人見代行なんでも屋

@sasakun05

第1話 金のためなら


第一話 金のためなら


       1


 鼓膜が破裂しそうなくらいのセミの鳴き声に、人見吾朗は顔を歪め苛立ちをつのらせていた。しかし、そのイライラはセミの鳴き声だけからくるものではない。最たる理由は彼が着ているお気に入りのポール・スミスのシャツが汗で張り付いているからで、さらにまるでサウナのような事務所の気温がより吾朗の神経を尖らせていた。

「吾朗ちゃん。こんなに暑かったら仕事にならないんじゃない?」

 黒いブラジャーが透けたTシャツと太ももを露わにしたショートパンツを履いている向井葉月が訊ねた。今年二十歳を迎えた彼女は、ここ人見代行なんでも屋の事務員として働いている。

「仕事しなきゃ家賃は払えないし、怠けていると葉月ちゃんの給料だって払えないんだから文句は言えないよ」

「確かにね。毎月家賃は滞納してるし、私の給料もいつも遅れているわよね」

 葉月が頬を膨らませながら言う。吾朗は、痛いところを突かれたが、反論するどころかつい納得してしまい、苦笑いを浮かべた。

「そもそもさ、葉月ちゃんはうち以外でちゃんと稼いでいるんだからいいでしょうが。こんなエアコン代を節約している貧乏会社のどこがいいんだが」

「まあ、そうなんだけど。あえて言うなら吾朗ちゃんのことが好きだからこうして離れずにいるわけよ。そうでもなきゃ、こんなところに毎日来ないわ」

「好きだからって言われてもなあ。俺、今年四十歳だし葉月ちゃんくらいの娘がいたっておかしくないんだけど。あんまりおじさんをからかわないでくれ」

 吾朗はそう言いながらも、内心はスケベ心丸出しで機会があれば、いくらでも葉月を押し倒し食べようと目論でいた。

 吾朗と葉月が出会ったのは、彼女が働くキャバクラに吾朗が訪れたときで、そこからあれよあれよという間に話が進んでいき今に至っている。吾朗が代表を務めている代行屋は、その社名のとおり代行業の他にも、金になることなら何でもやるスタイルをとっていた。ジューンブライドの季節になれば、知人役として結婚式に出席し、夏休み期間中の今なら宿題の代行をしたりと、その業務は多岐に渡っている。また、一年を通して多い依頼といえば、ペットの散歩や捜索であり、ちょっと変わった依頼をあげるとすれば、夜逃げの手伝いなどのグレーな仕事があった。もちろん、探偵事務所がやっているような不倫現場の撮影や浮気調査もしたことはあるが、ほとんどは普通の代行屋がやらない依頼が多い。さらに、そこからトラブルに巻き込まれるようなことも日常茶飯事だ。多忙なときは猫の手を借りたいくらい忙しいが、暇なときは嘘のようにパッタリと依頼が止まり、だからこそ家賃が払えない月が年に数回あった。葉月を事務員として雇った半年ほど前は、とても忙しかったので彼女の存在は助かっていたものの、今は暇を持て余し今更ながら、葉月を雇ったことを後悔していた。ただその中で、唯一の救いは彼女が美貌であり、眺めているだけで、心が癒やされ吾朗の下半身が疼くことだったが。

 吾朗の事務所は、山形駅から徒歩五分くらいのところにあり、二階のワンフロア十坪のテナントを借りている。貧乏会社の事務所内には、新設のエアコンが完備し、給湯設備もあるが、節約のためにほとんど使っていない。売上が少ないのだから仕方がない。現に今の仕事は、中学生の夏休みの宿題代行二件とペット捜索のみで、売上は十万円にも満たなかった。

「からかってないわよ。私はいつでも本気で、吾朗ちゃんにその気があれば私をあげるわ。ウフフ」

「じゃあさ、そのうち食べちゃおうかな。大人の男の魅力がどんなものか教えてあげようか」

 吾朗はぺろっと唇を舐め回しながら言った。

「でも、その前に払うものは払ってね」

 葉月が左目を瞑りウィンクを飛ばす。その仕草は小悪魔的にかわいらしく、吾朗は涎がこぼれそうになっていた。

「そういえば、こないだの仕事はどうなった?」

「こないだって?」

「アリバイ会社の件だよ」

「あっあれねえ。なんかお願いするかもって言ってたけど、吾朗ちゃんは大丈夫の?」

 葉月が持ってきた仕事は、キャバクラで働く子が引っ越しをするときに使う勤務先のダミー会社のことで、それを吾朗がやろうとしていた。物件によっては、オーナーや不動産会社が水商売で働く契約者を嫌うので、それならいっそのこと、そういう子たちを人見代行の社員として働いていることにしよう、と吾朗は考えたのである。違法か合法かと問われれば、もちろん違法だが金のためなら何でもやる彼は、そんなことはいくらでもごまかせると思っていた。

「全然やれるからってそう伝えといてくれるかな?ちなみにその子はかわいい?」

 吾朗はお金と女には目がない。だからこそいつもお金と女で失敗している。

「かわいいけど、私ほどじゃないかな。ちなみにその子はやめたほうがいいよ。バックにヤクザがついてるからね」

「ふーん」

「で、いくらでやるわけ?」

「五万円でどう?」

 吾朗が右手を開いて言った。アリバイ会社となると多少リスクが伴うので、割高な金額を提示する。また、基本的に人見代行は成功報酬をとっていて、依頼人からはよく良心的だと言われ、そのため紹介客やリピート客が多かった。

「五万円かあ。それで私にはいくらくれるの?」

「え…時給の他にってこと?」

「もちろん。キャバクラでいうドリンクバック的なことよね」

 葉月は、さも当然という表情で言った。吾朗は、こうした彼女のちゃっかりというかしっかりとしたところを好んでいるのと同時に、どうも女というよりは親戚の娘に近い愛情を抱いている。

「五千円」

「二万円」

 葉月が吾朗の言葉を遮る。

「それは多すぎだろう。じゃあ一万円は?」

「一万八千円」

「一万五千円」

「のった!」

 二人は、まるでセリ市場のやり取りのようにテンポよく金額を張り合い、一万五千円で話がついた。

「よし。じゃあ連絡しといてよ」

 吾朗は机の上にあったうちわをあおぎながら言った。

「はい、はい。わかりましたよ」

 葉月は頷くと、スマホを手に信じられないスピードで文字を打ちはじめる。その間、吾朗は額に汗を滲ませながら、机の上に広げた中学生の夏休みの宿題に取り掛かった。あらかじめ依頼人の学習能力はヒアリングしているので、わざと答えを間違えるテクニックを使い、いかにも本人が宿題をしたという形跡を残しておかなければならなかった。代行屋として、一番してはいけないのが後々になって、クレームがくることであり、それだけは避けなければならない。この道十年の吾朗は、どんなにグレーな商売をしていても、しっかりと仕事はこなしていて、いつも自分の仕事にプライドを持っていた。ただ、問題なのは仕事の量と報酬がマッチしていないことで、さらに彼はつい余計なことに首を突っ込んでしまう癖があり、その分経費が余計にかかってしまい、気がついたら売上が減っているというのがざらにあった。さらに拍車をかけるように、女とお酒が大好きで、それが家賃を滞納してしまう原因でもある。

 吾朗が、一心不乱にペンを走らせているとき、事務所のドアが音を立て開く。

「こんにちは。郵便でーす」

 三十代に見える郵便スタッフが、手紙の束を葉月に渡す。彼の目は、葉月のDカップの胸に向けられている。このエロ野郎がと吾朗は、そう思いながら手紙の束から目を背ける。どうせその中身は、家賃の督促状や電気代の明細など見たくないものばかりだろう。

「お疲れ様でーす」

 葉月が甘い声で、郵便スタッフを見送ると、手紙に目を通しはじめた。

「あの人さあ、私の胸ばかり見てスケベよねえ。さてさて⋯⋯えーと⋯⋯家賃・電気・水道⋯⋯と請求書ばかりきてるわねえ。吾朗ちゃん、大丈夫?ここ潰れるんじゃない?」

「そうなったら、そのときだ」

 吾朗は手を動かしながら、他人事のように呟いた。

「まあ、そのときは私が食べさせていくからいっか」

「そこまでは落ちたくないなあ。二十歳の女のヒモにはなりたくないよ」

「フフフ。そうよねって、あれこれなにかしら」

 葉月が何かに気づいたように声をあげる。

「ん?どした?」

 吾朗は顔をあげ、疑問の色を滲ませた。

「人見代行なんでも屋御中⋯⋯裏には山形拘置所内って書いてあるけど、開けてみる?」

「ああ、開けちゃってよ」

 吾朗はそう言うと、天井に視線をやる。築三十年が経つこのビルは古く、天井のクロスはタバコのヤニで黄ばんでいた。それにしても、拘置所から手紙が届くとはどういうことだろうか。拘置所は、逮捕され裁判を待つ人がいる場所で、吾朗の知人がそこにいるはずはないし、手紙が届くのはあり得ないことだと思うが。

「突然のお手紙失礼致します⋯⋯」葉月が、便箋の封を切ると中から手紙を取り出し読みはじめた。「私は、笠松悠希といいます。あなたに依頼したいことがありまして、一度お話をしたいのですが、私は現在拘置所に身柄を拘束されていますので、面会に来ていただけないでしょうか。尚、面会には依頼とは別にお金をお支払いします。何卒⋯⋯」

「行って来る!葉月ちゃん、電話番よろしく!」

 吾朗はお金というキーワードに、つい心が踊りだし、勢いよくイスから立ち上がった。今は、眼の前にぶら下がっている現金に飛びつくのが先だ。それにどちらにせよ、仕事が少ないのだから、この依頼を取りにいかなければならない。どんな依頼内容なのかは、想像が全くつかないがお金のためなら。

「あのさあ、吾朗ちゃん」

 事務所を出ようとした吾朗に、葉月は言った。

「ん?」

「電話番って言うけどねえ、ここの電話が鳴るのは三日に一回ぐらいだけど」

 吾朗は、的を得ている葉月の言葉に、ぎこちない笑みを返した。そして、そそくさと事務所を出ると、夏の強い陽射しを背中で受け、汗を吸っているシャツの胸元をパタパタと仰いでいた。


 吾朗が、山形拘置所に足を踏み入れたのは、これが二回目のことで二十年振りだった。待合室のイスに座りながら、あのときは友人が逮捕されてしまい、本と現金を差し入れしたと思い出していた。そして、彼女が、笠希という女性が果たして何を依頼したいのか、吾朗は想像を巡らせる。あまりにも無茶苦茶な依頼でないことを祈りながら、さらにいい報酬が提示されるのを願いながら。ただ、面会時間は限られていて、二十分と少ないので効率よく話を聞く必要がある。吾朗の記憶では、一日の面会時間というのは、一回きりだったはずだと思い出していた。

 受付を済ませた吾朗が、面会室で待っていると、それから数分後に刑務官から、中に入るよう促されドアを開けた。その瞬間、透明なアクリル板越しにいた女性の姿が目に入った。

 彼女は、化粧をしておらず髪の手入れも行き届いていない。それでも、肌は綺麗で、もしメイクをしたのなら、それなりに美人なのではないかと吾朗は想像を膨らませた。年齢は二十代後半ぐらいだろうか。いずれにしても、彼女が体から発している空気は重く、罪の意識を感じているように思えてならなかった。

 吾朗は、彼女がどのような罪を犯したのか興味がそそられはじめる。

 窃盗、詐欺、薬物のいずれかだろうか。彼は、興味深く見つめたままイスに腰を降ろすと刑務官に、注意事項と時間を伝えられた。

「お忙しいのにすみません。笠松です」

 吾朗より先に口を開いたのは、かすれ気味の声を発した悠希だった。

 吾朗は忙しくないけど、と心の中で思いながら言った。

「人見代行の人見です。あの⋯⋯時間もないので早速で申し訳ないですが、私に何をしてほしいのでしょうか?」

「いえ。とんでもないです。二十分しかないですもんね」

 悠希はそう言うと、薄笑いを浮かべる。

「はい。限られた時間の中で話をするのは難しいですから」

「単刀直入に言いますと、私の代わりにお墓参りをしてほしいんです」

「はあ⋯⋯お墓参りですか」

 吾朗は、不思議そうな表情でポツリと呟く。この十年間、代行屋をやっているが、お墓参りという依頼は初めてのことで、彼は遠慮せず首を傾げた。

 その様子を見た悠希は、少しだけアクリル板に身を寄せると口を開く。

「おかしいですよね。わかってるんです。変わったことをさせるなっていうのは。でも、どうしても私がこういう状況なので、代わりに行って欲しいんです」

「それはかまいませんが、ちょっと質問してもいいですか?」

「はい、どうぞ」

「まず、インターネットも使えないあなたが、うちのことはどうやって知ったんですか?」

「新聞広告を見たんです。私、新聞を購入しているので」

「あ⋯⋯なるほどですね」

 人見代行は、ホームページがあるが、依頼を増やすために新聞広告も定期的にだしている。ただ、それを見て問い合わせをしてくる人は稀で、ほとんどが年配の人が多かった。

「それで、そのお墓参りにはいつどこに行けばいいですか?」

「場所は、市内の修光寺です。わかりますか?」

「たしか⋯⋯修光寺って七日町通りの入口にあるところですよね」

 吾朗は産まれも育ちも山形市内のため、地理には滅法強い。

「はい。あと日にちは、三日後の八月十日でお願いしたいんですが」

「わかりました。大丈夫ですよ」

 即答したあと吾朗は、思わず頭をかいた。これでは、自ら暇だそう言っているようなものだと。どうせなら、少し考えたりスケジュールを確認する素振りを見せた方が良かったのかもしれない。

「ちなみに、お墓に行ってお花を供えたり、掃除をしたりすることはできますが、あなたの代わりに手を合わせるわけですから、どんな言葉をかければいいですか?」

「何も言わなくていいです。ただ私の代わりに、線香をあげてきてくれればそれで満足です」

 悠希はそう言うと、目を伏せる。彼女の様子をじっと見つめていた吾朗は、腕組みをしながら頷き、いくらぐらいの報酬を貰うべきなのか、頭の中で電卓を叩きはじめた。お墓参りという依頼は、初めてのことなので、相場が全くわからない。それに、ただお墓に行って掃除と手を合わせるだけなら、一時間ぐらいで終わるはずだろう。お花代を除いても五千円がいいところか、妥協しても三千円くらいか。しかし、塀の中にいる悠希が、どうやって報酬を払うのだろうか。お金に目がない吾朗は、ふと疑問が浮かびあがっていた。

