第三章 ― 影を喰らう森 ―

あの本を閉じた日から、一週間が経った。

結人はあの不思議な出来事を夢だと思おうとした。けれど――無理だった。

掌に残る“星の粉”のような感触。

灯の笑顔。

そして、あの本の最後の一文。


「約束は、思い出した時に再び始まる。」


放課後、灯がまた言った。

「ねぇ、お兄ちゃん。またあの本屋さん行こうよ。」

「……宿題、終わってからな。」

そう言いながらも、結人の胸の奥で何かが疼いていた。

――本当は、もう一度会いたかった。あの不思議な世界に。


その日の夕暮れ、二人は再び《星渡書店》の前に立った。

扉は静かに開いていた。

からん、と鈴が鳴る。

店内の空気は少し冷たく、前回よりも静まり返っている。


「……誰もいないのかな?」

灯が小声で言ったとき、店の奥から風が吹いた。

本棚の間にある、ひときわ古びた本が光を放っている。

黒い表紙に、銀の蔦が絡む。

タイトルは、こう記されていた。


『影を喰らう森』


「……これが呼んでる。」

灯の瞳が揺れる。

結人は本能的にわかった。――この本は、自分のための本だ。


「読んでみよう。」

結人がページを開いた瞬間、光が弾けた。

床が沈み、視界が反転する。


――そこは、森だった。


夜のように暗く、霧が立ち込めている。

木々は黒くねじれ、空を覆い尽くしている。

風が鳴り、何かが囁いていた。


「おまえは、守れなかった。」


結人は息をのんだ。

「……誰だ?」


声の主は見えない。けれど、胸の奥を掴まれるような痛みが走る。

灯が不安げに結人の袖を握った。

「お兄ちゃん……ここ、怖い。」

「大丈夫だ。俺が――」

言いかけて、言葉が詰まる。

――“俺が守る”。

その言葉を、あの夜、言えなかった。


「……灯、俺の後ろにいろ。」

「うん。」


森の奥から、影が現れた。

形を持たない黒い霧のようなものが、ゆらりと立ち上がる。

その中に、ぼんやりと人の形が浮かぶ。

――少年。自分と同じ顔をしていた。


「おまえは、逃げた。」

「違う……!」

「おまえは、妹を守れなかった。」


影が低く笑う。

その声は、確かに結人自身のものだった。


「違う、俺は……助けたかった……!」

「なら、なぜ今も灯の笑顔を見ると苦しい?」

「……っ!」


灯が泣きそうな顔で結人を見つめている。

影はその視線の隙を突き、形を変えて迫ってくる。

黒い霧が渦巻き、結人を飲み込もうとする。


「お兄ちゃん!!」


灯が叫んだ瞬間、光が弾けた。

彼女の胸元で、あの“星の舟”の欠片が輝いている。

第二章の終わりに手にした、星のかけらだ。


「お願い……お兄ちゃんを返して!」

灯の叫びに応えるように、星の光が森を照らす。

影が焼け、森の奥で何かが呻いた。


「やめろ……それは俺だ……!」

影の声が苦しげに響く。

灯は涙をこぼしながら叫んだ。

「違うよ! お兄ちゃんは“影”なんかじゃない! 優しい、わたしのお兄ちゃんだよ!」


その瞬間、森全体が光に包まれた。


――静寂。


結人は地面に倒れていた。

霧が晴れ、夜明けの光が差し込む。

隣には灯がいて、泣きながら彼の手を握っている。


「よかった……帰ってきた……」

結人は目を開けた。

胸の中に、重いものが消えていた。

“影”は消えたのではなく、自分の中に戻ったのだとわかる。


「……灯、ありがとう。」

「ううん、私……怖かった。でも、もう大丈夫。」


森の奥で、星の花が一輪、咲いた。

その花びらが風に舞い、結人の肩に落ちる。

船長の声がどこからか響いた。


「影を受け入れた者だけが、次の頁へ進める。」


風が吹き抜け、光が二人を包む。


気づけば、再び《星渡書店》の中。

灯が本を閉じていた。

結人は息をつき、棚の奥に目をやる。

店主が静かに微笑んでいた。


「影とは、光の裏にある自分自身だ。逃げずに見つめる者だけが、本当の“希望”を読むことができる。」


結人は深く頷いた。

「……俺、少しだけ分かった気がします。」

「何を?」

「――生きるって、“逃げないこと”なんだなって。」


店主は満足そうに目を細めた。

灯がそっと結人の手を握る。

その手は温かく、確かに“今ここ”にあった。

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