春の坂道

青島綺希

普通の女の子




「うわっ、どうしたんだよ、その傷」


「引っかかれた。今までかけた金返せって凄まれた」



 うわぁ、と心配するというよりも引いたような声を出して颯希は私の頬の傷を触る。



「これ結構目立つな。お嫁に行けないよ」


「颯希が居てくれればもうそれでいいよ」


「俺がいつまでも結婚できないの、なあのせいだよな」



 颯希は今年で28歳になる。颯希が結婚できないというかしないのは間違いなく私ではなく本人に原因がある。それを本人にはもう100回は伝えた気がするので、何も言わずに颯希が繰り返す「お嫁にいけないよ」という言葉を鼻で笑う。



 お嫁に行けないし友達だってひとりもできやしない。いちいち公言しなくても大学の人は大体わかっている。この間ついに、大学の噂がいろいろ書いてあるネットの掲示板に伝説のヤリマンなあちゃんというスレッドが立っているのを発見した。



「人の言葉なんか全然信じられないじゃん。俺が出したくて出してるだけだって、本当に少しも気にしなくていって、あれ本当っぽかったのに」


「あーダセーけどいるよそういうやつ。タダより怖いもの無いね」


「尽くさせちゃだめだよね。学びを得たよ」



 カチ、という不快ではないけれど大きい音がして、颯希が振り返って立ち上がる。「本当あのケトル家に欲しいわー」とキッチンに向かって話しかけているようにみえたので返事をしなかった。

 コーヒーを入れながら颯希がてか、と今度はコップに顔を向けながら続ける。



「今回の男は何でキレさせたの」


「あーなんか、家に電話したら男が出たかららしいよ」


「男?まさか俺か?」


「他に私の家に出入りする男いないじゃんよ」



 覚えてねえ、と颯希が笑った。



「実際、男がいる家に帰ってきてるもんね、なあちゃん」


「男がいる家じゃない。隣の家の男が入り浸ってるだけ」



 この間お酒の名前が全部数字だとかいう面白いバーに連れて行ってくれた時だったと思う。このカクテルうちの下四桁だ、とうっかり言ってしまったのが失敗だった。でもまさかかけてくると思わないしな。


 ここ一か月くらいよく会っていたのは、プライドが高くて忙しそうな男だった。一流大学を出て一流企業に勤めて、そこでもよく仕事ができて部下からも上司からも慕われているらしい。全部本人談だけど。とにかくプライドが高いことだけはよく分かった。手をあげてしまうくらい執念深く愛されていたら困るなと思っていたけど、実は借金が一千万を超えていてウリをやっていると言ったところあっさり解放してくれた。別れてから家にたどり着いた今まで、連絡はない。




「今回も後腐れなく終わった。しめしめ。……でっ」


「情けない声だな。おら、よく消毒してやるよ」


「痛い痛い。颯希、コーヒー入れてたんじゃないの」


「豆を蒸らしてるんだよ」



 颯希が消毒液の染みたガーゼをゴミ箱に入れて、絆創膏を私の頬に貼った。



「あーあ。怪我すんなよな。危ないこともすんなよ、俺の両親が察してるかもよ。最近よく心配して電話してくんだよ」


「何て?」


「お前はいつになったら結婚すんだって」


「それ、颯希の心配だよね?恋人紹介してあげなよ」



 颯希が恐ろしい、と笑った。コーヒーを淹れに立つ背中を見て、そういえば今何時だろう、と思いついた瞬間に血の気が引いて行く。今日はグループプレゼンの原稿提出の日で、絶対に早く来いと言われていたような、いなかったような。



 自分にないものを持っている人のその素晴らしさを褒めて讃えることが好きだ。その瞬間だけは、私たちの世界のどこにも負が存在しないから。ただし往々にして、私が相手を評価する部分と相手が評価してもらいたい部分が一致しないことが問題だけど。


 あらゆる人の話がわりと自然に入ってくる。お酒が好きで、体力もわりとある。容姿もおそらくそれなりである。クールそうだけど笑えば愛想があるとよく言われる。噂があまり気にならない。


 これらの性質を持った私が、自分が生きやすいように生きていると、今のような形になるだけだ。



「選ぶこと、なすことを決めるのはすべて個人の自由だけど、そこでの生産性のあるなしは少しは考えたほうがいいんじゃない?」


「相変わらず地方出身のくせに美しい標準語ですね、おはようございます」


「有尾さん!瀬川くん、怒ってるから!」



 ありゃ、すんまへん、とふざけるとじろりと睨まれた。瀬川は、彼が私たちに指定したはずの時刻に20分遅れで到着した私に対して怒っているらしい。それをまあまあとあやしているのは、藤倉という、細い目でいつも微笑んでいる温和な男子だ。


