読者への挑戦

読者への挑戦

俺、こと桃井直常は外資系金融マンにして歴史オタクだ。ある時ひょんなことから、オフィスの近くで出会った初老の男によって戦国時代に転生させてもらった。そこで驚いた事に、戦国の三英傑、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の実際の人物像が通説で言われている者とは全く異なるものであるのを俺は目の当たりにした。それと同時に戦国末期の天下統一の過程、そして戦国最大の謎と呼ばれる本能寺の変など、歴史に刻まれた事件の唯一無二の真相の目撃者となったのだ。

俺は、そんな自分の体験を本にして、読者諸君にもその真相に辿り着いてもらうための転生x歴史保存の推理小説に仕立てた。仮にも推理小説であるからには正統派古典的推理小説のお作法にのっとり、読者への挑戦状で開始したいと思う。また推理小説を書くにあたり破ってはならないとされるノックスの十戒にもきちんと則っている事を保証する。真相解明に必要となる手掛かりは本の詳細部に渡るまで全て示している、先ずは登場人物紹介から始めるが、すでに重要な手掛かりはここにも埋まっている。


現代人

 桃井直常(俺): 外資系証券会社勤務のトレーダー。二十代後半。名前の姓で歴史オタク。YouTubeの「ぶーぶーざっくり解説」にハマっている

 武田信吉: 俺と同じ会社のカントリーマネージャー代理。X世代でバブル全盛を経験。六本木の昔を知るET似の好中年

 一色義龍: 得意先大手生命保険会社の社長

 初老の男: オフィスの傍にあるカフェバーで、俺の隣に突然座ってきて「転生したいか?」と聞いた男

 津川和茶: 銀座高級クラブでナンバー1ホステスを指名した男。社長らしい。


戦国三大英傑

 織田信長  :三大英傑の第一人者。尾張守護代織田大和守家の被官、織田弾正忠家の当主として生れるも、主家と守護斯波家を追放し尾張を統一。その後揺るぎない信念で、立ちはだかる難敵を次々と乗り越えて天下統一事業を進めるも、あと一歩のところで家臣明智光秀の反乱により阻まれる。

 豊臣秀吉 :信長の後継者にして、三大英傑の一人。卑賎の身から織田信長の家臣となり、その後拡張する織田家の大波に乗って織田家中の出世街道を駆け上がり、本能寺の変を転機として並み居る織田一門、重臣、徳川家康、そして数多の戦国大名を支配下に置き天下人となる。

 徳川家康(松平元康) :秀吉の後継者にして三大英傑の一人。三河の弱小大名の松平氏の当主として生まれる。吾妻鏡と難太平記をこよなく愛する。最初は駿遠参の太守今川義元の被官となり、義元が信長に討たれた後は織田信長の同盟者となった。苦労を舐めながらも、祖父清康の奇策を受け継ぎそれを進化させる事で、最終的に戦国の世を勝ち残る。慶長八年(1603年)にゴリ押しで家系捏造を公式化させる事に成功し、本来は源氏の家系でなければなる事が出来ない征夷大将軍となり、あまつさえ右大臣に任官し、源氏長者となる。彼が創設した江戸幕府は、十五代267年続く事となる。


織田家臣団

 明智光秀 美濃源氏土岐氏出自。斉藤家の内乱で敗れて朝倉義景を頼り、その後織田家中に入る。信長が近江に進出し、朝倉・浅井と抗争を繰り広げる頃から頭角を現し、重臣として栄達、近江・丹波の所領と与力を与えられる。しかし故有って天正十年に信長に反乱する

 柴田勝家 かつて信長の弟と共に信長に反乱を起こした、その後は宿老としての地位を確立し、北陸方面司令官となる。また織田信長が本能寺の変に倒れた後は、信長の妹で浅井長政未亡人のお市を正室として迎え入れる。

 河尻秀隆 古くからの信長の重臣。信忠軍団中核として甲信方面を担当し、武田勝頼滅亡後に甲斐一国一城の主となる。

 佐久間信盛 信長の父信秀の代からの織田家宿老。織田家臣団筆頭として君臨する。三方ヶ原の戦いは織田方援軍として参陣するが、家康の願い通りに惨敗した徳川軍を後目に尾張に無傷で帰還。その事が原因で天正十年には…

 平手汎秀  信長のために諌死した守役平手政秀の嫡子。織田家臣団の中では、信長の強い“信念”を理解している数少ないものの一人。鋭い洞察力を持ち、今川義元の大軍が尾張に押し寄せた際には、彼の一言が危機を救った。三方ヶ原の戦いでは、佐久間・林・水野の三名の客将とは別行動を取る。

