、がっしりしてるのが、ニシかな。何か気になる?」
瑠々璃香は首を振る。
「もうそろそろ半年になるかな、あの四人が住み始めて」
「外で見た」と瑠々璃香は言った。「めいりちゃん家とか見てた」
「いつ? 歩きながら道でも覚えてたんじゃないの」
「でも……しろお姉ちゃん」
「どうしたの、るる」
私を見上げる瑠々璃香、裏切られたような表情で、潤んだ目元、固く閉じた口は嗚咽を耐えているようだ。何も言わない、代わりに、その言葉を言って欲しいらしい。強く抱き締められたキューブは、音を立てなかった。瑠々璃香なら、上に乗って飛び跳ねて、ようやく壊れるくらいだろう。「みんなも気にしてるよ」と私は言った。「内緒だけど、まだ試験中だから」
屋台の前、キタとニシは消えて、父がプラ容器を持って近づいてくる。
首を傾げる瑠々璃香の目が揺れて、その奥に父の華奢な輪郭が映ってた。
「ちゃんと生活出来るかとか、役場の人が見てるから、何かあったらすぐ分かる」
「本当に?」
「たぶん、聞いたら分かるよ」と横を見る。
「しろ、焼きまんじゅう食べるか。淳子さんも」
「一個だけ貰っていい?」母が聞いた。
「じゃあ串から一個……いや、渡しとくから、残ったのを僕が食べるよ」
「はい。シロは一本食べられる?」母の手から串を渡され、私は甘い味噌の匂いに負け、すぐに齧りついた。やっぱり朝はお腹に溜まる粉物が一番だ。「おとーさん」言いながら、咀嚼もしながら、飲み込めるまで待った。「あの四人って今どんな感じ? 去年来た外国人の」
「今のところは普通だな。毎日働いて、帰って、行事にも出てる。道場にも通うって?」
「みたいだけど、まだ分かんない。るる、普通だって」
「普通って?」そう聞き返した瑠々璃香の、潤んだ無垢な瞳が忘れられない。
天使みたいに、それこそ我々は、問われ続けている。
冷美さんが、少なくとも週に一回、蔵の中に入って、その体を拭いたり、掃除をしたりしている天使も、村の全員に問いを投げ掛けているはずだ。腹が徐々に膨らんで、逆にその顔や体付きは本来の姿、秋津愁生から遠ざかっていた。腹の中に新しい秋津愁生が育っていて、いつか産まれて来るのかもしれない。冷美さんはどう思うだろう。自分の腹以外から産まれて来る息子を、息子と思うだろうか。言うなればそれはただの、孫、って事なんじゃないのか。
本人は既に亡くなったようなものだ。
誰かの生首を携えて、ほとんど自我が消えた状態で現れた時から変わらない。
その三人と一緒に葬られたようなものだ。
先日、奇跡によって誕生したある生物が命を終えたというニュースが流れた。
ウガンダより七つか八つ前、その天使は発見された当時、既に頭部と両腕が無く、腹が大きく裂けた状態で見つかった。そこから生まれたのは、一頭のクジラだ。空を飛ぶクジラ。人を乗せて運ぶクジラ。体の中に大きな街を持つクジラが、他国の領空を侵さないよう、発見された国の上空で浮かび続けていた。クジラの中の人々からは歌が届けられた。むしろ、それ以外の何も、内部と遣り取りする事は出来なかった。その真下には常に天使の残骸があった。
最初に起こった異変、それは歌詞の中に表れた不信と不和の言葉だ。
地上からも歌が届けられたが、クジラの中から一切の返答が無かった。
ヘリコプターが上空から接近し、クジラ内部への突入作戦が実行された。
何もかもが失敗に終わった。
そしてある日、空から一人の少女が降って来た。舗装された広場、円形になった花壇に頭から突っ込んで、少女は亡くなった。その国は、クジラの封印を決定した。鉄板を溶接し、鎖で縛り、音が漏れ出ないように防音材を貼り付けた。その間もクジラはずっと浮いていた。
それから一か月後、人々はクジラの高度が徐々に下がっている事に気付いた。
ここからはあくまで、一つの推測として語られた物語に過ぎない。
まず落下した少女の身元が判明した。
その名前も、出身も、経歴も、どうでもいい。重要なのは、一年以上も前に行方不明になって、直近に死体となって地上で発見された、つい最近まで生きていたらしい少女の死体、空から降って来た少女の死体、その二つが全くの同一人物だと発覚した、という事実だった。
そこから導き出される可能性。
クジラの、少なくとも見える範囲に住んでいる人々、その分身がクジラの中に居る。
なぜか、歌う為に。それはなぜか、今はまだ分からない。そして次の疑問。
降って来たから地上の少女も死んだのか、死んだから少女の分身が降って来たのか。
またその頃、その地域では鬱病や、無気力症になる人が徐々に増えていた。つまり、地上の人々の幸福度が減るほどに、クジラの高度が下がるのではないか。と同時に、別の考え方も出来た。それは、地上の人々の幸福感を吸い取って、クジラが浮かんでいたのではないか。
人々は何を、幸福を失う事か、幸福が尽きる事か、恐れるべきかを見失った。
その姿を覆い隠され、縛り付けられたクジラを不安と共に見上げる事しか出来ない。
それなのにいつから歌が止んでいたのか、地上の人々の誰も気付かなかった。
兵器転用とか、まして福祉や医療に役立てようとか考える人は居なかった。外から見れば、歌うだけ、浮かぶだけのクジラだ。最も上手く扱えたとして、どこまでも幸福に満たされ、どこまでも上昇を続けるだけだ。向かう先は、天国か、乗れる者は、一体誰なのか。自分かもしれない、と思っても、あくまでそれは自分の、幸福を抽出した分身だけかもしれないのだ。
その時期、クジラが見える範囲に暮らす人々は地上で最も不幸な人々だった。
それはクジラが息絶え、墜落するまで、少しばかり長々と続いた。
そういう物を秋津愁生が産み落とす、その可能性だけは心に刻んでおきたい。
冷美さんだって、そういう事を調べて、考えているはずだ。
クリスマスの翌日、年末に境内の掃除を頼まれた。落ち葉を掃いて焼くだけだ。
サツマイモを貰ったというので、さぞ頑張ろうと思ったら、犬間良顕は朝から法事で留守にしていた。作務衣に着替え、上からスカジャンを羽織って、軍手、垂れ布付きの日除け帽子を被り、竹ぼうき、ちりとりを持って境内を回った。敷地内には古い木が多く、特に十字の参道には砂利もアスファルトも見えなくなるほどの枯れ葉が堆積していた。ちょうどチャブレッグが居たので、ゴミ袋を後ろに括り付けて、敷地の裏手にあるゴミ捨て用の穴まで運ばせた。
クモのようなロボットの正面、液晶モニターに、稲島のジジイが寝そべっている。
「そんなにゴロゴロしてたら体弱って動けなくなるんじゃないの」
と言うと、稲島善人はベッドの上で体を起こし、タンブラーを手に取った。
「だからな、こうやって外に出てるって気分だけでも味わってんだ」
画面脇のスピーカーから、微かにひび割れた音が素っ気なく答えた。
洗濯籠を持った稲島理名が、後ろを通りながら「誰と話してるんですか」と聞き、画面を覗き込んで来た。私はカメラの方に目線を合わせ、また画面を見ると、理名さんはもうベランダの方に歩き去っていた。「忙しいんだ」と稲島善人が言った。「おせちも作るってんで」
「昆布巻きも?」
「渋いのが好きなんだな。何だったら食いに来るか」
いや、言っといてだけど、別に家でも食べられるから。
「次の袋は」と聞かれ、広角カメラと一緒に、思わず周囲に目を配る。
「この辺りはそろそろ終わりそうだから、そろそろ移動しようかと」
「おお、そうだ。前にここで椅子置いて座ってた若い姉ちゃんがまた来てたな」
というと、……誰。
誰だっけ、そういう人が居たのは覚えてるし、確かピストルも触らせてもらった。
もらった、っていうか撃たされたのか。「ちょっと名前聞いて来て貰えたら」
「待っとけ、確かメモに……」顔が画面から外れ、横でキーボードの操作音が聴こえて、すぐに戻って来た。「星縞聖名って書いてあるな。星に、糸偏の、縞模様とかの縞。聖なる名、で星縞聖名。大層な名前だな」切り替わるモニター、白背景、中央に四つの漢字が並んだ。
「そうだったかも。それでその人どこに居るの?」
「それが裏手の、蔵の近く、というか目の前に居んだ」
蔵の前、敷かれた砂利の上に、パイプ椅子が置かれ、スーツ姿の女性が座っていた。
中、じゃなくて前で良かった。いや、入れるわけないけど、でも入られそうではある。
相変わらずの余った袖、裾から、素足にサンダル、ネクタイは星柄だ。黄色い星屑が、十三個あった。長い髪を横に分け、目を細めた狐の笑みの、奥底は笑っていない。星縞聖名は椅子に横向きに座って、片手で顎を支えて蔵を眺めていた。蔵の施錠された戸を眺めていた。
周りには枯れ葉が堆積し、砂利がほとんど見えなくなっている。
踏んだり、蹴ったりした様子もなく、その真ん中に彼女は、空から降って来たみたいだ。
ここも掃除するつもりだったけど、近づいてみると、蔵が見えた時点で毛布を被せたような頭重感に襲われた。本当にこれは、蔵に出たり入ったりするだけで痛んだり、和らいだりする謎の不調で、蔵から十五メートル程度、ちょうどパイプ椅子の位置を境目に痛み出すのだ。
だからまるで星縞聖名がその境目を認識しているかのようにも見えた。
靄が掛かる頭に、後ろ向きな思考と、入り交じる楽観、この人は知ってるのだろうか。
この人の頭も同じように痛むのだろうか。だったら、全て打ち明けてしまいたくなる。
「やたらに、厳重だと思ってな」と星縞聖名が呟くように言った。「錠前が三つ、電子ロックと警報システム、監視カメラが数台、センサーは感圧、震動、赤外線、それに、警備ロボットが居るな」と、目を何もない虚空に向ける。貼り付けた笑み、目の奥には微かな軽侮、それと寂寥の色が混じっていた。手を伸ばせば、フォーティファイブ、銃口の先には何もない。