「わかりました。私がきちんとお墓参りをしたかどうかは写真を撮って証明しますので、ご安心ください」

「ありがとうございます。で、報酬の方ですけど」

 悠希の言葉に吾朗は、ごくりと唾を飲みこむ。あまりに安い金額だったら、断るのもありだが、今の仕事の状況から考えると、とてもわがままは言えない。家賃を滞納し、葉月への給与も遅れているのだから。

「まず、今日こちらまで来ていただいた分として、二万円お支払いします。それからお墓参りで十万円はいかがでしょうか?」

「十万円っすか⋯⋯あ、失礼」

「少ないですか?だったら⋯⋯」

「いえ、とんでもない!」吾朗は、予想外の金額につい声が大きくなった。「それだけいただければ十分です。もし、良かったらサービスとして、なにか必要なものがあれば差し入れとかしますが」

「それは大丈夫ですよ」

「そうですか。まあ、もしお困りのことがありましたら、いつでも言ってください」

 吾朗は自分の表情が、明るくなっているのをアクリル板に反射する顔を見て気がついた。これではまるで、お年玉をもらった子供と一緒じゃないか。

「じゃあ、あとでお金は窓口で受け取ってください。それと、詳しいお墓の場所は、弁護士から聞いてください。弁護士の名刺も、現金と一緒にしておきますから」

「わかりました。じゃあ、領収書や写真は、その弁護士に渡します」

「はい。お願いします」

 悠希は頭を下げると、ある程度話せたことに満足したのか、安堵の息を吐いた。

 面会をはじめてからすでに十分が過ぎ、余ってしまった残りの時間をどう使うべきか、吾朗は思案する。このまま話を打ち切ってもいいだろうが、法外とも思える報酬代と目の前にいるか弱そうな女性につい興味を覚える。彼女が、ここにいる理由はなにか、どうしてお墓参りをしてほしいのかと。

「あの、あなたはどうしてここにいるんですか?とても悪党には、思えませんが」

 吾朗は、いつもの悪い癖である興味心を抑えきれず、自然と口から言葉がでた。

「自分でもどうしてあんなことをって、今になって後悔しているんです」

 悠希は自分に対して失望の息を吐くと、肩を落とした。

 もし、アクリル板がなければ、ぎゅっと抱きしめたい、そう吾朗はスケベ心を抱く。

「事件のことと、私に依頼したことはなにか関係があるんですね?」

 吾朗は想像を膨らませながらも、断定するかのように言った。しかし、悠希は口を結んだまま何も答えず、冷静な様子を装っている。彼女の目からは、その質問には絶対言いたくないという思いが込められていて、吾朗はその強い眼差しに目をそらした。いくら何でも初めて会った、それも友達でもないような男に、ペラペラ喋るわけはないか。

 静まり返った面会室に、重い空気が漂う。これ以上、余計なことに首を突っ込まないほうがいいかもしれない。吾朗は、そう思いながら面会を切り上げようとしたとき、悠希がぼそりと言った。

「私、娘を殺したんです」

 彼女の思いがけないカミングアウトに、吾朗はただ目を丸くしたまま何も言えなかった。 

「吾朗ちゃん、おかえりなさい」

 事務所のドアを開けた吾朗を葉月が甘い声で迎えた。

「おい⋯⋯なんでそんな格好をしてるんだ?」

 ブラジャー姿の葉月に、吾朗は口が開いたままふさがらなかった。Dカップの胸は巨乳というより美乳で綺麗な谷間ができている。

「だって、暑いんだもん。いいでしょ、別に。どう?触りたい?」

「触りたいもなにも⋯⋯お客さんが来たらどうするんだよ。ここは代行屋じゃなくて、ランパブか?」

「お客さんが来ないから、こういう格好をしてるわけよ」

「ごもっとも⋯⋯っておい!」

「フフフ。うける」

 吾朗のノリツッコミに、葉月が鼻で笑う。

「まあ、いいや。ところでどう?なにかわかった?」

「もちろん、プリントアウトしてるわ。どうぞ」

 吾朗は、一瞬彼女の胸に目をやったあと、プリントを手にする。

「さすが仕事が早いねえ。どれどれ」

「お褒めいただき光栄です」

 頭を下げた葉月を尻目に、吾朗は目を細めながら文字を追っていく。


『炎天下の中、車内に二歳の娘を放置』


「それにしても、ひどい話よねってこれさ、県内だけじゃなくて全国のニュースにも結構でていたけど」

 葉月はTシャツを着ながら言った。

「俺、あんまりテレビ見ないし、ネットも新聞も最近は全くだからわからないけど」

 吾朗は悠希との面会が終わると、彼女が娘を殺したという言葉が頭から離れず、葉月に彼女の記事がでていないか探すよう言っていた。こういった調べ物は、葉月が得意中の得意でかなりの戦力になっている。

吾朗は、数枚のプリントに目を通しながら、悠希が起こした事件を頭の中でまとめはじめた。

 事件は去年の八月十日。場所は山形市の西側にある住宅街でおきた。その日の午前中、悠希は娘と一緒に出かける。行き先は、友人宅だったようで、悠希はその家の近くにあるコインパーキングに車を停め、娘を車内に残したまま友人の元を訪れた。この日の気温は、三十度を超える暑さで、エンジンを切った車の中は、サウナ状態だったに違いない。悠希は、ペットボトルを一本だけ娘の手に握らせ、すぐに戻るからと言い、現に本人も十分ぐらいで戻るつもりだったらしい。しかし、どういうわけか、彼女が車に戻ってきたのは、夕方のことでその間、娘は熱中症によって死亡していた。悠希は、ぐったりとしている娘にあわてふためき、急いで救急車を呼んだが時すでに遅く、それから間もなく娘の死亡が確認され、悠希は逮捕された。現在は、裁判中であり一審の判決は実刑五年。しかし、その判決に納得のいかなかった悠希は控訴している。次回の裁判日程は、決まっていないが高裁は仙台でおこなわれるので、今は移送待ちの状態となっている。

 つまり、吾朗はプリントを机に置くと、自分が何のためにお墓参りに行くのか、その意味がわかりはじめていた。

 悠希が指定した八月十日は、彼女の娘が亡くなった日であり、裁判中で身動きのとれない悠希に代わって、墓参りに行ってきてくれということだ。

「なんか重い仕事よねえ。娘の命日にお墓参りに行ってきてくれってさ。自分で殺したくせに⋯⋯」

「だよなあ。今までの代行業とは、全く心構えが違う。はじめは金のためならって浮かれていたけど、こうした事実を知るとちゃんと手を合わせなきゃいけない。それにしても、とても娘をほったらかしにするような人には見えなかったな。うーん、どっちかといえば、ちゃんとしている、いい母親だと思ったけど」

「甘いわねえ。女なんてね、わかんないのよ。考えていることと口にすることは、正反対のときだってあるし。いや⋯⋯ほとんどそうかも」

 葉月が、うんうんと自分に言い聞かせるような仕草を見せる。

「恐ろしいこと言うねえ。俺も女には、気をつけないと痛い目に合うな。でも、これ友人も責任感じてるだろうね」

「吾朗ちゃん。もう甘すぎるわ。まるで、砂糖丸呑みよね」

「は?甘いって聞くと前歯が痛くなるんだけど」

 吾朗は前歯を舌で舐める。

「この友人っていうのは、男に決まっているじゃない。要はね、笠松悠希は不倫をしていたのよ。で、不倫相手といるとき、娘の存在が邪魔だったわけ。だから、車内に娘を置いてきたのよ。まあ、こう言ったらなんだけど、よくある話よね」

「マジかよ。もし、それが本当だったら、旦那さんは怒り心頭だよな。愛した妻が、不倫してかわいい娘は死んでと…」

 今年四十歳になる吾朗は、一回も結婚したことはないし、もちろん子供もいない。だが、この事件を自分ごとのように捉えると、胸が痛くなり亡くなった幼い女の子がかわいそうだった。だからこそ吾朗は、大したことはできないものの、今回の依頼をしっかりとこなす決意を抱いている。

「はあ⋯⋯あのね⋯⋯」

 葉月がため息を吐いて、力なく首を横にする。

「何だよ、おかしいか?」

「うん。とってもおかしいわね。旦那はね、罪を償ってほしいなんてそんな生ぬるい考えはないと思うけど」

「どういうこと?」

「旦那はきっと復讐に燃えてるはずよ。愛しい娘を失ったんだから、それくらい思っていても不思議じゃないわ」

「復讐って、そりゃやばいな。でも、そうなる気持ちもわからなくもない。にしても、葉月ちゃん。珍しいね。こんなにムキになるなんて」

 吾朗は、いつも仕事に興味を示さない葉月が、ここまで喰いついてくることに内心、驚いていた。

 彼女はどちらかといえば、冷静沈着で淡々としている印象が強い。

「それはね、吾朗ちゃんが何もわかっていないからよ。私はね、こういうかわいそうな事件は許せないの」

「たしかにそうだけどね。だったら、葉月ちゃんも一緒にお墓参り行くか?」

「行ってもいいのなら、行きたい」

「ただ、その分のお金は出しませんが」

「いいわ。行く」

「よし。じゃあそうしよう。あ、そうだ。お墓にお供えする花が必要だから、手配してくれるか?ほら、葉月ちゃんが働いている店で、贔屓にしている花屋があっただろう?」

「フラワー竹田ね。いいわ。いくらにする?」

「うーん。そうだなあ」

 吾朗はそう言うと、顎に手をおき無精髭を感じながら、頭の中で数字を見つけだそうとする。今日、悠希から十二万円を貰い、これがあれば今月はなんとか凌ぐことができる。さらに、依頼が増えれば、滞納している分の家賃も払うことができるし、葉月にも少し多めに給与を出せるかもしれない。そのためにも、経費はできる限り抑えなければと、吾朗は考えながら少し低い声で言った。

「三千円ぐらいかな」

「はあ?馬鹿じゃないの?」

 葉月は呆れた表情を浮かべながら、吾朗の声などよそにスマホを耳に当てた。どうやら気持ちはすでに、フラワー竹田に向いているようだ。

「もしもし。私、エンジェルの葉月です。どうも、こんにちは。あの、お願いがありまして、お墓参り用のお花を準備してほしいんですけど、大丈夫ですか?うん、うん。そう、そう。予算は一万円でね」

 吾朗は、葉月の口にした金額を耳にすると、思わずため息がもれそうになったが、タバコをくわえ我慢していた。


       2


 八月十日は、一年前と同じように暑く、事務所から徒歩で移動してきた吾朗が、修光寺に着いたときには、全身の汗がスーツにまとわりついていた。

 修光寺は、敷地が広いため墓石が多く、あらかじめお墓の場所を知らなければ手間がかかりそうだった。吾朗は、前もって悠希の弁護士に連絡をいれておいたので、難を逃れていたが、もし何もしていなければ、熱中症で倒れていたかもしれない。この強烈な陽射しを浴びながらでは、干上がってしまうだろう。

「あった。ここよ、ここ」

 吾朗の前を歩いていた葉月が、神妙な顔をしながら足を止めた。彼女の白のブラウスから真っ赤なブラジャーが、透けて見える。後方にいた吾朗は、視線を葉月のお尻に向けると、パンティーラインが見えず、今日はTバックを身に着けていることがわかり、妄想に走っていた。

「吾朗ちゃん、鼻の下が伸びてるけど。なんで?」

「え、そうかな?」

「まさかここまで来ても、変なこと考えてるんじゃないでしょうね。もし、そうならサイテーのクソ男だけど」

 はい、私は最低で最悪の変人ですけどねと、吾朗は心の中で思いながらも、真面目な顔で言った。

「そういう顔なんだよ。文句なら親に言ってくれ。ほら、やることやっちゃおう。暑くて死にそうだ」

「そうだけどさ、お寺に来て死にそうっていうのはどうかしら」

 吾朗の目の前には、立派な墓石がある。それは、左右に並んでいるどの墓石よりも比べものにならないくらい立派で、もしかすると、修光寺の中でも一番かもしれない。

 墓石の中央には、笹崎家之墓と彫られている。ここが悠希の元旦那のお墓であるのは、苗字が悠希と違うのを考えれば、すぐに想像がつく。そして、二歳という短い命でこの世を去った魂があることも。

 吾朗がバケツの水を墓石にかけはじめている間に、葉月は手にしていた花を供える。予算一万円の花は、このお墓にピッタリで、三千円の花を供えるぐらいなら、何もしないほうがいいくらいだった。

 吾朗は、心の中で一万円に決めた葉月に感謝しながら、きっとこれなら悠希も満足してくれるだろうと確信を抱いた。それから、二人は入念に掃除を終えると、線香に火を点ける。

「じゃあ、俺からやるから、ちゃんと写真を撮ってくれ」

「了解」

 膝を折った吾朗が、両手を合わせる。どういう事情があったのかはわからないが、拘置所にいる悠希は、反省と後悔をしながら罪を償おうとしている。せめて、そのことだけでも報告できればいいのではないだろうか、そう吾朗は思いながら目を瞑り手を合わせた。その後、葉月も吾朗と同じようにする。

「さて⋯⋯じゃあ行こうか」

 吾朗は、額の汗をハンカチで拭い、葉月の肩に右手を置いた。気づけば、ここに来てからすでに一時間が経っていて、もうすぐお昼になる。

 吾朗の声に、葉月はゆっくり立ち上がり、振り返った。彼女のその表情は、どこか他人のお墓参りとはかけ離れた様子だった。

「時間も時間だから、外でご飯食べようか」

 下がり気味の気分を変えようと、吾朗は明るい声を発した。

「うん。そうねえ。お腹ぺこぺこかも」

「そんなにか。じゃあ何食べようか?」

「何でもいいの?」

「高くなければ、何でもいいよ。ファミレスがおすすめだけどね」

「は?それは絶対嫌よ」

「絶対って⋯⋯うーん。まあ、歩きながら考えようよ」

「そうねえ、そうしましょう」

 二人はお墓から離れると、出口へ歩きはじめる。今回の依頼だったお墓参り代行は、無事に終わり吾朗は、安堵感に包まれ満足気な表情を浮かべていた。また、今回のことをホームページにも掲載し、こうしたことも代行できるというアピールをしようと思いはじめていた。

