幻世の君に会う
@watarumutsuki
第1話 幻世の君に会う
スピーカーから授業終了を知らせる鐘の音が鳴った。
「仕方ない、今日の授業はここまで」
そう言って数学教師が教室を出ていくと、蝉時雨にクラスメイトの話し声が混ざり始めた。昼休みが始まったのだ。
青々とした空の中で存在感を放つ太陽が、僕の肌をじりじりと焦がす。この暑さでは、読みかけのミステリでさえ開く気になれない。
僕はと言えば机に突っ伏し、昼寝の体制に入る。本当に寝る訳ではない。これは人除けのための処世術だ。寝ている人にわざわざ話しかけようとする人はこのクラスにはいないだろう。まして、大して仲の良くない人であればなおさらだ。クラスに友人がいない僕にとっては、こうやって昼休みを耐え凌ぐのが常であった。
目を瞑っていても、近くのクラスメイトの会話は耳に入ってくる。
「夏といえば肝試しだよな」
「いやー、私としては夏祭りとか、海のほうが思い浮かぶけど……」
「確かにそれもいいが、やっぱり肝試しさ。知っているか、神社の噂を」
「噂って?」
「それはそれは極一部で広まっている恐ろしい噂話のことなんだが――」
「その話し方うざい。もったいぶってないで早く教えてよ」
男の元気あふれる声と、女の涼し気の声が耳に入ってきた。
どうやらクラスメイト二人が話しているようだ。声だけでは二人が誰なのか判断できない。たとえ顔を見ても名前を思い出すことができないのだろうけれど。
前はもっと知り合いもいた気がするし、何事に対しても熱量を持っていた気がする。しかし、六ヶ月前に起きたあの事件以来、僕の現実はぼやけてしまって、幻の中を生きている。食べ物からは味が消え、人の顔は霞がかったようにぼやけて見える。
そんな僕に精神科の医者は、現実感消失症というラベルを貼り付けた。
「神社が常世と繋がっているって噂だよ」
低い、芝居かかったような声が意識を現実へと掬い上げた。否が応でも会話に意識が向いてしまう。
「境内の中に神池があるだろ? ほら、鳥居をくぐって歩いて行ったときに一番奥にある池のことさ。その池が常夜、つまり死者の世界へと繋がっているらしい」
クラスメイトの声ははつらつとしていたが、夏の湿気のようにねっとりと僕の耳に纏わりついてきた。
「何その噂、そんな訳ないじゃん」
そう、そんな訳、あるはずがない。サンタクロースを信じる子供のような純粋さは、遠い昔に捨て去ってしまった。死者の世界に行けるなんて、そんなくだらない話に縋りたいと願ってしまうなんて、ばかげている。
「それより、お祭りだよ。明後日のお祭りさ……」
すでに彼らの話題は次へと移り変わっている。しかし、僕の頭の中は現実味のない噂のことで埋め尽くされていた。
放課後になり家に帰った僕は、すぐに自室に行ってベットの上に寝転んだ。昼休みの後、例の噂について生徒に聞いて回った。知り合いの中にはいつになく熱心な僕を訝しんだ者もいたかもしれないが、それでも生徒達は快く噂について教えてくれた。
どうやら本当に神池が常世に繋がっているという噂は広まっているらしかった。
曰く、池を覗いた人が消えた。
曰く、神社の方向から光の柱が見えた。
曰く、この世ならざる生物を見た。
どれもあまりに真実味にかける内容ばかりであった。
池を覗いた人が人が消えた、というのは百歩譲って良いとしても、光の柱が見えれば町中大騒ぎになるし、この世ならざる生物についても同様である。
ベッドから体を起こして本棚へと近づくと、上から三段目の、黒い背表紙の一冊を取り出す。ページをめくる。中ほどまでめくったところで、目的の記述を見つけた。
神池についての記述。
現世と常世をつなぐ場所であり、神の力が宿る鏡。
行きついた常夜は、現世よりも時の流れが遅いという。
もし、もし神池をくぐることができたのならば、死者に会うことができるのだろうか。例えば、離れ離れになってしまった幼馴染に。暗い欲望が全身を駆け巡り、麻薬のようにくらくらと僕を犯す。
夜の灯に誘われる蛾のように、気づけば玄関を出て神社へと足を向けていた。
家から神社への道は、短いようでとても長かった。水田を割くように伸びている砂利道。角度三十度を超える急な坂。そして、事故が起こった曲道。
この道を通ると、どうしても事故の日を思い出す。
あの時もちょうど今と同じ――夕日が沈み切ろうとしている頃で、空には青とオレンジのマーブル模様が描かれていた。いつもと同じように、二人でたわいもない話をしながら歩いていた。確か、好きな花の話をしていた気がする。
僕の好きな花は蓮。何せ僕の名前は露木蓮。蓮を好きになれと言っているようなものである。
一方の幼馴染、晴野桜は、名前に桜の文字が入っているのにも関わらず、菊が好きらしい。
菊の中でも赤が一番好きかな、とは彼女の言だ。
――赤い菊の花言葉は愛情だよ。なんかロマンチックじゃない。
彼女の黒髪が風で揺れた。
あまりにストレートな花言葉は彼女には似合わないような気がした。僕の知っている幼馴染は、もっと複雑で、面倒くさい。
僕が共感していないことを感じ取ったのか、彼女は不満げな顔をしていた。
