神様とか

眠之木へび

第1話

 人類は生きる意味を失って、みんな等しく死を選んだ。


「そんなワケ無いでしょ」


 崖に立つ彼女は、冷たい潮風に晒されている。


「人類は本能的に相反する存在。満場一致は一度だって無かった。誰かが扇動したとして、扇動者も人間である以上、必ず相反者が現れる。だから、全人類が一斉に薬を飲んで死ぬなんて、あり得ないのよ」


 彼女は、宙に浮く私を見上げた。


「でも、神様ならどうかしらね」


 波が岩に打ちつけられる。

 それと同時に、曇天に入刀。クリーム色の刃先が私達を刺す。首を刎ねられることは無いが、じりじりと、血も出ないぐらい緩やかに、皮膚に食いこんでいく。

 それは、人間の形をとっているからだ。元の姿なら刃如きで傷はつかない。だけど、私は彼女と同じであり続ける。彼女がいれば、どんな痛みにも耐えられる。


「君が咎めるのかい?」

「まさか。私達は共犯者だもの」


 彼女は隣に降り立った私の手を握った。潮風で冷えたのだろう、雪のような手を、私は優しく握り返した。


「これから、どうしようか? 君の望んだ世界が訪れたんだ、旅でもする?」

「今はそんな気分じゃないわ。あなたは?」

「変わらず、君といるつもりさ。旅の気分じゃないなら、一緒に私の世界に帰るのはどうかな?」

「あなたの世界……どこにあるの?」

「空の先に。森や花畑が広がる、素敵なところさ。住んでいるのも、穏やかなひとばかりだ。君に見せたい景色もたくさんある」

「そうね。あなたが生まれたところだもの、きっと綺麗なのでしょうね」


 彼女は私の手を離し、崖の先に歩いていく。崖の下では、濁った波が岩を殴っている。


「だったら、私は行けないわ」


 宙へ踏み出しかけた彼女の腕を引いて、私は抱えこんだ。


「駄目だよ、やめて。……大丈夫、君を責める人はいない。私と一緒にいよう。寿命も無くなる。永遠に共にいられるよ」

「素敵な話ね。だけど、いらないの。……ね、神様。最後のお願い。私を殺して。あなたの好きなやり方でいいわ。でも、あなたは生きて。神様に、生きるも死ぬも無いのかもしれないけど。ずっと、私を覚えたままいてほしいの」


 私に背を向けたまま、彼女は私の両手を包みこんで言った。やはり冷たくて、少し震えている。


「……わがままね、私」


 掠れた声。


「いいよ。君が、願うのなら」


 私は神様だから。願われたなら、応えるほか無い。

 私は、彼女を優しく仰向けに寝かせた。

 そして、彼女に跨って、顔を覗きこむ。相変わらずの美しい顔で、私を見つめている。


「昔、人間は汚いから大っ嫌いって言ったじゃない。もう今更だけれど。私も人間だから、そう見えていたのかもしれない、なんて」


 今にも泣き出しそうな顔をしていたので、私は彼女の頭を撫でた。慰めにもならないと知っているが、そうせずにはいられなかった。


「……後悔してる?」

「後悔なんか、しちゃいけないわ。私達はそういうところまで来てしまったのよ。だから、私は笑うわ。有象無象じゃない私だけが、ここまで生きていられてよかった」


 彼女は微笑んだ。安らかに微笑んだ。


「君は、本当に――」


 言葉を詰まらせる。肝心な時に思いつかないなんて、なんと格好のつかない。

 だって、どの言葉も彼女には似合わない。ならば、せめて私の気持ちを伝えよう。

 私はもう一度、より優しく撫でた。


「――愛してる」

「まあ。神様がひとりを愛するなんて。神様は全ての人間を等しく愛するものでしょう?」

「もう、君しかいないさ」


 顔を綻ばせた彼女の首に手をかける。

 細い首を覆うのは、獣の手。皮が剥がれて現れた、毛深く鋭い手。潮風に奪われた化けの皮を取り戻すことはできず、獣は力を強めた。

 怖がるなんて許さない。泣いたって、絶対に離してやらない。どんなに嫌がったって、手遅れなんだ。みんな、みんな、おまえのせいで――

 彼女は、躊躇い無く獣の頬に触れた。慈しむように、逆立った毛に指を通した。


「――――」


 微かに口を動かし、彼女は目を細めた。

 白く美しかった肌が、赤く、紫に、染まっていく。

 そして、手が、滑り落ちた。


「…………あ、ぁ――あ、ああぁぁぁぁ――!」


 牙が軋むのも、長すぎる爪が折れるのも蚊帳の外。

 私の体重を、全て押しつける。

 ――ぐじゅりと潰れる感触に、手を引いた。

 破れかけの皮膚の中に、赤と黒が溜まっている。

 支えを失って、捻じれた首が空を向く。


「ひ、ぁ……」


 気持ち悪い。気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い――感触が手にこべりついて、いくら振り払っても剥がれない。


「いや……いやだ。やめてくれ。私は、あいして――愛していたんだ。人間はみんな綺麗だった。彼らも愛していた。でも、君がいちばんだった! なのに、どうして、いなくなるんだ。……君はずっと、私が嫌いだったのか? それとも、私が神様だったからか?」


 黒い目は私を見ない。桃色の唇は泡立った涎を流すのみ。

 私は湿った息を吐き出しながら、立ち上がった。

 背後から、小さなプロペラ音が近づいてくる。

 振り向くと、無機質な箱型ロボットが、彼女に向けて光弾を放った。

 直後、鉄屑は握り潰された。光弾は、地面で爆発して消えた。

 人間の身体を消滅させるロボット。こんなものも作らせたんだった。死体すらも遺したくないと、私が思ったから。

 ひとつ壊したところで、そのうち新たにやってくるだろう。

 だから、その前に。彼女の手を取る。細い指を、そっと、咥える。

 噛み千切った瞬間、手に残った感触が再演された。

 視界が歪んで胃が捻れて喉が開く。

 一度も咀嚼しないまま、吐き出した。千切れた指に、吐瀉物がかかる。醜く広がった酸の池に、私は手をついた。

 口端から滴る液体を拭いもせず、指を拾い上げて、焼ける喉に押しこんだ。幾度かの逡巡の後に嚥下して、口内に戻るのを何度も飲みこんだ。

 そして、私は次の指を口に運ぶ。

 噛みつこうとした直前、視界が揺れた。崖が根元から崩れ落ち始めた。先程の弾で、ヒビが入っていたのか。

 私は咄嗟に彼女を抱えて、宙に逃げた。

 波にも劣らない轟音に顔をしかめたのも束の間。

 折れた茎は、重すぎる花を捨てた。花は音も無く、岩に裂かれて散った。

 残ったのは、紅を流し続ける蒼白の身体。

 それでも尚、美しいと思えた自分が悍ましくて。

 私は、手を滑らせてしまった。

 少量の紅で、広大な海が染まることは無い。片隅を淡く染めたとして、波に溶かされ消えるだけだ。

 私は腹を撫でた。

 けれど、ちっぽけな心ひとつなら、簡単に染め上げてしまった。取り返しがつかない程に、紅く黒く。

 遠くへ移動した光の刃を辿りながら、私はひとりで空の先を目指す。

 実のところ、まだひとり、生きている。どこかに救うべき人間がいる。

 けれど、私は見ない。

 私はもう、神様ではない――誰も救わないのだから。

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神様とか 眠之木へび @hevibotan

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