雨と想像
狭い部屋の中で、かけられていない掛け時計の音を聞いていた。
本棚の中で、雑然と押し込められた本たちの隙間に挟まれているそれは、居心地悪そうに、だけど正確にかち、かち、という音を立てる。こんな深夜でも、変わりなく。目を閉じてうつらうつらするけれど、しばらくして身体が痛くなって起きる。ろくな椅子じゃない。
「3時半ごろ、E棟の208で、よかったら会えないかな」
いつか、そのメールの時間通りにここへ訪れてノックをすると、中から聞こえてきたのは複数の男女の声で、さらに私に返事をしたのはもっと歳のいった厳しそうな男の人の声だった。ゼミの途中だったらしい。
彼に会えない日々を恋しく思うあまり、この「3時半」が午前のことかもしれない、と思い始めたのはいつだっただろう。
今日も会えなかったか。日が昇るころに、家に帰ろう。
一時間も待たないうちに再びうとうとし始める。夏だけれど外はひどい天気で、強い雨の音がこの部屋の中にも流れ込んでいる。家を出るときはうるさく感じたけれど、雨の当たらない場所にしばらくとどまっていれば、不愉快な音ではなくなってくるようだ。雨の音に混ざって、一定の間隔で靴音が響いていることに気が付く。心を躍らせて扉の外に注意を向けると、期待通りに足音はこの部屋の前で止まった。
ドアを開けたのは、知っているけれどほとんど話したことがない女の人だった。
「えっ」
不審がっているというよりは、警戒心の薄い驚きを表現しているような声色だ。
どう言い訳をしようか迷う私と彼女、有尾さんという女性の間を、強い雨音が通り抜けた。
「あ、雨宿り」
「そうでしたか」
そう言って彼女は私から視線を外すと、迷いなく私の向かいの椅子に腰を下ろした。顔色におかしなところはないけれど、眠そうな目を見ると飲んだ後のように見える。
「あなたはなんでこんな時間に」
有尾さんは少し私の言葉の続きを待つように黙ってゆっくり顔を上げて、それから私の目を見る。そんなつもりないのかもしれないけど、切れ長の大きすぎない目には力があって、なんだか責められているような気分だ。
少し後ろめたくなっている私の心にはきっと気づいていない、彼女はうーん、と少し考えるようにして答える。
「飲んでたんだけど。そのまま泊まってくるの、微妙だったから。でも家もあんまり近くないからちょっと研究室で休んで行こうかと思ってさ」
「泊まってこなかったんだ」
「そうそう。伝説のヤリマンにもコンディションがあるのよね」
「で……」
最初の一文字で言葉に詰まった私を見て有尾さんは少し眉を下げて笑った。責めるような強い目が一転、同情するような、少し申し訳なさそうな笑顔を見せる。
「ごめんごめん、ウケ狙ったの。なんかそうやって書かれてたんだよね。ネットに」
笑えなくて余計にどう反応していいか惑った。本当に笑えないし知っている。そのタイトルのスレッドを立てたのは私だから。
「誰がそんなこと」
有尾さんは私に目を合わせるでもなく笑った。なんだかどうでもいいことのように「わかんね」と返事をしたので、疑われていないことを知る。
「気にしてないけどね」
そう言って両手で長い前髪を分けた。指が長くて爪の形も綺麗だ。この人のことは良く知っている。だけどこんな間近で見ることは初めてかもしれない。
「でも、何が大切なんだろう、そういえば」
「難しいこと、考えるんだね」
「そう?あなたは、目標とかよりどころとか、いらない?」
少し考えたのち、目の前の女の人の目線が強く感じる理由が少しわかった気がした。目標もよりどころも、作ろうと思って作ってきたことなどない。気が付いたら心の中に大きな幅を取って存在していて、避けて生きようとしても避けられないものだ。私にとって、よりどころとかそういうものは。
そんなの、自分でコントロールできる領域なのだとして、それがなくてもこんなに迫力を持って生きられるのは、全然理解が及ばない。