 吾朗と葉月が、強い陽射しを浴びながら、墓地内を百メートルほど歩いたとき、目の前から一人の男性が近づいてくるのが見えた。オールバックでメガネを掛けている風貌は、それなりの地位に就いていそうで、見方によってはヤクザにも思える。

いずれにしても、着用している黒いスーツや白いシャツ、たまに手首から覗かせる高級そうな腕時計から、只者ではないことは間違いない。だが、吾朗は目の前から迫って来るような人ほど、最も嫌いな人種だった。なぜなら、自分が手にしていないものを全て、手に入れているからで、嫉妬であるのは明らかだっだ。

 男性が目の前から、徐々に近づいて来る。

 吾朗は、男性を見ながら年齢は自分より上で、五十代ぐらいではないかと見当をつけていた。それから、吾朗と男性の距離がグッと縮まったとき、不意に男性が足を止めた。そして、唐突に男性は強い口調で言った。

「あなたたちは、うちのお墓で何をしていたんだ?」

「は、はい?」

 不意を突かれた吾朗は、思わず立ち止まり、後ろを歩いていた葉月は、吾朗の背中越しに顔を覗かせる。

 吾朗は男性が発した言葉から、この人が悠希の元夫だろうと直感力が働いていた。さらに、今日が娘の亡くなった命日なのだから、父親であるこの男性がお墓に来るのは、不思議ではなく、逆に全く関係のない吾朗たちが、ここにいる方が不自然だ。

「知らない振りをしても無駄だ。私はずっとあなたちを見ていた。だから、言い逃れはできない。さあ、何をしていたんだ?あなたは誰なんだ?」

 質問攻めにあっている吾朗は、わざとらしくため息をしたあと、ポケットから名刺を取り出し、男性に手渡した。見られていたのなら仕方がない。話したくもないくらい嫌な男だが、揉め事を起こすよりはいいだろう。それに、俺は金も地位もなく、貧乏会社の社長だが、それでもお前が持っていない綺麗で若い女性がそばにいるんだから、少しは見せびらかしてやろうか。やっぱり男は、いい女と歩いてこそだろうと、吾朗は見栄を張ろうとする。しかし、先に口を開いたのは男性だった。

「人見代行⋯⋯?もしかしてあんた⋯⋯」

 あんたって演歌かよ、とツッコミを入れたくなるのを吾朗はこらえ、ぎこちない笑みを浮かべて言った。

「はい。代行屋⋯⋯」

「悠希だな。貴様、あいつに依頼されたんだな?」

 あなたたちがあんたに変わり、挙句の果てには貴様か。

 興奮気味の男性は、吾朗に詰め寄りさらに言った。

「あんな人殺しの代行までするのか?貴様は、あいつが何をしたのかわかっているのか?」

「何をおっしゃりたいのか、よくわかりませんが、依頼人の名前はどんなことがあっても、教えないと私は決めています。あんたが⋯⋯失礼、あなたがそれで私のことをどう思おうと勝手ですけどね」

 吾朗は、勢いよくまくしたてるように言うと、勝ち誇った顔を作った。どんなことがあっても、依頼人の名前は言えない。それは、代行屋をはじめたときから守っていた数少ないルールの一つだ。

「じゃあ、貴様はうちのお墓で何をしていたんだ?」

「お花を供えて、亡くなった女の子に手を合わせていました。それが私に依頼されたことでしたので。もし、気に入らないのであれば、お花は捨ててください。まあ、亡くなった娘さんは、悲しむと思いますけど」

「勝手なことを言いやがって。娘がどんな思いで亡くなっていったのか、わからないくせによくも⋯⋯」

「何を言われましても、私は仕事をするだけですから」

 吾朗と男性がいがみ合っていると、今まで黙って聞いていた葉月が言った。

「吾朗ちゃん。もう行こうよ。次の仕事もあるし」

 いや、全く暇ですけど、と吾朗は自虐的になりながらも頷く。

「そうだな。では、この辺で失礼します」

 吾朗は、軽く頭を下げると男性の横を通り過ぎていく。

 それにしても、随分年の離れた夫婦だったんだなと思いながら、同時にだからこそあの男性は、娘を溺愛していたのだろうと吾朗は思い知る。そして、娘が亡くなったことに、相当なショックと怒りを抱いていたに違いない。

 たしかに、悪いのは悠希でイライラをぶつけたくなるのは当然だ。

「なあ、あんた。おい、代行屋」

 少しだけ同情しながら歩いていた吾朗に、男性は声をかけた。

「はい?なんでしょうか」

 吾朗は、動いていた足を止めて振り返る。売られた喧嘩は買ってやろう。勝負は白黒つけなければ男としていけないはずだ。

「あんた、何でもするのか?悠希が墓参りを依頼したように、ちょっと変な依頼でもあんたは受けるのか?」

「ですから、依頼人の名前は」

「三十万円払う。いや、上手くいったらプラスで二十万円出す」

 男性は吾朗の言葉を遮り、真剣な表情で言った。

「もちろん、やります!やります!やらせていただきます!だってうちは、代行屋ですし、何でも屋ですから任せてください。あなた様のためなら、火の中水の中でも、飛び込みますよ」

 大きい声で叫んだ吾朗は、駆け足で男性の元まで飛んで行くと、先程までとは人が変わった顔つきで、男性の右手を強引に握りしめていた。もう契約は成立したというように。

「もう⋯⋯本当にお金に弱いんだから、困った人よね。あの人にはプライドのかけらもないわねえ」

 葉月は調子のいい吾朗を眺めながら呟くと、二人に背を向け歩きはじめていた。


「私の名前は、笹崎龍二。大学病院で働いている」

「お医者さまでしたか。やっぱりそうでしたか。とてもダンディーですよね」

 吾朗は、ごまをするように両手を揉みながら言う。二人は修光寺を出ると、山形駅の近くにある喫茶店に入った。このお店は喫煙席があるので、吾朗はよく利用していて、マスターとは顔なじみだった。

「フッ⋯⋯さっきまでとは大違いだな。まあ、いいだろう」

 鼻を鳴らした笹崎が、コーヒーを口に運ぶ。ここのコーヒーは、インスタント並の味で大したことはない。それでも吾朗が、利用しているのは単にタバコを吸えるからだというだけで、彼と同じような思いをしている客がいるのは、店内を見渡せばわかる。

「あの、それで依頼というのは?」

 大学病院の先生なら、必ずお金を払ってくれるだろうと吾朗は確信を抱くと、頭の中はお金のことで埋め尽くされていた。五十万円があれば、滞納している家賃は払えるし、それどころかキャバクラにも行ける。さらに、デリヘルも。

 吾朗は、下半身が熱くなっているのを実感しながら、意識を笹崎へと戻した。

「私はね、娘を死に追いやった奴を憎んでいる。もちろん、一番はその原因を作った悠希だが、あの日会っていた奴にも問題はある⋯⋯」

「会っていた奴と言いますと?」

「あいつはあの日、友人と会ってたと言っていたが、それは嘘だ。あいつは、不倫相手と会っていたのは間違いない」

「そこまで断言するということは、証拠でもあるんですか?」

 吾朗はそう訊ねたあとに、ふと気づいた。彼が依頼したいのは、その不倫相手を見つけることではないかと。

「ない。一切ない」笹崎は、首を振りながら否定したあと、さらに言った。「あいつは裁判でも警察の取り調べでも、一緒にいた友人の名前をあげていない。というよりも頑なにその部分だけは、黙秘を貫いたらしい。まあ、その態度そのものが、私は不倫相手と会っていたんですと言っているように聞こえるんだがな」

「悠希さんの周辺を調べたことは?」

「やったことはあった。私とあいつは、医師と看護師という関係で同じ大学病院で働いていたから、自分であいつの仲が良い人間に聞いてみたが、全く収穫はなかった。

私は、もうすぐ五十歳になるし、あいつは二十七歳だから、同じぐらいの年齢の人で、さらに私と同じような医師を疑ってはみたが、結局何も出てこなかった」

 年の差が二十三歳。まるで娘でないかと、吾朗は心の中で驚く。

「それで、そのあとは?」

「素人にできることは限らているから、探偵に任せてみた。餅は餅屋というようにな」

 笹崎はそこまで言うと、コーヒーを口に含み不味そうに顔を歪める。大学病院の医師にこのお店のコーヒーは、合わないだろう。

「まあ、笹崎さんはお仕事もお忙しいでしょうから、探偵に任せるのがベストかと思います」

「それでな、探偵に時間をかけて調べてもらった。事件が起きた周辺での聞き込みとか、あいつの昔の友人関係とか⋯⋯だが、不思議なもので、全く何も出なかった。探偵もな、こんな真っ白は今までなかったと言っていた」

「であれば、不倫などなかったのでは?本当に友人と会っていたのかもしれない」

「私も一瞬はそう思った。信じてみようと思ったが、どうしても腑に落ちなくてな⋯⋯それであんたにもう一度、調べてもらいたいんだ」

「はあ、まあいいですけど⋯⋯ただ、探偵が調べて白だったことを、私が覆せるかどうか保証はありませんよ。それに、あとで彼女の言っていることが正しかったとなっても、返金には応じません」

 吾朗の心配は、常にお金だ。入金されてからすぐに払ってしまう、自転車操業の人見代行に返金など不可能なことだ。

「そんなことを私が言うわけないだろう。お金を惜しむつもりはない。復讐のためならな」

 笹崎の眼光が一瞬鋭くなった。その鋭さは、医者の目つきではない。一体、彼は病院ではどんな医者なのだろうか。ドラマや映画に出てくるような、患者に寄り添ったいい医者か。それともふんぞり返った態度をする横柄な医者か。いずれにしても、目の前にある殺気迫った顔は、ヤクザと紙一重だ。しかも、笹崎が口にした復讐という言葉が、吾朗にはヤクザ同士の報復合戦のようにも思えてしまい、背筋に寒気が走っていた。

「わかりました。では、私から聞きたいことがありますが、いいですか?」

「ああ、何でも聞いてくれ」

「あなたは、事件後に直接悠希さんに訊ねたことはあったんでしょうか?あの日、誰とどこで何をしていたのかと」

「馬鹿な⋯⋯私はあいつが逮捕されてから、一回も会っていない。とてもじゃないが、面会に行く気にもならなかった」

「そうですよね。それに、聞いてみたところで答えるわけがありませんもんね」

 吾朗は、苦笑いを浮かべながら、断りもせずにタバコを咥える。それから、立ち上る煙を目で追い、閃いたような表情で訊ねた。

「あ、そうだ。彼女のスマホはどうなっていますか?今どこにありますか?」

「多分、弁護士が持っていると思うが、わからない。ただし、はっきりと言えるのは、あいつの物は、一切私の手元にはないということだ」

「ちなみに⋯⋯私はその弁護士に会いますけど、国選弁護人ですか?」

「いや、違う。私も一度だけ、彼と話したことはあったが、どうやらあいつと高校の同級生らしい」

「なるほど⋯⋯んん」

 唸り声をあげた吾朗は、タバコを咥える。せめてスマホが手に入るのなら、そこから何かわかることがあるかもしれない。たとえ、ラインのやり取りが消去されていても、電話帳のメモリが消えていても、スマホには何かしらのきな臭い形跡が必ず残る。そして、そこから手がかりを追っていくのも一つの方法だ。

「スマホの名義人はどっちですか?」

「あいつ名義だ」

「そうでしたか⋯⋯」

 せめて名義人が笹崎であれば、何とかなるかもしれないと思った吾朗だったが、その思惑は外れ落胆の気持ちが胸に漂った。

「あの、そういえば悠希さんはよく私選弁護士を雇えましたね。結構、お金がかかるはずですけど」

「あいつはな、ちゃっかりしているから毎月、私の給料から多くのお金を引き出し、自分の懐に入れていたんだ。それも、かなりの額でをな⋯⋯私もあいつが逮捕されてから知ったことだ」

「随分とやり手な奥様だったんですねえ」吾朗は、つい皮肉っぽく言うと、タバコを灰皿に潰した。「いずれにしても、悠希さんにはその弁護士が、一番の味方でしょうから、探りをいれる必要がありそうですね。弁護士には事実を言っている可能性もありますし。ただ、あなたが依頼した探偵は、どうして何の手がかりも見つけられなかったのでしょうか。ちょっと、不思議でならないんですが」

 吾朗は、考えられるパターンを頭の中で描いていた。もちろん、本当に調査をしてみたものの、駄目だったという場合はあるだろう。悠希と会っていた友人、不倫相手が事件の後に、どこか遠くに引っ越してしまえば、証拠は消えてしまう。そうなると、手がかりはなかったと報告するしかない。しかしながら、もう一つのパターンも考えられる。それは、お金に目が眩んだ探偵が、いい加減に調査をしたということで、そうした探偵がいることも事実だ。特に、個人でやっているような探偵会社なら尚更だ。笹崎から話を聞いただけで、無理だと結論を出しいい加減に調査をした可能性もある。いや、自分だったらそうするかもしれないと、吾朗は思った。それに、探偵といっても全員が全員腕がいいわけではない。

「そんなことを私に言われてもな⋯⋯で、どうだ?あんたのその言い草だと、この話に乗る前提のようだが」

 ここまでずっと、笹崎は背もたれに体預けていたが、話が佳境に入ったと思ったのか、賭け事に没頭するギャンブラーのように、体を前のめりにした。

「はい。もちろんやりますが、すぐに結果が出るわけではないので、長い目でみていただければ助かります」

「それはわかってる。とりあえずは手付で五十万。それから成功報酬でプラス五十万円払う。あとは、経費でかかった分は遠慮なく請求してくれていい」

 願ってもいない好条件に吾朗は、思わず笑みを浮かべる。そして、真っ先にホテルの一室で女性と絡み合う楽しいひとときを想像しはじめていた。

「あ、そうだ。もう一つだけいいですか?」

「なんだ?」

「もし、不倫相手が見つかったらどうするんですか?」

「そんなことは、聞かないほうがいい。あんたのためにもな」

 吾朗は笹崎の口調の強さと、険しい表情から確信を抱く。間違いなく、この人は娘を死に追いやった人間を、地獄に落とそうとしている。さらに、そうした復讐心こそが、今を生きる原動力になっているのではないかとも。