「おい、撃つなよ」クモのようなロボットが狼狽える。
「撃ちませんよ。ただの銃口には反応しないか、利口だな」
「稲島さん、警備ロボットって」
「ああ、見えないんなら、いい。一応居るって事だけ覚えとけな」
ジャケットの内ポケット、収められた拳銃は、服の上に何の膨らみもなく、永久に失われたかのようだ。椅子ごと横に向いて、星縞聖名は私達を振り返った。「だから、これ以上近づいたら、この蔵が泣き喚くわけだ。そこで相談があるんですが」嫌に丁寧に、嫌な愛嬌を浮かべて尋ねられると、ただの卓袱台のようにのっぺりと、ロボットは感情を閉ざしてしまった。
スピーカーが淡々と聞いた。「ここの僧侶はなんて言ってんだ?」
「信仰に関わる物ですから、と」
「そんなら、無理に入ろうとするもんじゃないな」
「それなら、ここには一体何が入ってるんだろうな」星縞聖名は完全に後ろを向いていた。足を組み、というより椅子の上で片膝を立て、顎を乗せて、探るような目をする。一体どういう立場の人物で、出身はどこで、年齢、性格、職業はプログラマーと言っていたけど、それこそ信仰も、何も分からない。首を傾げながら、星縞聖名が言った。「たとえばそれが即身仏だろうと、聖遺物だろうと、公開するような事もあるだろう。少なくとも信者に向けてはね」
ちょうど、それとそれである事を、言い当てられたように不安になる必要はない。
「じゃなければそれは、本当にある物なのか」
「あるかないかって言やあ、それは自分の心に聞くもんだろう」
「なるほどね」納得もせず、あっさりと流す口調、その余韻もなく、一人で何か考え、それが言葉に漏れる。「この、蔵自体が貴重な物なのか。それを言ったら、セキュリティシステムそのものが、ううん」不意に顔を上げて、言った。「その恰好、今日も巫女のバイトか?」
「巫女じゃないです、これ作務衣だし。今日は落ち葉を集めて焚き火でお芋を焼くので」
「その誘いに来たわけか。だったら席に加わらせて貰うしかないな」
「いえ、まあ」だったら少しくらいは手伝って欲しいけど。
「そっちの老人の分は」
「そうだったな。シロちゃん、ドローンを寄越すから載せられるだけ載せてくれ」
「それってあのキューブですか、最近爆買いしたって聞いたけど」
星縞聖名が聞いた。「無線操縦のドローンが、こんな山の中まで届くのかな」
「半自動操縦だな。目的地を指定して、位置情報を中継基地で追跡するんだ」
「そうか。じゃあ我々二人と、あと、さっきのアジア系の男二人は……」
「え、誰ですか?」
「細身の長身と恰幅のいい大男だ」星縞聖名が本堂の表側に向かって、人差し指を大きく回しながら説明した。建物の右も左も、見える範囲には誰も居ない。見えない範囲にも、誰かが居たらすぐに分かる。「早朝から境内をうろちょろと、ここで何か探してるようだったな」
「その特徴はキタとミナミだな。カメラの映像なら見れるが、シロちゃん、どうする」
「いや、呼べば来るだろう」
そう言って、また拳銃を取り出した星縞聖名が、空に向けて引き金を引いた。
銃声、というには小さな音、その反響の中で、地面に落ちた薬莢の音が紛れた。
星縞聖名は椅子から体を伸ばして真鍮の薬莢を拾い、尻ポケットに滑り込ませた。
「空包だと思えばいい」と星縞聖名が言っていた。すぐに二人組の男性が姿を表した。どちらも薄そうなジャンパーに、太めのジーンズを穿いていて、スニーカーは汚れていた。二人は私達を、特にクモみたいなロボットを警戒しながら、少し距離を詰めて、それから、相当悩んだ末という様子で「おはようございます」と、軽く手を上げながら、平坦な調子で言った。
眉目の濃く、浅黒い顔は精悍、というよりも粗野な印象を抱かせる。
キタは長身、痩躯、根暗そうな薄毛の男性で、大きな目と口が特徴的だ。
ミナミも長身、大柄で、少し太めの体型をしていて、癖毛が伸びていた。
温和そうな雰囲気で話しやすそうだけど、少し礼儀に欠けるところがある、と父か役所の誰かが言っていた。キタが蔵の方に目を向けている間に、ミナミは目の前まで近づいて来て、チャブレッグの右後肢を撫で、私の肩に手を置いた。振り払うわけにもいかず、そっと後退して稲島のジジイに後ろを指し示した。それを言うまでもなく、カメラは全方位が見えている。
「さっき、大きい音がしましたか?」
「知らないよ。何か探してるんじゃないのか」と真っ先に聞き返したのは星縞聖名だ。
「コウエンは」とミナミが口を開き、何かを揺らす動作をする。「ありますか」
「公園か。おい巫女、そこの山道とか、上ったら何かないのか?」
「あれは、修行用というか。特に何も。お堂が建ってるくらいですけど」
天狗参りの道は、丹波山の一部を切り開き、その中腹、お堂のある所まで子供だけで行かせる行事だ。と言っても、監視の目は付いてるし、常に本堂が見えるように草木を刈ってあるので、どちらかに道を下れば絶対に帰れる、という事だけは言い含めている。と言ってもだ。
天狗に攫われ、神通力を授かるという逸話が、その元になっているわけで。
だから全く安全を保証するのは、それはそれで行事自体の存在意義に関わる。
天狗の役目を負うまでもなく、数多の、ほとんど稲島のジジイが扱っているガジェットそれ自体が、神通力のような物とも言えるけど。「もうちょっと山の方に行けば、湖にアスレチック公園があって。今の時期は開いてないんですけど。ちなみに公園で何をするんですか」
「トレーニング」とだけ、ミナミが発音良く答えた。
「じゃあ、市民会館のトレーニングルームだ。電車で二駅先にあります」
星縞聖名が割って入った。「トレーニングなら、村に道場があるだろう」
「ああ、それも」思わず椅子の方に目を向け、卓袱台のモニターも窺ってしまい、それからキタとミナミを見ると、まだ二人を村外の人間だと思っていたのだと気付いた。ミナミは、ドウジョウ、という施設か、単純に言葉が分からないようで、同じ目で私を見返してくる。
なぜこうも、言いたくないのか、それを私は言った。「でも年末年始は開いてなくて」
「すごい所じゃなくていいです。トレーニングできますか?」
「まあ簡単な事なら。あとで案内するように、言っときますか。役場の」
「アケタさん?」
「はい、その人に言うか、村の誰でもいいんですけど。みんな知ってるから」
納得した様相、ミナミが引き下がり、キタと一緒に戻っていった。本当に、公園を探し回って寺の裏手に入って来てしまったのかは分からない。「引き止めて手伝わせたらいいのに」と星縞聖名が言っていたけど、その通りで、星縞聖名は私が作業を再開しても、椅子から立ち上がるどころか、椅子を動かす事もしなかった。真下に、落ち葉が溜まっているのだけど。
掃いて、ロボットに運ばせ、と言っても穴が近いから、勝手に掴んで持って行った。
そして作業を終え、竹箒、ちりとりを片付けてから、蔵とは別の納屋に向かった。
アルミホイル、新聞紙、バケツ、着火剤、ライターが用意してあって、両腕で抱えるくらいの段ボール箱に、赤紫の鮮やかなサツマイモがぎっしり詰まっていた。身が太く、曲がりが少なく、土も綺麗に落とされていて、食われる瞬間を今か今かと待ち構えているようだった。
これだけ立派だと残すのも心苦しく、二人を引き止めて良かった気もした。
その日の、芋の味や、山が燃えそうになった話はいいとして、後日。その四人は道場に案内され、師範の田中意次から長い長い説明を受けた。開いている時間、開いていない場合はどうするか。様々な武具に触れたり、帯や胴着、袴の着け方を学んだり、月謝や保険について話したりした。後で田中意次が言った。「あの内、一人か二人は、何かやってたでしょうね」
「何かって、武術的な何かって事ですか?」
「もっと広く、単純にスポーツかもしれないし、格闘技かもしれないですけど」
最初に公園を選ぶくらいだから、よっぽど体を動かしたいだけかと思ったけど。
春になって、まだ肌寒い朝の県道を自転車で下っていく途中、見知った背中が私を追い抜いていった。「かつ、おはよう」と声を掛けたけど、真っ黒い学ラン、真っ白いヘルメットは、振り返ろうとしなかった。まあ危ないし、だから振り返らないのだろうし、カーブに消えていく姿を見送り、私は完全に停止した。見ない間に、少し体が大きくなっていた気がする。
ずなちゃんよりも、だから……要するに中三の男子らしくなったのかもしれない。
まだ四月だけど。
それこそ春から製麺所を手伝う事になって、久しぶりに検便を出して、予防接種も受けたけど、去年から始めても、来年からでも私は何も変わらなかっただろう。学年が上がるとか、卒業とか、そういう不可逆的な変化はもう二度と無いと思うと恐ろしく、何を手伝うよりも、この停滞感から逃れる為に、いっその事この村から……と考えた瞬間、孤独感に襲われる。
半身を剥ぎ取られるような、とまで言うと言い過ぎだけど、それ以下の表現がない。
残った半分だけは、自分とは何かを語れる根拠であればいいと、常々願っている。
ナナカマドの前を通り掛かる時、ふと今日は寄らないでおこうと思い立って、前を向いた私を呼び止める声が聞こえた。「しろ、待って」抑えるような声を張り、本当に、風の中に聞き漏らす寸前だった。何か含んだような、仁太のそういう様子に、足が離れかけたのだけど。
