No.22「蝶妖Ⅲ」

『そういえば貴方、引っ越しとか考えてないの?』


 北王が書斎の本棚から必要な資料を見繕っていると、いつものように蝶の姿で訪れていた蝶神が、ふと思い出したかのように言った。


「……ん?」

『辛のこと知っている人のいない場所の方が暮らしやすくない?』

「それは……まあ、そうだが」


 目当ての本を数冊抜き取り、北王は少し言い淀んで言葉を選んだ。


「この辺りには蟲人ちゅうじんが居るからな。  

 何かあった時にサンプルを──……それにこの土地は色々と便利なんだよ」


 蝶神には北王の言わんとする真意は分からなかったが、北王は特に補足もせず手に取った本をぺらぺらと捲って読み始めたので、それ以上何も言わなかった。  

 便利な土地。その言葉の裏には、何か別の目的が隠されているようだった。


 * * *


 父さまに置いていかれたらどうしよう。  

 父さまが死んでしまったらどうしよう。  

 心に巣くう不安の種は悪夢となって、眠る辛を毎夜のように苛んだ。


(……! ……待って……! 何処に行くの?)


 夢の中。  

 聞こえていないのか、父は返事もくれず背を向けて家を出て行こうとする。  


 鉛のように重い足は思うように動かせず、手を伸ばしても背中は遠く、届きそうもない。  

 自分に無関心な冷たい態度は、化け物はこっちに来るなと暗に言われているようで悲しかった。


(置いて行かないで!)


 必死に追おうとするが、真横からの唐突な狙撃に、父は肩から血を噴き上げて声もなくその場に倒れこんだ。


(……父さま?)


 床にできた血溜まりの上に横たわる父は、ぴくりとも動かない──……。


 * * *


 冷や汗がじっとりと顔や体に纏わりつき、最悪の目覚めだった。


「おはよう辛」


 どくん、どくん。  

 嫌な夢に緊張感が高ぶって、心臓の鼓動が耳の内側から警鐘のように響いていた。


「気分はどうだ?」


 辛の布団のそばに座っていた父は、辛が起きた気配を感じるとゆっくりと振り向き、いつものように穏やかに微笑んだ。


「……? ……? ……生きてる?」

「えっ」


 昨夜父が知らない間に出かけていたこと、疲れて廊下で眠ってしまったことと、今夢で見た内容が混同してまるで現実のように感じられ、目の前に優しい父がいることの方が夢ではないかと思ってしまった。  


「死んでないぞ? ……まだ」


 笑う父の全身から、自分が甘えてもいいのだと信じられる優しい気配がする。  辛は布団から這い出し、父にそっと身を寄せると、広い背中の温かさでこわばっていた心はゆるりとほどけていった。