「さて、じゃあ契約成立ということで、振込先を教えてくれるか?」

「わかりました。えっとですね⋯⋯山形さくらんぼ銀行⋯⋯」

 吾朗は銀行口座を伝えながら、頭の片隅ではこれからどうなっていくのか、全くイメージが浮かばないことに、少し恐ろしくなった。しかし、わずか五分も経たない間に、スマホで五十万円の入金を確かめると、その恐怖心など吹き飛び、心の中にあるたくさんの欲を感じていた。


 翌日。吾朗は、お墓参りをした写真を手に、山形拘置所の面会室で悠希と会っていた。今日も面会前に注意事項を伝えられ、面会時間は二十分だった。

「どうも、こんにちは」

 笑みを浮かべた吾朗が、頭を軽く下げた。その様子に、悠希は少し戸惑いの表情を滲ませている。どうしてまたここにやって来たのか、何かあったのかと。それは、そうだろう。お墓参りの写真と前回貰った十二万円の領収書は、弁護士に渡すよう言ったのだから。もしかすると、悠希は心の中で使えない代行屋かしら、そう思っているのかもしれない。

 吾朗はどう思われようが、構わなかった。なぜなら、笹崎の依頼に応えるためにも、今日の面会は必要だったからだ。

「昨日、お墓参りに行って来ました。しっかりお花も供えまして、掃除も完璧です。もちろん、あなたの思いをちゃんと伝えましたから」

 吾朗は、主導権を自ら握るため、早口で言った。

「ありがとうございました」

「いえいえ。一応、ご報告までに今日はお伺いしました。あと、この写真もお渡ししようと思いましてねえ。早いほうがいいでしょう」

「そんな、すみません」

「あと、領収書は弁護士に渡しておきますよ。それにしても、立派なお墓で驚きましたよ。修光寺の中でも、存在感があってと言っていいのかわかりませんが」

「まあ、別れた夫のお墓ですけどね」

 悠希がバツの悪そうな顔で言った。

「そうだったんですね」吾朗は少しわざとらしく、いかにも今知ったという声色をだす。「それでですね、今日はちょっと他にもありまして⋯⋯あなたが前に言ったことがつい気になってしまい、調べてしまいました」

 吾朗の言葉に、悠希は息をのむ。

「あなたは先日、娘を殺したと言っていましたが、それはちょっとニュアンスが違うような気がしたんです。たしかにあなたは、猛暑日の中、車内に娘さんを放置しました。だが、それは一時のことで、すぐ戻るつもりだったんですよね?だから、殺したというのはちょっと違うかなと」

 悠希は微動だにせず、アクリル板越しに吾朗を見つめて言った。

「そうですけど⋯⋯どうして、あなたはこんなことを聞いてくるんですか?」

「お墓に手を合わせていたら、聞こえてきたんですよ」

「えっ?何がですか?」

「亡くなった娘さんの声です。それで、もしあなたが少しでも後悔や反省をしているのであれば、本当のことを言ってほしいとも」

 吾朗は全くもって、霊感などないし信用もしていないが、真実を聞きだすために嘘を言った。

「本当のことですか?」

「あなたは、あの日娘さんを置いて、一体どこに行っていたのか。その友人とは誰なのか。そして、友人もあなたと同じくらい反省しているのなら、お墓参りをしたほうがいいかと勝手に思ったんです。余計なお世話でしょうけどね。ただ、私はあなたとこうして出会ったわけですから、お力になれればいいかなと」

「見ず知らずの他人が、首を突っ込まないでよ」

 突然、悠希はぐっと身を乗り出すと、強い口調で言った。その彼女の取り乱した様子に、同席していた女性刑務官が静かにしなさいと注意をする。だが、吾朗は興奮し肩で呼吸をしている悠希にたたみかけた。

「あなたが心から反省し、娘さんに対して申し訳ないと思っているのなら、あの日あなたが誰と会っていたのかをちゃんと明らかにしたほうがいい」

「娘は死にました。もう戻って来ない。いまさら、私が何か言ったところで何が変わるんですか?」

 悠希の怒りが滲んだ声を吾朗が耳にしたとき、あることが頭に引っかかった。彼女がここまで言いたくない理由は、きっと相手にも家族があるからか、もしくはそれなりの仕事についている人、そのどちらかだろうと。そして、笹崎が言っていたように悠希が会っていたのは、友人ではなく不倫相手ということは的を得ているのではないかとも。さらに、意外にもその相手が、近くにいるような気が吾朗にはしてならなかった。

「あなたが会っていたのは、友人ではなく不倫相手だったのでは?」

 吾朗はご細工をやめ、直球ど真ん中のストレートで訊ねた。

「代行屋のあなたにはもう、関係のないことですよね。もう、ここには二度と来ないでください」

 悠希は頬を強張らせながら、視線を逸らして言った。

 そうだな、もちろん俺だって二度とこんなところに来たくはないが。吾朗は、漏れ出そうになる声を飲み込んだあと、優しい言葉をかけた。

「もし、気が変わったら、そのときは手紙をください。お力になれるなら、何でもしますから。あと、次の裁判で少しでも刑が軽くなるといいですね。そして、早くここから出て、娘さんのお墓参りができれば⋯⋯」

 吾朗はそう言ってから、それでもあなたの元旦那さんは、決して許さないと思いますけどね、と付け加えたかったが口を閉じて立ち上がった。そのとき、静まり返っていた面会室に、悠希のすすり泣く声が吾朗の耳朶を打った。


       3


 北嶋法律事務所は、山形市内の中心部である、市役所や新聞社などが建ち並ぶ場所から歩いてすぐのところにあった。三階建てのビルの二階部分に事務所を構えている北嶋は、弁護士というには程遠く、どちらかといえばチャラチャラしていそうな大学生に見える。しかも、顔はハーフ系のイケメンで身長も高い。

 吾朗は、北嶋の対面に腰をおろした瞬間から、拒絶感が湧き上がってくるのを意識していた。イケメン、弁護士、幸せな家庭、きっとお金もあるだろう。そう、吾朗が持っていないもの、全てを北嶋は持ち合わせているのだ。逆に、この男の駄目なところはどこか。

 吾朗は自分が優位に立てそうなところを頭の中で考えていた。

「あの、どうしてそんに睨んでいるんですか?」

「えっ?」

 心の内を見透かされた吾朗は、北嶋の言葉に自分の感情が表に出ていることを思い知り、苦笑いをもらした。それでも、内心はやっぱり、不幸になれ、地獄に落ちろと叫んでいる。

「失礼しました。ちょっと目が痛くてですね。それで、悠希さんから依頼された分の領収書がこちらです」

 吾朗は、安物の鞄から領収書を取り出し、机の上に置いた。

「ああ、そうでしたね。たしかに預かりました。あと⋯⋯お話があるとか?」

 北嶋は時間が惜しいのか、ロレックスの腕時計に目を落とした。二十代でそんなものを持つなんて、クソやろうが。吾朗はこみあげてくる言葉を、口の中で呟く。

 今日、吾朗はここに来る前に北嶋にアポイントを取っていて、そのとき少しだけ話がしたいと伝えていた。当然のことながら、用件は悠希のことをより詳しく聞くためだ。そして、それが笹崎からの依頼と結びつくことを意味する。

「悠希さんのことを少し調べてみたんですけどね、あの日彼女は誰と会っていたのでしょうか。ちょっと気になりましてね」

「そういうことは、お答えできません」

 北嶋のはっきりした口調が、吾朗の癪に触る。ただ、守秘義務があるのは十分理解できる。現に吾朗も、どんなときがあっても、依頼人の名は明かさないと決めている。とてつもない金額を提示されたら、その決意は揺るぐかもしれないが。

 吾朗がそうですね、と同調しようとしたとき北嶋は顔をほころばせながら言った。

「と、言いたいところですがね、実は私も本当のことはわからないのです。何度も彼女に問いただしましたが、口を噤んでしまってね。私は、彼女の弁護人ですから、少しでも彼女の刑を軽くしたいので、本当のことを言ってほしいんですけど」

「なるほど。包み隠さずに話をすれば、減刑も可能ですもんね」

「はい。彼女はあの日、友人とほんの十分ぐらい会って、すぐに車に戻ろうとしていたわけで⋯⋯でも、どうしてそうしなかったのかと言うと、きっと会っていた友人と話が盛り上がったからじゃないかと思うんです」

「幼い子どもを、車内に放置し忘れるくらいにですか」

「ええ。まあ、彼女自身も後ろめたいことがあるから、会っていた友人の名前は明かせないのでしょう。正直、このままでは、新たな材料がないので控訴はしても意味がないですがね」

 北嶋は諦めにも似た笑みで肩をすくめた。

「あの、あなたはどう思います?悠希さんは、本当に友人と会っていたと考えていますか?それとも、友人ではなく不倫相手とか、なにかまずい、探られたくないような人と会っていたとか」

「ご質問答える前に、どうして人見さんはこんなことを聞いてくるんですか?」

 北嶋が質問を質問で返したとき、吾朗は突然わけのわからない胸騒ぎを覚えた。ここで迂闊にも口を滑らせたら、とんでもない事態になるかもしれない。言葉選びは慎重にしたほうがいいだろう。だが、吾朗は思ったことを次から次へと、ペテン師のごとく口にする癖がある。

「ただの興味本位ですよ。いきなり拘置所から手紙が届いて、お墓参りをしてくれないかという珍しい⋯⋯いや、初めての依頼でしたので、どうなのかと思いましてね。まあ、こうやって興味本位で動くので、あとになって痛い目をみるんですが」

「そうでしたか。私はてっきり、悠希の知り合いから人見さんに何かしらの依頼があったのかと思いましてね」

 はい、そのとおり、と吾朗は心の中で言う。さすが、弁護士バッチをつけているだけのことはある。この男には、ほとんどのものが揃っているが、それに加え野性的な勘まであるとは恐れ入る。もはや、吾朗は北嶋に対して抱いていた、毛嫌いや拒絶感を通り越し、この男はきっと世の中の選ばれし勇者なのかもしれないと、思いはじめていた。あなた様が、この街を救ってくれるのだろう。

 吾朗は笹崎の顔が脳裏をよぎったが、首を横にしながら言った。

「うちのような平凡な小さい代行屋に、そんな仕事はきませんよ」

「私の勘違いでしたかあ⋯⋯まあいいでしょう。で、ご質問は彼女が誰と会っていたかということですよね?」

「そうですね」

「私の予想では、本当に友人だったと思います。きっと女友達だったのでしょう」

 北嶋は自信を言葉にのせる。

「でも、だったら、どうしてその友人の名前を彼女は黙っているんでしょうか?その友人の証言次第では、判決だって変わるかもしれませんよね。刑務所に入るのは、仕方ないとしても、早く娑婆に出るためには、友人の協力も必要だと思いますけど」

「それはそうですが、きっと彼女はその友人に迷惑をかけたくないから、その名前を口にしたくないんでしょうね。さらに、娘さんを死なせたのは、自分が悪いとわかっているからで⋯⋯どんなに友人に引き止められたとしても、十分で戻らなかったのは自分のせいで、その責任を感じているのは間違いありません」

「それはそうですけど⋯⋯」

「人見さんは、何か納得のいかないことでもあるんですか?」

 北嶋は吾朗の不満顔を見ると、喰いつくように言った。

「私はですねえ、悠希さんが不倫相手とか男友達と会っていたのではないかと思っているんです。しかも、その相手には家族がいたりして、だから公にできないとも」

「⋯⋯うーん」

「もしくは、その相手がどこかのお偉いさんとか⋯⋯」

「たとえば、どういことですか?」

「議員、医師、教師⋯⋯タレント、どこかの社長さんなどですかねえ」

「まさかそんなことが⋯⋯」北嶋は馬鹿馬鹿しいと言わんばかりの表情で呟いたが、数秒ほど考え込むと閃きが産まれたように目を輝かせながら言った。「今、人見さんの話を聞いて、ふと思いついたんですけど、実は私と悠希は高校の同級生でしてね。山形高校の出身なんです」

 二人が同級生であるのは、笹崎から聞いているが、あえて吾朗は驚きの色を表情にだした。

 山形高校は県内で、最も優秀な高校であり偏差値も高い。ちなみに吾朗は、県内で下から二番目に偏差値の低い高校の出身だったにも関わらず、留年をしそうになった。まさに天と地とはこのことだろう。いや、ピンとキリ。いや、比較すること自体アホらしいか。

 吾朗は北嶋と話をしていて、みじめになってくる自分感じながら、ここに来ないほうが良かったかもしれないと思った。

「で⋯⋯その続きをどうぞ」

「はい。私たちの同級生の中にいるんです。今、人見さんが言ったような条件に合う人間が」

「どんな人ですか?」

「ヤマココスーパーの息子です。あいつ、結婚しているし悠希とも仲が良かった。しかも、根っからの女好きでしてね」

「条件がピタリと当てはまりますね。これは、ツモかもしれない」

 ヤマココスーパーは、山形県内の他に宮城県にもある大型スーパーだ。山形県民であれば、誰でも利用したことがあり、知らない県民はいない。

「ちょっと待ってください。その人の家はどこにあるんですか?それが一番大事です」

「たしか、事件現場からそう遠くなかったような⋯⋯」

「どのくらいの距離ですか?」

「三キロぐらいですかね。立派な大きなお家で目立ちますよ」

「それは、怪しいなあ⋯⋯」

 吾朗は腕組みをして呟く。あの日、悠希が会っていたのが男だと断定すれば、北嶋が口にした人物が最も怪しい。さらに、次期社長という地位があり家族持ち。そこに拍車をかけるように、事件現場から自宅が近く、大の女好きとなればもはや疑いの目を向けざるを得ない。ただし、これほどまでに条件に合致するのは恐ろしい気もするが。

「あの⋯⋯人見さん?」

「うん?あ?はいはい、すみません」考え込んでいた吾朗は、現実に意識を戻したあと、訊ねた。「その人はきな臭いですねえ。実に、怪しい⋯⋯にしても悠希さんは昔からああいう人だったんですか?その、罪を犯すような感じの」