 森蘭丸・長可 蘭丸は信長の側近にして酒飲み相手。平手汎秀と共に信長の強い“信念”を知るもう一人の家臣である。長可は鬼武蔵と呼ばれて甲州征伐で軍功を挙げ、武田勝頼滅亡後に信濃半国を拝領する。

 丹羽長秀 織田家重臣だが、信長の天下統一事業が進むにつれて、柴田勝家、明智光秀、豊臣秀吉に水を開けられる。神戸(織田)信孝を焚きつけて天正十年に四国征伐軍指揮官となるも、大阪で足止めをされて、混乱した信孝と共に津田信澄を討ち取る。本能寺の変の後の清須会議では羽柴秀吉を支持する。

 池田恒興 信長の乳兄弟。明智光秀の与力となったが、本能寺の変後は光秀を捨てて中国大返しをしてきた秀吉麾下に入る。清須会議に参加し、丹羽長秀と共に羽柴秀吉を支持する。

 穴山梅雪  甲斐源氏傍流にして武田勝頼の従兄。勝頼を見捨てて信長に臣従し、家康与力となり、安土城での武田家滅亡祝宴に家康共々招待される。その後のご褒美の堺見物の時に本能寺の変が勃発し、取り急ぎ家康と別行動で伊賀を通って本国甲斐への帰路を急ぐ。

 荒木村重  信長家臣として摂津一国を任されるも、故有って信長に反乱する。この時点での信長への反乱は誰もが首をかしげる程の謎であった。

 京極高次 名門佐々木氏庶流で四職の家柄でもある京極家当主。しかし父高吉は六角氏の傀儡となり、その後六角を近江から追放した信長に臣従する事となり、人質として高次を信長に差し出した。後の戦乱の世を生き抜き、弟高知ととも京極家の再興を果たした。


織田一族 

 お市 信長が政略結婚のために近江の浅井長政に嫁がせるが、長政が信長に叛旗を翻して滅ぼされたために未亡人となる。信長が本能寺の変で横死した後は、柴田勝家に嫁ぐも勝家が秀吉に敗れたために勝家と共に自害を覚悟する。

 織田信行 織田信秀の次男にして信長の実弟。一時は信長と共に弾正忠を名乗り、家老の柴田勝家と共に信長に叛旗を翻すが、信長に恭順の意を示し許される。熱田神宮への判物状を巡って。信長に清州城登城をめいじられるのだが…

 織田信忠 信長長男。幼名は奇妙丸。甲州征伐の総司令官。武将としての器量も高く、織田家の跡取りと目されていたが、本能寺の変の際に二条城に立てこもり明智光秀と対決することになる。

 織田(北畠)信雄 信長次男。幼名茶筅丸、通称三介。南朝重鎮の北畠親房の流れを汲む伊勢北畠家の養子となり養父具教を殺害した。父信長に無断で伊賀に攻め入るも大敗し、信長に勘当を言いつけられる。

 織田(神戸)信孝  信長三男。通称三七。長兄信忠、次兄信雄に対抗意識を燃やし、足利千寿王の語り口を真似して織田家重臣を巻き込み、四国征伐の総司令官となる。しかし四国に渡る前に光秀が反乱を起こし、パニックを起こして織田信行の長男で従兄にあたる津田信澄を討ち取ってしまう。


尾張近隣の源氏流派守護大名

 斯波義銀・義秋 名門武衛家の当主とその弟。元は尾張守護にして信長の主家の主家

 吉良義昭 名門吉良家の末裔であるが、戦国の戦乱の中で衰退し今川義元の臣下となった。尾張の守護斯波義銀が信長によって傀儡化されるの事を嫌い、、駿河国の今川氏と足利氏一門の守護同士の盟約を図ることとなった時に、義昭は義銀と互いに足利一門最高の格式を誇る家柄同士でして席次を巡って争った