 瀬川が立ち上がって、パソコンの横に積まれていた本をすぐ背後にある本棚にしまった。今日も今日とて狭い研究室だ。そのまま出口のほうへ歩いて行ってしまったのでえっ、と思い声をかける。



「なに瀬川ほんとうに怒ってるの?」


「コーヒー」



 ああそう、と返事をするやいなや研究室のドアが閉まる音がした。藤倉の隣に座って私もパソコンを開く。起動するのをしばらく待ってからファイルを開いて藤倉に見せると、彼は優しい顔でおお、と穏やかに感嘆した。




「すごい、ちゃんとできてる。やっぱ忙しそうでもちゃんとしてるなあ、有尾さん」


「遅刻しといてアレなんだけど、私別に忙しくないからなあ。こないだの共用試験が終わってからはますます」


「そうなの?忙しそうだよ。その怪我大丈夫?」



 目の高さを指さされてああ、と間抜けな声が出る。忙しそうというのは男遊びで、ということか。自分の頬の絆創膏の所以を思い出すまで、藤倉の言わんとすることに気が付かなかった。



「こりゃ確かに、いかにもな傷だよね。はは」


「うん。多分瀬川くんも心配してる」


「気が付いてもないんじゃない。視野狭そうだし」


「ねえ有尾さん、きみはもしかして何か事情があって」



 いつも作業をする片手間で好きなように喋る瀬川と違って、藤倉は手を止めて丁寧に言葉を並べる。合わせてないから本当のところはどうか知らないけど、私の目を見ているいような気がする。性別は一緒なのに、瀬川とはちっとも似ていない。


 私のキーボードを叩く音だけが研究室の中に響く。当たり前だけど限界があったので、最後だけリズムよくタタン、と押してみる。そして顔を上げると、やはり藤倉と目が合った。細い目。だけど丁寧な造形。




「見当違いだけど、どうもありがとう」




 藤倉には、4年近く連れ添った彼女がいるらしい。らしいと言うのは、噂で聞いたというわけではない。学内にそんなことを教えてくれる友達はいないし、瀬川とそんな話はしない。藤倉だって、聞けば答えるのかもしれないけど、自分からわざわざそんなことを言わない。


 ただいつか、終電を逃したのちに家に帰るより大学の方が近いという理由で早朝に研究室にやってきたとき、見覚えのない女の子がなぜかいて、その子が教えてくれたのだ。


 そんなに長く一人の女の子と付き合ったりしてさ、結婚とか考えたりするの?いつか聞こうかと少し迷って、やめた。



 食堂のレジへ向かう列の中で、不覚にもまた足を止めてしまった。

「巣ごもりたまご」という小鉢のメニューがずっと気になっている。だけど月見そばを頼んでしまったから、卵だらけのランチになるのはちょっとなあ。見たところほうれん草の中心に半熟の卵が乗ってるだけのように見えるけど、入れ替わりが激しい小鉢のメニューのなかで私が覚えてる限りずっと生き残っているこの「巣ごもりたまご」とかいうの、やっぱり何か特別なんじゃないだろうか。そう思って4年目になる。



 しばらく立ち止まって悩んでいると、ひょいと誰かがその小鉢を取って自分のトレーに乗せた。



「―――あっ」



 思わず指さしてしまい、慌ててひっこめる。顔を上げると、怪訝そうな顔で私のほうを見ていたのは瀬川だった。



「なに?」


「え、それ、おいしいの?」


「見た目通りの味だよ」



 そのまま瀬川が歩いて行ってしまったので、なんとなく追いかけてついていく。瀬川は横目で私を確認するものの、何でついてくるんだとか、友達がいないのかとか、余計なことを言わずに空いている席を探した。


 度の強い眼鏡をしていることは知っていた。横顔を少し除くと、その目は実際は思ったより大きいように見える。向かいのテーブルに腰かけて少し、静かに「いただきます」と手を合わせる瀬川の右手に腕時計が巻かれていることに気が付いた。



「えっ、瀬川、左利きなの」


「両利きだよ」


「全然知らなかった。なんか瀬川ってなんでもできるんだねえ」


「努力してるからね」



 にこりともせず、私と目も合わせず瀬川は麺をすすった。おいしくないとインターネットで評判のラーメンだ。


 つんけんしてるから、モテなさそう。そう言ってもよかったけど、こんな態度でもやっているけるのは瀬川が、愛想を売らなくてもやっていけるほど実力を持っている人だからなのだろう。そのことに対して、「努力をしている」と臆さずに言えることはなんだかとても偉大なことに思える。