 ◇


 北王は辛を可愛がり、人間と同じように育てた。  

 その日は家の近所の峠道で、草花の名前を教えたり、虫取りをして遊んだ。  


 辛に同じ年頃の一緒に遊ぶ友だちがいなくても、その分を補うように北王が寄り添い、その姿はどこから見ても微笑ましい親子の姿だった。


「これがクワガタだ!」


 北王が掴んだクワガタを見せると、辛の目は興味津々に輝いた。  

 二人して道の脇にしゃがみこみ、北王が捕まえたクワガタをそっと辛の小さな手の中に置いてやると、辛は手の中でちまちまと動く足の感触にくすぐったそうにした。


「あ、ねえ、あの子……」


 そんな親子水いらずのやりとりに横槍を入れたのは、通りすがる村人たちだった。


「関わっちゃ駄目よ」


 辛がどんな子どもなのか、どんな苦しみを抱えているか。  

 何も知らないくせに村人たちは言葉の凶器を平然と投げつける。  

 二人が同じ場所に住み続けている為に、近辺の村人たちは辛の顔をよく知っていた。


「人を食べる妖の子どもらしいわよ」

「じゃああの子も人を?」

「何で居るのかしら」


 さっきまで楽しそうにしていたのに、村人の声が聞こえてくると辛は俯いて黙り込んでしまった。  

 力の抜けた手のひらからゆっくりと逃げ出したクワガタは、そのまま草陰へと姿を消した。


「お前ら……」


 北王は立ち上がり、声の主たちを睨んで声を荒げた。


「い、行きましょう」


 北王の殺気に怯え、慌てた村人たちは謝りもせずに足早に去っていった。


「……好き勝手言いやがって……」


 せっかくの楽しい雰囲気が台無しになってしまった。  

 もう、これで何度目か分からない。顔を見るだけで忌避される息子の扱いに、北王は込み上げる怒りを上手く抑えることができなかった。  


すると辛は、立ち上がって北王の腰にしがみついた。


「と……さま……」

「……」


 北王の頭の中は、怒りと、辛に言うべき言葉が見つからない悔しさでいっぱいだった。


「しん……じて、人間を……食べたい……とか……思ってない……」


 辛は北王の服の裾を掴んだまま、必死に訴えた。


「だから……本当だから……信じて……お願い……嫌いにならないで……」


 言葉を重ねるうちに辛の声は次第に涙まじりになっていき、体も小さく震え始めた。  

 村人たちに向けられた敵意が、いつか自分にも向くのではないか。そんな恐怖に支配されている。


「嫌いに……みんな……嫌ってるから……やっぱり……」


 北王が辛の顔を覗き込むと、下を向いた辛の目から大粒の涙がいくつもこぼれ落ちていた。


「父さまも嫌いに……なる……?」


 その問いかけに北王は言葉を失い、そして怒りに任せに歯ぎしりをすると、辛にも聞こえるほど大きくギリッと鳴った。  

 辛はその音に驚き、自分が欲張りなことを言ってしまったのだと思い、反射的に謝った。


「ごめんなさい……!」

「何でお前が謝るんだ……?」

「父さま……怒って……」

「ああ……怒ってるよ」

「ご、ごめんなさい」

「お前にじゃない」


 謝罪を重ねる辛に、北王は食い気味に否定した。  

 辛が顔を上げると、北王は静かに遠くの一点を見つめている。  

 その瞳の奥には、村人への怒り以上の、この世界の理不尽さへの憤りが燃えていた。


(……?)


