闇夜の通信と、覚醒者の報告


混乱と恐怖の夜

夜。アステルが不在の王都の屋敷は静まり返っていた。リゼは自室のベッドの上で、膝を抱えて震えていた。


(ライルさんが、ライルさんが……あんな人になるなんて)


路地裏の事件以来、アステルの影響下にあるライルは、知的な革命家であり、優しく指導してくれる恩人だった。しかし、今日現れた「もう一人のライル」は、容赦ない暴力と、冷酷な言葉でリゼを恐怖に陥れた。


「外野は黙ってろよ」――あの瞳には、感情が一切なかった。


リゼは、自分の師であるアステルが、この異常事態を把握する必要があると感じていた。アステルは「戦代」で国の命運を賭けた決闘の準備に入っており、連絡を取るのは容易ではない。しかし、ライルのあの状態は放置できない。


リゼは意を決し、アステルから事前に渡されていた、遠隔通信用の魔道具を取り出した。それは、アステルの極めた無属性魔法の一部を応用した、魔力干渉を避ける特殊な通信機だった。


師への緊急報告

魔道具に魔力を流し込むと、すぐに遠くからアステルの穏やかな声が響いた。


「リゼかな? こんな夜更けに連絡してくるとは珍しいね。訓練で何かあったかい?」


アステルの声は、いつものように優しく、安心感を与えるものだったが、リゼは涙声になった。


「あ、アステル様……! お、お願いです、聞いてください!」


リゼは、今日起こった出来事を、必死に、そして早口で報告した。辺境伯の刺客の襲撃、ライルが無抵抗だったこと、そして「もう一人のライル」が覚醒し、規格外の暴力で刺客を叩きのめしたこと、最後にリゼを突き飛ばして去って行ったこと。


アステルは、リゼの報告を遮らず、ただ静かに聞き続けた。


「……以上です。ライルさんは、私のことも、自分のことも、まるで別人のように扱いました。まるで、記憶を失ったかのように……」


リゼの報告が終わると、通信機からは、しばらく静寂が流れた。


アステルの推測と指示

やがて、アステルの声が響いた。それは、驚きや怒りではなく、深い理解と諦観を帯びた声だった。


「リゼ。よく話してくれたね。ありがとう。君に怪我がなくて、本当に良かった」


「アステル様、あのライルさんは一体……」


「おそらく、僕の推測通りだ」アステルは静かに言った。


「ライルという人間の中には、2つの『個性(パーソナリティ)』が同時に存在している。1つは、これまで君たちと一緒にいた、『いつもの優しいライル』そしてもう一つが、今日覚醒した、『野生的なライル』だ」


「そして今日、肉体の危機と無力感という極限のストレスによって、『内に眠るライルの本性』が一時的に覚醒し、肉体の主導権を握ったのだろう」


アステルは、その『内に眠るライルの本性』について、ライル本人からは何も聞かされていなかったが、弟の持つ「魔法適性ゼロ」という異常な現象から、その可能性を予測していたのだ。


「あのライルは、魔法を使えない肉体に縛られ、屈辱の中で生きてきた、内側に秘められたライルだ。そのライルが持っていたのは、純粋な怒りと、生を繋ぐための暴力だけだったのだろう」


リゼは、その言葉に、胸が締め付けられるような痛みを感じた。


「あの暴力的な力は……アステル様の『絶対付与』を受けていない状態では、ありえません。転生前のライルが、身体の限界を迎える中で、この世界本来の魂が、肉体に残されていた僅かな魔力を極限まで効率化して、「暴力」として発揮したに過ぎない」


師の願い

アステルは、静かにリゼに指示を出した。


「リゼ。君の師として、頼みがある。このことは、誰にも話さないでほしい。特に、ヴォルカンやエレナにもだ。そして、ライルの捜索はしないように」


「捜索しない、のですか?」


「ええ。この世界本来のライルの魂が今、何を求めているのか、僕には分からない。だが、彼は僕たちが作った『優劣の構造』の中にいることを拒み、自分の力で『何か』を確かめようとしているのだろう」


アステルは、通信の最後に、絞り出すような声で、深い願いを託した。


「リゼ。君は、君自身の訓練を続けてほしい。そして、もしライルが助けを求めてきた時、彼の暴力的な魂ではなく、君たちの『優しさ』を伝える存在であってほしい」


「僕の無属性魔法は、遠くから君たちを守ることはできる。だが、君の心を守り、ライルの魂を呼び戻せるのは、リゼ。君の『個性』だけだ」


「戦代の決闘は、必ず勝って戻る。それまで、ライルと君の安全を、僕の魔力で保証しよう」


通信は途絶えた。リゼは、通信機を胸に抱きしめ、覚悟を決めた。自分の師の弟の「危機」が、今、始まった。リゼは、地味な『素早さ付与』の訓練を続けながら、ライルの帰りを待つしかないのだった。