「いえ、とんでもない。彼女は頭も良かったし、スポーツも万能でモテました。だからこそ、私は事件の話を聞いたとき、信じられずドッキリかと疑ったぐらいです」

「どこで道を誤ったのでしょうね」

「それは決まっているじゃないですか。あの人と結婚してから、おかしくなったんですよ」

 吾朗は北嶋の強気な発言を耳にすると、笹崎の顔を思い浮かべた。

「そうなんですか?」

「はい。どうやらあの旦那は、自分の地位を利用して、悠希を口説きお金で彼女を釣ったようです。そして、子供もできてしまった」

「ん?できてしまった?」

 北嶋の言い方に、吾朗は違和感を覚え訊ねた。

「これは、こないだ面会したときに聞いた話ですけどね、本当は子供など欲しくなかったと⋯⋯仕事に打ち込みたかった悠希は子供はいらなかったらしいんです。でも、旦那が子供を欲しがっていて、最終的には娘が産まれた」

「ちょっと待ってください。つまり、今の話をまとめると、子供が邪魔だったとも捉えることができますけど。もしかしたら⋯⋯車内に娘を放置したのは意図的だった⋯⋯とか」

「そういう風に考える人もいますから、この話は公にはしていません。いずれにしても悠希が結婚していなければ、こうはならなかったわけで」

 吾朗は北嶋の話を聞いて思った。悠希が口にした、娘を殺したという言葉は嘘ではなく事実だったのではないかと。

 望まない子供を手にした彼女は、ずっと前から怪しまれずに娘を殺す方法を考えていたのかもしれない。不倫をしていたのは、単に火遊びであり真の目的は他にあった、そう考えれば悠希が放った言葉は嘘ではないだろう。

 女ってわからない人種なのよ、と言っていた葉月の声が吾朗の耳に蘇る。女遊びを趣味にしている吾朗は、女性の裏側を知ったような気がすると、鳥肌が立っていた。

「だけど、彼女は娘を殺すつもりはなかったと私は信じています。弁護士としても友人としても⋯⋯」

 北嶋は確信めいた顔で言う。

「そうですか。信じているんですね。なるほど、今日はいろいろお話できて良かった。じゃあ、わたしはこれで失礼⋯⋯」

「ちょっと、待ってください」

 北嶋は立ち上がった吾朗を手で制する。これ以上、吾朗から北嶋に聞くことは何もないし、吾朗はそそくさとこの事務所から立ち去りたかった。しかし、何故か吾朗の腰は、イスに張りついたままだった。

「何でしょうか?」

「もし、良かったら私と一緒に仕事をしませんか?」

「えっ?どういうことですか?」

「ですから、悠希が会っていた人間を探すんです。それで、まずはあいつから話を聞くんです」

 まさかの依頼に吾朗は目が点になり、時が止まったかのようにじっとしていた。

「当然、報酬はお支払いします。私は真実を突き止めて少しでも悠希の刑が軽くなるのを望んでいますから、できることなら何でもやりたいんです」

「まあ、実は私もねえ、彼女を救いたいと思っていました。いいでしょう、お力になれるなら」

 吾朗は心にもないことを平然と口にすると、頭の中は現金の束で埋め尽くされていた。


 目的は違っていても、たどり着くところは一緒。さらに報酬が貰えるなんて、こんな美味しい話はないだろうと、吾朗はウハウハしながら車の中で立派な豪邸を見張っていた。

 この家には、北嶋と悠希の同級生の山仲勉が住んでいる。山仲は妻と子供が一人いるようで、つい数分前には車に乗った妻子が、どこかに出かけて行くのを目にしていた。高級車が数台停車しているのを思えば、ここで彼が両親と同居しているに違いないだろう。

 吾朗はカーポートを眺めながら、いい車に乗りやがって、と羨ましさと嫉妬心を抱いていた。もし、山仲が不倫相手であるなら、笹崎と手を組んで地獄に落とすつもりでいる。復讐に燃えている笹崎が、具体的に何をするのかはわからないが、少なくとも止めることはしない。

 先日、吾朗が北嶋から依頼された内容は、笹崎と同じような依頼だっだので、とりあえず最も怪しいと思われる山仲をターゲットに絞り、彼がどういう生活を送っているのか調べはじめていた。すると、彼はとても次期社長とは思えないくらいのひどい生活を送っているのがわかった。

 山仲は大がつくほどの女好きで、週に四回キャバクラに通い豪遊していることを、葉月の情報網から仕入れ、さらに会社の若い社員と不倫をしていることも突き止めた。

 吾朗は証拠として、ホテルに入っていく山仲を撮影しているので、それを元に彼を追求しようと考えていた。そして時期を見極めた結果、今日山仲と対峙することを決めた。今、自分がやっていることは、代行屋というよりも探偵に近いと吾朗は感じながらも、お金のためなら何でもする道を突き進んでいる。

 ここ、二週間はお金のことを心配せず仕事に励み、夏休みの宿題の代行は、葉月が吾朗に代わって取り組んでいる。ここ数週間、吾朗はデリヘルを呼ぶこと数回。キャバクラに行けば、ドンペリを空けることもあり、山仲と似たりよったりの日々を送っていた。家賃の滞納はきれいに消えて、今では葉月にチップをはずむくらいまで調子に乗っている。面白いように依頼がくることに、吾朗の気持ちはイケイケドンドンで、怖いものなど何もなかった。

 これから数分後に、山仲に会ったあと真実を聞き出す。そして、笹崎から高額の成功報酬をもらう。それからそのお金で、またと吾朗がにやりと口元を緩めたとき、山仲が運転する車が近づいて来るのがわかった。時刻は午後五時前で、吾朗の調べではこのあと彼が不倫相手と会うルーティーンになっている。

 山仲の車が、カーポートに入った途端、吾朗は運転席から飛び出した。そのあと、大股で歩きながら、山仲に近づいて行き彼が車から降りるのを見ると、颯爽と声をかけた。

「山仲さん、こんにちは。どうも」

 吾朗の声に、山仲は怪訝そうな表情を浮かべる。

「はあ、どうも。あの⋯⋯どちらさん?」

「少し、お話しませんか?」

「はい?いきなり何ですか?あなたは誰なんです?」

「まあ、まあ、落ち着いてくださいよ。これからあなたは、ロバーツのミズキちゃん、ジュリアのアイちゃん。それとも、不倫相手のこの人に会いに行くんですか?」

 吾朗はポケットから写真を取り出し、山仲の顔の前にさしだす。そのあとすぐに彼の顔が歪むのを見て、これは勝ったと心の中でガッツポーズをした。

「あなた⋯⋯ゆすり屋ですか?」

「いや、いや。ただの代行屋ですよ。まあ、なんでも屋ですがね。ちょっと、お話をしませんか?」

「もし、嫌だと言ったら?」

「私の知っていることを、ご家族にお伝えしますが⋯⋯それでよければどうぞ」

 吾朗は上から目線で言った。

「あなたは本当に代行屋ですか?何が目的なんです?お金ですか?」

 片っ端から質問してくる山仲を前に、吾朗はそれも悪くないかもしれないと欲がでていた。さすがはお金の持ちの家で育ったことだけはある。きっと山仲はいつも困ったとき、お金で解決してきたに違いない。うらやましいことだが。

 この写真をいくらで山仲は、買い取ってくれるだろうか。だが、そんなことをすれば後ろに手が回ってしまう。吾朗はグレーな仕事や依頼は、遠慮なく引き受けるが、犯罪の匂いが漂うときは手を引くようにしている。もし、ここでお金で解決しようと言えば、山仲は払うだろうが、吾朗は首を振りながら言った。

「お話がしたいだけですよ。悠希さんのことで」

「悠希⋯⋯?」

 山仲は目を見開き呟いたが、その様子は不倫をして痛いところを突かれたというよりも心の底から悠希のことを案じているように見え、吾朗は違和感を抱いた。


「どうして私のことを知ったんですか?」

 吾朗の愛車、ビートルの助手席に座った山仲は開口一番で訊ねた。二人の目の前には、悠希の娘が亡くなったコインパーキングがある。十台ほど停車できるパーキングには二台ほど車が停車していて、どちらかといえばこの住宅街にコインパーキングはミスマッチに近い。きっと、稼働率はよくないだろう。いや、ひょっとすると悠希の事件のせいで、このような状態になったのかもしれない。

「そのご質問には答えられませんが、そうですねえ⋯⋯あえて言うのなら、あなたの同級生の誰かと言っておきましょうか」

「そうなんですか。なるほど」

 山仲は不満気な顔で頷く。

「まあ、お時間もないでしょうから、単刀直入に伺います」

「そうしてください」

「悠希さんの事件は知っていますね?」

 吾朗は圧をかけるように、低い声で言う。山仲はお金があるが、顔は良くない。二十七歳ながら額が広く、あと五年も経てばハゲるだろう。さらに眉毛が南国人のように太く、つながってしまう一歩手前で、口が避けてもイケメンとは言い難い。

 あきらかに自分より下に見ている吾朗は、無意識に高圧的な態度をとっていた。

「もちろんです。どうして悠希が⋯⋯って思っていますよ。とても信じられません」

 山仲は神妙な顔で言った。もし、これが作り顔だったら彼は役者になれるだろう。

「私はね、事件があったあの日の悠希さんの行動を調べています。もちろん、ある人からの依頼になりますが」

「代行屋の仕事というのは幅広いんですね。そういうのって、探偵や警察がやるべき仕事でしょう?」

「まあ、そうですけど。私はお金、失礼⋯⋯依頼があれば何でもやる代行屋です」吾朗はさも当然かのように言うとさらにつづけた。「それで、あの日悠希さんが会っていたと思われる人を探していたら、あなたが浮かび上がってきましてね。実際どうなんですか?あなたは悠希さんと会っていましたか?」

「悠希がそう言っていたんですか?私と会っていたと⋯⋯」

 山仲の探りをいれるような言い方に、吾朗はどういう手を使おうか考えはじめる。彼の見た目と直感から感じた性格を考えれば、山仲は気が弱く押せば何でも答えてくれるだろう。だが、こういう男に限って自分に不利になることは言い訳をして逃げる。きっと知らないと言って、本当にやばくなったら、金で解決しようとするのだろう。であれば、こちらはとことん脅して見るのも悪くない。依頼主の笹崎のためにも、多少のフラグを張るのもありだ。

 吾朗はタバコに火を点けると言った。

「はい。言っていましたよ。あなたとはそういう関係だったと」

「え?マジかよ⋯⋯」山仲は吾朗の言葉に即反応すると、助手席に沈めていたお尻を浮かせながらさらに言う。「⋯⋯たしかに、私と悠希はそういう関係でした。認めます」

「ほお、ほお。いつから不倫を?」

 吾朗はこれほどまでに上手くいったことに拍子抜けそうになった。

「あれは、今年の一月のことです。たまたま、同窓会があって、久々にそこで盛り上がってしまって⋯⋯ずるずると今までそういう関係を続けてしまいました」

「じゃあ、あなたは悠希さんと会社の若い子と不倫を?」

「ですね⋯⋯」

「元気ですね。まあ、若いから仕方ないか」

「わかってるんです。自分に言い寄ってくるのは、金が目当てだってことぐらいは。そんなにイケメンじゃないし」

 そのとおり、ごもっとも、と吾朗は山仲に言おうと思ったが、自覚がある人間に対してさらに地獄に落とすようなことはまではしたくない。

「私はね、高校の頃から悠希に好意を抱いていて、何度も告白したんですが、ずっと断られていました。それが時を経て、仲良くなって関係を持つようになり、楽しかったんです」

 よくある話だ。初恋の人と同窓会で再会し、盛り上がった二人は下半身まで膨れ上がりその日にベッドイン。そして、泥沼の不倫へ発展。吾朗は正直、羨ましいと思った。どうして、こんなブス男が甘い蜜を吸って、自分は何もないのかと。

「なるほど。ずっと好きだった人と一緒になれて、さぞ楽しかったでしょうねえ。たとえ不倫だとしても嬉しいでしょう。そうか⋯⋯やっぱりそうか。あの日、悠希さんと会っていたのはあなただったんですね?」

「それはちがう!私は、あの日⋯⋯彼女と会う約束はしていたが、会っていない!」

 山仲は人が変わったように声を張り上げ否定した。彼のその表情は、真剣そのもので必死感が伝わってくる。吾朗は、咥えタバコで彼を見つめながら、嘘をついているようには思えなかった。だが、だからといって、はい、そうですかというわけにはいかない。こっちは、お金がかかっているのだから。

「そうやって言い逃れをしても無駄ですよ。たった今、あなたは不倫を認めた。誰がどう考えても、あなたと悠希さんはあの日会っていたと思うでしょう」

「私じゃない!断じて違う!」

「こんなことを言うのは、気がひけるんですがね、実はある人が悠希さんと会っていた人に復讐をするつもりでいます。私は、その復讐に力を貸すために、こうして動いているんです。その人の恨みは根強く、法律で裁けないのなら自分の手で地獄に落としてやると息巻いていますよ。ただし⋯⋯そうですね。あなたが、反省し本当のことを正直に言ってくれるのであれば、私もそこまで鬼ではない。上手くごまかしてもいいんです。さあ、どうしますか?」

「そんなことを言われても、私じゃない」

「まだ、否定するというわけですか。私が持っているカードを世間に広めたらどうなると思いますか?正直に言ったほうがあなたのためですけど」

 吾朗は頑なに否定する山仲に苛立ちが募り、タバコを灰皿に押しつぶした。

「ですから、本当に私じゃありませんよ。それにあの日私は一日、本社にいましたからそれを調べてくれれば⋯⋯」

「そんなこと誰が信じるっていうんだ。いいか?何の罪もない幼い女の子が亡くなったんだぞ。無責任の大人のせいで、とんでもない馬鹿な欲のせいでな。あなたは心が傷まないのか?心のある人間なら素直に認めたらどうだ」

 吾朗は話しを遮ると、早口でまくしたてた。もちろん、不倫をしていたのは、悠希なので彼女にも責任があるのは当然だが、この男も同罪に値するだろう。山仲も間接的にではあるが、小さな女の子の命を奪ったのだ。