「瀬川って、よく見るとかっこいいよね」


「…………は?どうも」


「照れた?」


「きみはもしかして、思わせぶりだと言われたりする?」



 箸の隙間からそばがするっと抜けて、口に入る前にお椀の中へ落ちた。汁がはねて机の上に飛んだので、あわててティッシュで拭く。ごめんごめん、と言いながら少し怖くなった。


 すぐ色目を使う、とは散々言われてきた。それはもはや私が自覚しているかどうかの問題ではないらしいということに、ずっと前から気が付いていたのに、うっかり忘れていたようだ。誰でも性的な目で見てるんだと、知らない人に言われるのはどうでもいい。だけど、瀬川にそう思われるのは非常に不本意だった。なぜか分からない。




「あ!いたいた、なあちゃん!」




 馴染みのない声が私を呼んだ気がする。誰だよ、と思ったけれど正直助かった思いがして振り返る。案の定知らない男が二人、私の目を見て確かに私を呼んだらしく、手を振りながら私と瀬川のテーブルの横までやってきた。



「見つけられてラッキー。なあちゃんの連絡先、学内の誰も知らないんだもんな」


「はあ、ほとんど誰とも交換してないので」


「はは、さすが。急なんだけど、今日の夜あいてない?」


「今日の、夜ですか」



 戸惑うふりをして瀬川を見ると、彼はさっきの発言をもう忘れたようにラーメンをすすっていた。気づかないあいだに、「巣ごもりたまご」は平らげられている。



「合コンなんだけど、一人体調崩しちゃって」


「異性から合コンの代打を頼まれることなんかあるんですね、しかも知らない人に」


「本当だよ、無責任なんだよ、あいつ。で、どうせ俺らで探すなら可愛くて慣れてる子がいいなって」



 会話が嚙み合ってない。あんまり頭よくなさそうだな、と思ってよく目をやると、茶髪にかなりむらがあることに気づいた。なおさら、軽く見える。


 とはいえ食堂内を見渡せば、私が普段会話をしている瀬川とか藤倉というのは珍しいタイプで、世の中はこんな男子学生ばっかりな気がする。そう思うと、いかにも軽そうな言葉遣いも馴れ馴れしさも、みんながみんな悪意があるわけではなさそうだ。



「瀬川、あした発表何時だっけ」


「10時40分」


「そう、じゃあ9時半集合でいい?」


「まあ」



 瀬川が目だけでむら茶髪を見た。いつも無表情だから私は慣れたけれど、瀬川の目つきはあまりよくない。けれどむら茶髪くんは瀬川の方を見もせず、私の方を見て笑っている。一緒にやってきた男は、終始困ったように笑っているだけで、一言も発さない。



 何にしたってやらない後悔よりやった後悔よね、と、薄いカクテルを飲みながら4回くらい考えている気がする。


 指定された時間に指定された居酒屋で始まったのは、聞いた通りの合コンだった。知らない女2人と知らない男3人と私で一緒に始まった。開始してしばらくして、そういえば合コンというものに来るのが初めてなことに気が付く。知らない女2人は仲がよさそうに腕を組んだり肩をたたき合ったりして、ときおり向かいに座る男を見つめている。その様子を隣で見ながらそうか、合コンをするには女友達がいるのか、という発見をした。



「なあちゃん、合コン初めてなの!?」


「え、はい、うん」



 どうやらこの場に居るのは年下の女と、同い年の男らしかった。男たちはそれをはじめから知っていたように私にくだけた言葉を向けてきた。



「じゃあ、今までの男の人とはどうやって知り合ったんですか?」



 腕を組んだ女たちの、顔が小さくてふわふわのボブの方が私にそう投げる。知ったような言い方が最初のほうこそやや疑問だったけれど、なんかもう話す人みんな私のことを知ったように話すので、だんだんどうでもよくなってくる。



「えー……教習所で知り合った人とか、幼馴染と行った店のバーテンとか、その辺でナンパしてきた人とか、その友達とか」


「ナンパについて行くの、怖くないんですか?」


「え、もちろんちょっと話して危なそうだったらついて行かないよ」


「えー。怖いから一回もついて行ったことないなあ」




 基本的に生命の危険を感じなければついて行くけど、とは言わなかった。だんだんこの場において自分の立ち位置が見えてきて、男から見たそれと女が求めているそれが大きくズレていることも分かってきた。


 大体は、学内の噂話と高校時代の武勇伝で話が盛り上がっていた。それでも時折、「なあちゃんはどうして一人の人間と長く付き合わないのか」みたいな話になった。本当にその真相を求めている人がいるように見えなかったし私も具体的に考えることがほとんどなかったので、その話は毎回降ってわいてはグレーのまま流れていく。



