No.23「蝶妖Ⅳ」

 朝。かのとが目覚めると、北王ほくおうはもう仕事に出た後のようで、机には一枚の書置きが残されていた。


“仕事行ってきます”


「……」


 仕方のないこととはいえ、最近の北王は夜遅くに帰って来て、朝も早くに出て行ってしまうため、実質辛が起きている時間のほとんどは一人で過ごさないといけないことが多くなった。  


 書置きを眺めても、父の手書きの文字から伝わる温もりが、却って不在の寂しさを残酷に実感させるようで、気分は暗く沈んでしまう。

 

 父がいないと、家の中の空気は澱み、時間の流れがやけに遅くなるような気がしてしまう。  

 辛は、この窒息しそうな無の時間をなんとかやり過ごそうと本棚に目をやった。


(……本でも読んで待──……)


 ガタッ。  


 高いところの本をとるために乗った踏み台がバランスを崩し、辛は受け身も取れずに体ごと床に打ち付けられた。


「……っ」


 鈍い音がして、痛みが走る。  

 だが、痛くても、当然反応してくれる者はこの広い家にはおらず、ただ体の下敷きになり擦れた左腕がじんじんと熱を持って痛んだ。  

 こんなとき、父さまなら──……。


“怪我をしてもオレのところに来い、治してやる”


 以前、能力を見せようとして上手くいかずに怪我をしたときに、父にかけられた言葉を思い出した。  

 ……でも今は、その父は傍にいない……。  


 辛は反対の手で擦れた左腕を庇い、痛みにじっと耐え、父を想って声も出さずにぽろぽろと涙を流した。


『ああ……本当に可哀想……』


 ──また、だ。  

 辛がつらい時、心が弱った時、嘲るように、あるいは憐れむように死んだはずの母が現れる。  

 妖特有の不気味な揺らぎを帯びて耳元を撫でられ、そうされると辛の体は反射的に硬く縮こまる。  

 傍には、黒蝶が何匹かひらひらと不吉に舞っている。


『治してやるなんて言っておいて、肝心な時に居ない……』


 妖は辛の背後に回り、肩にそっと冷たい手を置いて囁き続けた。


『嫌われているのかもね』


 妖は薄く笑みを浮かべ、辛の心に毒を刷り込むように語りかける。


『辛は半分が妖だから──……』

「……母……さま」

『あいつじゃなくて私が生きていたら……こんな風にはしなかったわ……』


 そうしているといつの間にか自宅の景色は消え、まるで美しく毒々しい蝶が舞う、二人だけの異界へと誘われてしまったかのような錯覚が起こった。


「……じゃあ……何で……死んだの……?」


 黒い靄が辛の心までもを蝕んでいく。


『私なら……辛に寂しい思いはさせなかった』


「……」


(違う……父さまは仕事で……仕事で仕方なく居ないだけで……)


 辛は涙を垂らしながら、自分に言い聞かせるように必死に心の中で反論をした。


『本当にそうなの?』


 妖は辛の心の声にまで干渉し、脳に直接語りかけた。


“本当は嫌われてるんじゃないの” “貴方の存在が邪魔なんじゃないの”


