第3話

 旧校舎へと続く渡り廊下は、まるで別世界への通路のように薄暗かった。

 普段は誰も通らないその通路を歩いていると、それだけでホラー小説の主人公になったような気分になる。

 ガラス窓の向こうからは、いまだに運動部の掛け声が響いてくる。けれど、窓と壁を一枚隔てただけで、違う世界から聞こえてくる声のように、現実味がない。

 冷房が効いているわけでもないのに、不思議と空気はひんやりとしていた。


 旧校舎へつながる扉は、渡り廊下の突き当たりにある。

 すっかりぼろになった木製の扉で、表面はひび割れ、ところどころ塗装が剥げ落ちていた。斧でも持ってくれば、すぐ壊せそうなほど脆く見えるのに、なぜか開けるのがためらわれるほど重く感じる。

 この扉の向こうは、私の通う学校とは違う世界に通じている――そんな気がした。


 水木先生から預かった鍵を差し込む。

 鍵は案外すんなりと回りだすが、回しきる直前に金属が擦れる音が渡り廊下に静かに響いた。


 ちょうどその時、制服のポケットに入れていたスマホが震えた。

 通知を見ると、桃からのメッセージだった。


「旧校舎、だいじょぶそ? 怖くない? いい写真撮れたら共有ヨロ」


 思わず口元がゆるむ。私は素早く文字を打った。


「ちょうどこれから入る。桃も来ればよかったのに」


「今日はデートだから、ごめんって」


「デート? 彼氏できたの?」


「明日には出来てるかも」


「そかそか。じゃあお互い頑張ろ」


 桃から、不細工なポメラニアンのスタンプが返ってきた。なんだこれ、本当に不細工だ。そう思うと、なんだか少しおかしかった。

 少し空気に気圧されていたけれど、桃とのやり取りが現実に引き戻してくれた。

 よし。自分にそう言い聞かせると、旧校舎の扉に手をかけ、ゆっくりと開いていく。


 中は、想像以上に荒れていた。

 一歩足を踏み入れると、鼻をつくのは古い建物特有のすえた臭いだ。埃が空気中に舞い、光にあたってきらきら光る。

 ……マスクを持ってくればよかった。

 そのとき、不意に声が脳裏によみがえった。


 ―― 「旧校舎は、本当に危ないの」 ――


 不意に、水木先生の真剣な声が頭の中で響いた。先生のあの怯えたような表情がフラッシュバックする。そんな、現実世界にホラーのような恐ろしいことが、起きるわけがない。

 私はぎゅっと手を握り締め、気合いを入れなおして旧校舎を進んでいく。

 窓硝子にはひびが入っており、テープで補修されている。木製の壁はところどころ剥がれていて、手をついたらとげが刺さってしまいそうだ。床にもプリントのような紙屑が無造作に散らばっている。



 通り過ぎる教室の中をのぞきながら進む。音楽室、美術室、理科室と、特殊教室が並んでいる。たしか、水木先生が図書室は一階の突き当りにあると言っていた。慎重に、しかし素早く奥に進んでいく。

 水木先生の言う通り、廊下のいちばん奥に「図書室」と看板の出ている教室があった。

 重た

 い引き戸を慎重に引くと、ギギギ……という嫌な音を立てて扉が開く。


 図書室は、さらに荒れているように見えた。

 本棚はほとんど空で、残っている本も崩れ落ちるように斜めになっている。

 ――本なんか全然ないじゃん! 高端先生の嘘つき!

 怒りというか、絶望というか、そんな感情が湧き上がってくる。

 ……でも、せっかくここまで来たんだから、もう少し調べてみよう。

 図書室に一歩足を踏み入れて、もう少しあたりを観察してみる。すぐ目に入る一般書架は、確かにほとんど空っぽだったが、目線の低いところにある棚や、それからカウンターの向こうには本やファイルが残ってるようだ。

 高端先生は嘘つきじゃなかった、と少しほっとする。


 本が残っている、一番近くの棚の前でしゃがんで背表紙を順に追っていく。

『県立霞室高等学校のあゆみ』『校歌・沿革・歴代教職員録』――どうやらこの棚は、学校の記録をまとめた資料棚らしい。

 手に取ってぱらぱらと眺めてみる。学校の沿革なんかは、特に惹かれない。教職員録のほうは……うわ、普通に教師の住所とか電話番号とか載ってる。こんなの、今じゃ考えられない。どうだろう、昔の教職員録で見つけた先生の住所から始める物語、なんて。どうだろう、面白いかもしれない。

 ほかの棚も見てみよう。

 貸出カウンターの向こう、きっと司書室だっただろう部屋には、ハードカバーの本だけではなくファイルやバインダーなども見える。そちらも見てみよう。

 カウンターのわきから、司書室の中へ入る。

 司書室の棚のファイルには、当時の購入記録や貸し出し履歴といった見出しが並ぶ。古い履歴は、今の図書室に持っていかなかったらしい。

 書類棚の一番下の段は、引き違い戸になっている。開いてみるとみっしりと冊子が詰まっていた。一冊引き抜いてみると、「卒業文集」と表紙に書かれていた。


「卒業文集……」


 旧校舎で見つけた、古い卒業文集から始める物語。うん、いいじゃん。

 自然と表情がほころびていく。

 卒業文集を何冊かと、それからついでに近くにあった貸出履歴や図書委員の議事録なんかをいくつか取り出し、両手に抱えて司書室を出る。

 幸いなことに、図書室の机と椅子は、壊れずに残っていた。……埃はかぶっているが。ハンカチは持ってきているし、軽くはたいて座れば、大丈夫だろう。座って軽く中を見てみよう。それで、作品に使えそうなところがあれば、写真を撮って資料にさせてもらおう。

 俄然楽しくなってきた。

 物語を作り出すときの、この、「見つけた」という感覚が好きだ。

 作品の種は、生み出すものではなく、見つけるもの、だと思っている。

 自分のなかというよりも、世界の中のそこかしこに見えない作品の種が存在していて、何かのきっかけでその種に触れると、物語を思いつくことが出来る。そんなことを考えている。


 窓側の机に資料を置き、埃まみれの椅子をハンカチで軽く払う。それだけ空気中に一気に埃が舞って、噎せそうになる。

 咳をひとつして、落ち着いてから椅子に腰を下ろした。

 机の上に積んだ卒業文集のうち、一番上にある冊子を手に取る。濃い緑色の表紙には金の箔押しで「県立霞室高等学校 平成十二年度卒業記念文集」と印字されている。

「平成十二年……は、二〇〇〇年、かな」

 かなり立派な装丁で、今から二十年以上前の冊子にもかかわらず、まだ新しい感じさえする。まるで、誰も一度もこの卒業文集を開いていないような、ずっとあの書類棚の奥にしまわれ、一度も取り出されていないような、そんな汚れの無さだ。

 二十五年という時間が、そこだけ飛び越えてしまったように思えた。


 ふう、と小さく息を吐くと、平成十二年度卒業記念文集の表紙を開いた。

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