「正直に言ったらどうだ」

 吾朗は自分でも驚くくらい、頭に血が昇っているのを意識すると笹崎がしようとしている復讐に賛同し、自分も制裁を加えたい気持ちが強く湧き上がってきていた。

「だから⋯⋯俺じゃないですよ。信じてくださいよ」

 山仲が懇願するような声を出す。

「そんなことを言われてもなあ⋯⋯信じられるかよ」

「聞いて下さい。悠希は俺以外にも不倫していたかもしれないんです」

「馬鹿なことを言うなよ。ここまできてよくもそんな嘘がつけるな」 

 吾朗は呆れを通り越し、ここまで頭が回る山仲に感心を抱くほどだった。

「だって、前にホテルで一緒だったとき、彼女が誰かと電話をしていて、それを盗み聞きしたことがあったんです」

「はい、はい」

「聞いて下さいよ。で、悠希は今日これからな会える、大丈夫って言ってさらに娘ならなんとかするから、先生に会いたいって口にしてたんです。それからすぐ、悠希は逃げるようにホテルを後にしました。私は、そのとき、ああ悠希は他にも誰か相手がいるんだと思って⋯⋯ショックでしたけど、結局そのことを追求することなく、関係を続けていました」

「ちょっと待て。今、先生って言ったな?」

 吾朗は驚きを隠さず訊ねた。

「はい。彼女は間違いなく先生って言ってました」

 山仲がこくりと頷く。吾朗は山仲がここまで責められてもまだ、言い訳を並べ逃げ続けていると思ったが、先生というフレーズを耳にして、山仲の言動に信憑性があるかもしれないと考えはじめていた。なぜなら悠希は、看護師をしていて先生と呼ぶような人との不倫を否定できないからで、さらにいえば彼女が、口がさけても言えない不倫相手が笹崎の同僚だとしたら、山仲が言っていることは筋が通る。悠希があの日会っていたのは、医師だったのかもしれない。だが、吾朗は心に何かが引っかかるのを覚えた。たしか、笹崎が自分で探偵を雇ったとき、医師と不倫しているという事実はなく、本人もそれについては自信を持っていた。同じ職場内での不倫は、リスクが高くもしバレないとしても、噂ぐらいは広がるはずで笹崎の耳にも届くだろうということを考えれば、やはり山仲は口からでまかせを言っている可能性がある。

 吾朗は腕を組み、逡巡しながら外に目をうつすと、白いベンツが一台横を通り過ぎていった。一応、吾朗の車も外車だが、その差はかけ離れている。

「ちなみに、あんたが言っていることが本当だとして、誰か心当たりはいないか?その⋯⋯悠希さんとの会話の中でポロッと口が滑ったようなことはなかったか?」

「うーん⋯⋯って自分たちはすぐにベットインでして、会話っていうのはちょっとないですかね」

「まるで、デリヘルみたいな関係だな」

 吾朗が馬鹿にするように言うと、山仲は恥ずかしそうにポリポリと鼻の先をかく。おそらく悠希は、山仲のことを金の成る木と性欲のはけ口ぐらいにしか思っていなかったのだろう。それとも山仲が、顔に似合わないAV男優並のテクニックを持っていて、そのテクニックに溺れてしまったのか。

「あんた、本当にあの日、悠希さんに会っていないんだな?もし、あとでこれが嘘だったら只じゃすまないけど」

「絶対に、絶対に違います。信じてください」

「嘘をついていたのがわかったら、あんたの不倫写真を奥さんに見せるがそれでもいいんだな?」

「はい。そのくらい自信を持って言えます」

 吾朗はカーナビの灯りが反射して浮かび上がってくる、山仲を凝視しながらはじめに会ったときに見せた挙動不審が消えているのを確かめると、彼がグレーでも黒でもないような気がしていた。

 このままでは、振り出しに戻り再調査をしなければならない。笹崎から貰うはずの成功報酬が遠のいていく。

 吾朗は自分が思い描いていた楽しみが、手からすり抜けていくのを思うと舌打ちがでそうになっていた。そのイライラを隠すように、吾朗はタバコを咥えたとき、山仲がおそるおそる口を開いた。

「あっ⋯⋯でも一度だけこういったことがあったのを思い出しました。私は、高校時代あなたに告白されて断ったのは、ずっと好きだった人がいたからだって。で、その人と今いい感じで、まるで初恋した少女みたいなのって笑ってました。その人は誰って聞いたんですけどね、内緒よと言われ⋯⋯それっきりでした。だから、おそらくその先生というのは、その人かもしれません」

「あんたの同級生で医師になった人は?」

 吾朗は食い気味に訊ねた。ここまでくると、悠希が呼んでいた先生という男が最も怪しい気がして、そこから何か掴むことができないか期待を抱く。

「医師ですかあ。どうかな⋯⋯」

 山仲が唸りながら考えはじめる。その表情は自分の冤罪を晴らそうとする容疑者そのもので真剣だった。

 しばらくの間、車内に沈黙が流れる。山仲は、考える人のように顎に手を当て固まっていたが、吾朗はこれ以上彼からは何も得られないだろうと思い直した。

「いないならいい。でも、もし今後思い出したら⋯⋯」

「あ!いますよ!先生って呼ばれる人が」

 山仲が助手席のシートから、落ちそうになるくらい興奮気味に言った。

「それは、医師か?学校の先生か?まさか⋯⋯議員とか?」

「いいえ、違いますよ」

「じゃあ、なんだ?」

 吾朗はもったいぶる山仲に、苛立ちを隠しきれず強く訊ねた。

「演歌歌手ですよ。同級生に一人演歌を歌っている奴がいるんです」

「あんたな⋯⋯」吾朗は馬鹿馬鹿しい答えに四十年生きてきて、初めて殺意を覚えた。そして、それは自分でも驚くくらいあっさりと声にでていた。「殺してやろうか。滅茶苦茶に」


       4


 気づけば暑すぎた八月が終わり、九月になっていた。しかし、異常なくらい夏は今も続いていて残暑どころではない。

 相変わらず、人見事務所には扇風機が強烈な勢いで首を振っていて、エアコンはついていなかった。

 吾朗はタオルで首にまとわりつく汗を拭いながら、笹崎がやって来るのを待つ。もちろん、彼に会う目的はここまでの経緯を報告するためだ。山仲と会ってから吾朗は、悠希の知人などに声をかけ、情報を集めようとやっきになったが、全くといっていいほど手がかりがなく、お手上げの状態だった。

 悠希は誰に対しても、自分の私生活を話さなかったようで、尻尾をつかむことができない。さらに彼女は警戒心が強かったらしく、特別に仲が良い友人や同僚は見当たらなかった。そのため、吾朗は白旗をあげる前に、もう一度だけ弁護士の北嶋に相談をしてみたが、彼は悠希が会っていたのは山仲以外有り得ないと、強く言い切り何とか山仲に吐かせるよう吾朗に念を押していた。

 しかし、吾朗はどうにも自分が追っている人間が、見当違いのような気がして、もやもや感が胸に広がっていくのを意識していた。しかも、山仲が否定したあの目を思い出すと嘘を言っているようには思えず、だからこそ吾朗は今になって悠希が会っていたのは、不倫相手ではなく本当に友人だったのではないか、そう思うようになっていた。いや、もしかすると誰かと会っていたという話こそ嘘なのかもしれない。ただ単に、悠希は子供の存在が邪魔だったから、娘を殺した可能性も否めない。平然と複数の男と不倫をするくらいの女なのだから、嘘の証言をして罪を逃れようとしていることも考えられる。

 いずれにしても、吾朗はここまで調べてきたことを包み隠さず、笹崎に伝え今後の道筋をたてようと思っていた。

 もし、調査が打ち切りになってしまい、成功報酬を得られなくなるのは痛いが、少なくとも悠希が不倫をしていた事実は掴んだのだから、それで納得してもらいたい。

 吾朗がそうしたことを頭の中で考えていると、いつの間にか電話に出ていた葉月がメモ帳に書いた文字を吾朗に見せた。

『依頼!父親役、顔合わせ、受ける?』

 吾朗はさも当然かのように、右手でオーケーサインを作る。今は、どんあ依頼でも受けるしかない。五十万円という大金が逃げていくのだから。

 葉月は、吾朗のサインを見るとすぐに日時や場所、父親の年齢などの条件をヒアリングしはじめた。

 人見代行ではこうした出席代行のために、人材を抱えていて父親役や母親役はもちろんのこと、兄弟、姉妹、上司、部下など幅広く取り扱っている。そうした代行役の人たちは、小遣い稼ぎがメインで、ネット登録のため吾朗が会っていない人も多い。代行出席は何度も依頼を受けたが、今までトラブルになったことはなく、逆に感謝されることのほうが多いので、吾朗は喜んで依頼を受けていた。

 吾朗が葉月の会話に耳をたてていたとき、入口のドアが開き笹崎が顔を覗かせる。その瞬間、彼は事務所内の暑さに顔を歪め、エアコンぐらいつけろよと文句を言いたそうにしていた。

「どうも、こんにちは。こちらにどうぞ」

 吾朗は事務所に一つだけある来客用のイスに笹崎を促し、自身は安物のキャスター付きのイスを笹崎の前まで転がした。

「しかし⋯⋯ここは暑いなあ。まるで、サウナだ」

「すみません。エアコンの風が苦手なもんで」

 吾朗はもっともらしい嘘を吐く。

 イスに座った途端に、笹崎は半袖の白いワイシャツの胸元をパタパタとさせながら吾朗を見つめた。彼は今日もビシッと決めていて、オールバックにしている髪の毛はジェルで輝いている。そして、その輝きは笹崎の瞳にも浮かびあがり、彼はきっといい報告が耳にできるものだと思っているに違いなかった。

「それで、どうだった?何かわかったことはあったか?ちょっとこれから病院に戻らないといけないから手短に頼むよ」

 時計の針は午後一時を過ぎている。午前の診察が終わってから、ここに来たのだろうか。

 吾朗は、あきらかに前回より機嫌のいい笹崎にどう打ち明けようか迷ったが、ここは素直に伝えることに決めた。回りくどい言い方はせず、バットニュースファーストで。

「実はお手上げ状態です」

「はあ?」

 笹崎は目を大きく開き、素っ頓狂な声をあげた。また、その短い言葉の中には、貴様は今まで何をしてきたのかという、批判が含まれているように吾朗は聞こえてならなかった。「すみません。あの日、悠希さんが誰と会っていたのか、全く目星がついていません。ただし⋯⋯」

「だだ、何だね?言いにくいことでも言ってくれ。それなりの覚悟はある」

「わかりました。では、悠希さんがある人と不倫をしていたという事実は掴みました」「それは朗報じゃないか」

 笹崎は、満足そうに言うと息を吐いた。

「しかし、その人は事件の日に悠希さんと会っていないと言っているのです」

「なにを⋯⋯そいつが嘘をついているんじゃないのか?」

「私もはじめはそう思いましたが、彼は白でした」

 吾朗は嘘を吐いた。実際、山仲の行動など調べていないし、彼が白だと判断したのは、吾朗の勘によるものだった。

「それでも、彼の話から悠希さんがもう一人と不倫していたということを知りましてそいつが怪しいと思っています。しかし、その人物が誰なのかわからず、行き詰まってしまいました。彼女の同級生などにも話を聞きましたが、全く何も出てきません」

「そうか⋯⋯つまり、悠希は複数の男と不倫していたことになるな。なんて女だ⋯⋯」

 笹崎はショックを通り越し、呆れた笑みを浮かべていた。その表情は、自分に対して馬鹿な女と結婚した自分を嘲笑っているようにも思える。

「あいつはな、どうしても先生と結婚したいって迫ってきたんだ。子供もできれば二人くらい欲しいわよねなんてことも言ってたくせに。まあ、何か含みがあって私に近づいたことは薄々感じていたが」

「え?ちょっと、待ってください」

 吾朗はぐっと身を前のめりにして訊ねた。

「どうした?こんなおっさんの愚痴など聞きたくないか」

「いや、違います。あなたと悠希さんの馴れ初めですけど、あなたが悠希さんを気に入り近づいたのではないんですか?」

「なに馬鹿なことを言ってるんだ?私は自分の年もあるし、若い女に手を出すわけないだろう。それに、医師が看護師に言い寄るなんて、みっともないだろう。まあ、中には不倫してるようなやつもいるがな」

「じゃあ、子供は?あなたが欲しいと言ったのでは?」

「ありえない。五十歳を前にしている私に、夜の生活を頑張れる体力はない。だからこそ悠希は、他の男と寝たのかもしれない」

 笹崎は大きな手を顔の前で振りながら否定した。彼はその手で何人の患者を診てきたのだろうかと、思いながら吾朗は話の食い違いがあることを実感していた。

 たしか、北嶋と話したとき彼はこう言っていたはずだ。悠希が道を間違えたのは旦那のせいで、しかも子供を欲しがったのは笹崎だったと。

 何故、ここまで話が違うのだろうか。吾朗は疑問が脳裏をよぎる。

 悠希が自分のことを大きく見せるため、北嶋に虚勢を張ったのだろうか。本当に私ってモテるから仕方ないのよね、そう言わんばかりに。もし、そうであるのなら、それは彼女のプライドだったのだろう。過去の自分を知る数少ない人間に、今も私はこうなのよと示したかったに違いない。だが、そんなどうしようもない見栄を張ったところで悠希が得をするとは思えない。ということは、もう一つの考えが吾朗の頭に浮かび上がる。あの話は北嶋が、独断で悠希の心情を代弁したのではないか。つまり、事実ではなくそうだと思うくらいの想像の話だ。

 彼は弁護士としての考えよりも、同級生として悠希への思いが強くなり、少しどころかほとんど憶測でものを言ったのだ。それは、彼女を何とかしてやりたいという気持ちが強かったのだろう。それでも、なにかがおかしいと吾朗はクエスチョンが目の前に広がっていく。

「どうかしたか?」

 笹崎が吾朗の様子に不思議がり、顔を覗き込む。

「あ、いえ⋯⋯なんでもないです。すみません」

 それから数分、二人の間に沈黙が流れていると、葉月の声が事務所内に響いていた。彼女は未だに電話中のようで、時折笑い声をあげ客の心を掴んでいるのは、考えるまでもなかった。さすが、接客のプロ。キャバクラでの経験がここで活かされているとは頭が下がる。

