36話【乕若を追う刃】
異能対策室の会議室に、緊張感のある空気が張りつめていた。
それもそのはず。
一ノ瀬が資料から抜き取ったであろう1つの記事を出す。
一ノ瀬は最重要参考人として指摘した。
だがその名が発せられはしたが、燕はもちろん比嘉でさえ反応はしなかった。
「誰ですか?」
沈黙の中、来栖だけが小さく口笛を吹いた。
「聞かない名前ですね。あ、珍しい名前って言う点では覚えやすいんですけどね」
来栖の軽口が落ちたあと、会議室には再び冷たい静けさが満ちた。
一ノ瀬はそれを受け止めるように、一度ゆっくり息を吐く。
「……誰も知らないのは当然だ。俺も、資料室の奥に眠っていた書類をひっくり返してようやく見つけた程度だしな」
記事は薄く、紙の端は少し黄ばんでいる。
時間の経過が物語っていた。
「そもそも誰も知らないのなら、なんで貴方はこの方を引っ張り出したの?」
「それについてだが、一旦別行動をとった時の話だ。
川崎の現場に戻り状況の確認をしていた。手掛かりを探していたんだが、その時に妙な女に見られていた。その女の顔がどこかで見た気がして、急いで資料室に戻ってみたらこいつの顔にそっくりだったわけだ」
燕が記事に視線を落としながら、眉をわずかに寄せる。
「それが乕若深雪……神奈川奴隷商人事件の奴隷だったということだけと現在行方不明って事しか載ってませんね」
「そうだ。」一ノ瀬は即答した。「ここに残っていたのは、この女の名前と写真と奴隷だった事実、そして行方不明という事だけ”だな。それ以外何も書いてない」
だけ。その言葉に、室内の空気がわずかに沈む。
竜崎が資料を覗き込みながら小さく呟く。
「そんな情報量で、こいつが最重要参考人だと……?」
「あぁ。奴隷だった人間の中でこいつだけなんだ。情報が名前と写真と奴隷だった事実とその後行方不明という情報しか無いのが」
「それは気が早いし、そもそも本当にこの人だったんすか?」
「…いえ、情報が薄いなら逆に話を聞く必要があるんじゃないんですか?」
神室の言葉に答えるように時陰が言った。
「そうね。私もそう思うわ」
「王来王家班長まで」
「私も神奈川奴隷商人事件は異能対策室に入った頃に資料として読んだわ。その時は何とも感じなかったけど、”奴隷だった人”の情報で乕若深雪だけがそれしか情報がないなんて変だわ。本来事件の詳細を知っていくには加害者であろうと被害者であろうと、その人達の背景を知っていかないといけないのよ」
燕は解くように話していく。
それを聞いた一ノ瀬も続くように話す。
「あぁ。背景を知る事で事件を何故起こしたのか、何故関わったのか、何故巻き込まれたのかが知れる。だがこの乕若深雪だけ”それ” が無い。つまり」
「…意図的に情報が消されてるってことね」
村崎が確信めいて言った。
「何のために消したんだ?」
竜崎はその場にいる不特定多数に向けて問いを投げた。
それに対して来栖が首を大きく傾げながら「さぁ?何でですかね?比嘉さんは何でだと思います?」と言い、比嘉を見る。
「俺?何で俺に聞く」
「いやぁ警視監の比嘉さんなら何か知ってるかなって思いまして」
比嘉は頭を掻きながら乕若深雪の写真を見た。
「…すまんが、この事件は全く知らないんだ」
「ま、そうですよね神奈川が管轄じゃなかったら知るわけない事件ですよねこれって」
「川崎に居た女がこいつにしろそうじゃないにしろ、手がかりとしては十分じゃないかと俺は思う。だから次にやるべきことはこの乕若深雪を見つけることだ。どうだろうか?」
「どうする班長。俺達CS班はアンタの指示に従うだけだ」
竜崎は横目で燕を見ながら言った。
「そうね。少しでも情報が手に入るなら彼女を探すのも必要かと思います」
「そうか。なら探すのは俺が行こう」
竜崎は椅子から立ち上がり言った。それに続いて紫苑も一ノ瀬の近くに向かって歩く。
「紫苑も行く」
「ちょっと待って。見つけるって言ってもどう探す気ですか?」
燕は真剣な眼差しで聞いた。
「こいつが犯人なら必ずまた現場に戻るだろ?」
口元だけ見える一ノ瀬の口元はニヤッと笑っていた。
その狐の面も心なしか不敵な笑みを浮かべてるかのように——
竜崎と村崎を連れ会議室を出ていく一ノ瀬の後ろを姿を見届けながら来栖は神妙な面立ちで乕若深雪の写真に目を向けた。
燕も同時に真剣な眼差しで写真を見ていた。
少しの間があってから来栖から口を開いた。
「…王来王家さんは神奈川奴隷商人事件の資料読んだんですよね?」
「えぇ。神奈川の都市部全体で密かに行われていた人身売買を目的とした闇市場で起きた事件ね。犯人は不明、被害者はその市場で人身売買を行っていた商い人達数百名だったわね」
「そうです。そして奴隷として売られていた解放された老若男女は数知れず…奴隷にされてた人達の情報はある程度はあった。基本的な個人情報、発見時の状況、被害内容の記録から保護後の経過観察や関係機関のやり取り、そして異能保持かそうで無いかの記録…」