覚醒者の孤独な夜

王都の裏路地。黒装束の刺客を叩きのめし、リゼを突き放して屋敷を飛び出したライル(この世界本来の魂)は、荒涼とした闇の中にいた。

彼の体には、満たされない怒りと、これまで抑圧されてきた感情が渦巻いていた。魔法適性ゼロの肉体に染み付いた「無能」という烙印が、彼の行動原理の全てだった。


(魔法が使えない? だったら、それ以外の力でねじ伏せてやる)


彼は、無意識のうちに身体に残されたわずかな魔力を、極限まで肉体の機能へと集中させていた。それは、アステルがライルに施す『絶対付与』の原理と酷似していたが、その動機は愛ではなく、純粋な自己証明だった。


「あの女(リゼ)は、なんだ。弱ぇくせに、俺に説教かよ」


彼は、転生者ライルの優しさや倫理観を「弱さ」と断じ、リゼの行動を「偽善」としか捉えられなかった。彼にとって、この世界は力と暴力によってのみ優劣が決定される、冷酷な場所だった。


辺境伯の悪意と力の解放

ライルは、辺境伯の刺客が残したわずかな痕跡を辿っていた。この世界本来のライルは、転生者のライルが持っていた『革命家の知識』は持たないが、代わりに『生き残るための野生的な勘』と、『状況を読み取る冷徹さ』を持っていた。


彼は、自分を襲わせたのが、兄アステルの依頼を拒否された辺境伯だと即座に理解した。


(あいつらが、俺の兄を馬鹿にした奴らの手先か。なら、ここで潰す)


ライルは、辺境伯が裏で利用している奴隷商人のアジトに辿り着いた。そこは、辺境伯が獣人を「ペット」として運び込むために隠れて使用している、王都の闇の一部だった。


「いるな……汚ぇ魔力の匂いだ」


アジトの入り口を警備していたのは、屈強な傭兵たちだった。彼らは、ライルを見て嘲笑した。


「おい、こんなガキが何の用だ。ここは遊び場じゃねえぞ」


ライルは何も答えず、地面を蹴った。彼の動きは、リゼの『素早さ付与』で覚醒した時のような、人間離れした速さだった。


ドッ!


ライルの拳が、傭兵の顔面に叩き込まれる。魔法は使っていない。しかし、その威力は、通常の人間が出せる限界を遥かに超えていた。傭兵は、即座に意識を失い、壁にめり込んだ。


残りの傭兵たちは、その異常な暴力に驚愕した。


「ば、バケモンか!? 魔法は使ってねえぞ!」


ライルは次々と、その拳、蹴り、そして頭突きさえも使って、傭兵たちを叩きのめしていった。彼の戦い方は、極めて効率的で、無駄な動きが一切ない。それはまるで、アステルが『絶対付与』で施す「究極の素早さ、攻撃力、防御力」を、彼自身の魂が再現しているかのようだった。


「俺は、魔法なんて使えねぇよ。だが、俺の力が、お前らの力より下だと、誰が決めた?」


アジトの傭兵は、全て意識を失い、ライルの前に跪くことになった。


獣人の解放と目的の変容

アジトの奥には、檻に入れられた数体の獣人たちがいた。彼らは、辺境伯の「ペット」にされるために捕獲され、恐怖と絶望に顔を歪ませていた。


ライルは、その檻の前に立つ。彼が覚醒した目的は、兄を侮辱した者の手先を潰すことと、自分の力の証明だった。転生者ライルのような、「人権の尊重」といった倫理観は、このライルにはない。

獣人たちは、彼を新たな捕獲者かと見て、震え上がった。


しかし、ライルは何も言わず、檻の錠前を素手で引きちぎった。


「消えろ」


ライルは、ただ一言、冷たく命じた。

獣人たちは一瞬戸惑ったが、すぐに自由を悟り、一目散にアジトから逃げ出した。

檻の中には、辺境伯が奴隷商人を通じて用意させた、高価な「契約書」や「金品」が残されていた。ライルはそれらを一瞥し、全てを足で踏みつけ、破壊した。


(これで、奴の体裁は潰れた。兄を馬鹿にする代償だ)


ライルの暴力的な衝動は、一時的に満たされた。しかし、彼は気づき始めていた。この規格外の力は、「誰かを傷つける」だけでなく、「誰かを抑圧する構造を破壊する」ことにも使えるのだと。


ライルの覚醒した魂は、無意識のうちに、兄アステルの「優劣の構造を破壊せよ」という哲学を、最も「暴力的かつ効率的」な形で実行し始めていた。


彼が次に求めるものは単純な暴力の快感ではなく「この世界で、魔法を使えない自分自身の存在を、誰も否定できない絶対的な地位」を築くことへと変貌していく。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る