「えっと、話は変わるんですが、悠希さんが病院内の人間⋯⋯つまり医師や先生と呼ばれる人と不倫していた噂は本当になかったんでしょうか?」

 吾朗は、笹崎に聞かなければならない質問を投げかけた。たが、その答えはあっけなく彼の唯一の希望はいとも簡単に砕けた。

「ない。前も言ったがこれは自信を持って言える」

「そうですか。だと、本当に困りましたね」

「その不倫していたやつの名前を教えてくれないか?直接話しを聞いてみたい」

「いや、それは勘弁してください。それに笹崎さんの目的は、事件の日に会っていた人への復讐ですよね。彼は白ですから関係ないですよ」

「お金を積んでも駄目か?」

 吾朗はその魔法の言葉に心が揺らぐのを感じていたと同時に、笹崎が完全に自分のことを見抜いていると確信を抱く。山仲には悪いが、ここは自分の生活のために彼の名前を明らかにしても止む得ないだろう。現に、彼は不貞を働いていたのだから罰を受けても仕方ない。しかし、吾朗はためらいが胸を掠めると、素直に山仲の名前を口にだせないでいた。自分にも代行屋としてのちっぽけながらもプライドがあるし、プロ意識は持っている。そして、その精神こそが今まで代行屋を続けてこれたバックボーンになっているのは間違いない。

「そうか、やっぱりあんたは、信頼できる人間なんだなあ。よし⋯⋯いいだろう。追加で三十万円払う。何とかしてくれ。もちろん結果が出れば、成功報酬も払う」

「ちょっ待ってください。次の一手が見つからない以上、いくらお願いされても⋯⋯」

「それを何とかするのがプロだろう?」

「そうですが、しかしー」

「あんたは独身か?」

「はい。そうですけど⋯⋯」

「バツはついてるのか?子供はいるのか?」

「お恥ずかしながら⋯⋯いません」

 吾朗は笹崎の質問の意図が読めず首を傾げる。四十歳で未婚など、このご時世で珍しくないはずだが、馬鹿にしたいのだろうか。

「この件が解決したらな、合コンをセッティングしてやろう」

「合⋯⋯コンですか」

 吾朗はごくりと唾を飲み込む。

「しかも、相手はナースだ」

「ナース!」

「若くてピチピチのな。だから何とかしてくれ」

「わかりました!私は、依頼人のためなら決して諦めない男です。いや、諦めの悪い男です。必ず結果を出してみましょう」

「よし⋯⋯そうこなくちゃな。頼むぞ」

「あの、できれば巨乳の看護師をお願いしたいんですが⋯⋯」

 吾朗がそこまで言ったとき、葉月の席の方から机を叩く大きな音が聞こえた。彼はおそるおそる、受話器を耳にしている葉月に目を向けると、彼女から発せられている殺気を感じた。あんたね、私を差し置いてナースと合コンするの?ふざけんじゃないわよ、という心の声が吾朗の体を縮こませる。

 吾朗は葉月から目を背けると、口元を隠しながら言った。

「笹崎さん⋯⋯Dカップぐらいの女の子がいいんですけど」

 笹崎は軽く頷いたあと、何故か左目を瞑りウィンクをして、イスから立ちあがった。その茶目っ気のある彼の仕草に、吾朗は初めて、笹崎に親近感を覚えていた。


「吾朗ちゃん。シャンパン飲みたーい」

 葉月の甘い声がフロアに響き渡る。吾朗は、仕事が終わると葉月と同伴し、キャバクラエンジェルを訪れていた。もちろんその目的は、拗ねている葉月の機嫌をとるためだ。

「はい、はい。どうぞお飲みになってくださいな」

 吾朗二つ返事で言う。笹崎と会った翌日の今日は、木曜日に関わらず店内は賑わいを見せている。しかも暑さもあってか、大量のビールが各テーブルに並べられ、客たちは美味しそうに喉に流し込んでいた。

「それで、吾朗ちゃん。昨日の話だけど何か策はあるわけ?」

 赤いドレスに身を包ん葉月が訊ねた。胸元谷間がやけに強調されているのは、誘っているからなのだろうか。ああ、自分の顔をうずめたいと吾朗は鼻の下を伸ばす。

「策ねえ⋯⋯正直ないよ。どうしたらいいかわからん」

「それじゃ、駄目っしょ。まあ、ナースと合コンができなくなるのはいいことだけど。私は吾朗ちゃん命だしね」

「それって、マジなの?」

「マジ、マジ」

「ふーん。じゃあ、俺のどこがいいわけ?」

 吾朗はビールを口に運ぶと言った。

「優しいところ、怒らないところ、笑顔がかわいいところかな」

「なんか薄くない?そんなの俺じゃなくても他でいるだろう」

「うん。そうねえ」

「おい!認めるな!」

「でもさ、悠希さん⋯⋯大した人だねえ。複数の人と不倫をしちゃってさ。一人ならまだしもっていうかさ、さらに調べていけばまだまだでてきたりして」

 葉月が呆れるように言ったとき、ボーイがシャンパンを運んでくる。彼は律儀にもシャンパンラベルを、吾朗に見せると慣れた手つきで封を切り、グラスに注ぐ。

 吾朗はその様子を見つめながら、これからどういう手を使おうか思案しはじめる。すでに、思い当たるところにはアプローチしているし、再び訪ねに行ったところでこれといって収穫見込めないだろう。

だからといって、誰かあらたな登場人物が現れそうな気配はない。唯一気がかりなのは山仲が言っていた、先生と呼ばれている人物だが、その人物が誰なのか目星はついていない。笹崎の周りにいる医師でもないとすれば、果たしてその人物は誰なのか。まさか、山仲が最後に口にした演歌歌手か。

 そんな馬鹿なと、吾朗は一人苦笑いを浮かべその考えを頭から消し去ろうと、首を激しく横にする。

「吾朗ちゃん。何してんの?飲むよ、飲むよお!」

 吾朗は強引に葉月からシャンパングラスを押し付けられる。五万円ほどのシャンパンは、グラスの中で輝きを放ち、とても美味しそうだ。とりあえず、今日は頭をクリアにするためにも、仕事のことは忘れて飲んで楽しもう。

「よし、乾杯だ!」

 吾朗が自分の頭の上にグラスをかかげると、葉月がつづいて言った。

「じゃあ、乾杯!」

「うぃー飲め、飲め!」

 二人はグラスをぶつけると一気にシャンパンを飲み干す。

「美味しい!もう一杯ちょうだい!」

「俺も、俺も」

 吾朗は久々に飲んだシャンパンの味と、シャンパンを注文した優越感に浸り、ご機嫌な顔を浮かべた。さらにその流れで、今日こそは葉月とベットイン、と想像を膨らませていた。

 しかし、乾杯のタイミングを計っていたのか、ボーイが吾朗のテーブルに近づき言った。

「葉月さーん。お呼びですー」

「は?なにを?」

「大丈夫よ。ちょっとしたら戻って来るから。ちゃんとシャンパン残しておいてよ」

 葉月は胸の谷間を整えると、立ち上がり他のテーブルへ移った。彼女はここでそれなりに指名が多い売れっ子キャストだ。きれいな見た目だけではなく、話術や気配りといったことが自然とできるのが、葉月の人気の理由であり、指名をしてくる客の年齢層は幅広かった。今日も、彼女はお金を持っていそうな雰囲気の客の隣に腰をおろし、早速ドリンクを注文していた。まあ、あの程度なら俺のほうが上だろう。

 吾朗は少し勝ち誇りながら、シャンパンに口をつける。

「こんばんは。お隣失礼しますね」

 葉月がいなくなってから、一分も経たない間にヘルプの女の子がやってくる。彼女は水色のドレスを着ていて、透き通るような長い黒髪とEカップくらいありそうな胸元が、印象的だった。顔も葉月ほどではないがかわいらしい顔をしている。

「葉月ちゃんのヘルプですけど、よろしくお願いしますね。ナオです」

「ナオちゃんかあ⋯⋯よろしくね。俺は⋯⋯」

「人見さんですよね?人見代行の」

 ナオは吾朗の先回りをして言った。

「あれ?どうして俺の名前を知ってるの?俺って有名人かな?っていうか、ドリンク頼んでもいいよ。シャンパンはちょっと遠慮してもらうけど」

「ありがとうございます。お願いしまーす」

 ナオはボーイを呼ぶと、シャンディガフを注文した。

「で、どうして知ってるの?」

「あ、あのですね、葉月ちゃんにアリバイ会社を依頼したのは私なんですよ」

「そうだったんだ。だからかあ」

 吾朗は合点のいった表情で声をもらした。

「ええ。よろしくお願いします。無理を言ってすみませんけどね」

「いや、いや。任せなさい!人見代行はいつでも依頼主の味方です!」

「そう言ってもらえると心強いですね。安心してお任せできますよ」

「うん、うん」

「人見さんってこうして近くで見ると、とっても素敵な人ですね。葉月ちゃんが熱心になるのもわかる気がする」

「そう?わかる人にわかるもんだなあ」

 吾朗はまんざらでもないように言うと、大げさに足を組み直しタバコを咥える。その瞬間、ナオがライターを手にし火を点け、流れるよう灰皿を置いた。その彼女の無駄のない動きに、吾朗は感心しながら紫煙を吐く。ナオは二十五歳ぐらいだろうか。そうすると、長くても三年ぐらいは、この業界にいるに違ない。だが、ここで年齢の話や働いている年数を聞くのは失礼だ。彼女たちが何かしらの事情を抱えているのは、聞かなくても想像ができる。さらに、ナオに限っていえばバックにヤクザがいるというのだから、お触りなどもっての他で、変なことは口にできないだろう。

 ボーイがシャンディガフを運んでくる。そのあと、二人は乾杯をすると、ナオは言いづらそうにしながら声をひそめ訊ねた。

「人見さん。仕事のことで質問してもいいですか?」

「どうぞ。答えられる範囲で答えるけど」

「ヤクザの仕事を引き受けたりできますか?」

「ず、随分直球なことを聞くね」

「フフフ。回りくどいのは時間の無駄ですから」

「どんな仕事?まさか、カチコミとか?」

「さあ、そこまではわかりませんが、ただどうなんだろうって」

「内容にもよるけど、まあ基本的には前向きだよ」

 吾朗はアルコールで気分がよくなり、偉そうに言った。

「じゃあ、たとえば、こういうのは⋯⋯あっ」

 ナオは話の途中で、入口に立っている人に気づくと、驚きの声をもらした。

「ん?どしたの?」

「噂をすればってやつですね」

「ということはあちらはヤクザさん?」

 吾朗がちらっと入口に目を向ける。そこには見ただけでヤクザとわかる格好の男ともう一人、サラリーマン風の男が立っていた。

「うん、そうよ」

「もう一人の方は?ヤクザには見えないけど」

「あ、あの人はちょっと有名な先生よ」

「へえ。先生かあ⋯⋯ん?ちょっと待って!」

 吾朗は自分でも驚くくらいの大きな声をだした。

「え?どうしたんですか?もしかして、知ってる人?」

「いや、まさか。今さ、ナオちゃんはあの人のこと先生って言ったよね?」

「はい。言いましたけど。それが?」

「彼は何の先生?医師?教師?議員とか?」

「何言ってるんですか。フフフ」ナオは口元を緩めながら笑い、シャンディガフに口をつけてさらに言った。「あの人は、ヤクザ専門の⋯⋯」

 吾朗はナオの次の言葉を耳にしたとき、心のなかで霞んでいた靄が徐々に晴れていくのを感じはじめた。そして、自分が間抜けな大きな勘違いをしていたことに気づくと、悔しい気持ちと同時に、自分をはめようとした相手に怒りがこみあげてきていた。

 それでも吾朗は、自分を落ち着かせるため、シャンパンを豪快にラッパ飲みした。

「よし。ナオちゃん!シャンパンをもう一本入れよう」

「え?でも、私はヘルプでついているだけだし悪いですよ」

「いいんだよ。ナオちゃんのお陰で、恥をかかずにすんだんだから、じゃんじゃん飲もうよ」

「じゃあ、お言葉に甘えまして⋯⋯いただきます!お願いしまーす」

 吾朗はナオの透き通る声を聞きながら、改めてシャンパンを喉に流し込んでいた。


 一週間後。

 吾朗はある男を、事務所に呼びだしていた。九月に入り、徐々に涼しくなってきているものの、陽射しは強く今日も三十度に迫る暑さだった。

 珍しく吾朗は、エアコンのスイッチを入れて、首を長くしながら必ず地獄に落としてやろうと意気込んでいた。

 事務所の壁掛け時計が、午後一時を過ぎたとき入口のドアが開く。ついにやって来たか。これから何が起きるとも知らずにノコノコと。

 吾朗は愛想のいい表情浮かべながら迎えいれる。

「どうも、どうも。急にお呼びして申し訳ないですね⋯⋯先生。こちらにお座りくださいな」

「いえ、とんでもない。私も話があったのでちょうど良かったです」

 北嶋はそう言うと、イスに腰を降ろした。彼はいつもの余裕たっぷりの顔で、吾朗はそれが無性に腹が立った。

「じゃあとりあえず、先生の用件から聞きましょうか」

「はい。実は、悠希さんの次回公判が決まりましてね」

「ほお、そうだったんですか」

「次は九月二十五日になりました。それで、人見さんにお願いしていた件はどうなったかなと思いましてね。山仲は吐きましたか?」

 北嶋が机の上にノートを広げ、メモをとる態勢を作る。すると、そこにタイミングを見計らった葉月が、アイスコーヒーを二つ運んできて二人の手元に置いた。今日の彼女は短いスカートを履き、今にもパンツが見えそうだ。多分、Tバックを穿いているに違いない。

「あ、ありがとうございます」

 おじぎをした北嶋を尻目に吾朗は、ぽつりと言った。

「ええ。吐きましたよ。たっぷりとね」

「本当ですか!やっぱりあいつが悠希と⋯⋯」

「いや、そうじゃない。あんたが、悠希さんと仲が良かったと吐いたんだ」

「はい?何を言ってるんですか?」

 北嶋は言葉の意味がわからないのか、きょとんとした顔で固まった。

「あんただろ?あの日、彼女と会って、不倫をしていたのは。あんたは、彼女を呼び出し子供を車内においたままホテルに行ったんだろ?違うか?」

「な、何を言ってるんです?」

 北嶋は冷静さを保とうとしていたが、明らかに声は上ずり動揺を隠し切れなかった。

「知らない振りをしても無駄だよ。たしかに、あんたが言うように山仲と悠希さんは不倫をしていた。それは認めたよ。そして、事件があったあの日も、夕方頃から会う予定をしていたらしい。ただ、彼は悠希さんから他にも不倫相手がいることを聞かされていて、その人は彼女にとって恋い焦がれていた人だった。なにやら、彼女が高校時代から好きだったという人らしい。俺はそれを調べたら、あんたの名前が浮かび上がってきたんだよ。あんたの同級生はみんな言ってた。高校のとき、悠希さんはあんたのことが好きで仕方がなかったとね」吾朗はそこまですらすらと言うと、タバコに火を点けた。「きっとあんたたちは、同窓会で再会したのをきっかけに不倫をはじめたんだ」