電動アシストのブレーキ、高く鳴って、停まる。「じん、どうしたの?」
仁太も同じ学ラン、ヘルメットで、四月から二年生だったか、一年生かどっちかだ。
少し顔を背け、仁太が言った。「ちょっと寄ろうと思ったらじいちゃんが居なくて」
「山じゃないの、知らないけど」
「店開けたままで山行くかな?」
それは、……変なのか。「寝てるのかも。上がったら?」と聞くと、本人もサドルに跨ったままの仁太は、無言で手招きをしてみせた。ついてこい、って事らしい、なんで。時計を、持ってないけど、まだ時間には余裕があるだろう。下りて、自転車を押していくと、仁太は道の脇に自転車を停め、後ろからついてきた。「せめて前行ってよ。……そんなに怖いの?」
「だってさっき、店の裏に何か居て」
「サルかな、暖かくなってきたしね」と言いながら、店の前に自転車を停めた。
ガラス戸を開けると、埃っぽい臭いがして、外よりも温かい空気が頬を撫でた。
中には誰も居ない。棚に残った商品もまだ眠っているようで、薄く積もった埃、日に焼けた紙箱、粘着力を失ったテープが浮いている。過ぎた時間を、手に取るには時間が掛かる。もっと後には、もっと遅くなり、いつか触れられなくなる。値札はシールに手書きだ。癖のある繋ぎ字で『1,500』とか、キリのいい数字ばかり、相場が合ってるのかも分からない。
さて、と。言ったからにはサルを探さないと。と思ったら仁太の姿が消えていた。
店の外、壁に沿って、裏手に回ろうとしている。ワーゲンの軽自動車、砂利敷きの車止めを回って、住居の裏手を、手前の角から覗き込んでいる背中を、軽く触れた。途端に、風船みたいに萎んで、這い退いて来る。「な、なに?」怯えたような声が、私の少し下に聞いた。
「そっちが」仁太が口の前に指を立てた。「急に居なくなるから……なに?」
指は角の向こうを指し、仁太が私の腕を押して来る。「何か聴こえて、見たら動いた」
「あ、サル?」
壁沿いに灯油のタンク、勝手口の踏み段の向こうは、地面に雑草が生えていた。
もう少し先、茂みの中にはそろそろタケノコも伸びて来るだろう。林の中にはテンやらキョンやら、ハクビシンやらアライグマやら、逃げ去る物は何も見えない。まだ日も差さない朝の林に、湿った草の匂いだけが漂っている。少し進んで行くと、何か引き摺る音、地面で何かが動いた。ちょうど壁の端、黒い影が向こう側に引っ込んで、残った先端は小動物が顔を覗かせているようだ。近づいてみると、それは扁平で、丸く、二つが、少し離れて並んでいた。
仁太が駆け出した。後ろに、呼び止める間もなく引き返してしまった。
土が剥げ、葉が擦れ、枝が折れ、引き摺る音がして、先端は壁の向こうに完全に隠れた。
それが奇妙なのは、林の方じゃなくて、壁に沿って這い続けている事だ。
スニーカーみたいな、と思いながら角から顔を覗かせ、いきなり目が合った。
大きいのは、キタだ。細身で、根暗そうな雰囲気のキタは、人の腋下に腕を入れ、引き摺っていた。もう一人は、ニシだ。饒舌で、小柄ながら筋肉質のニシが、その脇に立って、やけに後ろを気にしていた。「ああ、アケタさんの、お嬢さんだ」とニシが言って、微笑んだ。
「何を、してるんですか」私は、何を聞くべきかを考え、考えて聞いた。「店長?」
引き摺られているのは戸波犀一だった。
首から鈍色の薄い刃を生やし、シャツの喉元を赤く染めて、息絶えていた。
息絶えている、ように見えた。濁った目、薄く開いた口、力なく横を向く首から、豊かな銀髪が垂れ落ちている。髪も服も土で汚れ、その通った跡が地面に微かに残っていた。キタが少し遠ざかり、ニシがその前に立ちはだかった。彼は無機質な笑みを顔に貼り付けている。
「戸波さん、どうしたんですか?」
「デッド、死んだ」
「え、死んだって、その、包丁で?」
「そうだね。キタ、ストップ」後ろに伸ばした右手、上から押さえるように振り、しゃがんで包丁を引き抜いた。血で濡れた刃に所々、茶色い錆が浮いている。ニシはこちらに足を踏み出した。足音が聴こえる。いっぱい、砂利を踏んでいる。粘ついた血は一滴も滴り落ちない。
戸波犀一が背中と両足を跳ねさせて、咳き込んだのかと思ったら全く動いていない。
傷口から何歩も先に包丁があって、元の位置に戻るまで、それはきっとすぐじゃない。
緩い握り、手はだらりと下げ、刃先は地面を向いている、だから。私に向かって来ている事がはっきりと理解できた。後退り、ニシの顔を見ると、しかし「あのっ」とか「待って」とか口から漏れるばかりで、何も頼みたい事なんて無いし、聞きたい事も思い付かなかった。
お互いの距離、あと何秒もないけど、ニシが不意に足を止めた。
挨拶でもするように上げた左手、それは庇った顔ごと、何かに撃ち抜かれた。
仰け反り、弾が逸れるのが見え、横から影が飛び出した。仁太、と声を掛ける寸前、何かが落ちて来る。鈍い音、地面を穿った手斧の、太い柄が斜めに立っていた。仁太はスリングライフルに足を掛け、両手でゴムを引きながら「しろ、大きい方やって」と冷たい声で言った。
給弾の隙、そこにニシは左手を庇う様子もなく、大股で踏み込んで来る。
鼻の横に大きな痣が出来ている。
腰の辺りに引いた右手、切っ先が暗がりに潜んで、か細い光沢は糸のようだ。
私の横の仁太に向かって、真っ直ぐに突き出される、ぴんと張り詰めた軌道が見える。
私は、手斧を握った。右手首に左手を添え、転げ出すように踏み出した一歩、と同時に斧を振り上げた。ニシが急ブレーキで避ける。包丁が左手に移って、空いた右手が肉薄し、防御のつもりで置いた左手を掴まれた。その手首ごと、返す斧で叩き切ろうとした。その寸断される関節しか見ていなかった。衝撃が伝わり、斧が止まる。何か、包丁が引っ掛かっている。
懐に滑り込んで来るニシを、斧、左手、どちらでも防げないと思い、手が止まった。
ニシが仰け反る。その眼前を、スチールの弾体が戸波家の外壁に向かって射出された。
壁に埋まり、一瞬だけ、ずっと埋まっていそうにも見えると、すぐに落ちた。
手斧が解放され、代わりにニシが私の腕を伝い、左手を、完全に拘束され、喉元を、切り裂かれはしなかった。飛び退いたニシが距離を取ってキタの元へ近寄ると、キタの姿はそこに無かった。倒れた老人には目もくれず、ニシは私達の方に向き直り、少しずつ離れていった。
「仁太」やっと隣に仁太を見る事が出来た。給弾の隙、それこそ喉元を切り裂かれるところだった瞬間に、仁太はゴムを張ってはいなかった。ライフルを捨て、肩に掛けた二挺目をそのまま構えたのだ。一発、三十秒からの給弾でも、事前に済ませておく事は出来た、とはいえ。
それは店に駆け込んだ仁太ではなく、戸波犀一が恐らく早朝にやった事だ。
「ウェイト、ウェイト。待って、戦う気はない」
「今、刺されるかと。じんは平気?」
仁太は私を見て、なぜ心配するのかと、首を傾げた。
「アックスで襲われたから、それを止めたかった」
仁太が前に出る。「武器を捨てて。後ろ向いて、両手上げて、あと……しろ、何か」
「あ、え。じゃあ、他の三人はどこ?」
後ろを向いたニシが、両手を頭の後ろに置き、ゆっくりと振り返った。「ポケットにスマートフォン。取ってもいいか?」と聞き、仁太が頷くと、ゆっくりと右手を動かし、黒い扁平な機械が、何かに似て、それは喉から引き抜かれるように、鋭く薄く姿を現した。頭の上で振ってみせる。「連絡先なら、これに」と、林の方に放り投げる。仁太が駆け出そうとした。
すぐに止まって、壁沿いを走るニシにスリングライフルを構えた。
両手は後頭部、背を屈めて走り去る後ろ姿は、瞬く間に小さくなり、仁太は追うか撃つかを迷って、どちらも出来なかった。スマホを目で探し、スリングライフルを拾った仁太が、そこで初めて、かのように戸波犀一の死体を発見して、小さな子供みたいに目を丸くしていた。
口を開こうとすると、私の手から力が抜けた。「じん、大丈夫?」と聞いた。
仁太は祖父に歩み寄り、その周囲を右往左往していた。肩を叩き、私は仁太の制服の袖を抓んだ。「通報しよ……救急、じゃなくて警察かな。……の前に応急処置だ」触れたくはなかったけど、放っておくわけにも行かなかった。心臓、脈拍も止まっていて、瞳孔は、どうなってたらどうなんだっけ、分からないけど生きている物のそれには全く見えなかった。そして何より冷たかった。「神辺さんに。交番近いから、私、ちょっと自転車で呼んで来ようか?」
立ち上がり、仁太の方を見ると、目が合って、それは射貫かれそうに鋭い視線だった。
「しろ、今」低く抑えた声で仁太が言った。「なんで追い掛けなかったんだよ」
最も警戒するべきは、先に逃げたキタが反対に回り込んで、目撃した私達を襲撃する展開だった。それなのに、ここに居たくないっていうだけの気分を優先して、私は仁太の視線から逃げ出した。神辺さんだって、何で逃げたのかと私に問うだろう。私の知った事ではない。
だけど私は受けられた手斧を手放し、自由にした右手でニシを制圧するべきだった。
その動作も、それを更に返す動作も、ニシはきっと知っていた。それでも、手を止めてしまったのでは、道場に通う意味もない。それで言えば、キタとニシ、それとミナミは、道場では真面目な門下生の顔をしていた。初稽古の日、準備体操で高い柔軟性を披露して村の人達を感嘆させたキタは寒い道場の中、いざ稽古が始まると迷子の子供のように周りを窺っていた。
受け身、そして素振りと、基本姿勢で初日の稽古は終わろうとしていた。
最後に技を一個教えたのは、師範代のちょっとしたサービスだろう。
