第二十章:完全なる「システム」
(寛永十年・江戸城)
あの日、家光が「影の軍団」の増強と、「社交場」の設立を命じてから、八年の歳月が流れた。 江戸の町はかつてない繁栄を謳歌していたが、その中心にある江戸城は、より強固で、より冷徹な「システム」によって支配されていた。
(江戸城 吹上御苑「花の御殿」)
かつて家光が構想し、春日局が作り上げた「第二の大奥」は、今や幕府の裏権力の中枢として、完全に機能していた。
御殿の大広間では、連日のように茶会や歌会が催されている。 そこには、薩摩の島津、仙台の伊達、そして土佐の山内といった、有力な外様大名たちが、競うように顔を出していた。
彼らの隣には、必ず「美しい影」が寄り添っている。 『お絹』は、今や山内忠義の「心の支え」として、国許の正室以上に彼を掌握していた。山内の口からは、幕府への不満ではなく、家光への追従と、お絹への愛の言葉しか出てこない。 他の大名たちも同様だ。春日局が育てた「道具」たちは、彼らの寝所に深く入り込み、ある者は子を宿し、ある者は大名の「弱み」を完全に握っていた。
「……上様。本日も、薩摩より献上品が届いております」 春日局が、勝ち誇った笑みで報告する。 「あのような薩摩隼人が、今や『女』のご機嫌取りに必死でございます」
「よい」 家光は、玉座からその光景を見下ろし、満足げに頷いた。 「外は、『光』の檻で飼い慣らした」
家光の視線は、次に闇へと向けられた。
(同日・夜 影のアジト)
ここもまた、八年前とは比較にならぬほど巨大な組織に変貌していた。 蔵人、『凪』、『六道』らが率いる「影の師団」は、数百名規模に膨れ上がり、日本全土に監視網を張り巡らせている。
「報告しろ」
「はっ」 『凪』が進み出た。 「……本丸大奥の『静寂』は、七年前、御台所様(母・江)の『死去』をもって、永遠のものとなりました」
家光は、静かに目を閉じた。 寛永三年。母・江は、失意の中で病没した――と、公式には記録されている。 当時、『凪』や『六道』が警戒した「風魔の胎動」も、母の死と共に霧散した。家光は、それを「主を失った闇が、自然消滅した」と解釈していた。
「……天も、俺のシステムを肯定したか」 家光は、母の死を「バグの自然消滅」として処理し、思考の棚から外していた。
「忠長は?」
「高崎城に幽閉されて以来、酒に溺れ、奇行を繰り返すのみ。 ……かつての『駿河の虎』の面影は、微塵もございませぬ。廃人でございます」
「……そうか」
家光は、深く息を吐いた。 完璧だ。 「光」のシステムは外様を縛り、「影」のシステムは内なる敵を完全に無力化した。 そして、昨年(寛永九年)、最大の「枷」であった父・大御所秀忠が薨去した。
もはや、家光を止める者はいない。 家光の中で、忠長という存在は、脅威ある「敵」から、単なる「処理すべき事務案件」へと格下げされていた。
(……仕上げだ)
家光は、感情の籠らぬ声で命じた。
「酒井。……高崎へ使者を出せ」
老中・酒井忠世が、平伏する。 「はっ。……いかような御用で」
「忠長に伝えよ。 ……大御所様も亡くなり、もはや彼を庇う者はいない。 ……これ以上の恥を晒す前に、武士らしく『腹を切れ』、と」
それは、あまりにあっけない、最後通牒だった。
「……承知いたしました。 ……して、検使には、どなたを?」 酒井が問う。
家光の背後には、蔵人をはじめとする最強の「影」たちが控えていた。 だが、家光は軽く手を振った。
「誰でもよい」 家光は、書類から目を離さずに答えた。 「……蔵人たちを送るまでもない。通常の目付を送れ。 ……死を確認し、首を持ち帰ればそれでよい」
家光は、ここで致命的な判断を下した。 八年間の「完璧な支配」が生んだ、慢心。 「母は死んだ」「忠長は廃人」「風魔など過去の遺物」という、積み上げられた情報への過信。
彼は、最強の戦力である「影」を動かさず、ただの役人を派遣した。
「……これで、すべてのバグが消える」
家光は、自らのシステムが完成したことを確信し、静かに筆を置いた。 その背後で、巨大な「落とし穴」が口を開けていることにも気づかずに。
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