――連は意外と顔に出るよね。
――そうかな? 僕は自分のことを、感情を表に出さない人だと思っていたけど。
――自己分析が甘いね。これでもかというくらいに感情が顔に出ているよ。自己分析が甘いね。
僕を覗き込む、彼女の黒い瞳。
ああ、やっぱり覚えていた。なにせ桜と最後に交わした会話だ。きっとあの日の記憶は一生忘れることができないのだろう。
彼女との会話も、空気を白く染め上げる彼女の息遣いも、僕たちの体に打ち付ける冷たい風も。こちらへと突っ込んできた、タイヤに乗った大きな鉄の塊のことも。
道なりに進んでいると、薄暗い空の中から古びた鳥居が見えてきた。宝物庫の万人のように、T字路の突き当りで行く手を阻んでいる。神社の前の道を通ることは何度もあった。しかし敷地を跨いだことは一度もない。そしていつも、神社の周辺には人一人として見当たらないのだ。
例によって、他に人影は見当たらなかった。
存在感だけはひとかどにあるのは、奇妙なほどの静けさゆえだろうか。木々が風で揺れる音と僕の足音だけが周囲に木霊する。
一歩、また一歩と鳥居へと歩みを進める。
鳥居をくぐった途端、周りの温度が急激に下がったような感覚に陥った。いや、実際に気温が下がったわけでは無いはずだ。そのはずなのだが、境内に入った瞬間、背筋に冷気を感じ、ぞくりと鳥肌がたった。このある種の不気味さのことを神秘というのだろうか。独特な空気の中、石段を一段ずつ登る。一段進むたびに、さらに周りの空気が冷えていった。
息を切らしながら石段を登り切った先には、小さな池があった。池の周りの緑が思い思いに育っているのは、そこからあふれ出す生命力を吸い取っているからだろうか。木々に守られるかのように、池の奥には小さなお社のようなものをが佇んでいた。
これが噂の池に間違いないだろう。
いざ神池を目の前にすると、少し緊張する。
心霊スポットで、存在しないはずの幽霊を恐れるように、起きるはずのない超常現象に少しだけ恐怖を抱いているのかもしれない。
確か常世に行くには、池の中を覗き込む必要があったはず。一回長く息を吐いた後、池の中を覗き込んだ。
――何も起きない。
木の枝から水が一滴落ちて、池に映る僕の姿がふにゃりと揺れる。そこから円形に広がる波紋。
すると突如、世界が大きく揺れた。
電波不調のデジタル映像のように、視界にいくつものノイズが入る。木々のざわめきが大きくなり、耳鳴りを引き起こす。まるで脳震盪を起こしたかのように、僕の体は思うように動かない。いったい何が起こっているんだ。
そこで僕の意識は途切れた。
目が覚めると真横に池があった。頬に地面のひやりとした感触が当たっている。
どうやら意識を失っていたらしい。
体が肌寒い。
僕はゆっくりと体を起こして周りを見渡した。
少し様子がおかしい。
先ほどまで青々と茂っていた木々の葉はまったくその姿を見せず、むき出しの枝が空へと伸びている。
ポケットからスマホを取り出してみる。画面には20:00の文字。
そして、日付は2月2日を示していた。
おかしい。
日付が合わない。
僕の記憶が正しければ、もっと騒々しくて、暑苦しい季節を過ごしていたはずだ。急いで石段を駆け降りる。慌てていたため、気づかず落ちていた空き缶を蹴飛ばしてしまった。さっきまでは落ちていなかったはずだ。池の中を覗き込んだ時、何が起きたのだろうか。例の噂が脳をよぎる。
本当に、常世に来てしまったのだろうか。
脳の理解が追い付かない。
鳥居をくぐり抜けて境内を出る。とりあえず、家に帰ろう。それから……。
目に入ってきた光景に、足を止めざるを得なかった。
忘れることができない、神社と家の間にある曲道。
暗がりの中、街灯が一人の女性を照らしていた。つややかな黒髪が街灯の光をほのかに反射している。現実が色を取り戻したかのように、目の前の女性がくっきりと僕の目に映った。
間違いなく、その姿を知っていた。もう二度と会うことのできないはずの人だ。
すぐそばの道端には蓮の花が供えられていた。おそらく彼女が供えたものだろう。
彼女の黒い瞳が僕の姿を捉えた。
そして、瞳を大きく見開く。
静寂が訪れた。
よく見ると、記憶より彼女の背が数センチ伸びている気がする。以前よりも少しあか抜けていて、服装も落ち着いていた。彼女はふるふると顔を横に振ると、口を開いた。
「ごめんね、じっと見ちゃって。古い友人にそっくりで」
どこか引っかかる物言いに、開きかけた僕の口から行き場を失くした空気が音もなく吐き出される。
「もう会えるはずがないんだけどね。懐かしくてつい……」
――常夜は現世よりも時の流れが遅い。
本の一節が脳をよぎった。
やっと、僕は大きな勘違いをしていたことに気が付いた。今になって冬の寒さが正体を現し、僕を襲う。彼女は続ける。
「私の願望が見せている幻なのかな。蓮はもう、天国にいるはずなのに」
幻世の君に会う @watarumutsuki
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