翌週、土日には、キタとミナミが出て来た。
ミナミは大柄で、縦に負けず横にも大きい見た目通りに大らかな所があって、それと同じくらいに大雑把でもあった。遠目にも、木刀を腕だけで振っていて、師範のどういう言葉が効いたのか、稽古の終わる頃にはそこから全身で振れるようになっていた。音もなく、初めから終わりまで、変わらない速度で。そしてそれを速くしていって、全く同じように振るだけだ。慣れてない内は、常に一から遅くして行かないと、感覚が掴めなかった。究極的には、どの速度でも振れるようになれば、人も物の怪も斬れるだろうというのが天狗の教えだ。創始者の石見幻三ですら会った事は無いと言われている天狗の、教えだけが口伝えに残り続けている。
冷美さんは髪をゴムで一つに纏め、胴着の下に黒いインナーを覗かせている。
貼るカイロを八枚くらい貼って、動き始めたら暑くなって半分に減らしていた。
薙刀の防御は、決して隙がないようには見えない。穂先のほんの一点が手前に置かれているだけで、そこから内懐に入るまでの途方もない距離が、相手に攻撃までの判断を急かせるのだろう。たぶん、私が間の取り方、入り方をもっと近い攻防の理論で思考しているせいだ。
「突きに頼らないで」むしろ乞うような、控え目な声で冷美さんが言った。「外したら、戻すまでずっと相手が安全圏に居るって事だからね。死に体でもないところに、突かれても意味ないよ」しかし小手、脛を狙われ、胴体にまで斬り込まれると、最短の軌道で突き入られたように感じられた。「もう……斬って返して、石突で受けまでセットで、……だと違うのかな」
冷美さんの手は柄を前後に広く取り、腕を自然に垂らした格好で構えている。
右に出て、上から穂先を押さえる。
摺り上げられ、逆に内側に入られる。
石突を返して受け、下がって脛を斬る。
すると相手は飛んで避けつつ袈裟掛け。どの方向からも、大体こんな感じ。
冷美さんが穂先を振りながら言う。「当たる寸前の所で相手より先に動く感じよ」
「それって攻め込まれる方に引いちゃわないですか」
「だから足捌きでこっちの、自分の動きが固まらないように場を確保するの」と言って、立てた薙刀の穂先を見上げる。とはいえ練習用のなぎなたは、穂先は木刀のように反っているだけで、それ以外は棒術の棒に近かった。「しろさんには、刀身が付いてる方がいいのかな」
「え、それって練習用のと違うんですか?」
「本物。重さとか、刃筋とか覚える為に。それこそあの剣だったらもっと重いわけだし」
「無理です」
「無理よね」と冷美さんが言った。「ちょっと休む?」
ストーブから少し離れて、冷たい床に座布団を持って来て座った。水筒には緑茶、私はペットボトルのスポーツドリンク。青いラベルにラブスポーツとしか書かれてない、ノーブランドのスポーツドリンクだ。味は一緒なのに、値段分、他社製より何かが足りない感じがする。
手を擦り、冷美さんが言う。「しろさんって部活は? 高校に薙刀部って無かった?」
「武道系……ボクシング部だけあったような、昔だから覚えてないですけど」
「昔だからね」と冷美さんが笑った。「覚えてる事はいつまで経っても覚えてるのにね」
止まっていると服の下で汗が冷え始め、座布団の位置を熱源に寄せた。揺らいでいる空気が頬、手の甲に直に触れて、伸びきった皮膚が熱源に引っ張られるような錯覚を覚えた。また別の汗をかきそうだ。道場内では、炎から逃げ惑うように剣士達が木刀で切り結んでいた。刃先を付けられてから構えに入る事。まるで体が後ろに滑り出したように、その位置に切っ先が置かれている事。全て天狗がやった、天狗に教わったと言えば、何でも通ると思われている。
「あのイエー」と言うと、外国の抑揚では陽気な掛け声のようだけど、ミナミは遺影を指していた。「ドージョーのトップの人間か?」壁の上の方に掛かっている額縁には、それぞれ白黒からカラーに移り変わる数葉の写真が並んでいて、田中師範の父、祖父母、更に遡っていくと丸刈りに眼鏡の老人から、最後には赤ら顔に長い鼻を持つ山伏の、絵まで飾られていた。
肖像写真であって遺影でもないし、歴代トップの人達というわけでもない。
「あれが」と当然のように田中師範が端から二番目を指差した。「創始者の石見幻三です」
維新後、潰れた道場の子として産まれた幻三は、他流に学び、新たな流派として石見枕心流を開いた。その後、戦時中に大陸へ渡るが、共に旅立った門下生の多くは捕虜となり、収容所で諜報技術と社会主義をしっかりと学んで帰ってきた。そして幻三は全てを片付けると新たに門下生を募り、土着の忍術、柔術と和合し、弟子が増えると齢九十近い老齢で出頭した。
共に大陸に渡った門下生達の写真は焼かれ、今となっては弔う事も出来ない。
「隠棲した幻三は、天狗を自称していたそうです」
「テングってなんですか?」とミナミが当然の疑問を口にする。
つまり、それらの問いを煙に巻くもの、とは。師範の立場上言えなかった。
「フォークロア、と言いますか。他国で言う、シャーマン……のような、フィクションの」
師範のカタカナ語、思ったよりも難儀だった。「ちょうど年明けに子供達が寺の祭事を行いますので。テンプルで、祭事は、えー……カーニバル、とは違うか」稀に訪れる外国人が教えを乞おうとする度に、その対応に師範が当たっている。それで言えば、興味も無いまま内側に入って来る人は珍しいから、その説明も一から納得させる為に作り直さないといけない。
理解がある人には、否定する語彙さえも、簡単に通じてしまうから。
ストーブに近づき、伸びをすると、冷美さんが顔を寄せて来た。「再開しようか」
形稽古は続く。技から技へシームレスに。同じ動作を繰り返した。
サンドローリング。プッシュテイルズ。パリングウィンド。ドラゴンウィップ。
表裏で重要なのは表、対薙刀の方で、薙刀術の裏は、教わる機会はほとんど無い。
たとえば素手の相手に圧倒されてる状況から返す想定が、そもそも無意味だからだ。
リバーススケイル。突きを巻いて取り、石突を巻いて取り、至近距離で突如、伏せる。
海老蹴り。喉の所で寸止めされた踵は石のように固く見え、触れないのに息が詰まった。
いや、蹴り技なんてあったっけ。
稽古が終わる頃には日が暮れて、十九時近くなっていた。
迎えの車が下の道で列になって、その間を歩いて来た親と共に、二人、三人ずつが近所同士で固まって帰路に付いた。擦れ違うのも、追い抜いていくのも知人で、ずっと誰かが視界に居るのだから、危険なのは人間よりも猪や熊の方で、それもこう賑やかな場所に現れはしないだろうけど、車のライトを飲み込む茂みの奥から、いつも何かの気配を感じていた。シャワーは無く、着替えを済ませて更衣室から出ると、道場の玄関脇、克聖がどちらも学校指定の紺色のジャージ、灰色のウィンドブレーカーという寒そうな恰好で壁に寄り掛かって立っていた。
私も同じような恰好で、すごく寒いので、手足の先からゴムのように動きが固くなる。
誰かと連絡を取っているのかと思ったら、スマホを横に持ってゲームをやっていた。
「かつ、迎えまだ来ないの?」と聞くと、克聖は画面から目を上げずに頷いた。
隣に立って、帰って行く人達、親と、子とその友達、二人か三人の背中を眺める。
「今日腕取りやってたね」と聞くと、反応はない。「今ちょっとやろうか」
「なんで」
「暇だから。ほら来て」道場の脇に腕を引くと、最初だけ抵抗していた克聖も、だらだらと足を動かし始めて、低い草の生えた辺りまで動いた。外壁に取り付けた照明の、水銀のような渇いた光はなんとなく、丸く光っているだけで、木製の的は木陰に取り残されたままだ。木製のベンチにバッグを置いて、克聖の荷物も置かせた。「目隠しは、いらないか。もう暗いし」
開けた場所、背中合わせに、踵を付けて、両手を下ろして立った。
「ゆっくりね」
水中を歩くように、緩慢に、半歩前に出た瞬間、左肘に触れる物があった。
同時に、右手を後ろに上げながら、右手方向に振り返ると、何かに触れた。
離れて、また触れた。肘を曲げ、上げた手首の外側、乗せるように引っ掛けるように、克聖の手首があった。だからこれは如何にして上を取るかの訓練だ。目隠しをするのは本来、感触によって相手の位置、動作を感じ取る為で、慣れない内は、恐怖心からすぐに手を引いてしまい、初心者同士はお互いを見失って仕切り直しになる事が多い。ゆっくりと、慣れて来ると今度は、視覚がある状態でも反応が格段に良くなる。というのは目で見えていても、触覚から得る情報がどれほど多く、それを無意識に扱っているかという事を学ぶから、と師範が言っていた。実際にやって、目隠し状態の師範に押さえ込まれたのは、でもリーチの差だと思った。
最初の分岐は二つ、上を取って手首を押さえるか、下から入って肘を押さえるか。
向きを合わせながら肩、首というように入っていって、急所を取って倒すか極める。
入り方も二つ、だいたい体の正面側の百八十度、背面側の百八十度を、それぞれホットゾーン、コールドゾーンって言うけど、古武道で温帯、冷帯とは言わないんだっけ、と意味のない事を考える。手を変え、上から手首を引っ張られる。正面側、反射的に左手を出して、克聖の右手を掴み返した。打撃は、寸止め。喉元に手刀が飛んで来たと思った瞬間、左肘を起点にして落とされる。受け身、受け身。倒れてから自由になった左手が地面を見つけて触れた。
土は固く、湿っていて冷たかった。