「⋯⋯馬鹿な話を」

「しかも、あんたが悠希さんに近づいたのは彼女と楽しむこともあったと思うが、全てはお金目当てだった。彼女の旦那が医師だと知って、さらに稼ぎを悠希さんがたんまり貯め込んでいるのを聞いて、お金に目がくらんだんだろう。いくらもらったんだ?あんたは悠希さんからもらったお金で、女遊びをしていたんだよな。山仲も相当な女好きだが、あんたはもっとだな。言い逃れはできないぞ。うちにはキャバクラで働いている優秀な女の子がいてね、その子の情報だとあんたが半端でない遊び方をしているのをつかんでいる。このまま続けていたら、奥さんに逃げられると思うが」

 吾朗は咥えタバコで胸ポケットから、数枚の写真を北嶋の前に放り投げた。その写真は彼がキャバクラの女の子と手を繋いているところが映されていて、中には酔っ払った北嶋が女の子に抱きついている写真もある。

 北嶋は一瞬、眉間に皺をよせ写真を睨むと、吾朗の後方にいた葉月に視線をやった。

「さて、今からあんたの最も気に入らないところを言うから、ちゃんと聞けよ。たしかに、あんたは弁護士だけあってとても勘がいい。それは、悔しいが認める。だから、あんたは俺が訊ねて行ったときいろいろ聞かれてこう思ったんだ。きっとこの男は悠希さんの家族から何か依頼をされたんじゃないかとね。あのとき俺は、自分の興味でと濁しあんたもすんなりと引き下がった。だが、あんたの腹の中は違っていた。きっとこのままでは、自分に辿り着いてしまい、全てがバレてしまうと焦ったんだ。だから、俺に嘘の情報を流した。いや、山仲が不倫をしていたのは事実だから嘘とは言えないか。まあ、どちらにせよ俺に協力的になったのは自分から目を逸らすためだったんだろうよ。しかし、危なかったよ。俺も、あんたに騙されるところだった」

 吾朗は一服したあと、アイスコーヒーを口に含んだ。エアコンが効いているおかげで、アイスコーヒーはキンキンに冷えている。

 腕を組んで黙って聞いている北嶋は、被告人質問で検察出方を伺っている弁護士そのものだった。

「それから?あとは?」

「それで、あんたは俺に山仲の情報を渡し、いかにもあの日山仲が悠希さんと会っていたというストーリを作ろうとした。が⋯⋯ひとつだけ穴があった」

「穴ねえ」

「悠希さんは不倫相手のことを名前では呼ばずに、先生と言っていたんだよ。おそらくこれはあんたの知恵だろう。あんたは山仲の前や旦那さんの前で自分の名前を出るのを恐れて、自分のことを先生と呼ぶように決めていたんだ。もちろん、それは不倫相手を特定されないためだったと思うが、他にも理由はあった」吾朗はタバコを灰皿に捨てると、さらにつづけた。「それは、悠希さんが働いているところが病院だったからで、先生といえば真っ先に思い浮かぶのが、医師だからだ。つまり彼女が万が一、他人の前で口を滑らせたとしても、疑いがかかるのは病院関係者ということになる。あんたは、それを狙ったんだろう。しかし、それが穴だった。悠希さんの周りには、先生と呼べる人で初恋のような昔から恋い焦がれていた人はあんた以外に考えられないからだ。それにここまで、自分のことを調べ上げられるとは思いもしなかったよなあ」

「面白い想像だなあ。なるほど」

 北嶋が独り言のように呟く。

「だからあの日、悠希さんと会っていたのはあんただ。あんたしかいない。そうだろう?」

 吾朗は確信を抱きながら訊ねた。しかし、北嶋は余裕たっぷりの色を表情を滲ませ、淡々と反論しはじめた。

 「人見さん。そこまで言うからには、証拠があるんでしょうね。今まで、黙って聞いていればらしいとかだろうとか、そんな言い方でしたけど。まあ、私が遊び人であることは認めますよ。この写真は、言い逃れができない証拠ですからね。ただし、私が悠希と会っていたということもそうですが、不倫をしていた事実はあるんですか?」

 吾朗は北嶋の言葉につい、目を逸らしたくなったがなんとかこらえた。そう、北嶋の言う通り吾朗は全て憶測で話していて、これといった証拠を手にしていなかった。

 それでも吾朗は自分の勘が、北嶋は黒だと示しているし、その第六感には自信を抱いていた。それに、証拠はあるのかと問いただしてくることは想定内だった。きっと北嶋には、山仲に使ったようなフラグは使えないだろう。彼は頭が切れる弁護士だし、脅しをかければ法律を盾にするかもしれない。

 ここまで攻撃を繰り返していた吾朗は、守備側に回ったことを自覚しながらも、次の一手を考えていたが、正面突破しかないと腹をくくり口をひらいた。

「証拠はない」

「はい?ない?それなのにあなたは、こんな話をダラダラと続けていたんですか?あり得ない。馬鹿馬鹿しい」

 北嶋が鼻を鳴らし、呆れ顔を作る。

「だがなあ、あんたも一人の父親なら何か思うことがあるんじゃないか?もし、悠希さんの旦那さんと同じ立場だったらどう思うか。自分が少しでも悪いと感じているのなら、事実を話すべきだろう。それとも、ここまできてもまだシラを切るつもりか」

 吾朗は北嶋を睨みつけながら訊ねた。

「ですからね、シラを切るもなにも私には全く身に覚えのないことですから、話すことはありませんよ」北嶋は、少しだけ声を震わせると、広げていたノートをバックにしまい、顎をあげながらさらに言った。「いいですか。何か疑わしいことを証明するときは、証拠

がものをいうんです。逆を言えば、証拠がなければそれはただの空想であり、作られたストーリーなんです。今日のところは聞かなかったことにしますが、今後にこの話を蒸し返すようでしたら、そのときはわかっていますよね?」

「というと?出来が悪い頭の持ち主なもんでね、わからないけど」

「では、教えましょう。今後、私を侮辱するのならあなたを名誉毀損で訴えます」

「そこまでして立場が悪くなるのは、そっちじゃないのか?」

「まさか⋯⋯正義が勝つんですから、私の立場など悪くなりませんよ」

「あんたは正義なんて持ってないだろう。嘘で塗り固められた人生だ」

 吾朗はドスのきいた低い声で言った。そのとき、一瞬北嶋の表情に陰りがあらわれたのを見逃さなかった。北嶋は内心おどおどしているに違いない。突きつけられた包丁を前にして、なんだかんだ言ってもびびり小便がちびりそうな思いをしているのだろう。

 吾朗はシラを切った北嶋をどうしても許せない思いが強かったが、あとのことは依頼主である笹崎に任せることに決める。今のところ証拠はないが、北嶋が限りなく黒に近いと伝えるしかない。そこから笹崎がどう考え、どんな復讐をするかは知ったことではない。こんなロクでもない男は、地獄に落ちるべきだ。

 北嶋がアイスコーヒーを飲むと、軽くため息を吐き勢いよくイスから立ちあがる。

「もしやる気なら受けてたちますから覚悟してくださいね。私は弁護士ですし、裁判をするなら負けませんよ。それに人見さんを困らせる材料ならいくらでもありますのでね」

「フ⋯⋯まあ、叩けば埃しかでない男だからな」

「では、そういうことで失礼します」

 北嶋は弱気な姿を見せまいと、肩を怒らせならが事務所を出ていく。その直後、葉月は待ってましたというように駆け足でドアをあけ、外に向かって塩をまきはじめた。

 険悪な雰囲気が一気に氷解していく。吾朗は宙に舞っている塩を眺めながら、ふと土俵入りをする相撲取りが頭に浮かんでいた。


 三日後。

 吾朗はノートパソコンを見つめながら、自分の目を疑い何度も両目をこすっていた。人気メーカーのパソコンの液晶画面には、山形さくらんぼ銀行のネットバンキングが表示されていて、そこには取引履歴の他に残高が映しだされている。そして、昨日の入金履歴には、笹崎の名前があり振込金額はなんと二百万円だった。

 吾朗が笹崎に、北嶋のことを包み隠さず話したのは二日前のこと。全ては自分の勘に近いがと前置きした上で、自分の見解を伝えたところ、彼はただ頷き納得した顔でいた。笹崎と話をしたのはわずか三十分くらいだったが、吾朗は彼の表情がいつもよりさらに険しいのを肌で感じ取っていた。また、どういう復讐をするのか訊ねたものの、笹崎は聞かないほうがいい、知らなくていいと言って事務所を出ていった。殺気にも似たようなオーラを発している笹崎に対して、吾朗は成功報酬の話をしようと思ったが、それは場違いなような気がして、今日にでもかかった経費とともに請求書を送ろうと考えていた。その矢先、二百万という振込が確認され、吾朗は嬉しさよりも恐怖心のほうが胸に押し寄せていた。

 それにしても、今回は今までにないことのオンパレードだったと吾朗は振り返った。拘置所からの手紙からはじまり、お墓参り代行という特殊な依頼。さらに娘を失った父親の復讐への手助け。そして、裏では弁護士が操っていたという話。できるのであれば、北嶋と対峙したあの日に、彼が全てを打ち明けてくれれば良かったのだが、そうは上手くいかなかった。吾朗は刑事ではないただの代行屋なので、これ以上は首を突っ込めない。いや、もう少し時間をかければ、北嶋が黒だという証拠を固められるかもしれない。だが、吾朗はそこまでやるつもりはなく、どんなにお金を積まれても、すでに気持ちは萎えていた。さらに、ドロドロの不倫やくだらない大人の欲によって、小さい女の子の命が奪われたのを考えると、もう余計なことはするべきではないそう拒絶心が湧きあがっていた。

 どちらにしても、このお金があれば当分の家賃や経費などの支払いに頭を悩ませることはない。それに、最近はいくつかの仕事があり、いい流れが風が吹いている。

 吾朗は気持ちを切り替えるように、次に手をつける依頼に目を移した。葉月が作ってくれた依頼シートには、ペット捜索やナオのアリバイ会社、そしてついこないだ葉月が受けた父親役の顔合わせ代行がある。ここまで仕事があると、忙しくなりそうだ。キャバクラやデリヘルで遊ぶ暇などないかもしれない。

 夜の遊びが生き甲斐な吾朗は、少しだけがっかりした表情を浮かべ、タバコに火を点けたとき葉月が出勤してきた。今日の彼女は露出が少なく、吾朗はテンションが下がったが葉月の表情を見ると、いつもと違う雰囲気が漂っているように感じ、思わず首を傾げた。どうしたのだろうか、元気がないように見える。いつもなら、明るい声で吾朗ちゃん、と近づいてくるはずだが。怒っているとも違うし、かといって悲しんでいるとも違う気がする。時刻が十三時になるのを考えれば、お腹が空いているからなのかもしれないが。

 吾朗は葉月がイスに座るのを見届け、明るい声で訊ねた。

「おはよう。どうかしたか?なんか冴えない顔をしているけど。あっ、もしかして二日酔い?」

「違うわよ。というか吾朗ちゃん知らないの?」

 葉月は豊満な胸の前に抱えていたバックの中から、新聞を取り出した。彼女はキャバクラにやってくる客との会話のネタを探すため、いつも新聞を読んでいて物知りだ。

 人見代行は新聞に広告を掲載しているものの、経費削減を盾に新聞の定期購読はしていないし、吾朗は全く持って興味がなかった。吾朗が活字を目で追うのは、風俗情報誌ぐらいで、パソコンの隣にはその雑誌たちが山積みになっている。

「知らないのって何が?」

「ここ⋯⋯見てよ。今日、びっくりというか声を失っちゃったわよ」

 葉月が山形新報の新聞を広げ、吾朗に手渡す。彼女が指をさした記事は、地元の記事が掲載されている箇所だった。

「どれどれ⋯⋯えっと。ん?弁護士事務所で火災発生⋯⋯?現場からはこの事務所の弁護士、北嶋雄さんの焼死体がって⋯⋯おいマジかよ」

 吾朗は軽い気持ちで読みはじめたが、その記事の内容に他人事ではないに気づき、徐々に記事を読みあげる声が暗くなっていた。

「火災の原因はタバコらしいけど、本当かしらね」

「タバコ?」

 吾朗はそう呟いたあと、北嶋が自分の前でタバコを吸っていなかったことを思い出し首を傾げた。しかも、彼の事務所に行ったとき、灰皿は見当たらなかったし、事務所の空気も気持ち悪いくらいに澄んでいたのを覚えている。そう考えると、喫煙者ではない北嶋の事務所でどうしてタバコによる火災が発生したのだろうか。

 もしかすると、まさかと吾朗は嫌な想像が頭を掠め、ゆっくりと葉月の表情を見つめた。そのとき、彼女の瞳から自分と同じ考えを抱いているのを感じ取ると、吾朗は口を開いた。「これがあの人の復讐だったのかもしれない」

「娘さんは、天国でどう思っているかしら」

「さあなあ⋯⋯でも、今頃笹崎さんはお墓に手を合わせているんじゃないか」

「そうねえ」

「さすがに、こればっかりは代行はできないけど」

 吾朗は灰皿にのせていたタバコを口に運んで、天井に向けて紫煙を吐きだす。

 不倫相手と娘を失った悠希は今、拘置所でどんな気持ちでいるのだろうか。復讐を果たした笹崎はこれで満足し、前に進めるのだろうか。

 人のことに興味深々な吾朗は、二人の気持ちを確かめてみたい衝動にかられていた。

「まあ、これで、これをもってこの依頼は完全に終了したってことよね」

「だな。一件落着と言っていいのかわからないが。よし⋯⋯ん?いや、まだ、終っていない!」

「はあ?これ以上、まだ首を突っ込むつもりなの?やめなよ、もう」

「違うよ!合コンだよ!ナースと⋯⋯あの約束はどうなったのか。連絡してみようかな」

「死んじまえ。クソ男」

 葉月は吐き捨てるように言うと、イスに腰を降ろしたあと、キーボードに対して怒りをぶつけていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

人見代行なんでも屋 @sasakun05

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