「いります……よね」
「あるんだね。だからそんなに可愛いんだ」
「へ、」
また彼女は、臆さずに私の目を覗き込んでくる。やっぱり少し酔ってるんだろう。
「差支えなければなんだけど、何が大切で何が生きがいなの?」
「最近会えてない人がいて」
たった一つしか思い浮かばないから、思わず食い気味に一息で言ってしまった。気づいて言葉を切ると、また時計の音が耳に大きく響く。雨と時計と、私と有尾さんの声だけが、世界に響いている。示し合わせたように、雑然と置かれた本や花瓶は、静かにしている。まるで私の言い訳に耳を澄ましているようだ。
「へえ。彼氏?どのくらい付き合ってるの?」
「4年になるかな、もうすぐ」
へえ!と分かりやすく興味を持ったような声を有尾さんがあげた。
「すごい。長いんだね」
彼女の口調からじゃないけれど、彼女のキャラクターからか、馬鹿にされている気がした。しかし分かりやすく憮然としてみせるには、有尾さんの立ち振る舞いにはどこか違和感がある。もしかして本当にすごいとか思ってるんだろうか。
「ちょっと惰性みたいな、ところもあって」
なんの謙遜かもわからない言い訳をする。一度も思ったことがないそれは、自分にとっては完全に嘘だ。
「そういうの織り込んで付き合ってるんでしょう。誇るべきだわ」
その優しい口調に少し油断して、彼女の目を覗き込んだ。色の白い人。だけど目が少しだけ赤みがかっている。お酒を飲んだ人の目だ。
「誰と?って聞いてもわかんないな、大学の人のこと」
「藤倉」
「知らないなぁ、藤倉は一人しか……えっ」
彼女がまた髪をかきあげて、驚いたように顔を揺らした。そのしぐさを見て私は今度こそ誇らしい気持ちになる。
「えっ、そうだったの。ここの藤倉と。全然知らなかった、そんな話そういえばしたことないな」
「彼はそういうの、嫌がるから。人前で話すこと」
「それならこんなところでじっと待ってないで、連絡しなよ。来てくれるんじゃない?」
もしかして待ち合わせの途中なの?と聞かれ、曖昧に首を振った。そうと言えばそうだし、そうじゃないと言えばそうじゃない。
「こんな深夜だから、悪いよ」
「恋人だったら来るでしょう」
「あはは」
本来千差万別であるはずの“恋人”への固定観念に思わず笑ってしまう。この人はそう扱われてきたのだろう。
「有尾さんこそ、付き合ってる人がいないなんて嘘でしょう」
「えっ嘘なの?いつの間にか誰かと付き合ってたかしら」
とぼけるように視線で遊ぶ彼女からは、「噂で聞くなあちゃん」の気配がする。彼から聞いたけど、と前置きすると彼女は薄ら笑いのまま私のほうを見た。
「一緒に住んでる彼がいるんだって」
「げー、そんな話、した覚えないけど」
「あれ、じゃあどうして知ってたんだろう」
まあまあな賭けだった。だけどどこへ行ってもきっと有名人で注目されてきたこの人には、プライバシーらしいプライバシーはないだろうと踏んだのだ。美人で気が強くて一匹狼、それだけでこの大学で浮くのには十分だった。
「一緒に住んでないけど、まあ言われるとしたら颯希のことだろうね」
あの年上の男は、サツキ、という名前らしい。背がうんと高くて、いつもスーツを着ていて、私なんかとは視線すら交わらない世界を生きている。世界が違うのは有尾さんだって一緒だけど、年齢が離れている分、もっと関係のないように見える人だった。
「颯希は、絶対に私のこと好きにならないから」
「言い切れるの」
「言い切れるよ。私が女である限り」
えっ、と言葉を詰まらせて顔を上げると、有尾さんと目が合う。彼女は今まで見たなかで一番、儚げで、美しくて、諦めた目をしている。
そして微笑んだ。
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