 今川義元・氏真 源姓足利氏支流の名門今川氏の当主。駿遠参守護にして治部大輔。松平元康を先鋒として尾張に押し寄せる

 武田信玄・勝頼 義光流甲斐源氏の名門武田氏棟梁。父信玄は戦国大名最強の呼び名が高い。勝頼は織田徳川との抗争の末に滅亡する


豊臣一族及び家臣団

 豊臣秀長: 秀吉の実弟。兄秀吉及び軍師官兵衛と中国の一大決心をする。

 竹中重治(半兵衛) 美濃斎藤家三代に仕え、織田との戦いで常に勝利。斎藤家滅亡後はスカウトされ秀吉軍師となる。今孔明の別名を取る軍略の鬼才

 黒田官兵衛   秀吉の軍師で、竹中半兵衛と並び二兵衛と呼ばれる。荒木村重反乱の際に嫡子松壽丸を半兵衛に救われる



徳川一族及び家臣団

 松平清康: 三河国岡崎に流れ着いて安祥松田家の祖となった乞食坊主松平長親の子孫。周囲を足利一門に囲まれる中、秘策を編み出し、その薫陶を引き継いだ孫の家康は後の天下人となる

 石川数正: 徳川家康の右腕・参謀として数々の謀略・戦略を編み出している。危機に陥いると、懐から火の棒を取り出して高く掲げる事が頻繁に有ったと言い伝えられている。

 本多正信: 徳川の「知恵袋」「名参謀」「頭脳」等と自称している。

 本多忠勝: 正信の同族で、鬼平八と言われた徳川四天王の猛将。実は彼こそが知恵袋で、祖父清康から受け継いだ“教え”の真相を良く理解しているのは、徳川家中でも彼だけである。智謀は主君家康に負けないものがあるが、推理する時に「よし、わかった」といつも早とちりして結論に飛び着く癖が有る。

 榊原康正: 徳川四天王の一人。野村合戦(姉川の戦い)で第一の功労が有ったが、家康に思慮の足りなさを咎められた。

 酒井忠次: 徳川四天王の一人。


由緒正しい東国源氏 

 里見義堯 新田義重流安房里見氏当主。庶流ながら北条氏の力を借りて当主の座を勝ち取るも、その後は北条氏と房総半島で抗争

 佐竹義重 源義光流の名門佐竹氏当主にして常陸介。北条氏と関東で抗争

 最上義光 源姓斯波氏流最上家当主。羽州探題の名家ながら弱小で、伊達や周辺諸大名と抗争

その他戦国大名 

 斎藤道三・一色義龍・義興 美濃斎藤氏三代。初代道三は信長の舅。その後二代は美濃に進出する信長と抗争

 六角義賢・義治 近江源氏佐々木氏嫡流にして近江半国守護。近江に進出してきた信長と戦う

 朝倉義景 越前守護の家柄。信長の上洛命令に反抗し、近江・越前にて織田・徳川と抗争

 浅井長政 北近江戦国大名にして信長の妹婿。義兄織田信長と同盟者朝倉義景の間に挟まれて決断を迫られる

 北畠具教 戦国末期の伊勢国主北畠家八代目当主。天分23年には従三位中納言に叙任する等公卿としても栄達をしてい居たが、尾張から侵攻する織田信長に抗しきれず、永禄12年に信長次男の信雄を養子に迎え入れる事を条件に和睦した。しかし天正4年11月に信雄の名を受けた旧臣の長野左京亮、加留左京進らに討たれて、完全に北畠を乗っ取られた。剣聖と呼ばれた塚原卜伝から奥義である一の太刀を伝授され、上また泉信綱にも師事した程の剣の達人で、信雄の刺客に襲撃された際も、太刀を手に19人の敵兵を斬り殺し100人に手傷を負わせたと言われている。