両手に何かを持ったら安心するからと、初心者同士では膠着状態になりがちだ。
すぐに放り出されたので、地面に手を付いて立ち上がった。「もう一回やる」
「いい。しろ弱いから」
「あと打撃は反則じゃないの?」
とはいえ、見えてる状態だったら危なくないし、負け惜しみみたいになってしまった。
もう一度、背中を合わせて立った。
面倒くさがって、さっさと振り返る克聖、慌てて追い掛けると、手首同士が当たった。
右と右、交差した時は特に、基本的には背面の取り合いになる。相手が押して来る時、往なすにしろ、止めるにしろ、より接近する事で接触面は増える。逆に後ろへ引く場合、どこまで追うべきか迷う事がある。離れる瞬間、相手の位置は一寸先も、一間先も変わらない。そこで妙な引っ掛かりを感じた。足の小指側、スニーカーが小石か、何かに取られているなら、それは相手の靴だ。道場には無い物。いや、あったのかもしれない。袴とか、裾とか、指とか、爪とか。足から取れる情報は少なくない。恐れず手を離して、私は更に前へ踏み込んでいた。
肺が揺れる衝撃、詰まった息が咳になる、どっ……、という衝撃が口から洩れた。
腕に、胸に、大きな物が当たって、思わず掻き抱いてしまい、抵抗される。
「うわ、かつ近すぎる。寄り過ぎちゃったのか、ごめんごめん」
胸元でもぞもぞ動き、かつが言った。「離せって」
「いいじゃん。あー、あったかい。やっぱ中学のウィンブレが一番あったかいな」
「そんな事ないって」悪態のような言葉を吐き、私の腕を掴む指の力が少しずつ、少しだけ弱くなった。頭を、やたらゴリゴリ押し付けて来る。嫌悪を、わざと示して、自分自身にそう信じ込ませようという、その情報は深読みをし過ぎだろうか。「胸硬い、全然ないんだな」
胸筋なら、ある。いや、そんなには無い。でもそうじゃなかったら、何。
「それは高校卒業してすぐの時に着替え覗いた時と変わってないって意味で?」
「違う、あれはたまたま間違えて入っただけで」
「そうそう、洸介にそそのかされて偶然見に来ちゃっただけで興味ないもんね」
「だから、急な用事があるって、呼んで来いって洸介に言われて」
「覗くっていう用事でね。かつは大きくなったね。ずなちゃんの身長超えてそう」
その時、顔を深く埋めようとして、克聖は何も答えてくれなかった。代わりに、草を踏む音が聴こえた。近づいて来る、小さな、幅の狭い足音に、かつの肩が震えた。お互いに、お互いを突き飛ばし、二、三歩よろけながら見ると克聖の母親が居た。「克聖、練習終わった?」
「終わった。今何時?」
「うん、半過ぎたね。ちょっと遅くなっちゃった。しろちゃん?」
「はい。あ、私一人で帰れるんで。大丈夫です」
「そう」克聖が荷物を引っ掴み、母親の近く、真横じゃない辺りに行って、先に歩き出そうとしていた。母親はふと振り返り、言った。「あんまりベタベタしないでね。もう子供じゃないんだから。じゃあ、またね」最後まで目が合わなかったのは、私が克聖を見ていたからだ。
少し気圧される。「はい。あ、かつって明日とか用事あるんだっけ?」
「学校」と克聖が最も忌々しい物の名前を吐き捨てた。「もう始まってる」
去り際、明らかな侮蔑の込められた視線を、いつかどこかでも見たような気がした。
それは私的な感情ではなく、無職全般に向けられる社会全体の態度だ。誰しも本人が近しい誰かを本気で嫌ってるわけじゃなく、娘が父親を嫌うように、犬が風呂を嫌うように、剣が長物を嫌うように、有職は無職に対して生理的に忌避感を覚え、あるいは覚えなくても本能で避ける。辛かったり、怖かったりする物のように、嫌う事を楽しんでいるのかもしれない。
卒業後すぐの五月、連休明けの平日、あの頃もずなちゃんが家に帰ったら私が居た。
上下とも中学の体操着、白いシャツ、紺のハーパンという恰好で、ソファとコタツの間で絨毯の上に寝転がっていた。部屋に籠らないのは、自室を除いた家の大部分から排除されたくないからだった。今より少し髪が長くて、鬱陶しいから中学生みたいに一つ結びにしていた。
「おかえりー、はいただいま」と私は半ば夢の中から言って目を覚ました。
「え、今日ずっと家居たの?」と貶されたので、自分で返しておいて良かった。
ドアの所には制服姿のずなちゃんが、リュックサックを片手に持って立っていた。
両向き二十本、紺色のプリーツスカートは三回は折られ、薄手の黒タイツが両脚を包んでいた。暖かい日だったと思うけど、その頃はタイツが一番カワイイと語って、ほぼ毎日、左右で色が違うのとかも履いてたっけ。ずなちゃんは「ほぼニートだ。そんな人村に居ないよ」と吐き捨て、リュックサックをソファに放り出して台所に向かった。そうなんだ、居ないんだ。
たとえば秋津愁生は当時、小さい頃に遊んで貰った記憶もない、存在しない人だった。
肘を突いて、背中から上だけを少し持ち上げて、私は台所の方を見た。
「明日、か明後日かはあれ、倉庫の掃除手伝えって頼まれてるから」と言った。
「そんなの、学校終わってからでも出来そう」
「お昼だから無理」と口が先に動いてから、余計な事を言ったと思った。
豆乳のパックとミニボウル、フルグラの袋を持って来たずなちゃんが、コタツの上で盛り付け、手に持ったレンゲでそのまま私の顔を指した。「学校でも、お姉ちゃん最近どうしてるのって聞かれる。何て答えたらいいか分からなくて、フリーターって言ってるけど、いい?」
「合ってる。学校ではお姉ちゃんって言ってる?」
「周りが!」と強い声で否定し、まだ固い乾燥フルーツや大麦を噛んだ。
「そっか。あと一、二年だし、そういうの聞かれるの。いいよ適当で」
いきなり空のカップ、スプーンを顔の前に置かれ、肩を揺すられた。起き上がると、袋を押し付けて来て「食べる?」と聞かれる。上の方が薄くなって、少し動かしたら中で音が鳴るのは、つまりそういう事だけど、せっかくだから二口、三口程度、皿に盛って豆乳を掛けた。
「本当は牛乳がいいよね」
「じゃあ買えば?」また噛んで、また噛んだ。もう半分も残ってない。次に掬った豆乳を、ずなちゃんは音を立てずに啜った。「あんま印象無いだけだからね。しろちゃん、なんか背が高くてカッコいい系って思われてるから、姉妹並んだら見映え良いねって。ほら、たまたま良く撮れた写真、あれだけ見せたから。こんな、昼間からゴロゴロしてる所見せてやりたいよ」
「写真撮ろっか」
「せめて着替えて」
「じゃ、後でいいや」
二人とも食べ終わるまで、もうあと二分と掛からなかった。ずなちゃんが食器を下げ、冷蔵庫に戻し、カップとスプーンを見せたら「自分でやって」と怒って、さっさと部屋に戻ってしまった。昼間からって、もう三時過ぎだけど、高校生が帰るには早い時間だ。もっと寄り道するとか、部活や委員会に参加するとか、すればいいのにと思った。すぐ帰って、甘い物を食べて、自分の部屋に引っ込んで、無職の姉より不健全な生活を送ってるようだから、何か言いたくなって、部屋に行ったら大抵は勉強してた。まあでも場所が問題だ。勉強は友達とした方がいい。二人で勉強しようなんて、勉強が出来ないんだから、私から言い出せるわけがない。
そういえば写真を撮るのも結局、忘れてた。きっと着替えるのを忘れてたからだ。
一月の下旬、ちゃんと寒い時期に、毛布とカバーを重ねたコタツに手を入れ、遠赤外線に温まりながら、つまらない昼の番組を見ていると、そんな時の事を思い出した。コタツに一緒に入ったら足を押し合い、蹴り合い、陰陽のマークに棲み分けるまで、仲良くケンカをしてアザを作った事もあった。大沢可知哉は足先で腿の裏をなぞって来るだけなので、蹴ればいい。
大沢家のテレビは五十インチの大型、テレビ台のキャスターで畳が沈んでいる。
「ごめんね、せっかく来てもらったのに、お父さん、風があると体痛いって言うから」
湯呑をお盆に乗せながら、大沢可知哉の奥さんが明るい声で言った。
「パルか何か付けて無理矢理動かしたらいいんだと思います、あんなのは」
「やーだよ。シロちゃん、マッサージしてくれんか。力強いだろ」
「腱とか切っちゃったら気持ち悪いし」
「いいのよ。電動のがあるから」奥さんの視線の先には、腕や足をベルトで拘束し、電流を流す為だけにあるような、やたらに嵩張る機械が落ちていた。どこも黒く、スイッチの鮮やか過ぎる赤色が余計に恐ろしい。「お餅食べる? お正月に貰ったのがまだ余ってるんだけど」
「一個だけ。あ、やっぱり二個でもいいですか」
「オレも二個。小さく切ってくれ。喉に詰まるからな」
「はいはい」奥さんが台所に入ると、大沢可知哉は全身の力を振り絞って、やっと畳から体を起こすと、折って枕にしていた座布団を広げ、少しずつ尻を乗せた。テレビから私の方に目を動かし、その脇に置いてある物に目を止める。「刀あんじゃんか」と大沢可知哉が言った。
脇差くらいの長さ、身幅が広く、反りが深い巴型の、黒い鞘が畳に置かれている。
片手持ちの細く、長めの柄にベルトが巻かれ、柄頭は小指側に少し太くなっている。
柄の上端、下端の部分には、後ろ側にも輪の付いた8の字型の金輪が嵌められている。
金輪の上に、長方形の小さな鍔が付いていた。「貸してみな」と大沢可知哉が横柄に言うので、取って畳の上を滑らせると、あぶないあぶないと言いながら鞘の先を手で押さえた。鞘を払い、古い蛍光灯、埃みたいな色、その光を当てて菖蒲造りの刀身を見た。「あんまり物は良くねえな。このリングは、紐でも通して手に固定するんか。関節ごと行かれそうだな」