そう言い終わった来栖は見つめた。
名前と現在行方不明の二言しか書かれていない乕若深雪の記事を——
——再び川崎へと戻ってきていた一ノ瀬と追従する竜崎と村崎。
すっかり夜も更け、川崎の路地裏は人を襲うには最適な場所とも言える。
そのぐらいの闇が漂うなか一ノ瀬達はじっとその場で立ち尽くす。
誰かを待つかのように。
だが待てど暮らせどそこに現れる者は居なかった。
そして痺れを切らした竜崎が声を出す。
「まだここで待つのか?」
「そうだが、なんだ?まさかもう根を上げたのか?忍耐力が無いんだな竜崎は」
「…呼び捨てかよ。それに根なんか上げてねぇ、ここでこうして待つのに意味があんのかって話だ」
「意味ってのは後から付くもんだ。その意味を付けるために俺はここで女…乕若深雪を待つ」
一ノ瀬は腰に提げた軍用ナイフに手を翳し、いつでも交戦できる体制でじっと待つ。
そして現場で待つ事数時間が経過し日付が変わった頃。
一ノ瀬達の待機するビルとビルの間、路地裏入り口ともなるそこにゆらりと突然人が現れた。
黒いコートを着た黒髪で切れ目の女性がこちらに歩むかのように現れていたのであった。
最初に気づいたのは村崎だった。
「ッ!!女…!」
「来たッ!!!」
「おいおい、まじか、本当に来やがった…!?」
一ノ瀬の反応はいの一番に早かった。
すぐに軍用ナイフを”2本” 抜き、両手に持ちながら一心不乱に女に向かって走っていった。
「おい!?」
一ノ瀬の行動に遅れをとる形で竜崎と村崎は後を追いかける。
一ノ瀬の猛進に黒髪の女はその光のない眼を大きくし、唇を噛み締め、後退るように逃げていく。
「待て…!!」
一ノ瀬は黒髪の女を追い、路地から大通りへと出た。
すでに深夜の大通りは車一つ走っておらず、その真ん中に黒髪の女と一ノ瀬は立っていた。
そこに追いついた竜崎と村崎の視線の先も黒髪の女へと向けられていた。
「乕若深雪だな…」
一ノ瀬の問いに黒髪の女…乕若深雪はゆっくりと一ノ瀬の方を向く。
乕若深雪は一ノ瀬を見つめ、言葉は発することは無いが、今にも一ノ瀬を殺す様なそんな殺気に近い雰囲気を醸し出している。
「神奈川奴隷商人事件後、行方不明だったお前がなんでこんな場所に用がある?」
一ノ瀬に問いに乕若深雪は視線を路地裏の方へと向けた。
そして唇を噛み締め、一ノ瀬に怒りの眼を向ける。
「…沈黙か…じゃあ悪いが、重要参考人として署に同行してもらう」
一ノ瀬が一歩足を踏み込んだ瞬間、乕若深雪はコートの中からそれまで隠されていた短刀を抜いた。
だが、それに気づいたのか、それとも元からそうするつもりだったのか定かではないが、早く一打を繰り出していたのは一ノ瀬の方だった。
軍用ナイフと短刀のぶつかる金属音が夜の街に響く。
「おい!一ノ瀬!何してんだ!?」
「何って?見たらわかるだろ…こいつは今短刀を抜いたんだ、”俺を”殺すつもりて。なら俺も抵抗するさ…!」
2本の軍用ナイフを短刀に押し当てながら一ノ瀬は竜崎に投げかけていた。
「……先に、仕掛けたのはそっちのくせに…」
乕若の薄く透き通った言葉が一ノ瀬の動きを少し鈍らせた。
「なに…?———ぐぅッ!?」
鈍った瞬間、一ノ瀬の鳩尾に乕若の蹴りが炸裂し、一ノ瀬は後方へと吹き飛ばされていった。
それを確認した後、乕若はすぐに踵を返しその場を去ろうとする。
「おい!?待ちやがれ」
竜崎は自分の刀に手を翳した。
「止まれ」
それに倣うように村崎も狙撃銃を構え——
バンッ!!!
乕若目掛けて引き鉄を引いていた。
しかし、乕若はすぐに”猫”の様に身を捩って体制を崩しながらも銃弾を躱した。
「なんて動き…!?」
「いやそのまま狙え村崎!!」と復帰した一ノ瀬が猛進しながら乕若へと駆けていく。
そして一ノ瀬の走りはすぐに体制を崩した乕若へと急接近していく。
一ノ瀬は右手に持った軍用ナイフを乕若へと向けて振り翳す。
「くッ…!!?」
乕若は崩れた体制のまま短刀を自分の前に持っていき受け止める体制へと整える。
———だが。
「「”天”」」
一ノ瀬と乕若の間の空間が歪んだ。
歪んだと認識した瞬間、一ノ瀬と乕若の間には黒いコートを纏い白い髪を靡かせた男が立っていた。
それだけでなく右手に持った白い小刀によって一ノ瀬の軍用ナイフの勢いは殺されていた。
小刀の切先がナイフの腹を止めていた。
「ッ!??…なんだ…こいつ…」
その異常な光景は一ノ瀬は愚かその後ろにいた竜崎と村崎も呆気に取られていた。
「俺の右腕に何か用なのか?」
そう言い、小刀を鞘に納めた。
そんな男から発せられた言葉だけで一ノ瀬は威圧を感じていた。
「
そう言った乕若の眼には光が宿っていた。
「お前達が何者かは知らないが、俺の右腕である深雪に手を出すなら」
「俺が相手だ」
この男、名を
その肩書き。
警察庁対異能排除特殊異能部隊【No Trace】
第1小隊隊長———
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