第20話 最適個体(オプティマ・ユニット)

 海莉は、呼吸を乱しながらも必死に声を絞り出す。


「由良さん……まさか、こっち側に回る気じゃ……」


「ん? 当たり前でしょ。俺も白楼で頑張ってるんだし」


 祈里がにっこりと、心底楽しそうに笑った。


「浅葱くんがリーダーやるなら、俺はその右腕にでも左腕にでもなって……仕事、いーっぱい手伝ってあげるよ」


「…………」


 海莉の顔色が、さらに悪くなる。

 静音はその様子を見ながら、ひとつだけ確信した。


(……敵じゃないけど、いじめっ子気質ね)


 肩を竦めた静音は、呆れたような視線を海莉と祈里に向けていた。


 海莉は逃げ道を探して視線が泳ぎ、祈里は笑顔のままじわじわ距離を詰めてくる。

 どう見ても、海莉が完全に弱者だった。


 静音は腕を組み直し、無表情のまま小さくため息を吐いた。


「……二人ともその距離感で仕事できるなら問題ないんだけど」


 冷めた声で割って入る静音に海莉は「む、無理……」と珍しく今にも泣きそうな顔で呟く。


 祈里は、柔らかい笑顔のまま優しさとは真逆のプレッシャーを海莉に送り続けていた。


(海莉が影喰いより怯えてるの、どう考えても異常ね)