 上杉謙信・上杉景勝 謙信は軍神と呼ばれ越後守護代から関東管領を踏襲。景勝は養子で跡目争いを勝ち残る。北陸に進出した柴田勝家と抗争 

 毛利輝元  大江広元の子孫にして、国人から中国の覇者に成り上がった元就の嫡孫。叔父元春・隆景と共に中国に進出した秀吉と抗争

 吉川元春 中国の覇者毛利元就の次男。中国方面羽柴秀吉の水攻めで落城寸前の備中高松城に援軍に駆け付けるが、かれの決心が戦国の運命を決定づける事になる

 小早川隆景  毛利元就の三男。父元就、兄隆元の死後に、吉川元春と共に甥にして毛利家当主の輝元を補佐する。

 北条氏政・北条氏直 名門伊勢家を始祖とする関東の戦国大名。織田信長と同盟し、上野の新たな関東管領滝川一益とも誼を結ぶ

 長曾我部元親 四国の戦国大名。古くから織田信長と誼を結び、明智光秀が取次となっていた


その他の登場人物

 登誉天室  徳川家菩提寺の大樹寺住職。桶狭間の戦いで敗軍となった家康の危地を救う。いわば江戸幕府創設の立役者

 服部半蔵     戦国最強と言われる伊賀忍軍の棟梁。本能寺の変後の神君伊賀越えで活躍。いわば家康の天下統一の立役者

 百地丹波 家康が服部半蔵とは別に密かに使う元伊賀国人衆の棟梁の一人

 与兵衛 美濃の山奥で隠居する竹中重治を介護する従者

 久兵衛  尾張の老舗和菓子屋『揚羽蝶』の当主。信長の尾張での商売政策を信奉

 新九郎  尾張の大店和菓子屋『桔梗屋』の当主。娘は揚羽蝶に嫁入りするも後家となる

 和茶(かずさ) 尾張の大店和菓子屋『桔梗屋』の入婿。後に新九郎の跡を継いで当主となる。

 最上義秋 武士にしてやり手の商売人。尾張の豪商石橋義忠の手代を勤めていたが、最後は有金を全て持逃げした。


南北朝時代の人物

南朝方

 主上(後醍醐天皇): 天皇親政の理想をかかげ、権勢を欲しいままにしていた北条得宗家及び鎌倉幕府打倒を試みる。逆賊足利尊氏の謀叛による建武の中興の瓦解後も、不屈の闘志で吉野にたてこもり南朝を設立。日本史に唯一皇統が二つ存在した、南北朝時代の立役者。

 大塔宮護良親王: 尊治親王の皇子の一人として産まれた「おおとうのみやもりながしんのう」は、知略、武略に優れる鎌倉幕府打倒の立役者の一人である。幼少の頃から仏門に入り20歳の若さで比叡山の天台座主となる。主上の危機に際して、楠正成と共闘して吉野で挙兵し、鎌倉幕府軍を翻弄する。鎌倉幕府滅亡後は、元弘3年(1333年)に征夷大将軍となるも、足利兄弟との対立、朝廷・公家陣営内での権力争い、阿野廉子の謀略などで失脚し、足利兄弟に捕らえられ鎌倉へ流罪、土牢に幽閉の憂き目を見る。中先代の乱が起こった際に、鎌倉を落ち延びる足利直義がどさくさ紛れに放った刺客である淵辺義博に武運拙く弑逆され、享年28歳の生涯を閉じる。

 新田義貞: 源頼朝の直系亡き後の、真の源氏嫡流たる新田家の当主。しかし足利家とは対照的に、新田宗家は鎌倉幕府末期には無位無官の貧乏御家人に零落していた。後醍醐天皇に最後まで忠誠を誓い、弟脇屋義助らと連携して足利尊氏を相手に善戦する。が、暦応元年(1338年)少人数かつ軽装で援軍に出かける途中の灯明寺畷で、運悪く出くわした足利(斯波)高経の軍との遭遇戦において武運拙く討ち死にする。楠木正成と並ぶ、南北朝時代の悲劇のヒーロー。子孫は室町幕府の執拗な新田狩に遭い、その系統が不明となったところに付け込まれ、松平清康、家康の源氏詐称を許すことになる。

 脇屋義助: 新田朝氏の次男にして、新田義貞の弟。脇屋(現在の群馬県太田市脇屋町)に拠ったことから名字を「脇屋」とした。その生涯を通じて、兄の新田義貞と共に鎌倉幕府、北朝と闘った。劇的な生涯を送った南朝総大将の兄義貞に比べて地味な存在であるが、劣勢な南朝を支えて善戦し、義貞横死後は南朝の主将格となった。

 楠木正成: 南朝随一の後醍醐天皇方の大忠臣。「正成一人生きてありと聞し召し候はば、聖運ついに開かれるべしと思し召し候へ」との言葉通りに、神出鬼没、縦横無尽の戦略・軍略・智謀で後醍醐天皇のために朝敵得宗の大軍を一手に引き受けて、倒幕・建武の新政への道を開いた。後に足利尊氏が主上に反逆するとこれも獅子奮迅の活躍で翻弄し続けたが、最後は公家衆の理解が得られずに摂津国湊川にて、南朝方武家総大将の新田義貞を逃がすために自ら囮となり玉砕する。その死は南朝だけでなく、北朝方の足利尊氏や心ある武将たちにも惜しまれた。明治天皇は後醍醐天皇への変わらぬ忠義と軍功を称えて最高位である正一位を贈られた。徳川家康も前田利家も和泉国の堺に有る料亭『大楠公亭』を楠木正成公所縁の場所と聞かされているが・・・

