31話【時陰めろうの過去】
グラスの縁に口紅の跡がつく。
昼下がりのカフェ。窓から射す光に、ミルクティーの表面がきらめいていた。
「ねぇ時陰、まさかあんたが本当に”異能対策室”なんてものに入るなんて思わなかったよ」
かつての同僚、
向かいに座る時陰は、スーツの袖を軽くまくり上げ、微笑の奥にわずかな影を落とす。
「……ホントだよね〜。自分でも未だに信じられない。
PCの前で資料作ってた私が、今じゃ異能犯罪者と向き合ってるなんてね。あの時の私からじゃ想像もつかないよ」
紅茶のティースプーンを混ぜながら時陰は言った。
「最近はどうなの?その異能対策室っていうのは」
「う〜ん…なんて言うんだろう。一言で言うなら”怖い”かな」
「怖い?」
「怖いよ。私はただの一般人なのよ?他の人は異能の元研究者だったり元警備局出身だったり元特殊部隊の狙撃手だったり、地下格闘技?とかやってたりだよ?」
「なるほどね〜、確かにそれは場違いだね」
龍刃はタルトケーキを頬張りながら言った。
「そうなの。私ってなんの役に立ってるんだろうって毎日考えてる」
「あんた、それだと病んじゃうよ?」
龍刃は眉を曇らせながら言った。
「今そっちでどういう立場なのかは分からないけどさ
あんたにはあれがあるじゃん」
「あれ?」
「なんだっけ?六感みたいなの?ほら、あの時もそうだったんじゃん」
「あの時?あ〜、龍刃と買い物に行ったあの日?」
「そうそう!」
紅茶の香りに包まれながら、時陰はふと遠い記憶を思い出した。
ーーそうだ、あの日もただの休日のつもりだった。
龍刃とショッピングモールに出かけて、他愛もない会話を交わして――
まさかその日が自分の世界を一変させる日になるなんて、想像もしていなかった。
午前の光がガラス張りの天井を透してモールの中に滴る。
休日の午前はまだ人混みも薄く、カフェのテラス席からは子供たちの笑い声と、フードコートの揚げ物の匂いが混ざって届いた。
私は龍刃と並んでテーブルに座り、いつものように軽口を交わしていた。
外から見れば、ごく普通の平凡な週末の午後だった。
だけど、私の頭の中は普通とはちょっと違うのかも。
私は常に入った建物の街路の配置、非常口の位置、動線の層を無意識に頭の中でマッピングしている。
私にはそれが癖になっていた。
ーー別に誰に教わったわけでもない、いつの間にかこれができる様になってただけ。
PC画面の向こうを見る様に、私にとっては普通の事。
そんなことを考えながら私が歩いていると『ねえ、あの店の前、なんかあるのかな?』と後ろで龍刃が話しかけてきた。
龍刃が指で示した先には、アパレルショップの前で小さな人だかりが起きていた。
『ちょっと見てくる』
私はその人だかりに近づいていた。
人だかりの先に見えてきたのは二人の男が互いの視線がぶつかり、言葉が次第に怒鳴り口調で言い争うよくある喧嘩だ。
私がそれを見て、『なんだ喧嘩か』と踵を返そうとした瞬間、予兆が過った。
ーー胸のあたりで微かに迸るような振動、呼吸の乱れ、周囲の空気に僅かな電圧のような痺れる様な違和感。
ーー私には”異能の発現”に敏感なのかも知れない。
昔からそうだった。
“異能”というものを遠目で目撃した際も、あぁやっぱり異能者だったんだ…と思うことがある。
体質なのかそれともみんながそうなのかは分からないけど、私には”異能の発現”に人一倍感じ取りやすい。
小さな胸騒ぎが、彼女の内部で音を立てる。
少し先で待っている龍刃はそれに気づかず、私の帰りを待つ様にスマホの画面と睨めっこ。
私は自分の心拍を確かめ、呼吸を整えた。
ーー”異能”だ。
私はすぐに確信した。
何度も覚えがある感覚が全身を走る。
私のは思考はすぐに動き出す。
通路の幅、出口の位置、人の流れ。隣の店には子ども連れの母親がいる。老夫婦、カップル、学生達。
見渡す限りの人々人…
異能の種類によってはここ全体が巻き込まれる…
ーーけど、そんな事知った事か。
『龍刃!ここ出よう』
私の言葉に龍刃は一瞬キョトンとした顔をしていたが、すぐに『またなのね?』と聞き返したあと、状況を理解した様に龍刃はすぐに出口の方へと体を向けていた。
非異能者の私達が出来ることは一つしかない。
