第二十一章:雷鳴と偽装
(寛永十年・冬 上野国 高崎城)
季節外れの雷鳴が、高崎の空を引き裂いていた。 城内の一室。白装束に身を包んだ徳川忠長は、濡れ縁から吹き込む冷たい風と雨を、ただ虚ろな目で見つめていた。
かつて「駿河の虎」と呼ばれた英気は見る影もない。 七年に及ぶ幽閉生活と、安酒による酩酊は、彼の肉体と精神をボロ布のように蝕んでいた。
「……忠長様。そろそろ、お時間を」
襖の向こうから、無遠慮な声が掛かる。 江戸から派遣された検使役の幕臣たちだ。彼らは、忠長を「かつての主君の弟」としてではなく、「厄介な罪人」としてしか見ていない。 家光が「影」ではなく「通常の役人」を送ったことが、忠長に対する最大の侮蔑であり、同時に、この場の緊張感の欠如を生んでいた。
「……ああ、わかっている」
忠長は、震える手で三宝の上の短刀を取った。 父・秀忠は死んだ。 母・江も、七年前に死んだ。 自分を支えてくれた酒井も、今や兄の犬だ。
(……兄上。貴様の勝ちだ) (……わしは、このまま歴史の塵となって消える)
忠長は、刃を腹に当てた。 冷たい金属の感触が、皮膚を食い込む。 雷光が閃き、世界が真っ白に染まった、その瞬間。
―――ピタリ。
忠長の腕が、何者かの手によって掴まれ、動きを止められた。
「……!」
忠長が息を呑む間もなく、その「影」は、音もなく彼の耳元に囁いた。
「……早まりなさるな、若君」
それは、兄の放った「影(伊賀)」の気配ではなかった。 もっと古く、もっと粘着質で、底知れぬ闇の匂いを纏った異形の忍び。 家光が「根絶やしにされた」と信じていた、風魔の一党だった。
「……何奴だ」 「母君の使いにございます」
「……母、だと?」 忠長の目が、驚愕に見開かれた。 「母上は……七年前に……」
「死んでなど、おりませぬ」
風魔の忍びは、懐から一通の書状を取り出し、忠長に押し付けた。 封蝋(ふうろう)には、確かに母・江が好んで使った印が押されている。
忠長は、震える手でそれを開いた。 そこにあったのは、見紛うことなき母の筆跡。そして、狂気じみた執念の言葉だった。
『死ぬことは許さぬ。徳川の真の主はそなたである』 『この母は、そなたが一度死に、黄泉(よみ)より還る日を、七年間、闇の中で待ち続けていた』 『時が来た。今日より「死人」となり、風魔と共に闇に潜め。……そして、家光の首を獲れ』
「……母上……!」 忠長の目から、涙が溢れ出した。 それは絶望の涙ではない。 枯れ果てたはずの魂に、どす黒い油が注がれ、復讐の業火が一気に燃え上がった瞬間だった。
「……わしは、見捨てられてはいなかったのか」 「……わしにはまだ、牙があったのか」
「御意」 風魔は、部屋の暗がりに合図を送った。 すると、闇の中から「もう一人の忠長」が現れた。 背格好、顔立ち、そして死相の浮いた表情まで、完璧に作り込まれた影武者だった。 風魔が、七年かけて用意した「身代わり」である。
「……若君。お召し物を」 影武者は、無言で白装束を脱ぎ、忠長に差し出した。 忠長は、自らの死に装束を影武者に着せ、風魔が用意した黒装束を纏った。
「……行かれよ。雷鳴が、若君の産声を隠してくれよう」
忠長は、最後に一度だけ、自分が座っていた場所――今、影武者が座り、腹に刀を突き立てようとしている場所を見た。 そこにあるのは、自分の「弱さ」の死体だ。
「……さらばだ。徳川忠長」
忠長は、風魔と共に闇へと消えた。
直後。 凄まじい雷鳴が轟いた。
―――ズドンッ!!
その音にかき消されるように、影武者は腹を切り裂き、介錯もないまま、凄絶な最期を遂げた。
障子が乱暴に開け放たれ、検使役たちが踏み込んでくる。 「……おお、事切れておる」 「……検分せよ」
役人たちは、血まみれの死体の顔を改めた。 間違いなく、徳川忠長である。 彼らは、自分たちが「歴史の目撃者」になったと信じ込み、安堵の息を漏らした。
「……直ちに、江戸へ早馬を出せ」 「……上様(家光)に、報告だ。『忠長、自害』とな」
雷雨の中、早馬が高崎城を飛び出していく。 その様子を、城外の森の中から、冷ややかな目で見つめる集団がいた。 死んだはずの男・忠長と、風魔の一党。 そして、彼らを迎える籠の中には、七年前に死んだはずの女――母・江が、鬼のような形相で、息子の帰還を待っていた。
家光の「システム」に、致命的な穴が開いた瞬間だった。
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