 静音は眉間を押さえ、これ以上は頭痛が悪化するという顔で深くため息をついた。

 そして踵を返し、海莉の肩をポンと叩く。


「ちゃんと使えるなら、こき使いなさいよ海莉。そいつの操縦、あんたに任せたから」


「はあ!? 無理無理無理! 操縦って何だよ!?」


 海莉の声が裏返る。

 その後ろで祈里が笑いながら手を振った。


「大丈夫だって。俺、浅葱くんとは相性いいから」


「その相性いいって言葉、やめて!!」


 海莉が一歩下がれば、祈里は一歩前に出る。

 明らかに距離感のおかしい追い詰め方で、笑顔はやけに爽やかだった。


「……あんたさ、影喰い相手にはあんなに強いのに、何で人間相手だと雑魚なの?」


「雑魚って言うな!!」


「事実でしょ」


 静音が肩をすくめると、透子と蓮も気まずそうに視線を逸らした。

 二人とも同意と言わんばかりの表情を浮かべている。


「ま、リーダーの右腕として全力でサポートするから、よろしくね?」


 軽い声とは裏腹に、圧が重い。

 背中を叩かれた海莉は、まるで背骨まで凍るような感覚がして、今すぐ逃げたくなった。


 祈里は相変わらず柔らかい笑みを浮かべたまま、正面へと向かった。


「ねぇ、浅葱くん。……逃げないでね」


「……っ」


 その瞬間、海莉の呼吸がひゅっと乱れた。


 心が拒絶しているのに、身体だけが従おうとする。

 膝が抜けるように力が消え、海莉はその場にへたり込んでしまった。


「……く……っ……」


 喉の奥から漏れる苦悶。

 拳を握って抵抗しようとしても、身体は重く、指先すらいうことを聞かない。


「……はい、いい子」


 祈里の声音は、優しさに似た柔らかさをたたえていた。


「浅葱くんは、俺がいないとダメだもんね」


 優しく笑った祈里の表情は、柔らかいはずなのに背筋に刺さるほど冷たい。


 その光景に、透子も蓮も、そして静音でさえ、冷たいものが這うかのように背筋を震わせた。


「これって……」


 透子が声を震わせる。

 まるで海莉が祈里に逆らうことを、身体が許されていないように見えた。


「……何が、起きてるんだ? もしかして、体調が」


 蓮が海莉に近づこうと一歩踏み出した。


「蓮、近づくな!」


 静音が反射的に腕を伸ばして制止した。


「海莉が祈里に反応してる。あれは……」


 静音は祈里を鋭く睨みつける。

 彼の持つ異能の名前を、彼女だけが知っているから。


「由良祈里の異能、《最適個体オプティマ・ユニット》」


 祈里はそれを聞いても顔色ひとつ変えず、穏やかな微笑を保っていた。


「触った物の寿命とか効率とか、全部、いい感じに揃えちゃうの。……白楼じゃ、ある意味いちばん欲しかった異能よ」


「いい感じってことは、衛生とか、治療とか……そういうのも?」


 蓮が唾を飲み込むように尋ねると、静音はゆっくり頷いた。


「ただ……」


 静音は海莉をじっと見つめる。


「異能因子の相性によっては、人間にも作用する。そして……海莉は、祈里の“最適解”になってる。」


「っ……!」


 透子が息を呑んだ。


「最適……解?」


「祈里の調整に“適合しすぎた”ってことよ。あいつに触れられた物資は本来、壊れにくくなるだけだけど……海莉の場合は」


 静音は眉を寄せ、ゆっくりと言葉を絞り出した。


「祈里の指示が“身体の最適行動”として処理されてる。逆らおうとした瞬間に、身体のほうがバグる。……逃げようとしても、身体が止めに入るのよ」


「……っ……う、ぁ……」


 海莉は祈里から距離を取ろうと必死に後退る。

 しかし、足が、呼吸が、脈が、全部逆方向へ引っ張られるように乱れていく。


 祈里の声は、まるで慈母のように柔らかかった。


「ねぇ浅葱くん。大丈夫だよ、怖くない。君は俺の最適個体オプティマ・ユニットなんだから」


 その言葉を聞いた瞬間。

 海莉の身体が、祈里の方へ無意識に傾いた。


 心は拒絶しているのに、身体が勝手に“正しい位置”へ戻ろうとするように。


「……やっぱり、海莉だけ異常適応してる」


 静音は呆然と呟いた。


「祈里の異能は街の救世主。でも、海莉にとっては……」


 静音は目を細め、祈里を冷たく見遣った。


「逃げられない調律者チューナー。海莉の最大の弱点……本人にとって、地獄そのものでしょうね」


 静音の言葉に、透子も蓮も息を呑んだ。

 海莉の様子は、異様という言葉ですら生ぬるい。

 あの強気さな態度も、落ち着いた判断も、リーダーとしての鋭さもない。


 ただ、怯えた青年がそこにいた。


「だから……あんなに怯えてたのか」


 蓮が震える声で呟く。


「どうすんだよ……。あんな状態で……海莉、大丈夫なのか……?」


 だが、その不安を打ち消すかのように、祈里は柔らかく笑った。


「浅葱くんの調整はバッチリだよ」


 祈里の指先が海莉の頭を撫でる。

 海莉は、身を震わせ、呼吸が乱れて喉がひくついた。

 それでも身体は逃げない。逃げられない。


「俺の近くにいれば呼吸も楽だし、身体の調子も整う。衝裂の負荷も軽減できるよ」


「……っ、触んな……!」


 海莉の声はかすれていた。

 拒絶しているのに、腕が震えるだけで祈里の手を払うことすらできない。


 心と身体が完全にバラバラだ。


「……浅葱くん」


 祈里の声が、頭上から優しく振ってくる。


「この街にとって、君は既に必要な存在になってるんだよ」


 祈里の手が海莉の頬に触れようとすると、海莉の呼吸がまた荒くなる。


 それでも身体は逃げようとしない。


「無理をしたら、みんなに迷惑をかける。どうしたらいいか……分かるよね?」


 その口調は、優しい親が子どもに言い聞かせるようなものだった。

 しかし、言葉の中身は“正しさの押しつけ”そのものだった。


 透子が唇を震わせる。

 見ている側としても、薄ら寒い戦慄が走る。


「……これ、支配じゃないの……? 海莉がこんなに抗えないなんて……」


 静音は、祈里から目を逸らさない。


「支配じゃなくて、“適応”。海莉の身体が祈里を“最適解”として選んでる」


 蓮は、その様子に目を離せずにいた。


「じゃあ……海莉は、祈里から離れられないのか?」


「身体は、ね」


 静音の声は冷めていたが、そこには憐れみの色もあった。

 祈里という存在そのものが、海莉の最大の弱点になっている。


 祈里は、崩すことのない柔らかな笑顔のまま、さらに続けた。


「大丈夫。浅葱くんは、俺が守るよ」


 海莉はいつも思い知らされる。

 いくら心で抗っても、自らの身体を苦しめるだけで……胸の奥が軋んだ気がした。

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