 楠木正季 :楠木正成の弟として、鎌倉幕府を相手に僅かの手兵で叛旗を翻した上赤坂城の戦いから兄に従軍した歴戦の勇士。楠木兄弟最期の戦いである湊川の戦いでは、僅か七百の兵で何十万とも言われる足利軍の中を縦横無尽に駆け回った。尊氏舎弟の直義をあと一歩のところまで追い詰めながらも力尽き、七生報告を近い兄正成と重臣達と刺し違えた。

 楠木正行 : 楠正成の嫡男。父正成との湊川決戦直前の「桜井の別れ」は、皇国史観教育の象徴的なエピソードである。新田義貞、北畠顕家などの主力諸将亡き後、完全劣勢になった南朝を支えたのが正行である。新田義興や北条時行らと共闘し善戦するが、貞和4年(1348年)四條畷の戦いにて敗死する。

 北畠親房; 村上源氏中院流にして名門の北畠家の鎌倉末期から南北朝時代にかけての当主にして、時の源氏氏長者であった。吉田定房・万里小路宣房とならんで「三房」と呼ばれる程後醍醐天皇の信頼が厚かった南朝の中心人物。後に後醍醐天皇が足利尊氏の監禁を逃れて、吉野山に籠り南朝を開くとこれに合流し、参謀として主上を支えた。神皇正統記の著者としても名高い。

 北畠顕家: 新田義貞、楠木正成とともに南朝を支えた名将。名門貴族北畠家の当主で源氏氏長者である北畠親房の嫡男にして、従二位鎮守府大将軍。今日として早くから栄達していたが、公卿よりも武将として南北朝の世の中を駆け抜けた。主上の窮地を救うため、屈強の奥州軍を率いて二度上洛し足利尊氏軍を破るも、二度目の上洛に際して伊勢に反転したところから、転落の運命を辿る。転戦の末、若干二十歳にして阿波野の露と消える。主上のご親政失敗を厳しく諫めた、北畠顕家上奏文は有名である。なお、後年織田信雄が乗っ取った北畠家は、顕家の弟で伊勢国司となった北畠顕能の直系の子孫である。

 千種忠顕 : 六条家の流れを汲む千種家の鎌倉獏末期の当主。元徳3年(1331年)元弘の乱の当初から後醍醐天皇に付き従い、主上が隠岐杯流の際は主上と共に隠岐にて苦楽を共にした。その後隠岐脱出を成功させ船山山に籠る名和長年と共に京都に攻め入り、六波羅探題を陥落させた。官位は従三位頭中将まで栄達し、その後常に主上のお傍にあって支えた南朝随一の忠臣。楠木正成、名和長年、結城親光とともに、姓の末尾である種(くさ)をとって三木一草と呼ばれる一人。

 名和長年 :  村上源氏の流れを汲み伯耆国名和で海運業を営んでいた名和氏の、鎌倉時代末期の当主。杯流先の隠岐を脱出した後醍醐天皇をお守りし、伯耆国鮒上山に立てこもり攻め寄せる北条軍を撃破して、主上の京都奪還を実現した南朝随一の忠臣。後に伯耆守に任命されて、伯耆の末尾の木を取り、楠木正成、結城親光、千種多忠顕と供に三木一草と呼ばれた一人。彼の肖像画は、源平時代に頼朝から危険分子と見なされ誅殺された上総介広忠に瓜二つで、生まれ変わりではないかと言われている。

 結城親光:   白河結城氏2代当主・結城宗広の次男として誕生。上赤坂城の戦いで幕府方として楠木正成を責めるが、足利尊氏が京都でクーデターを起こして六波羅探題を責める時は尊氏に従軍。その後尊氏が建武の親政に叛旗を翻すと、後醍醐天皇型として奮戦するも箱根竹下の戦いで足利軍に投降。その折に尊氏と刺し違えるつもりであったが、計略を見破られて、竹下の戦いで裏切った大友貞載と刺し違える。結城の末尾を取って楠木正成、名和長年、千種多忠顕と供に三木一草と呼ばれた一人。


北条氏

 得宗(北条高時): 鎌倉幕府第十四代執権にして、最後の得宗(最後の執権ではない。最後の執権は赤橋守時)。酒食、田楽、闘犬に溺れた無能な執権と誹られることが多いが、時代に翻弄された不幸な人物であったかもしれない。次男の時行は幕府滅亡時に、鎌倉を脱出。中先代の乱を起こす。この時行が南朝に帰順したことにより、高時の朝敵の汚名は濯がれる。時行は、新田、北畠などと共闘し、最期まで逆賊にして仇敵の足利尊氏に復讐を果たそうとした。

