神罰
考える水星
神罰
ペーターは神政領に暮らすしがない農民であった。日々農地を耕して、その作物を聖拝会に納めて暮らす、神政領にはありふれたごく普通の農民である。日々の祈りを絶やさず、礼拝日には村の教会へ赴いて律法司祭の説教を聞き、同郷の妻と数人の子供を持っていた。日々の糧に感謝し、祝祭週にのみ酒を飲み、生涯にたった一人の女としか関係を結ばず、つつましく、実直に暮らしていたのだ。その暮らしは、神政領の農民として何らとるに足りない、普通のものであった。
しかしただ一つ、彼には他の者とは異なる点があった。それは、彼の抱く大なる恐れであった。ペーターはありとあらゆることを恐れていたのである。風が吹き、雲が地に影を落とせばペーターは竜の翼をそこに見た。ほんの僅かの調子の違い、それに彼は悪疫を見た。そして些細な喧嘩に、人心の乱れと来たる戦争を見たのである。一口に言えば、彼は大変に臆病であったのだ。しかし彼は、そのどれより恐れているものがあった。それは、人の弱さ、罪深さであった。
日々、村の律法司祭は盛んに彼らに説いていた。我らは生まれながらに罪はないが、しかし生まれながらに獣である。獣とはすなわち、本能に従うもの、律されぬもの、そして易きに流れるもののことである。そう、人とは易きに流れるものであるのだ。そして易きは往々に悪であり、悪とはすなわち罪である。人は獣であってはならない、人は常に自らを律しなければならない。だが人は愚かなものである、律するやり方でさえ、その中に悪を潜ませたり、また気がつきもしないままに堕落を許していたりするのだ。だから、神の法があり、オーロンサスが与えられたこの正義に従わなければならない、と。
ペーターはそれを聞いて、自分が気がつかないうちに悪を犯してしまうことを恐れた。彼は知らぬ間に獣となってはいないかと恐れたのである。何故ならば、彼はこれまで、さしたる苦を感じたことはなく、自然に生きてきた。では、司祭の話に従えば、自分は今まさに欲のままに生きる獣なのではなかろうか? このような考えの果てに、ある時、彼は自分の歩き方が悪いものではないのかとふと思い、そのためにもう全く動くことができなくなって、とうとう妻に司祭を呼んできてもらったことがあった。
その時には、司祭は厳しくペーターを戒めて、無知な者がそのような考えを抱くこと自体が一つの罪であるとして、恐れて行動する、或いはしないことよりも、まず何よりも従うようにと諭した。無闇な恐れなどはかえって罪を招くものであるし、結局、人に真に正誤の判断など出来はしない。それができるのはただ神であり、神の定める法だけであるのだから。その法でさえ我々は読み解きを誤るのだから、もうお前たちが考えられるようなことにはとても意味はない、だからまずは疑問を抱かないようにするのだ、疑念に足を取られて光から外れてしまわないように。
司祭が力強くそう言ったので、これでひとまず、ペーターは落ち着き、以後はそのようなことはなかった。しかし恐怖は、依然として残り続けた。疑うな、従うべし。これは彼にとって、あまりにも受け身で、恐ろしいことであったのだ。彼は自分自身を全く信じられないものであると見ていた。ならば、どうして疑うことなくいられようか。
故に、彼の祈りは常に震えるものであった。彼は哀願するように神に罪を犯さないことを誓い、だからどうか私を罰しないでください、ペーターは日々そう祈りながら、同時に、いっそ裁きが下るならば、どれほど楽であろうかと考えていた。
ある時、ペーターは聖都ストームバスチオンへと、巡礼の旅に出ることになった。彼の恐れを見かねた司祭が、神の偉大さをその身で味わって恐れなく主にすべてを委ねられるよう、一度神の創りし都を目前にするように、と送り出したのである。旅など、野盗や崖崩れや狼や、ありとあらゆる恐れが絶えないものではあったが、それでもやはり神への恐れは最も大きなものであったから、ペーターは僅かな荷物を手にして、幾人かの仲間と共にとぼとぼと巡礼の旅に出た。
旅は、彼の恐れに反して、実につつがなく進んでいった。そして彼らは無事にストームバスチオンを詣で、その天を貫く〈纏嵐の塔〉や、首座大教主の座す〈天による全地大聖堂〉、聖なる手の騎士団の中心である〈神命院〉を目の当たりにし、その威容に感銘を受けた。都の壮大さは、そのまま神の偉大さへと繋がり、これを築いた力に自分は服属しているのだという安心感を抱かせた。一旦は、ペーターの恐れも癒やされたかに見えた。この世でも最も強大な力が、しかし彼の支配者であり、彼を守るものであるのは確かに間違いないのだ。その罰は確かに恐ろしかろう。けれども、全てを委ねれば、確かに彼を正しい道へと連れていってくれるのだ。後ろめたさなき者に罰は恐れでなく、そして少なくともペーターを導いている律法司祭は正しい人であった。ならば自分は安心ではないか。