 2時間くらい経って店を出たときに、瀬川から着信が入っていたことに気が付いた。滅多にないというか、初めてじゃないだろうか。酔った人たちが二軒目だのカラオケだの盛り上がっている横で私は瀬川に電話をかける。



「もしもし」


「どうしたの?」


「食中毒かも」


「は!?」



 驚いて大きな声が出たせいで、視線が集中する。小さな声で「ごめん」と断ってから集団に背を向けた。



「なに、家どこ?」


「あー違う、助けに来てくれとかじゃなくて、明日のプレゼン行けないかもしれない」


「あ、そう。は!?」


「叫ばないで」



 弱そうな声だ。心配だな、というよりも明日のプレゼンに出てこれないのはかなりマズいだろう。私たちの教授は「体調管理ができない人間が社会に出れると思うな」くらい平気で言う人だ。



「データを送るから、明日の発表、藤倉と2人でやってくれない」


「は!?あれ原稿英語でしょ、今から覚えられるわけ……何食べたんだよ!」


「しわしわの……人参……」


「馬鹿か!?」




 ああ叫ばないで、と再び弱そうな声がして、言葉に詰まる。瀬川の無事を確認したくなってきた。そう思うと急に昼間の「思わせぶりだと言われたりする?」という発言が思い返される。


 その時携帯が奪われた。反射的に「あっ」という声が出て右手が追いかける。私よりいくらかだけ背が高いむら茶髪は酒が回っているのか、人の物を取り上げておいて得意げな顔をしている。



「なあちゃん、次どこ行きたい?」


「ごめん、今日は家」


「家!?」


「あっそうじゃなくて、ごめん。帰る」



 携帯を取り返そうと手を伸ばすけれどよけられて、今日はじめて動揺した。そのまま手首を掴まれた。むらの後ろから黒髪がいなすように「おい」と声をかけるけど、黒髪も結構酔ってるように見える。



「ナンパについて行くくらいなんだからいいじゃん。もうちょっと遊ぼうよ」



 また急に、瀬川がさっき私に言った「助けに来てくれとかじゃなくて」というセリフが私の頭に流れる。てことは、今私にできることは瀬川の無事を祈りながら、帰って原稿を頭に入れることか。むらが私の手首を掴んだまま、今度は顔を寄せてきた。笑顔のまま私の耳元で囁く。




「今日本当はなあちゃんが目的だったんだ。ずっと話してみたくて」




 困ったな、と眉を顰める。



 容姿、能力、立ち振る舞い、将来。それらを褒め、愛で続けるという行為の中に存在する途方もない期待。行先はすべて、期待である。その形が無ければ大きさも深さも人に測ることのできない、けれど人を愛しつづけるときに絶対に切り離せない膨大なエネルギーが、とても苦手だ。



 それに比べて毎回別の人間と飲み歩くことはひとつひとつが限りなく薄くていい。期待なんか、するまでもなくその日が終わる。話が面白けりゃセックスだってかまわない。だけど進んでしたいと思ったことはない。ウリもやってないし借金だってない。私はふつうだ。ふつうに勉強をしてふつうに人と接して……



 ふつうになりたかった。



 思いの外力強く手首を握られていた。離して、と持ち上げてみると相手の手の甲が私の目線の高さまでついてくる。気持ちが悪い。思い切りかみつくと「いてえ」と言いながら綺麗でない手が離れた。



「ださいっ!セックスが目的ならもっとうまくエスコートしろ!」




 3日後の夕方、藤倉が帰ってしまったあとに瀬川はふらふらと研究室にやってきた。もともと色白だったけど今日はいつもより血色がなくて、めがねの奥の目も心なしかうつろに見える。