ただ逃げる。ただそれだけ。
2人は今にも出口に向かって行こうとした矢先、喧嘩をしていた男達の異能が発現する。
メラメラと燃える腕を持った男。
かたや、身体から野太い樹木を生やしていく男。
両者の攻撃がぶつかり、辺り一面に火に包まれた樹木が飛び散る。
すぐにショッピングモール全体はパニックに陥った。
飛び散った火に包まれた樹木が私たちの目の前にも飛び散っていた。
『めろう!行くよ!』
龍刃の声に従って私は歩みを進めようとした。
だが頭の中でそれを思っても体は言うことを聞くことはなかった。
ーー恐怖だ。
“異能の発現”が体で感じ取れようと、恐怖を拭えるんけじゃない。
鉛の様に重くなった足、震える体。
異能と出会う度に私はこれに悩まされる。
だが幸い異能者達は私には見向きもしない。
互いを攻撃し合うだけ。
異能者に認識されてないなら少しは安堵する。
私は軽くなった足を一歩ずつ踏み締めながら、出口へと向かう。
だが、その途中で目に映ってしまった。
泣き叫ぶ子どもを抱えた母親が、引火した壁の向こうで立ちすくんでいるのを。
私は出口へ向かいながらも目だけはしっかりとその親子を追っていた。
ーー知るもんか。
私達が無事ならそれで良いの。
今までだってそうやって異能者から避けてきた。
これで…
気づいた時には私の足取りは止まっていた。
そんな私に龍刃は近づき、私の手を掴もうとしていた。
その瞬間、私の中で何かが弾けた。
ーー逃げるだけで…本当にそれでいいのかな…
私は掴まれた手を離した。
『……龍刃、先に行ってて…私、あの人たちを……助けなきゃ』
『は?めろう何言って……!』
返事を聞く前に、私は人の波へ飛び込んでいた。
すでにモール内は引火により煙が低く立ち込め、視界が白く霞む。
更に、足場は樹木の破片や異能者の異能によって出てきたであろう捩れた大木が地面から突き出ており、足取りも悪い…
けど、もう止まらなかった。
『こっちです!この下を潜って!』
転がっていた看板を持ち上げ、親子を誘導する。
『大丈夫、走らないで。屈んで、顔を覆って……!』
自分でも驚くほど声が出た。
震えていた体も、いつの間にか止まっていた。
『手伝おう』
私の行動を見ていたのか1人の男性が声をかけた。
『君の指示に従う、どうすればいい?』
『……あそこの柱の向こう、まだ人が残ってます。
あなたは、あの倒れた棚をどけて通路を確保してください。私は子どもたちを誘導します!』
自分でも驚くほど自然に言葉が出た。
恐怖も、混乱も、火の匂いすらもう意識の外に追いやられていた。
『了解した』
短く返すと男は駆け出し、倒れた什器を必死に押しのける。
『このまま真っ直ぐ!光が見えたらそこが出口です!』
煙の向こうに、かすかに非常灯が揺らめいている。
そこへ一人、また一人と人々が向かう。
…何十分が経ったのだろうか
気づいた時は対異能警察部隊が到着して事態は収集していた。
ーー助けられるだけの人達は助けられたかな…
私は外で龍刃と共に壁にもたれかかりながらそんなことを思っていた。
『見事だった』
さっきの男性が私に声をかけてきた。
『よくあの場で引き返して避難誘導が出来た。恐怖で動けなくなるやつか、周りと同じ様に逃げていくのが普通の人間だ』
男の声は低く、それでいてどこか穏やかだった。
『しかし妙でな。少し遠めからあの場を見ていたんだが、君だけあの事態が始まる前からあの異能者達から逃げる様に行動していた。…君、異能者か?』
『いえ……違います。ただ私は”異能の発現”に対して感が働くんです』
『へぇ、そいつは今の時代には貴重な感だな』
『てかおじさん何者よ?』
見かねた龍刃が割って入ってきた。
『おっと、自己紹介が遅れた。俺は警視庁警視監の比嘉公太郎だ』
『け、警視監?!』
龍刃の声が荒ぶった。
『君、名前は何て言う?』
比嘉という人は私の目をしっかりと見て聞いてきた。
『時陰…めろう、ですけど』
『時陰めろうか、単刀直入に言う。俺の作る警察組織に入ってほしい。君の指示、感、勇気、それら全て必ず役に立つ』
「一度断ったのに結局異能対策室に入ってるんだもんなぁ〜」
「龍刃も3回目ぐらいの時から入っちゃえば〜って言ってたでしょ」