すっかり、ペーターの胸の荷は降りたように見えた。たが、月に一度行われる巡礼者のための全地大聖堂での首座大教主の説教を聞いた帰り道で、ペーターは坂道で転んでしまった。そしてそれがために、一度は抱いた安堵は台無しになってしまった。神聖の都の、坂道とはいえ躓くようなものもない場所で転んだことが、彼に疑いと恐れとをすっかり再発させてしまったのだ。彼の肉体が傾いた時、彼の心もまた、転げてしまったのである。しかもそれは、終わりの見えない坂道であった。
結局、この巡礼でペーターの不安は取り除かれることは無かった。どころか、彼の疑念はますます強まってしまった。偉大さに浴してもなお、彼は神に全てを委ねることができないのである。もはや、ペーターは自身を不信心者であるのではないかと恐れた。彼の疑念は、実は彼自身ではなく、神へとむけられているのではないかと。そう考えると、彼はますます恐ろしくなってしまった。自分は神を信じることをしない、恐ろしい者なのではないか? 神がなければ、ペーターとはいったいなんであろう? 卑しい、ただ一人の農夫は、いったい何によってこの地に立つのだろう? いつしか彼はこの考えに憑りつかれ、それは他のあらゆる恐怖を押しのけるまでになっていた。この考えはあまりに恐ろしいので、ペーターは司祭に話すことさえできず、故に正しい導きを受けることも出来なかった。
そしてとうとう、ある日のことであった。収穫の日、畑で鎌を振るって麦を刈り取っていたペーターは、天啓のように、一つの確信を得た。それは、彼が罪人であるというのは、彼の勝手な疑念ではなく、まぎれもない事実である、という確信であった。司祭は良き人であり、彼はペーターは今のところ罪人ではないと言う。しかしそれは、ペーターが己の罪を隠しているからなのだ。そして罪人は己の罪を隠すものである。司祭を欺き、偽りの祈りをする者が、罪人でなくなんであろうか。彼はもはや疑わなかった。彼は罪人であるのだ。
折しも、風が強く吹き始めていた。地平の向こうからは、灰色の雲が流された水のように空を覆って迫っていた。嵐の予兆である。村人が刈り取った作物を急いで運び、風に吹き飛ばされそうなものを仕舞う中で、ペーターはただ一人、立ち尽くしていた。これは裁きであるのだ、とペーターは思ったのである。そしてそれは、待ち侘びたものでさえあったのだ。彼は罪人であることに、これ以上耐えられなかった。
間もなく、雷鳴が轟き、大粒の雨が地を打った。人々は皆慌てて屋根の下に駆け込んだが、ペーターは刈り取られた畑の只中で、動かなかった。嵐は激しくなっていく。やがて村の者らはペーターの不在に気が付き、畑の中に彼がかかしのように立っているのを見つけた。村人らは少し離れたところから口々に叫んで、危ないから早く家に帰れ、と呼びかけた。だがその声も、吼え猛る風と雨音に遮られて彼の心には届かないようであった。
ペーターは、もはや自分は罪深さのあまりとても生きていられないので今ここで神の手によって死ぬのだ、だからどうかすまないが止めないでくれ、と話した。なおもしばらく村人たちはペーターに正気を取り戻させようと幾らか呼びかけたが、ひときわ高い雷鳴が轟き、閃光が黒雲の中で迸ったので、村人たちはもはやここにいては自分たちも危ないと退散してしまい、遂にペーター一人が残された。
雨に濡れて、彼は絶望していた。神の偉大さを信じることが出来ず、それがために罪人となってしまった自分に。なぜ彼は心から従うことが出来ないのだろう? 主は、オーロンサスはこれほどまでに偉大であるのに、自分はなんと卑小であるのだろう。彼は泣いているように感じたが、涙は風に吹き飛ばされ、雨に紛れて分からなかった。
稲光が、またいくつか閃いた。その雷鳴は段々に近づいてくるようで、ペーターの耳にはさながら神の足音に響いた。彼は震えて審判を待ったが、その時、今度は律法司祭が風雨をものともせずやってきたので、ペーターは驚いた。司祭は、ペーターの妻や村人の訴えを聞いて、その祭服が濡れるのも構わずにやってきたのだった。
「愚かなことをしてはいけない」と、司祭は叫んだ。