 ──これ以上妖に耳を貸してはいけない。  

 辛は妖の甘く残酷な呪縛を振り切るように、無言で廊下を駆け抜け、玄関の外へ飛び出した。  


 外は雨が降っていた。灰色の厚い雲が空を覆い、しばらくは止みそうもない。  冷たい雨は辛の行く手を遮り、まるで辛を孤独な家に閉じ込めているかのように思えた。


「……」


 それでも、これ以上家の中でじっとしていたくはなかった。  

 辛は、雨に打たれることも構わずに、行くあてもなくふらふらと歩き出した。


 ◇


「……辛?」


 夕暮れ時。北王が自宅に帰ると、びしょ濡れの辛が家の軒下に裸足で座り込んでいた。  

 まるで捨てられた子犬のように震えている。


「何で外に?」


 服はぐっしょりと濡れ、髪からも雫がぽたぽたと垂れていることから、長時間この土砂降りの日に外に出ていたということが窺い知れる。


「まさかオレが帰ってくるのを待っていたのか?」


 何も言わない辛に、北王は呆れたようにため息をついた。


「風邪ひくぞ」


 北王は辛を抱えて家に入れると、タオルを頭から被せてわしわしと乱暴に、けれど丁寧に拭いてやった。


「家の中で待っていればいいだろ。何で外に……前にオレが倒れたからか? 心配したのか?」


「……」


 辛は質問には答えずに、タオル越しに暗い目をして言った。


「父さまは……オレのこと嫌いなの……?」

「は?」


 昨日会った時には普通にしていたのに。北王には全く心当たりがなかった。


「急にどうし……」

「……だっていつも……家に居ない……帰ってくるの、いつも遅いし……待っていても怒る」


 辛は堰を切ったように心の内を吐き出し始めた。  

 溜め込んでいた不安が、言葉となって溢れ出す。


「……母さま……死んだのはオレのせいで……父さまは人間だから……オレは化け物だから……」


 辛の息は、言葉を重ねるごとに荒くなっていく。  

 そんなことないと、まるで見当違いだと、どう言ったら辛に伝わるのだろうか。  北王はすべての誤解を解こうと、真摯に言葉を選んだ。


「別に怒ってないし恨んでもいないぞ。それにあいつが死んだのはお前のせいじゃない。オレが家に居ないのは──……」


 北王の言葉は果たして辛に届いているのか、北王が話している最中に辛はふらついて床に倒れこんだ。


「仕事が……辛?」


 辛の顔は異様に赤らんでおり、はぁはぁと呼吸は小刻みになっていた。


(熱……風邪か?)


 北王がそっと触れると、すぐに分かるほど額は高熱を持っていた。


(高いな。薬を──……人間と同じ物で効くのか?)


 一瞬よぎる不安。だが、迷っている暇はない。


「辛、少し待ってろ、今──……」


 看病に必要なものを一式持ってこようと立ち上がると、辛は弱々しい力で北王の腕を掴んで引き留めた。


「……あ……」


 北王が驚いて振り向き、二人の目が合うと、辛はハッとしたように、すっと掴んだ手を離した。


「……ごめんなさい……」


 普通の子どもならまだ甘えたり駄々をこねたりする年頃だろうに。  

 辛はいつも、迷惑をかけまいと静かに引き下がる。その聞き分けの良さは、かえって痛々しいほどだった。


「……何でお前が謝るんだよ」


(謝るのはこっちの方だ)


 北王が複雑な思いで辛の熱い頭に手をあててやると、辛はようやく安心したように目を閉じた。


 * * *


 熱に浮かされる夢の中で、辛はまたも口の端をにっと上げて嫌な笑い方をする妖を見た。


“ねぇ……辛、貴方を守れるのはあいつじゃない。……そうでしょう?”


 底のない暗闇の中、母は長い髪を蛇のように靡かせて笑いながら、逃げ場のない辛を苦しめた。


 * * *


『辛、大丈夫?』


 深夜。北王が自室で薬草を調合していると、心配した蝶神が現れた。


「さあ……」

『さあって……』


 北王は薬の資料を読みながら、苦渋に満ちた複雑そうな顔をした。


「あいつ……どうも薬が効いていないみたいでな」

『え……?』


「あいつのことを化け物なんて思っていないし、普通に接しているつもりだが……でもこういう時、人と違うんだって思い知らされる──……」


 日頃どんなことでも飄々とした態度でこなしていく北王が、これほど切なげな、無力な顔を蝶神に見せるのは珍しいことだった。


『北王……』


「言っておくが辛は確かに妖の血が混じっているが、それは事実なんだなって思い知っただけで別に辛を見捨てようとか考えてないからな」


 北王は蝶神に、そして自分自身に言い聞かせるように念押しをした。


「あいつはオレの子だ。何としてでも助ける──……」


 二人が話していると、部屋の外から微かな物音が聞こえ、北王は即座に席を立った。


「辛!」


 部屋の戸を開けると、布団に寝かせていたはずの辛が、すぐ前の廊下に力なく座り込んでいた。


「どうした? 今はまだ寝てないと」

「……あ……あの……」


 北王が屈んで様子を見ると、辛は青い顔でガタガタと震えていた。


「……夢……夢が……その……だ……から……」


 辛は口元に手をあて、不安そうに小さな声で訴えた。


「……が……来て……怖……い……」


 声は聞き取りにくかったが、きっとまた悪夢を見たのだろう。  

 普段は一人で眠れるようになったとはいえ、辛もまだまだ子どもだ。

 ましてや高熱で心細い中だ。  

 辛は深刻そうに怯えているが、北王は自分を頼って部屋まで来てくれた我が子が、ただただ愛おしかった。


「気がつかなくてごめんな。傍に居るから今は休め……な?」


 北王が優しく頭を撫でてやると、辛は強張っていた肩の力が抜け、少し落ち着きを取り戻したように見えた。  


 その夜、北王は朝まで息子の手を握り続けた。

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