 辛にはまだ、父の怒りの正体を掴むことはできなかった。


「今日はもう帰ろう」


 北王が差し出した手を、辛は無言で握り返した。  

 どれだけ世間の人たちが自分に冷たく当たっても、この温かな手に繋がれている間は大丈夫だと思えた。


 ◇


「おかえり★」


 帰宅すると、奇妙な男――きゅうが勝手に部屋の中に上がり込んでおり、机の上に座ってピースサインをしていた。


「は? お前……」

「ねえ! もうお子さんも成長したし戻って来てよ~  オレを診るのはキミしかいない! せめて代わりを用意するならキミの師匠くらいにして!」


 玖は北王に口を挟む隙を与えず、矢継ぎ早に要求を口にした。


「無茶苦茶言うな。無理に決まってるだろ」

「じゃあ帰ってきて、育休終わり! はい! 返事して!」


 二人がそんなやりとりをしていると、部屋の入口のすぐ外で、辛がガタガタと震えながら脅えだした。  

 異質な気配。本能的な拒絶。  

 それに気づいた北王は、辛の側まで近づいて声をかけた。


「辛、大丈夫だから。あいつは──……」

「オレじゃないよ」


 説明しようとすると、何故か玖がそれを遮った。


「本当にオレは違うから!」


 北王は何を言っているのか訳が分からなかった。


「違うから!」


 何がと言おうとしたが、説明する気は無いようだった。  

 ただ、玖の目は笑っていなかった。


「ま、いいや。今日はこのへんで。」


 玖は身勝手に話を切り上げると、能力を使い、床に向かって身を投げた。  

 すると硬いはずの床は玖の周りだけ水のように溶け、飛び込んだ勢いで辺りに水しぶきがあがった。


「また近いうちに会いましょ~」


 いつもの調子でこれはもう仕方のないことだと諦め、北王は膝をついて辛の様子を窺った。


「……辛?」


 辛は言いにくそうにしながらも、一生懸命言葉を紡いだ。


「分かんない……けど……何か、あの気配……苦手──……」

「……そうか」


 結局辛が玖に何を感じ、そして玖は何を違うと言ったのか、真相は分からぬままとなった。


 ◇


 そんなことがあってからしばらく後。  

 いつものように辛が北王に勉強を教わっていた。  

 静かに問題を解いていると、北王がぽつりと話し始めた。


「辛、オレ仕事……結局復帰することになったんだが」


 突然の話に、辛はぴたりと鉛筆の動きを止めた。


「……だからその……日中はあまり一緒に居られなくなるんだが、一人で留守番できるか?」


 少し黙って、父のいないしんとした家を想像すると不安が胸の奥から広がるが、だからと言って「出来ない」などと言えるはずもないと思った。  

 父を困らせたくない。


「……うん、別に……オレは大丈夫……」


 辛は力なく答え、解きかけの問題に視線を戻した。  

 しかし集中することはできず、頭の中に以前夜中に帰ってきた北王が玄関で倒れこんだ光景が生々しく蘇った。


「……辛?」


 父が仕事に行くようになったら、また同じようなことが起こるかもしれない。  今度は、無事ではすまないかもしれない。


「……なんでも……ない……」


 ……置いて、いかれるかもしれない。  

 その恐怖をぐっとこらえ、辛は平静さを取り繕った。


 ◇


 北王が仕事に復帰し、日中家を空けるようになってから何年も経った。  

 まだまだ子どもではあるものの、以前より背が伸び骨格もしっかりしてきたが、辛は相変わらず家の中でじっと父の帰りを待つ日々だった。


(……今日も帰りが遅い……)


 掃き出し窓の前に正座して、暗い夜の空と木々を眺めていると時間が経つのが遅く感じる。  

 年齢を重ねても、辛はどうしても過去のトラウマを拭い去ることはできなかった。


「……まさか、また──……あの時みたいに」


 疲れ果てていつもの笑顔を失くした仕事帰りの父、そして疲労で倒れた父にどうすることもできず泣いて過ごしたあの夜。  

 昆虫図鑑を開いて気を紛らわせても、どうしてもあの時のことばかり考えてしまう。


『あら可哀そうに』


 誰もいないはずの家に、突然背後から聞き覚えのある女性の声が響いた。  

 冷たく、ねっとりと絡みつくような声。


『辛はあいつが心配なの?』


 人間とは少し違う、不思議な声の響き。  

 黒い蝶を引き連れて現れたのは、死んだはずの妖の母だった。  


 何故。辛が指先一つ動かさずその場に凍り付いていると、母は後ろから辛の両肩を掴み、歪んだ笑みを浮かべて耳元で囁いた。


『でもあいつはそんな貴方のことを放置して……なかなか帰って来ないなんて』


 腹の底から感じる恐怖に冷や汗が滲んだ。  

 そこにいるのが自分の母であるのは確かだと思うのに、辛がお腹の中で感じ取っていた天真爛漫な母の面影はなく、ただの化け物のような存在に思えた。


『可哀想……あの人にとって貴方って、その程度の存在なのね……』


 甘い毒のような言葉が、辛の不安な心に染み込んでいく。


 ◇


「あーあいつ、いつか殺す! 扱き使いやがって」


 仕事から帰宅した北王がぶつぶつと文句を言いながら居間の引き戸を開けると、辛は読みかけの本を床に置いたまま、正座をしてぼおっとしていた。  

 妖は北王が部屋に入るころにはいつの間にか消えていた。


「……辛? 何でまだ起きてるんだ? 日付変わってるぞ。先に寝てろと何度も……」


 北王は夜更かしするなと小言を言おうとしたが、辛の目はどこか虚ろで様子がおかしかった。  

 まるで、ここではないどこかを見ているような。


「……ごめんなさい」


 辛はいつものように謝罪の言葉を口にしただけで、それ以上は何も言わなかった。  しかしその耳には、母の嘲るような囁きがこびりつき、離れなかった。  

 父の温もりだけでは、もう夜の闇を払えないほどに。

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