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 夕暮れ時に思い出すのは、自分が生み出した純白の本が夕日を受けて赤く色づくビジョンだ。あの梯子付きの本棚の片隅で、燃えるように赤く、熱く。それは、今東吾を突き動かす心臓の有様とよく似ていた。

 例の文芸サークルでメンバーの原稿をすべて読み終えた中村東吾は、藤森学園の校舎を足早に進んでいた。

 部室を出る時、涼子が見せたあの勝ち誇った顔が頭から離れない。完全にしてやられた。予想もしない角度からクリーンヒットを入れられた気分だ。涼子の原稿は明らかに東吾を狙い撃ちにしていた。

 涼子を侮っていたわけではない。もちろん東吾が上げた作品の出来が悪かったわけでも。あの日涼子に宣言した通り、東吾は他のメンバーの作品が霞むくらいのものを叩きつけてきた。どうだと言わんばかりにだ。

 しかし、涼子の原稿は一つ次元が違っていた。それが東吾の心を奪った。前に送られてきた機関誌とはまるで別人。想いのこもった――本当に、心のこもった小説。そうとしか形容できない一本だった。

 まばらな人並みをぬって、東吾は図書館を目指す。

 涼子が上げてきた小説は“ファンレター”という名を冠していた。そのストーリーが、東吾の心を激しく揺さぶった。こんな内容だった。


 ――ある時、一人の少女が純白の本に一枚のファンレターを挟み込む場面から、その物語は始まる。その少女は願う。このファンレターが、どうか作者に届きますようにと。

 しかし挟まれたファンレターは、運悪く別の人物の元へと渡ってしまう。その純白の本を読みふけっていたのは少女一人ではなかったのだ。それが物語の主人公、もう一人の読者。

 そのもう一人の読者は小説家を志す少女で、執筆に迷った時、詰まった時、その純白の本を手に取っていたのだった。

 ファンレターを見つけた彼女は「ああ、これは元に戻しておかなければな」と、まずそう思った。ところが、予想外の事態が起きたために戻そうと動きかけた手を止めた。それは俄かには信じられない現象だった。

 彼女が手にしていたファンレターが、あろうことか喋ったのである。

 そして物語は動き出す。

 喋る手紙と出会った少女は、その手紙との対話によって陥っていたスランプ脱し、ずっと書けないでいた小説を完成させるに至る。

 そこまでの成り行きを手紙と少女のコミカルな会話で描いたエンターテイメント小説。それが国島涼子の“ファンレター”という小説だった。


 中庭を突っ切り、東吾は図書館の入り口を眼前にとらえた。空が穏やかに燃え始めている。


 物語の佳境では、喋る手紙の真相へと流れていく……。

 喋るファンレターの名はラクシュメイア。ファンレターに宿りし文筆の女神。そしてその正体は、自身の所有物を介して他人とコミュニケーションをとることができる、不思議な力を持った少女が演じるキャラクター。それは図書館の――。

 図書館の玄関を抜ける。感じ慣れた本の香りが鼻孔をなでる。左手にエレベーター。右手には本の海。そして、正面に受付カウンター。いた。平然とした顔でそこにちょこんと腰掛けている。長い黒髪が何よりも印象的な、黒猫みたいな女の子。いつものようにまた読書でもしているのだろう、その目線は彼女の手元へと縫い付けられている。

「松本さん」

 歩み寄り、声をかけた。すると彼女は、東吾が来ることを予見していたかのように、ごくごく自然な動作で顔を上げた。

「あ、東吾さん」

 微笑む。

「どうぞ」

 次いで、いつも東吾が借りていたあの鉛筆を出す梓。しかし東吾は、本日ばかりはそれを受け取ることをせずに首を振った。

「ううん、もういいんだ。大丈夫だから」

 言葉は、それで十分だったらしい。

「そうですか」と梓はすんなりと鉛筆をひっこめた。その代わりに、彼女は言葉を紡ぎ出した。穏やかに、静謐な声音で、

「勝ちましたか?」と。

 彼女には勝負のことを教えたはずはないのになと、東吾は内心で苦笑した。

「さて、どうかな。戦いに勝って、勝負に負けたって感じ?」

 おそらく、書きたいものを書きたい通りに書き上げたのは涼子の方だろう。今こうして、東吾と梓が向かい合っていることが何よりの証拠だ。

「でも……、それでも僕は、また書けるようになれたよ」

 いや、それは少しニュアンスが違うか。

「……うん、書きたいって、思えるようになれたんだ」

 テレビの中の戦隊ヒーローが、東吾に向かってサムズアップ。そんな絵が頭の中にふわりと咲いた。

 目の前の彼女は東吾が言った結果をどう解釈しているのだろうか。優しい微笑がその表情に浮かんでいる。語るそぶりはない。ただただ東吾の表情を眺め、その情景を心に記憶しているかのような、そんな姿。鼻歌でも聞こえてきそうな嬉しそうな顔に、大きく波打っていた東吾の心が徐々に落ち着きを取り戻していく。

 そして世界がしんと静まり返った時、ようやく梓が口を開いた。

「東吾さん。これを」

 両手を添えてゆっくりと。梓が東吾に手紙を差し出した。綺麗に三つ折りにされた真っ白な手紙。ファンレター。

「受け取ってください」

 ぺこりと梓が頭を下げる。そこまでしなくてもいいのに。なんて思いながら、東吾はそれを手に取った。錯覚だろうか、ほんのりとその手紙は熱を帯びているような気がした。

(ラクシュメイア)

 なんだかその手紙は生きているような気がして、その手紙にはきっとそんな名前の女神が宿っているような気がして、東吾は語り掛けた。

(ありがとう。君のおかげだ)

 刹那、その目にいっぱいの涙をためた梓が顔を上げた。

(東吾……、東吾よ。それは……、それを今言うのは、些か卑怯というものじゃ)

(でも、言いたかったから)

 それは出会いの再現だったのかもしれない。松本梓は魔法にかかったみたいに動きを止めて、その頬を大粒の涙が伝って落ちた。

「……東吾さん」

 震える唇が彼の名を呼んだ。ごしごしと涙をぬぐって、

「中村東吾さん」

 梓が無理やりに笑う。いつかのように、もう一度フルネームで。

「一つだけ、聞かせてください」

 その時、不思議なことが起こった。そこにいる松本梓とは別の、誰かの声が聞こえた気がした。誰だろうか、昔から知っている気がする。鈴が鳴るような軽やかな声。

 その耳慣れた響きは見事に梓の声と重なって、問うた。

『あなたの夢はなんですか?』と。

 音が鼓膜を抜けて全身に広がり、中村東吾の魂を捕らえる。

 今ならもう、言ってもいいのかもしれない。藤森に戻ってきた意味。自分はここで何がしたかったのか。この先に思い描いている未来を。

 飛び出した言葉を、きっと受け取ってくれる人がそこにいる。ならば、もうためらう必要はないのだ。

 一つ頷き、東吾はずっと言葉にすることを避けてきたその夢を胸に描いた。

 一点の曇りなく、心の隅々までその思いに満たして、

「僕の夢はね――」

 中村東吾は世界に宣言した。




【了】

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図書館の鉛筆 今日もエリート巫女が可愛い @h060515

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