むじな 其の三〈了〉
土や落ち葉で汚れているときはあまり気にならなかったが、汚れを落とすにつれて、少女の
こんな何もない茂みにひとり置いていくよりかは、もっと安全な場所まで連れていってやるべきなのかもしれなかった。しかし、幼なくとも彼女は山の
ぼくはあげるつもりで少女にハンカチを渡し、そそくさとランドセルを背負い直した。ただの自己満足かもしれなくとも、一応の善行をなしたというささやかな充足感があった。ぼくは少女に背を向け、元来た道へ戻ろうとした。
――突然、袖を引かれた。振り返ると、予想より半歩近い位置に少女の顔があった。大きな琥珀の瞳にじっと顔を覗き込まれていた。
熱く濡れた感触が左の頬に当たり、舐められたことを理解するまでに数秒要した。そちらは先刻、彼女に平手で思い切り張られた方の頬だった。
後ずさろうとして、木の根に足を取られた。ぼくはバランスを崩して尻餅をついた。少女が覆い被さるようにこちらに馬乗りになる。そのまま、彼女はぼくの首に腕を回し、強い力でしがみついてきた。間近からこちらを覗き込む瞳は、猛禽のように鋭敏な光を帯びていた。熱く湿った吐息が耳朶に触れた。
咄嗟に、ぼくは少女の身体を両手で突き飛ばしていた。腰のあたりを押したと思う。少女らしい軽さで、すべすべした素肌の感触が掌に残った。彼女は落ち葉の上に尻餅をついた。
頬が燃えるように熱かった。きょとんとした顔で小首を傾げ、尻餅をついたままこちらを見上げてくる少女にぼくはわけもわからず頭を下げ、一目散に林から逃げ出した。
夕日は西の稜線に沈みかけ、東の空には気の早い星たちが幾つか瞬き始めていた。背後に迫る宵闇から逃げるように、ぼくは一度も振り返らず、茜色に染まる小道を一心に走った。
ようやく祖母の家が見えて、煙取りの窓から細く棚引く夕餉の烟が目に入ったとき、ぼくは安堵と疲労でその場にへたり込みそうになった。
肩で息をしながら、恐る恐る後ろを振り返ったが、背後の暗い畦道に、あの少女の姿はなかった。
次の日、ぼくは原因不明の高熱を出して寝込み、そのまま一週間学校を休んだ。
間も無く父の転勤により遠方へ引っ越すこととなったため、学友とろくな別れもできないまま、ぼくはその町を去った。
以来、祖母の家へは行っていない。
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