むじな 其の三〈了〉

 土や落ち葉で汚れているときはあまり気にならなかったが、汚れを落とすにつれて、少女の猯沼女まみぬまめらしい秀麗な顔立ちが露わになってきた。彼女は、日焼けでない、生来の褐色というべき暗い色の肌をしており、土や落ち葉が付着してくすんだ色合いになっていた髪は、近くでよく見ると輝くような銀髪だった。瞳はいくらか勝気そうな明るく澄んだ琥珀色で、最初こそ疑心を伴った不安げな眼差しをぼくに向けてきていたが、念入りに顔の汚れを拭ってやるうち、こちらを見つめるクリクリと大きな眸にはたじろぐほど率直な光がきざしていた。


 こんな何もない茂みにひとり置いていくよりかは、もっと安全な場所まで連れていってやるべきなのかもしれなかった。しかし、幼なくとも彼女は山の猯沼女まみぬまめなのだ。山野に生きる彼女らの、幼くとも同輩を、人里へ連れ出そうとする考えこそ余計なお節介だと思い直した。一応は泣き止んでくれたようだし、後は一人で回復して、勝手に仲間たちの元へ帰るだろう。それに子供がいるということは、成人の山の猯沼女まみぬまめに出くわしてしまう危険もあった。山の猯沼女まみぬまめの大人は大柄で、身長が二メートルを超す者もざらにいると聞いていた。あたりもだいぶ暗くなっていたし、そんな恐ろしい存在と山中で出くわすなんて、想像するだけでも恐ろしかった。

 ぼくはあげるつもりで少女にハンカチを渡し、そそくさとランドセルを背負い直した。ただの自己満足かもしれなくとも、一応の善行をなしたというささやかな充足感があった。ぼくは少女に背を向け、元来た道へ戻ろうとした。


 ――突然、袖を引かれた。振り返ると、予想より半歩近い位置に少女の顔があった。大きな琥珀の瞳にじっと顔を覗き込まれていた。


 熱く濡れた感触が左の頬に当たり、舐められたことを理解するまでに数秒要した。そちらは先刻、彼女に平手で思い切り張られた方の頬だった。


 後ずさろうとして、木の根に足を取られた。ぼくはバランスを崩して尻餅をついた。少女が覆い被さるようにこちらに馬乗りになる。そのまま、彼女はぼくの首に腕を回し、強い力でしがみついてきた。間近からこちらを覗き込む瞳は、猛禽のように鋭敏な光を帯びていた。熱く湿った吐息が耳朶に触れた。


 咄嗟に、ぼくは少女の身体を両手で突き飛ばしていた。腰のあたりを押したと思う。少女らしい軽さで、すべすべした素肌の感触が掌に残った。彼女は落ち葉の上に尻餅をついた。

 頬が燃えるように熱かった。きょとんとした顔で小首を傾げ、尻餅をついたままこちらを見上げてくる少女にぼくはわけもわからず頭を下げ、一目散に林から逃げ出した。


 夕日は西の稜線に沈みかけ、東の空には気の早い星たちが幾つか瞬き始めていた。背後に迫る宵闇から逃げるように、ぼくは一度も振り返らず、茜色に染まる小道を一心に走った。

 ようやく祖母の家が見えて、煙取りの窓から細く棚引く夕餉の烟が目に入ったとき、ぼくは安堵と疲労でその場にへたり込みそうになった。

 肩で息をしながら、恐る恐る後ろを振り返ったが、背後の暗い畦道に、あの少女の姿はなかった。


 次の日、ぼくは原因不明の高熱を出して寝込み、そのまま一週間学校を休んだ。

 間も無く父の転勤により遠方へ引っ越すこととなったため、学友とろくな別れもできないまま、ぼくはその町を去った。

 以来、祖母の家へは行っていない。

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