ほんとうのママ

@gagi

ほんとうのママ

 幼い頃の話だ。


 まだ小学校に上がる前。


 私はお母さんのことを不気味に感じる時期があった。


 と。そのような疑問からだ。


 

 子供の私は幼いながら、お母さんを観察してあることに気が付いた。


 それは誰と接しているかによって、お母さんの性格が変わるというものだ。


 私とお話をするお母さんは明るくて元気で、ちょっとがさつだけど優しい。


 お父さんと話をするときのお母さんは、敬語になっておとなしくなる。


 友達とお茶をするお母さんは、私とお話するときよりもっと元気になる。


 おじいちゃん家に行ったときのお母さんは、お父さんと話をしている時よりもさらに静かになる。


 電話に出るときは声が一つ高くなる。


 幼稚園の先生と話しているときは敬語だけど、顔と声色は明るかった。



 この中のどれが本当のお母さんで、どれが嘘のお母さんなのだろう。


 私とお話をする明るく元気なお母さんは本当のお母さんなのだろうか。


 もしも、嘘のお母さんだったら?


 そのように考えたとき、私は嘘かもしれないお母さんのことをひどく不気味に感じたのだ。


 大人になった今では私が不気味に感じていたものが、心理学でいうようなペルソナのようなものであると知識として知っている。


 時と場合に応じて使い分けをするのようなものであって、偽りとも言えるし真実とも言えるものだとの実感がある。


 だから不気味だとは全く思わない。


 そもそも、お母さんのことを不気味に感じていたのは幼少期のほんの一時のことだった。


 今の今まで、お母さんにそのような感情を抱いていたことなど忘れてしまっていた。





 昔にお母さんへ抱いた不気味さを思い出したきっかけはたった今、背後からかけられたこの言葉だった。


「どれがほんとうのママなわけ?」


 保育園からの帰り道。


 後部座席のチャイルドシートから、息子のみなとがそう聞いてきた。


 普段だったら「運転中だからあとにしてね」と言って適当にはぐらかすのだが。


 車は帰宅ラッシュの混雑に捕まってしまってなかなか前へ進まない。

 

 夜の空からざあざあと雨が降って、窓ガラスの外を歪ませる。


 赤く滲む幾つものブレーキランプ。


 雨音と、その雨を拭き取るワイパーの音。


「みーくんはどうしてそんなことが気になったの?」


 私の問いに息子が答える。



「だってママってだれとお話をしてるかで、きゃらが違うんだもん。


 ぼくとお話をしてるときは、おちついていて優しいけどさ。


 パパとお話するときはことばづかいが乱暴でしょ?


 お仕事の人とお電話してるときは丁寧なことばづかいだけど、すごくつめたいきゃらだし。


 ゆいと君のママとお話するときはパパのときよりもっと乱暴なことばづかいになって、すごく楽しそうにしてる。


 こんなにきゃらが違うからきっとほんとうのママはひとつだけで、ほかは演技してるだけのニセモノなんじゃないかなって。


 そうなんじゃないかなってぼく、思ったんだ」



 息子が私に語った言葉は幼い頃に私がお母さんへ抱いたものとほぼ同一なものだった。


 大人になった私はこの思いへの回答を既に持っている。


 息子の言う私の『きゃら』は全て本物なのだ。


 もちろん、演じている部分が無いわけじゃない。


 大切な我が子には優しく接したいと意識して振舞っている。


 恋人だった頃の気持ちを忘れたくなくて、旦那と話すときは学生時代の口調を意識して使っている。


 祥子(ゆいと君ママ)とも学生からの友人関係が変わってほしくないから学生時代の口調を使う。


 職場では常識ある社会人だと見られるようにちょっと背伸びして行動する。


 確かに演じている。偽っている。


 けれど、だからと言って嘘の『きゃら』ではないのだ。


 嫌々、無理して演じているのではない。


 そのように振舞いたいから、そのように振舞うことが集団の中で円満な関係を築くから、自然に『きゃら』を演じている。



 このように息子の問いに答える内容、応えたい内容は有している。


 けれど、と私は悩む。


 どのような言葉なら、息子に私の思いを伝えられるかなと。


 私も息子と同じような考えを一時持って、それから二十数年の経験を経て一定の回答を得た。


 私と息子の間には、およそ二十年近く分の情報格差がある。


 全てを伝えることは出来ないし、全てを理解してもらうことは出来ない。


 私はどんな言葉で息子に伝えるべきだろう。



 渋滞の列の先、遠くの信号機が青に変わった。


 けれど前の車はまだ進まない。


 私は口を開いた。


「たしかに、みーくんとお話するママはちょっと演技してるかも。でもね、みーくんのことが大切で、優しくしたいって気持ちは本当だよ」


「ふーん……」


 後ろのチャイルドシートから聞こえる息子の声。その声色から納得いっていない様子が伺える。


「で、けっきょくどれがほんとうのママなの?」


 前方の車のブレーキランプが消えた。


 進みだす。


「……運転中だからあとにしようね」


 そう言って私はアクセルを踏んだ。

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