第四章 ― 海を渡る手紙 ―

春が過ぎ、街の空気が柔らかくなっていた。

桜はもう散り、代わりに風の匂いが新しく変わっていく。


結人と灯は、あれから何度も《星渡書店》を訪れた。

けれど、扉を開けても――あの店は、もうどこにもなかった。


「……お兄ちゃん、本当にここだよね?」

灯が路地を見回す。

「うん。看板もあったし、あの扉も……」

何度見ても、そこはただの古い壁。

風が吹き抜け、木の葉が舞った。


「夢、だったのかな……」

「違うよ。」

結人はきっぱりと言った。

「だって、あの星の欠片、まだ持ってるだろ。」

灯が胸元のペンダントを見せる。

透明なガラスの中で、微かに光が瞬いていた。


「これが、証拠だ。」

「……うん。」

二人は笑い合った。

その笑顔は、もうあの日のように痛くなかった。


叔母の家にも、少しずつ温かさが戻っていた。

最初はぎこちなかった食卓も、今では柔らかな声が響く。

「灯ちゃん、また絵を描いたの?」

「うん。学校でね、友だちに見せたら“本みたい!”って言われた!」

叔母が嬉しそうに笑う。

「いいことね。ゆいと君も、最近は学校、楽しい?」

「……まぁ、ぼちぼち。」

そっけなく言いながらも、結人の声はどこか明るかった。


彼の机の引き出しには、一枚の封筒が入っている。

表には、少し拙い字で書かれていた。


「お母さんへ」


それは、結人が書いた“手紙”だった。

初めて、亡き母に宛てて書いた言葉。


――ごめん。

――あの時、何もできなかった。

――でも、今は少しだけ、生きていたいと思う。

――灯を笑わせたい。

――もしも空の上で見てるなら、ちゃんと見てて。


手紙はまだ出していない。

宛先も、出す方法も、ない。

けれどそれでも、書かずにはいられなかった。


その夜、灯が夢を見た。

広い海の上、星の舟が漂っている。

船の上には誰もいない――ただ、海の向こうに光る一本の道が伸びていた。

道の先で、誰かが手を振っている。


それは、母のような、星のような、優しい姿。

灯は小さく囁いた。

「お母さん……?」

声は風に溶け、光がふわりと灯の頬を撫でた。


――ありがとう。


そう聞こえた気がして、灯は目を開けた。

枕元には、小さな貝殻のような紙片が落ちていた。

まるで海を渡って届いた“手紙”のように。

そこには淡い文字が浮かんでいた。


「星渡書店は、いつでも心の海の向こうに。」


翌朝。

灯は結人にその紙を見せた。

「ねぇ、お兄ちゃん。これ……見て。」

結人は驚いて目を見開く。

「……夢の中で、もらったの?」

「うん。お母さんが……くれた気がする。」


結人は黙って紙を受け取り、光に透かした。

文字はゆっくりと消えていく。

けれど、その代わりに小さな光が一粒、彼の掌に残った。


「……これは?」

「わかんない。でも、なんか優しい。」


その瞬間、結人の頭の中にふと声が響いた。


「手紙は、届くだけがすべてじゃない。 書いた時点で、想いは海を渡っていくんだ。」


あの店主の声。

結人は微笑んだ。

「……お母さん、ちゃんと読んでくれたんだな。」

灯も頷く。

「うん。だから、もう泣かなくていいよ。」


結人は妹の頭を撫でた。

「泣いてない。」

そう言いながら、声は少し震えていた。


その日の放課後。

学校帰りの道で、灯が立ち止まった。

「お兄ちゃん……見て。」

空の端に、虹のような光が一瞬だけ走った。

その中心に、小さな星がきらりと光る。


「……星渡書店。」

灯が呟く。

「きっと、また会えるよね。」

結人は頷いた。

「うん。だって、俺たちの物語は、まだ途中だ。」


風が吹き、光が空に吸い込まれていく。

二人は並んで歩き出した。

その背中には、もう“影”ではなく、確かな希望の色が宿っていた。


夜、結人は机に向かった。

封筒を取り出し、静かに窓を開ける。

春の夜風が入ってきて、カーテンを揺らした。


「……お母さん。」

結人は封筒を胸に当てた。

「ありがとう。」


その瞬間、封筒の中から一枚の紙がふわりと舞い上がる。

紙の裏には、見覚えのある文字で、ただ一言。


「星の向こうで、いつも見てるよ。」


結人は微笑んだ。

涙はこぼれなかった。

その代わり、胸の奥にあたたかな灯がともった。

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