「そりゃ言うでしょ。あんだけ来るってことはあんたの力を重宝してるって事なんだし、私自身あんたはオフィス止まりじゃ勿体無いって思ったのよ」
「ほんとかな〜?」
「ほんとだよ〜、あ、友達のこと信用してないんだ〜悲し〜なぁ〜」
口では呆れたように言いながらも、笑みがこぼれていた。
モールでの出来事から数年が経ち、あの日誘われた異能対策室での生活も、気づけば当たり前になっていた。
だけど——。
「ねぇ龍刃」
「ん?」
「私って……何のためにここにいるんだろうね」
「さっきも聞いたそれ」
龍刃はストローをくわえたまま、半眼で私を見た。
「戦いたいわけでもない、守りたい誰かがいるわけでもない。異能に恨みがあるわけでもない。流れで異能対策室に入ったから、理由がないんだよね」
「理由なんてなくていいじゃん
龍刃は軽く言った。
「異能対策室って、最初から目的のある人ばっかじゃないでしょ?あんたの場合は“ここで目的を探す”のが目的でもいいんじゃない?」
「ここで探す…」
「そう。誰かを救うためとか、異能犯罪者を倒すためとか、そういうのじゃなくてさ。自分がここに居ていい理由を、ゆっくり探せばいいと思うよ」
その言葉に返す声を持てず、私はただ微笑んだ。
——居場所を探す。
それだけで、本当に戦っていけるのだろうか。
しかし思い耽るのも束の間、店内のカフェのBGMを掻き消すような怒鳴り声が私たちに聞こえてきた。
「ふざけんなよ!」
「な、なんだなんだ?」
龍刃が口に含んだ紅茶を少し吹き出しながら驚きを起こした。
振り返ると、若い男がテーブルをひっくり返していた。
空気が一瞬で変わる。
周囲の客がざわつき、誰もが距離を取る中——私は、感じ取っていた。
胸の奥にざわつく、あの感覚。
“異能の発現”が、起こる前の圧。
「やめて!」
私は声を上げて男の方に近づいていた。
男の手の甲に、淡い光が宿っている。
その形は不安定で、制御を失いかけた電流のように、皮膚の上を蠢いていた。
「ここで異能を使っちゃダメ!」
私の声に男の肩が跳ねた。
「は?……いや、でも、あいつが先に——」
「理由はどうあっても、こういう場所でその力を出した瞬間、あなたは“異能犯罪者”って呼ばれる側になるかもしれないんだよ」
一瞬の沈黙。
彼の目から、怒気が抜けていくのが見えた。
光が消える。震える手が、ゆっくりと膝の上へ降りていった。
「……悪かった。ついカってなっちまった…そうだよな、異能をこんな場所で使うのはヤベェよな…」
「謝らなくていいよ。あなたが踏みとどまってくれただけでもよかった…」
男はゆっくり椅子に座った。
「異能犯罪者にはなりたくねぇ…そんな気もねえのに、異能を持ってるだけなのに、使う場所や用途を間違えりゃすぐに異能犯罪者だ」
「…そうね」
「なりたくもねぇのに、欲しくもねえのに異能者になっちまってさ…まぁけど、あんたにこうやって止めてもらわなかったら俺はどうなってたんだがな…」
店内に再び人のざわめきが戻り、カフェのBGMも優雅な一時に味を出す。
私は深く息を吐き、背中に伝う汗を拭った。
「……私は異能は使い方次第だと思う。
だから貴方はその異能を別の何かに使ってほしい」
そんな言葉が、私の口から自然と零れた。
男は少し驚いたように私を見て、そして静かに頷いた。
「……わかった、ありがとう」
その瞬間、私の中で何かが確かに変わった。
——私は、戦いたいんじゃない。
——“正しく使えるようにしたい”んだ。
異能を持つ者も、持たない者も、恐れず、憎まず。
互いに生き方を見失わないように、繋ぐ誰かになりたい。
「……龍刃」
「ん、どしたの?」
「私、やっぱりここにいる理由、見つけたかも」
「もう?」
「“異能を正しく使える世界にしたい”。それが、私のここにいる理由かなって」
龍刃は笑った。
「大変だよ?異能を正しく使える世界は」
「確かに」
私は苦笑して、窓の外を見た。
ーー確かに大変だと思う。
けど、必ずしてみせる。
異能者も非異能者も互いに理解し合い、異能というのを正しく使える世界に…
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