灰吐息

珈琲

「なんにもねぇ」

「どうしたの急に?」

「いや、別に」


 自転車を引いて歩く道が、だんだんと白んでいくのにしんみりとする。

 隣で歩く幼馴染はきょとんとした顔で俺に対して疑問符を飛ばす。

 頭を振って否定を示すも、むっとした表情でこちらを見つめてきた。

 否応ない頬の膨らみに、適当な言い訳を作る。


「もうあと三ヶ月で受験なんだよなって」

「あぁ……まぁそうだね。でも颯一郎そういちろうは大丈夫でしょ?」

「そうだといいんだがな……」

「私の方が怖いんだから! また週末勉強付き合ってよね?」

「わかったわかった。咲月さつきの学力じゃ俺と同じ大学に行けるか分かんないしな」

「ひっど! 私だって頑張ってるのに!!」

「悪い悪い」


 の咲月は怒って俺の方をバシバシと叩く。

 こういったスキンシップに慣れてしまっていた自分に嫌気が差す。

 もう霜月の半ば。大学への志願書を書いて、ようやっと高校生活が終わりを迎えるのを自覚する。

 楽しかったこともあるし、苦しかったこともある。

 では高校に哀愁や後悔があるのかと問われると、それは分からないけど。

 少なくとも高校での生活に何かやるせないものがあることは確かだ。


 三叉路に着いて、咲月と別れる。

 そうしてそれから一人で雪に塗れた道を歩いていると、いつの間にか家に着いていた。

 親と別居して二年。一時は咲月の家に転がり込むことも視野に入れていたが、自身の自立とでそれまでの家で暮らすことになった。

 その理由が――――。


「おかえり! 颯くん」

「…………ただいま。雪姉ゆきねぇ


 従姉の白雪しらゆき。三つ上の大学生で俺が高校生ながらこの家で暮らすことを許される要因になった人。

 容姿端麗で才色兼備。漫画や小説に出てくるような理想的な姉の像をした人間。

 綺麗な顔が玄関を開けた瞬間に飛び込んでくることに、最近は違和感を覚えなくなった。それよりも鬱陶しさが勝つ。嘆息と共に、従姉に指摘。


「毎回言ってるけど、薄着すぎ」

「部屋暖房つけてるよ」

「話になってねぇ」

「あ、夕飯? 今日はボルシチ作ってて」

「そうじゃなく!! ……はぁ」

「っ、待ってよ!」


 あまりの会話の通じなさに思わず嘆息を吐く。

 俺が脇を抜けて荷物を降ろそうとすると、雪姉は俺の腕を掴み止めた。

 薄着を視界に入れるのを躊躇っていると、上目遣いとしなびた声。


「…………ん」

「…………はぁ」

「!」


 再度嘆息を吐いて肯定を示すと、喜んだ顔をして、

 数秒ではなく、呼吸さえ忘れてしまうほど長いもの。

 鼻の奥まで甘い香りに包まれて、脳が混濁する。

 腕が背中に回ってきて、逃げ場を失う。

 こうなってしまっては、俺に抗う術はない。

 口の中にまで侵入してこようとするのを、無言で止めさせる。


「っぷはっ…………はぁ、」

「んー!! もうちょっと」

「長い、却下」

「えーーーーー」


 ――――これがいつもの日常。

 雪姉は口は尖らせているものの、頬は緩み切ったそれ。

 艶やかな口元から垂れたものから、不意に目を逸らす。

 これをブラコンというかは審議だが、正常と思えるほど脳は焼かれていない。

 一端の男子高校生がこんな生活をしていて正常になれるのならば、むしろ方法を教えて欲しい。


 雪姉は俺のことが好きで、愛していている。

 それは同居を始めた初日に理解した。


『颯くん。私と付き合ってよ』

『……は?』


 高校一年生でもそれほどの理性はある。下半身に脳が付いている訳ではない。

 文意を汲み取り、真意を覗こうとするその時の俺は、異物と相対しているようだった。

 それは今でも変わらないけど。

 俺は雪姉は嫌いではない。少なくとも、好意的には思っている。

 だがそれとこれとは話が別である。行き過ぎた愛情が辿る結末は往々にして悲惨なものだから。


 だからこそ否定をする。怯えることはない。

 生活との取引としては少し譲歩しすぎたかもしれないが。

 ようやく拘束から解放されて、膨れた頬をつねった。


「いひゃい」

「長すぎる」

「いつもと変わんないじゃん」

「いつもが長いって言ってるんだ」

「ケチー」

「全く……先風呂行ってくる」

「ん、わかった」


 こういう時の聞き分けは良く意外だ。

 そういう分別がついているのなら、未成年相手にこういったことを控えて欲しいと思う。言ったところで聞くはずもないから言わないけれど。

 荷物を担いで部屋に戻り、次いで脱衣所に向かう。


 雪姉はキッチンで鼻歌を歌いながら料理に勤しんでおり、傍から見たら新妻そのものだ。出先で一緒に歩いていてもナンパに会うことはしばしばある。

 だというのに何故雪姉は俺を選ぶのか皆目見当がつかない。

 将来俺が添い遂げるかなんて、分からないのに。


「将来、か」


 脳裏に過ったその言葉を反芻する。

 この先の生活では俺は、この家に居ないかもしれない。その可能性の方が高い。

 だとすれば俺はどうするのだろうか。

 雪姉は大学のことは知っている。順当に行けばこの先雪姉一人でこの家で生活していくのだろう。

 そうすれば今の生活はなくなって、俺は今度こそ一人で生きていくことになる。

 一人? 独りで? できるのか?


「しらねーよ」


 一人で呟いた言葉は、誰にも届かずシャワーに打たれて霧散する。

 未来も決まってないし、どうなるかも分からない。

 雪姉が駄々をこねて俺についていくことだってある。

 俺が親と同居する可能性だってある。

 なにも分からないし、俺がこうすればこうなる。なんて安直な話でもない。

 そして俺がどうしたいのかも、俺には分からない。


 燻る脳をどれだけ冷やしても、その答えは出てくることはない。

 誰に訊いたとしても、それは絶対に得られない。

 そのもどかしさと、しかしながら自分が許せない何かがあることの矛盾に、また考えが堂々巡りに陥る。


「時間が解決すれば、な……」







 そうして解決しない問いに、今日も思考を閉じた。

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灰吐息 珈琲 @alphaK

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