「私はすでにあまりにもたくさんの愚かなことをしてしまったのです、司祭様。私はもう助かりません。だからここで裁かれるのです」ペーターは叫び返した。その声は震え、嵐の前にか細かった。
「お前が何をしたというのか。お前が善男であったのは私が知っている。罪を犯したというのならば言うが良い。私がその罪を明かしてやる」司祭は諭すように言った。
「私は言葉にできぬ罪を犯したのです。私は神を信じられぬのです。だから私は罪人なのです。司祭様、どうか私からお離れください。私の罪に他者を巻き込みたくありません」ペーターの声はますます震え、しかし逆巻く暴風の中で決然と立ち尽くしていた。
「言葉にできぬならば罪ではない、ペーター! 罪は言葉にされなければならぬ、罪は定められなければならぬのだ。法は言葉によってなるからである。お前が罪と思うだけではそれは罪とはならぬのだ!」司祭はなおも呼びかけ続けた。
「司祭様、私は隠し続けたのです! 私は司祭様にも、主にも、その法にも値しないのです! 私は直視できません、どうかおやめください! そして私をこのままにしてください!」今やペーターは悲痛に叫んだ。それは、司祭が、ようやく得た彼の確信を、また耐えがたい疑念に戻してしまうかもしれないという、意固地な恐れからであった。
「法に値せぬ人はこの世に存在せぬのだ、ペーター! だから異教徒でさえも、主はその法に従って裁かれるよう定められておられる。それに、もしお前が仮に罪人だというのならば、正しくそれを裁定できず、みすみす隠された私はそれよりも重罪である。もし裁かれるならば、それは私からなのだ!」律法司祭はそう叫ぶと、手にした黄金のロザリオを高く掲げながら、風に抗って、一歩ずつペーターに近づき始めた。
「おやめください! 私はもう駄目なのです、司祭様! 私は恐ろしさに耐えられません! 私は弱い罪人なのです。正しくあるには弱すぎたのです。幾つの罪を、どんな罪を犯したのかさえ分かりません! だから裁かれるしかないのです!」ペーターの顔には、死に直面する恐怖と、しかしそれがもたらすであろう安堵とが、複雑に入り混じっていた。神経質にゆがめられ、眼は見開かれ、もはや彼の心はこれ以上この世にあることに耐えられなかったのである。ペーターは高く両手を掲げ、黒雲渦巻く空に身を投げ出すように哀願した。「どうか私をお裁きください」と。
閃光が一筋、空気を裂いた。一瞬、本当に一瞬、全ては静寂であった。ペーターは地面に倒れていた。彼が土に触れるか否かの時、空から雷鳴が轟いた。そして、大地が爆ぜた。ペーターの、ほんの僅かに隣の畝が。それは容赦なく爆ぜ飛んだのである。司祭はあまりの眩さに直視することが出来なかったが、それでも確かに、天と地とを繋ぐ雷の階梯を垣間見た。それはペーターのすぐ隣を打ったのである。
数瞬、司祭は殆ど世界というものを喪失していた。だが、すぐに気を取り戻し、ペーターの方を見た。彼は、立っていた場所から幾らか離れたところに、倒れ伏していた。司祭が駆け寄ると、彼は微かに呻いたので、司祭はそのまま彼を担ぎ上げ、教会の中にまで運び込んだのである。
教会の中で、律法司祭からの気付けを受けて、ペーターは昏倒から息を吹き返した。そして、目を白黒させた。何故、自分は教会の中にいるのか、何故司祭様がいるのかと訝しんだのである。
「ペーター」と、司祭は語りかけた。それは静かで、しかし厳かなものだった。「主、オーロンサスは、決して裁定を誤らぬ」
それを聞いて、ペーターは雨に濡れた頬を新たに濡らした。そして祭壇に跪き、心から祈った。
「まことに主は偉大であられます。まことに主は全てを与えておられます」
涙ながらのその祈りは、ペーターにとって初めての疑念なきものであった。雷はペーターを打たず、故に主は罪無しとおっしゃられたと、司祭はそう告げたのであった。
その後、ペーターは自らの罪を定め、裁こうと試みた咎についてのみ、罰を受けた。そして、二度とそのような愚かなことをしないように、と戒めを受けた。だが、ペーターの心は軽かった。彼は今や、神に全てを委ねる術を知っていたからである。彼はかつて抱いていた疑念と恐れとを、全ていちどきに手放した。それから彼は、彼の妻と子供と共に、以前からそうであったように、良き農夫、良き遵法者として生きたのであった。
神罰 考える水星 @mercuryman
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