 名越高家 : 鎌倉時代末期の名越流北条時家の子として生まれる。すでに1310年代には尾張守を務め、1326年には幕府の評定衆に列するなど、若くして幕府中枢に位置した人物である。元弘の乱では足利高氏とともに上洛を命じられ、京都方面の軍事指揮にあたったが、1333年、久我畷の戦いで宮方軍と衝突し戦死した。華美な武具で目立つ姿をしていたため敵の集中攻撃を受けたと言われている。彼の後詰をしていた足利高氏はこれ幸いと後醍醐天皇方に寝返った。


北朝方

 足利家時: 足利家第六代の当主にして、尊氏、直義の祖父にあたる。八幡太郎義家から数えて7代目の子孫。文保元年(1317年)に自害して果てる。自害の前に、今川了俊が高氏、直義兄弟と共に見たと伝えられる「置文」を残す。

 足利高氏(後の尊氏): 源頼朝の直系亡き後の、源氏嫡流を自認する足利家当主。主上からの綸旨を賜り、また足利家に伝わる「置文」の悲願を果たすべく、鎌倉幕府打倒に立ち上がる。当時これ以上ないほど優遇されていたにもかかわらずの謀叛と、姑息なやり口で叛旗を翻したことが、北条最期の得宗である高時をして「新田に討たれるは詮無きことだが、足利に討たれるのでは死んでも死に切れぬ」と言わしめた。室町幕府の初代征夷大将軍にして開設者。

 足利直義: 高氏の同母弟。幼少のころから高氏とは仲の良い兄弟で、手を取り合って新しい武家政権の確立に尽力する。中先代の乱のどさくさに紛れて、恐れ多くも護良親王を弑逆奉り、主上と尊氏の手切れを余儀なくする。が、後に観応の擾乱で尊氏と対立して敗北。幽閉された末、尊氏に毒殺される。

 高師直: 悪名高い、足利家の執事。足利高氏の鎌倉幕府への謀反から南北朝時代にかけて悪逆の限りを尽くすが、漸く一族もろとも目出度く上杉能憲らに虐殺されるという極めて自業自得の最期を遂げる。

 足利(斯波)高経: 足利本家四代目泰氏の長男家氏から始まる斯波家の四代当主。斯波家は足利諸流の中でも別格の家柄で、南北朝の動乱時に高経は足利方の有力武将・北陸方面司令官として活躍し、越前で新田義貞と死闘を繰り広げる。建武五年(1338年)には灯明寺畷で新田義貞を討ち取り、三年後には越前を平定した。斯波家は室町幕府三管領家となり、代々に渡り兵衛官を任官したので武衛家と呼ばれたが、その子孫の義敏と義兼が引き起こした『武衛騒動』は応仁の乱の引き金となった。更に後の子孫である尾張守護斯波義銀は織田信長の主君の主君であった。奥羽探題の家柄の最上義光は彼の庶流の子孫にあたる。

 佐々木道誉(京極高氏): 宇田源氏佐々木氏流庶流で京極高次の祖先。足利高氏と同じ名前では恐懼の極みと改名したり、建武の乱では足利と新田の間で状況に応じて離反を繰り返す等、空気を読むのが抜群に上手い。箱根竹下の戦いでの絶妙のタイミングでの裏切り、南朝への偽装工作等の数々の室町幕府創設への功労で、佐々木氏嫡流の六角氏をさしおいて京極氏を室町幕府四職の家格に押し上げた。また尊氏の絶大の信頼を笠に着て、足利一門の斯波高経と政争を繰り広げた。

 今川貞世(了俊): 鎌倉末期から南北朝時代にかけての足利一門の今川家の当主にして、守護大名。室町幕府の九州探題、遠江、駿河半国守護。九州探題赴任中は備後、安芸、筑前、筑後、豊前、肥前、肥後、日向、大隅、薩摩の守護も兼ねて、また歌人としても名高い。彼が晩年に学者として執筆した『難太平記』は、吾妻鑑と並んで松平元康(後の徳川家康)の生涯唯一の読書とも言われており、源氏を僭称し続ける家康を征夷大将軍に導く事に大きな役割を果たした。

 伊達行朝: 南北朝騒乱の初期に、陸奥の霊山に逼塞していた北畠顕家卿を奉じて、越前に籠る新田義貞と合流するために京に攻め上った南朝側の忠臣。魚名流の藤原氏を自称し、戦国末期に陸奥で暴れまわった伊達政宗の祖先。



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