「柄を差して長物にするんだよ。見たから分かるけど薙刀だから」
「これにか」握ったまま、金輪から奥の金輪を覗き込んだ。「この重さをか」
「長い方が振りやすいんじゃないの。だから今ちょうどいい柄がないか探してるんだけど」
「納屋の方にあっただろう。棒か何か、これに使うんだったら好きに持ってけよ」
握力は衰え、コタツの上で震える切っ先、今にも天板が真っ二つになりそうだ。浅黒く焼けた皮膚、絡まる皺の奥に隠れた双眸、そこには興奮も感動も埋まっていない。全ての物の、断ち切られた線の上に、たまたまそれがあったかのように、大沢可知哉は刃物を見ていた。
「ちょっとお父さん、危ないからそんな物しまってよ」
お盆を持って来た奥さんは、ちょっと腰で押し退けるように、刀を片付けさせた。
お皿に膨れた切り餅が二個、ほぼ同じ量を切り分けた物が八個、それぞれ載せられ、焼き海苔と醤油差し、きな粉と砂糖とチーズと、マヨネーズはエプロンのポケットから出て来た。冷やされすぎて、プラ容器の表面はうっすら結露し、触るとそこまで冷たくはなかった。
「チーズはおまえ、焼く時に乗せないとダメだろう」
「ごめんなさい、何付けて食べるか先に聞いとけば良かった」
「別に溶けてなくてもいいけど。いただきます」
「はい。飲み物はまだあるわね」
無言で餅を噛み、その間に奥さんは自分の分も焼いて来て、食べ終わると大沢可知哉はパッチ二枚にセーターとコートを重ね、分厚い靴下を履いて、電気懐炉をポケットに詰め込んで先に外に出ていた。お皿を片付けて、自分も外に出てから、コートを持って来れば良かったと後悔した。肌に突き刺さる寒気も、風が無ければ束になったまま、氷の壁に押し付けるように体が冷える。一瞬、悪寒が駆け抜ける寒さじゃない。靴底や衣服を貫通して、少しずつ温度が下がっていく嫌な寒さだ。大沢可知哉の姿は見当たらず、とりあえず納屋に向かって歩いた。
倉庫内は薄暗く、顔の高さに吊るされた裸電球の光と熱は、焼けた紙のようだ。
動くと砂と埃の臭いが舞って、それが体に染み込んでいく感触が分かった。
大沢可知哉は壁の近くで拳のように体を丸め、そこに掛かっている木柄を手に取った。
「断面は、八角形か? 円か、楕円の方がいいのか? 先は細くなってる方がいいのか?」
持っていた刀を電球に近づけ、柄頭の方から見てみる。「入れた事なくて」
「なんかあるだろ。帰り道に拾った棒入れて振り回したりしてないんか」
「小学生の頃はしたかもしれないけど。その、長いのは」
「おう、これか」棒を手に取った大沢可知哉が、棒の中程を両手で持ち、軽く下ろすように中段に構えて、それを回そうとした途端に壁に当たって、すぐやめた。「もう少し短くてもいいんじゃないか。片手で振れるくらいの長さがあれば、最低でも用は足りるはずだからな」
「片手は剣の状態で振るから。柄は長い方が有利なんじゃないの」
「違う、例えば。そうだな、先に剣を付けたとして」右手に棒を持ち、立てて、石突を右脇下から背中に通した。次は、背面に回した左手、それを体の正面に回し、肘に掛けるようにして支え、右手で持って中段に構える。「正面、背面のそれぞれで右手持ち、左手持ちの攻撃も防御も出来るようにすれば、一回何か受けるだけで、その間に空いた手で他の事が出来るな」
「ビリヤードみたいに? やった事ないけど」
「玉撞きは知らんが。肩に担いだり、足も使え。石突に掛けるなり、蹴り上げるなり」
「それ本当?」
「実戦で斬れれば本当になる。ああ、こっちのがいいな。一メートルないくらいか」
それを大沢可知哉が金輪に合わせて少し削って、柄の方に固定用の穴も開けてくれた。
その後も家に行って、作業を手伝ったりはしたけど、暖かくなる前に行かなくなった。
春頃、大沢可知哉は失踪した。
今になれば、どういう事か分かる。あの四人以外には、彼を襲うような物は寄る年波と病魔くらいしかなく、見た目に反して健康体、車だって安全ノロノロ運転で、事故も起こさない人だった。この村を囲む自然すらも味方、となれば外部の人間に襲われたと村の誰もが考えるだろう。今となってはそう考えるだろうけど、消えてすぐの頃は、村の人と一緒に大沢可知哉を捜索した四人の事を、疑っている暇はなかった。暇があれば、私は何だってしただろう。
出勤前の忙しい朝でも、交番に駆け込むくらいの事はするわけだ。
神辺さんは受話器を取り、耳に当てると、数字に触れる事なく置き直した。
「線がやられてるようだ。昨日は……使ってないな」そう言うと、神辺さんは携帯電話を取り出し、こっちに手だけで待ての合図をして、繋がるのを待った。「あぁ、張井さんですか。応援お願いします。村内で不審者を目撃、住民が襲われた可能性あり。ホシは二人、乃至四人、外国人移住者です。……そうですが、半年以上問題なく、ええ。分かりました、住所は」
片手で引き出しのファイルを取り出し、一回、二回捲ってその終わりの方を開いた。
「おれ分かるけど」と仁太が言った。
ファイルを覗き込もうとするのを、神辺さんはなおざりに頷いて止めただけだった。
住所、家族構成、年齢。それから「目撃者は子供が二人。これから家まで送り届ける必要があります」と言う時、私と仁太に一瞥し、その面倒そうな、退屈そうな気色とは裏腹に、空いた方の手で着々と動き出す準備を始めていた。ぼんやりと突っ立っている二人に、指示を出せない事にやきもきしている、という顔かもしれない。動くポーズを取ろうにも、何をするのかも分からないから、とりあえず端に避け、仁太を端に避けさせ、目の前を神辺さんが通る。
ラーメン屋みたいな『外出中 連絡はこちら』の札を掛け、戸口に立った。
「何をしてるんだ。二人とも送るから、早くパトカーに乗りなさい」
と言ってもハイブリッドの小型パトカーで、後部座席に二人座ると、間にもう一人座るには狭い隙間が出来た。窓の外、交番が後ろに流れて、走って来たばかりの道を車が引き返して行った。「先にナナカマドに寄ってくから、二人とも車から降りないように」店の前の駐車場には、既にパトカーが停まっていた。一人が無線で連絡、もう一人が神辺さんと話し、こちらのパトカーのドアを開けた。青い制服を着た、まだ三十歳くらいの小柄な男性巡査だった。
状況。状況を聞かれて、すぐに仁太が答える。
「店に誰も居ないから、外出たら家の裏で何か動いて、しろと見に行っただけ」
「動いた物?」
「猿が出たんだと思って。そしたら、あの外人の、キタとニシがじいちゃんを」
「キタが先に逃げて、ニシの方が包丁を持って向かって来たんです」と一つ飛ばして続きを答えた。男性巡査は、今居る二人を見ながら、無事だったのか、刺されたりしたのか、心配するような目付きをして、脇腹や喉元を覗き込んで来た。「それで、仁太が店からスリングライフルを持ってきて、あと斧か、それで、一応あっちが降参みたいになったんですけど、あとの三人はどこって聞いたら、ニシがスマホを出して、林の方に投げて、そのまま逃げました」
「二対一でも、刃物持った人間と正面から戦おうとするのは良くないな」
「だってじいちゃんが」仁太が拗ねたような声を出した。
「そのじいちゃんっていうのが、戸波犀一さんか、どこにも居ないんだ、心当たりは?」
「家の裏は?」
「血痕と、壁に弾痕はあった。スリングライフルの弾も。足跡も、柔らかい地面にだけど、何人か動き回った跡、それと何か引きずったような跡も、こっちは家の表側に続いてた。これから家の中を捜索するつもりだけど、どっちか、えーっと……朱田さん? スマホの場所を教えてもらえる?」車から顔を出して、男性巡査は店を見上げる。「林の中に投げたっていう」
仁太を車内に残し、家の裏手に回ると、ついさっきの光景が脳裏を走った。
斜面の林を指差すと、男性巡査がその辺りに入ってライトで地面を照らした。「回収されてるかもしれないなあ」と呟いた二秒後、急に屈んで何かを拾うと戻って来て、画面が真っ暗なスマホを私に見せてきた。「これかな。とりあえず中を調べて、何か分かるといいけど」
神辺さんと、もう一人は店の中に入って何かを調べてるみたいだった。
引きずった跡は店の表に続いていて、コンクリートの上に流れた砂利と枯れ葉が、半開きになったガラス戸の方に向いていた。「おう、何かあったか?」と神辺さんが顔を上げて、そこにスマホが突き出された。受け取ろうとした、その手を引いてジップロックを取り出した。
「解析はここでは無理だな。こっちは、マルビーは無し。たぶん一階、台所か風呂場か」
「ボディ、死体の事だよ」ともう一人が言った。
ちょうど手斧、鉈、シャベルなんかを見ている所に、三人の警官の視線が集中した。
「ん、一緒に来たのか。車に戻ってなさい。少し調べたら家まで送るから」
「仁太も? 家まで送るんですか?」
「ああ、一旦そうなるな」神辺さんが立ち上がり、言った。「もうすぐ、五分十分で応援が来るだろうから、二人は、家の周りを警戒。人が来ても中には入れないように」小柄な男性巡査と、もう一人が外に出る、と店の前に、もう一つの影がどこかから現れた。その瞬間、その場所に、降って来たみたいで、それは降って来たのだ。一人の喉笛を掻き切り、もう一人の腕と脇と、背後に回って脇腹と首筋に素早く包丁が走り抜けた。「な、……どこから湧いた!」
警棒を抜きながら、神辺さんが外に向かって駆け出した。
倒れた警官の下半身を弄っていたキタは、素早く立ち上がり、包丁を逆手に構えた。