「なに、死にそうだよ。出てこないで休んでよ」


「ご迷惑をおかけしました。何かおごるよ」


「死にそうな人間からタカる趣味ない。もう帰るし」




 帰ると言って立ち上がったのに、瀬川がドアの前から動かない。近寄ってドアに手を伸ばすと、触れてこないのに触れられたような目線に気まずくなった。




「今日は怪我してないんだね」




 何で毎日毎日けがしそうな目に遭わなきゃいけないんだ。そう言おうか迷って、そういえばこのあいだ食堂で誘われているときに瀬川もいたことを思い出した。




「別に危なくなかったよ」


「きみは頭がいいもんなあ」


「瀬川だって思わせぶりじゃん」



 私よりも15センチくらい背の高い瀬川が、少し具合が悪そうに私と目を合わせた。少し背伸びをすれば、キスができそうだった。


 だけど藤倉のようなやさしい目をした人や、瀬川のように頭のいい人と知り合えたことは、蔑ろにしてはいけないことだ。




「やっぱりコンビニで何か飲み物おごって」




「チアシードフルーツミックス」という、自分のこれまでの人生に関係のなかった飲み物は380円もするらしい。ありゃごめん、と瀬川に声をかけると、何の謝罪かわからなかったらしく彼は少し怪訝そうな顔をした。コンビニの外に出てすぐのベンチに腰掛けると、大学のグラウンドと、その向こうの住宅街が見えた。ここは坂の上にあるこの大学の、見晴らしのいい場所のうちのひとつだ。坂を上りきった見晴らしの美しいところにコンビニがあるなんて間抜けだと今でも思うけれど。



「ねえ私、伝説のビッチらしいんだけど」


「何の話だよ」



 グラウンドでサッカーが行われているのに目をやりながら瀬川は返事をする。横顔を見ると、彼は前を向いたまま缶コーヒーに口を付けた。



「いや何か、報告したくなった」


「それで傷ついてるの?」



 いや全然、と言おうとして、ここ数日のあいだに何度も瀬川の言葉を反芻していたことに気が付く。



「傷ついてないけど……もっと普通だったらと思うことはある」


「きみはふつうだろ」



 なんか口の中がぶつぶつだな、と思ってしばらく、チアシードというものがもしかして果物ではないのかもしれないとはっとした。よく考えたらシードって、種じゃん。




「美人だから目立つけど、ふつうの女の子だろ」




 期待と絶望が入り混じるのを感じた。


 私のことを噂で語る人間はおろか、幼いころからお互いを知っている颯希ですら、知り合ってから一度も私にそんなことを言ったことはない。





「瀬川、恋人に期待することって何?全部あげてみて」


「全部?知らないよそんなの、そんなこと考えながら生きてないだろ」


「いま付き合ってる子思い浮かべてよ。その子にどうあってほしいの」


「別にどうあったっていいよ」



 やめてくれよ、と低い声で脅したくなる。



「そんなわけないじゃん」


「そもそも他人との付き合いを期待から始めること自体微妙なんだよ。大体のことは自分でできるだろ」



 瀬川の言ったそれはとても的を得ていて、だけど決定的に抜けている視点があって、私はその温度差に動けなくなりそうだった。


 馬鹿な瀬川、馬鹿だから言い切ることができる。そしてこの人はその通り、本当にだいたいのことは自分でこなしてしまうんだろう。信じられないような愛の深さで、好きな人を見つめるのだろう。その想像がたやすくできてしまって、私は今度こそ言葉を失ってしまった。




「瀬川」


「瀬川くん?」



 知らない女の声に瀬川を呼ぶ声を上書きされ、顔を上げると、少し驚いたように私を見下ろす女性の姿に、思わず見惚れてしまった。同意を求めるように瀬川を見ると、今度はその表情を見て固まってしまう。


 瀬川はとても分かりやすい人だったらしい、今まで知らなかったけど。




「ごめん、お話し中なら出直すよ」


「いや、うーん、そうだな」




 見たことがなかった、安心したような瀬川の緩んだ顔と、存在くらい知ってたっていいじゃないかと自分を責めたくなるような完璧なルックスの女性。お互いため口なところを見るに、彼女も私と同じ4年生なのだろうか。


 鋭い風が正面から吹いて、その瞬間に自覚した私は立ち上がる。




「大した話してないじゃん。時々ここにいたの、彼女との待ち合わせだったんだね。それじゃ」




 返事を求めずに立ち去ったけれど、しばらく歩いて角を曲がるまで、後ろがどうなっているのか、やや気になった。私が去って今頃、瀬川は彼女に笑いかけている。一度だけ振り返って見ると、2人は見つめ合っていた。


 そう冷たくない風がまた吹いた。春を感じる瞬間に、気分は関係ないらしい。




 この人のことが好きかもしれない、と思った瞬間に終わっていることを知る。とても私らしくて、私を安心させる。悲しみと愛情が混ざって、切なくて、美しい。

 人を思う気持ちは美しくなければならないと思うし、そのためならこの程度の苦しさは甘んじて受け入れられる。


 あの人が、あの笑顔で、いつか私に笑いかけてくれないだろうか。そう思ってみることすら馬鹿げていると感じるほど、圧倒的な優しさと慈しみの詰まった表情だ。



 だけどこれでいい。何もいらない。この先を、期待してしまうものなど。


 そっと感情に蓋をして、そういえばこんなことを考えるのは初めてだ、と思った。









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