拳銃。五連発の、Jフレームのリボルバーが三挺で十五発分、ここにはあって、その内の二挺がたった今無力化された。神辺さんも一度、拳銃を抜く素振りを見せたけど、射線を、店にも車にも通さずに、しかも距離を取ろうとして、その間に拳銃を奪われたら元も子もないだろう。キタは倒れた警官に足先で触れながら、彼自身は少しずつ後退しているようだった。
そこに音が、爆音が聞こえた。摩擦と、唸り声が重なるような不快な騒音。
小型パトカーが坂道を勢いよくバックしていった。
神辺さんが目を、顔を向けそうになる。仁太は運転席に座り、エンジンが掛かったままの小型パトカーを、今度は急発進させた。オートマだからとか、それで良いとか悪いとかいう話ではない。建物に迫る、仁太の目を見れば絶対にそれをしただろうとしか思わなかった。小型パトカーは警官の体を踏み、神辺さんを弾き飛ばし、キタの体をガラスに押し付け、破片の中に巻き込み、棚と車体の間に押し潰した。断末魔の悲鳴も上げず、キタは潰れた臓器から赤黒い血を吐き出した。ガラス片に紛れて包丁が落ちていた。車はレジになっているカウンターに向かってタイヤを空転させ続け、キタの体はどんどん薄くなって棚と一体化しそうだった。
「このフックで、カタナをコントロールしてタチ回るのでは」
その陰気なキタが珍しく師範に質問した時、手には練習用の木十手を持っていた。
彼が手を回す動作は、大陸系の古武術のようだ。受ける手は右から左、左から右に移り変わり、そうやって関節を辿っていく星座のような技は、破壊よりも制圧に重きを置いていた。その使われる武器も鎌や、要するに農具、だからヌンチャクとかもあるのかもしれない。短い棒を紐で繋ぎ、それを振ったり、指を挟んで痛め付ける武器、以外の用途はよく分からない。
十手とは特に関係はない。十手を二振り、紐で繋いだ武器は、たぶん無い。
「そういう武具と、技もあるにはあるんですけどね」と師範は言った。
何よりキタの動きの中で、攻撃の動作は刺突が多く、短棒の技ではなかった。
師範はキタの突きを逸らし、言った。「ここでは複数対複数で、素早く無傷で制圧する事を目的としています。当時の同心は武器を奪っても使えないし、だったら一緒に倒しても変わりません。それに動きの幅を複雑にしたくないので、テレビのパフォーマンスのように大きく立ち回る事もしません。あくまでこれは刀に対処する最小限の打撃武器として考えています」
帯に差しておく為のフックとも言われていますね、と言い、師範がそれを実践した。
それだけなら、十字型にしてもいいのではって、前に話したような気がした。
レイピア。サイ。マンゴーシュ。プッシュダガー。トンファー。要するにサブヒルト。
指を掛ける為のフックやリング、それ自体をして凶器と見做されるほど、重要な起点だ。
起点、それが手首であればどうしたって力の届かない角度があるけど、短棒はそこに関節を一個、増設したような攻撃、防御を行う物で、その制圧する範囲は刃渡りのそれではなく、伸びた分の半径に収まる球状の全て、までは無いけど、しかし格段に広がる。排他的経済水域のように、あるいは公海のように、当然それだけ守らないといけない範囲も増えるって事だ。
「技毎に順手、逆手の持ち方があり、それが右手、左手によって変わる、分かりますか?」
「テキが、どこから来てもいいように」
「それも惜しいですが。まあつまり言いたいのは、自分が、敵をどこに置いてもいいようにですね。違うと言えば、違います」右手から左手に、師範が木十手を持ち替える。「戦いの最中に、こんな風に動かしている暇はありません。それで同じように技を繰り出すには、だから技を受ける相手にとって、いつも同じ動きになるように繰り出す必要があるというわけです」
当然かっこつけたいからというだけの理由で逆手に持ったりするわけではない。
私は棒を構え、サンドバッグに向かって袈裟懸け、左右を替えて逆袈裟に打ち込んだ。
脛。とにかく脛斬りに慣れないといけない。
何しろ上から下に振ろうとすると動きが読みやすく、克聖にもそれを指摘された。
その動作を簡潔に、あまりにも簡潔すぎる説明をするのに、師範はそれを片手武器のように扱えばいいと言った。前後の手は、長物を持っているのではなく、前に長剣、後ろにその鏡像を持つようにと。分からないけど、とにかく振る事しか出来ない。それで言えば、鏡の中に映る自分を見ながら、その反転した動作、石突の方を振るうような感覚にはならなかった。
「長柄の間合いで読まれても一手で入っては来られないと思うけどね」
何だったら克聖から一本取ってやろうと大口を叩いても本人は乗って来なかった。
「でも上段下段が分かったら、長柄の意味も無いっていうか」沈黙があり、試しに私は棒を打ち込もうとすると、上、と後ろから声をぶつけられ、思わず腕を伸ばし、フローリングのすれすれに棒を扱き出していた。動きが死んでいる、と自分でも分かったけど、直前で避けたと覚られるのが嫌すぎて、背後を睨み返した。「今の、途中まで上だった」と克聖が言った。
「途中まで上に見せかけた下だっただけ。かつさあ、十手やらないの?」
稽古場の方を見ながら、口元をまごつかせる。「別に、興味ないから」そして、そっちこそどうなんだ、と言いたげな視線が私を見上げ、すぐに逸らされた。わざわざストーブを持ち込んで、トレーニングルームでサンドバッグを打ち続けている人を、ただ見ているだけの人はよっぽど暇そうだけど、追い出す気にもなれない。「それ、上?」でも注意もされたくない。
「かつさあ、明日って暇? 土曜」
「何も無いけど、なに?」
「あー、じゃあ。家って誰か居る?」また、打ち込む。「ふっ、……これは?」
「上でも下でもない」と克聖が言ったから、たぶん胴だったんだろう。「来るの?」
「行くかも」思案しながらまだ、行ってはいけないという別の意見も手放せない。
「明日は、出掛けてると思うけど。来るんだったら」その声が途切れ、息を呑むような気配がしたので振り返ると、引き戸の隙間に胴着と袴姿のニシが立っていた。背に受けた照明、逆光で表情は見えないけど、薄笑いを浮かべてるようで、鋭い歯が少しだけ光っていた。手には木十手を逆手に持って、そのまま戸に体重を預けていた。「何ですか、ニシ……ヒガシ?」
「私はニシ。持ってるそれは、槍か。スピア、パイク?」
「なぎなたを、やろうと思ってて。十手やってるんですね、いきなり」
「ベースは変わらない。もっとムズかしい物かと思ってた」
ベースを、持ってるのか。
帯に木十手を差し、貸して欲しいと言われたので、ニシに棒を手渡した。
六尺棒は、断面が八角形、全長が約百八十センチメートルで、重量もスタンスを広く取らないと持っているだけで疲れるほどだった。拳銃の一キロや、刀の二キロよりは、まだ構えていられるけど、石突を地面に置くような構えもある。垂直に立てて持つ構えもある。疲れないように、静と動を切り替える技術は既に考えられたもので、その上で楽をしようと思い悩む必要もないわけだ。「技だったら」箱に入ってた金属の十手を取り、サンドバッグを打ちまくっているニシの斜め後ろに近づいた。その長い棒を大振りしているだけの動作は、物干竿、と呼ぶに相応しくて、何の技術も感じられなかった。ニシが手を止めて、私に棒の先を向けた。
ニシが私の十手を物珍しそうに見ている。
三日月形に湾曲した、爪のような三本の鈎が付いていて、それはサイにも似ていた。
「それ、ゆっくり突いてもらって」
逆手の十手で棒を逸らし、内に入って手を押さえ、手首に鈎を合わせて押し込んだ。
「うう、いいぃっ、待て、ウェイト。なに」
固定された手首は、肘、肩を道連れに落ちて、右足からニシの姿勢は崩れていった。
「この鈎で、こうやって関節の弱いところを突いたりとか」棒を肩に掛け、ニシが親指の付け根辺りを手で庇っていた。「ナイフとか相手に、咄嗟にやるなら結構効果的だったりする、かもしれない。打突以外で制圧するなら、だけど。こういうの、綺麗に受け身取らせる為にやられるんです。綺麗なら、どっちも痛くならないんで」棒を受け取りながら、私は言った。
ニシはやられてない方の手に自分の木十手を当てて、痛い部分を探していた。
「自分でやっても上手くは出来ないと思いますけど」
「すごい。このムラの人。みんなドージョーで習った?」
「まあ、ほぼ。赤ちゃんとかお年寄りのお世話しないといけない人以外は通ってます」
「毎日通ってる人は少ないだろ」と克聖が言った。「俺だって、来年は受験あるから」
「そうだね。私くらい暇じゃないとね」答えると、克聖が余計に不満そうな顔を見せる。
「そういう意味じゃないけど」
「最近だと、井戸さんもあんまり見かけないけど」克聖は首を傾げ、当然ニシは何も反応しなかった。引き戸の隙間から覗いても、薄い鞄を背負った小柄な女性の姿はなく、まして井戸のおじさんの姿はどこにもなかった。「なんか、心配だから様子見に行くって話してたな」
ニシは、勉強だった、と言い残し、稽古場の方へ戻っていった。
その時は何も思わなかったけど、もしかしたら、って思う事はある。
そうだ、きっと。井戸のおじさんも、やっぱりもう始末されてしまったんだ。
応援のパトカーに乗せられ、神辺さんと仁太は病院に、私は自宅に送り届けられた。
ナナカマド商店と、奥の自宅は厳重警戒となり、黄色いテープで封鎖された。屋内を捜索した警察官が、台所や浴室で、戸波犀一の死体を発見したかもしれない。そこまでは、もう漏れ聞こえて来る事も、もちろん私に教えてくれる事も無かった。家から出ないように、とだけ念を押されて、パトカーは引き返していった。玄関の鍵を閉める。さてと、散らかった靴を蹴り除け、沓脱ぎ場の真ん中に立ったまま、無人の家に耳を澄まして改めて思考を整理する。
ここに来る途中、車内から道の脇に目を流していた時に、克聖の自転車を見つけた。
振り返った時には、茂みの中を下っていく砂利道は遥か後方に見えなくなり、わざわざ引き返して貰う事も出来なかった。でも、確かに見覚えがあった。白いヘルメット、赤い駐輪許可シール、荷台に括り付けられた通学カバンは青くて、保之函分校でも使われる物だった。
そして自転車の、誰の物とも言えないような簡素な外観が、何よりの証拠だ。村の中では珍しく、ハンドルカバーも、リアビューミラーも、前後に子供用の座席も付いてないのは、中学生の通学用の自転車だからに違いないし、そして持ち主が居なかった理由も今なら分かる。
分かってはいけないけど、分かる気がする。もうすぐ母が帰って来る。
家の中で待っていれば、危ない目には遭わないで済むだろうけど。
部屋から剣を取って来て、また玄関に下りて、考える。私が助けに行く必要はない。仁太が居なければ、まず家の裏を確かめる事も無かったけど、さっきは私が刺されてたかもしれないのだ。飛び道具は無い。持って来ようにも、あんな物の携帯を、警察の人達が認めてくれるとは思えなかった。あとは手元に剣と、探しても木刀とか、木十手くらいしかないだろう。
襲われたのなら、心許ないけど、そうじゃないなら、やっぱり心許ないけど。
それに何より克聖が私に助けられたいかは、もはや考えてる場合でもない。
メモを残す、すぐに戻ります、と。日付、時間、名前も。
ずなちゃんみたいに黙って遠くに行って、そのまま帰って来なくなるわけでもない。
玄関を閉めると、独特の低く唸る音が空を揺らし、緊急放送が始まった。『保之函村役場が不審者情報をお報せします。本日、午前七時八分頃、保之函村区内で、刃物を持った男が住人を襲ったとの通報がありました。男の特徴は、年齢二十代から三十代くらい、短髪で色黒、◯せ型の、アジア系の外国人で、複数人で行動しているとの事です。身の安全を守り、不審な人物を見かけた際は花間警察署までご連絡ください。繰り返します。本日、午前七時八分頃』
剣を、更にその上からバットか何かのケースに入れた物を、肩に深く掛け直した。
肩の後ろに手を回し、ファスナーのつまみに触れる。金属の、抜け落ちた前歯のような、分厚くて冷たい感触を確かめて、それで良しとした。咄嗟に、ファスナーを開けてから、剣の鞘を払う事が一瞬で出来るわけじゃない。鞘を入れ物とするかどうかは、あくまで使用者の肌感覚の問題だろうけど、でもこんな物を剥き出しで持ってたら、それこそ不審な人物だろう。
表の道に出て左右を、たとえば母の車とか、父の姿が現れないかと何度も確認した。
自転車を見かけたのは、どこだったか、走ってる途中の所だった。
村内の主な道は一本、方向は自宅からナナカマドまで、歩いてれば見つかるはずだ。
何かの音が不意に、足、いや頭の方に、衝撃。いや、見ようとすると目の前は真っ暗で。
消えている。何もかも。暗い……痛みが、ある。
去年、二度目に呼ばれた時は、私が車を運転して父と母と三人で警察署に向かった。
冷たい通路の奥、階段を上って捜査本部とかが設置されそうな会議室に入ると、学校の教室みたいに長机が横縞に並べられ、真っ白なホワイトボードが正面にあった。その中央付近の左側の机に、私と母と父と、対面に刑事と婦警が座って、捜査の進展について、つまりほとんど何も進んでいない事を聞かされた。前回と同じ、悪徳スカウトに騙され、傷物にされ、心を病んで入水という結論。それを受け入れて貰いたがっているように性急な説明を受け、父も母も何も言わなかった。分からないのは、と刑事は言った。「その、いわゆる芸能事務所でね」
「何かあったんですか」と不安そうに父が聞き返した。
「犯罪組織が絡んでいる。と前にも話したと思うんだが、その構成員が首無し死体で見つかった件は、ああ。ご存じで。こちらの件で少し聞きたい事があって。保之函村には剣術道場があるそうだけど、そこでは三十から五十センチメートル程度の、匕首……脇差か、そういった物を扱う事はあるのか、と。それから、自由に持ち出す事は出来るのか。ここ最近の内に紛失した物はあるのか、よろしければ答えて頂いても? それとも直接道場に伺った方が?」
「あ、いえ。まず家ではそういう物は所有していませんけど」
「それについては事前に許可申請を調べてあるので。確か道場の方には複数」
「しろ」肘で突かれ、私は意識を取り戻した。「どうだったっけ?」
何か、言ってはいけない事があるような気がする、世間的に。それが何か分からない。
「え、飾ってあるのとか、鍵付きのケースと、あとは壁に掛けてあるのもある。鍵は師範が管理してるし、セキュリティもしっかりしてるけど、正直道場が開いてる間は全然、自由に持ち出そうと思えば持ち出せるけど。でも刃物だけじゃなくて鉄製の、棍棒とかもあるから」
「最近何か無くなったとか、そういう話は」
「ない……無いです。他の人も個人で持ってたり、作ったりもするから、そういうのは」
「それが無くなったかは分からないか」
「それはその人に聞かないと」
「作るっていうのは、どの程度の物を」
「木を削って、ちょうどいい長さにして、先を尖らせたりしただけでも武器になるけど」そんな答えは求めてないだろうけど、まさか鍛冶製鉄をやってるわけでもないし、これより他に言う事も思い付かなかった。それだって別に、工具とか農具でも、そういう風に使おうと思えば使えるけど、だからって各家庭にある首を切った工具とか農具を探すわけにもいかない。
出て来てしまったら、なんか、それは良くないからだ。
「それについては、そこまで疑っているわけでもないので、話半分にでも」
「あの、その事件に、何らかの形で娘が巻き込まれた、みたいな」
「そこはまあ、文字通り口なしでは調べようもないとはいえ、お嬢さんの件はやはり結果的に自殺という事で処理されるだろうね。もしかしたら、お嬢さんが三人の首を斬り、それをどこかに隠すなり処分するなりして、そのまま海に飛び込んだ、という可能性もなくはないが」
ゼロではない事は無数にある。天使が降りて来て三人を斬ったでも、何でも。
父は困惑した。「あの、次女の方は道場には通っていなくて、そういう武器なんかも」
「共犯者……と言うと正確ではないが、お嬢さんの件がきっかけで起こった可能性はある」
驚く事に、刑事は黒い小さな手帳を開いて、メモを見返していた。
警察手帳、なのか知らないけど、そのサイズ感と手書きに愛着があるようだ。
「きっかけ」
「もちろん」と父の顔を見ながら刑事がすぐに否定する。「ご家族が昨年八月、市内からも出ていない事は確認しているし、もし現場周辺に居たのなら、お嬢さんを連れ戻したり、まず探し回ったりしていただろうから、そこに関しては疑っていない。自宅から遠く離れた都会で、生首を三つも隠すなり処分するなりが出来るとも思えない。ただ、お嬢さんの件以外も、かき集めれば全部あの村の中に収まってしまいそうな、そういう感触があるというだけの話だ」
「我々家族にとっては」と父は言った。「娘の事だけが全てですから」
「あの。前来た時は、妹が脅されて、動画撮られたって言ってたと思うんですけど」
「動画、言ったかな」
「スカウトのフリをして、無理矢理って」
「出演契約を迫って、そのままアダルトコンテンツに、という話ですね」と婦警が言った。
「ああ、その、動画自体はまだ見つかっていない。一応最期の姿ではあるが、観たいとは思わないだろうし、あったとしても、あんまり観ない方がいいだろう。もし複製されたり、ネットに流出していないなら、首切りの犯人が持っている……いや、空想の話はやめておこう。一応このように」と横を手で指し、言った。「同性の警官が内容を確認してから、実際にご家族がそれを観るかどうかはご自身の判断で決めて貰おうと思うがね、決して無理強いはしない」
「まあ、それは」と父が母を見て、母が曖昧に頷き、私を見て泣き笑いの顔をした。
私は映像を鮮明に脳裏に描き出し、思った。本人が見て欲しいか、欲しくないか、あの映像だけでは本当に判断する事が出来ない。烏川昂大から貰った動画データをタブレットに移しただけで、ストレージ容量は赤いゲージが伸びきって、それからはアプリやゲームを削除して、毎晩その動画だけを何度も見返すようになった。ずなちゃんの本当の望みを探る為に、動画が撮られた本当の理由を探る為に、あわよくば、本当はそれがずなちゃんの動画ではない事を探る為に。たとえば、試しに海外サイトや違法アップロードを慎重に調べ、私の名前に似せた偽名なんかを検索してみたけど、二度と、いや、私は一度もその動画を見つけられなかった。
それから年が明けて一月も半ばになると、警察にも呼ばれなくなった事に気付いた。
挨拶がてらに連絡でもすれば、たとえば捜査が進展していないような話を、あの刑事がそれとなく教えてはくれただろう。それは私や両親や村の人達が知りたい事じゃない。誰も、何も知りたくない。嘘だったとしたら、私達の方が、何かを喪って悲しんでいる事が、であって欲しかった。それか神辺さんに聞いてもいい。きっと、嘘は言えない人だと知れただろう。
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