8

 図書館のカウンターに腰掛けて、松本梓は今日も本を読んでいた。中村東吾に出会ってから三回目の日曜日。涼子から聞いた話では機関誌の原稿締め切りが今日だったはずだ。

「今日も来るかな?」

 このところ何度も姿を見せては鉛筆を借りに来る中村東吾の姿がふと頭に浮かぶ。

「まあ、まだ早いか」

 時計の針はまだ十時を過ぎたところだ。いつも昼過ぎに現れるから、今日来るとしてもそれくらいだろう。

 時計から視線を戻して梓は読書へと戻った。やはり新作は心が躍る。それが待ちに待った作家の本であればなおさらだ。文字を追い、世界を想像していくほど本の中へとのめりこんでいく。ああ、本当にこの人の随筆は面白いなと思う。

 午前中の図書館に利用者は少ない。本に魅入られながら、静かな時間が流れていく。だから気が付かなかった。カウンター越しに梓が読みふける本を覗き込む女性がいることに。

「やっぱりそうだったのね」

 その声についと目を上げると視線が絡んだ。

「よっ。梓」

 声の主は国島涼子だった。どことなく晴れやかな雰囲気が、その表情から見て取れる。

「珍しいですね。どうされました?」

「部室行く前に梓に会っとこうと思ってね。いい?」

「ええ、それは大丈夫なんですが、どうしたんですか改まって」

 涼子がわざわざ会いに来るなど、サークル勧誘と機関誌設置の時以来だ。何事だろうかと考えてみても思い当たる節がない。

「うん。ちょっとね」

 そう言って涼子は鞄の口をパカリと開けた。丁寧に、大切そうに何かを取り出して梓の前に置いた。手紙だった。長い間大切に扱われていたのか、ところどころほつれている。


 書き出しには「白い本の作者さんへ」と、そう記されていた。


 それを目にした梓は言葉を忘れたかのように固まった。

 拾い上げた手紙と涼子を交互に見る。国島涼子は申し訳なさそうに微笑んでいた。

「こういうのは、直接本人に渡した方がいい」

 信じられない。この手紙がまた戻ってきてくれるなんて。

「……そっか。あれは涼子さんだったんですね」

「うん。図書館の東吾の本開いたらこんなの挟まってるんだもん。……あの時は驚いちゃった」

 涼子の目線が再び梓の手元に落ちる。そこには純白の本が携えられていた。

「ごめんね? 私がこの手紙を取らなかったら、ちゃんと東吾に――」

 ――届いていたかもしれない。

 そう続いたであろう言葉の連鎖を、梓はふるふると断ち切った。

「それは違いますよ、涼子さん」

 決然と言い切る。

「涼子さんがこれをそのままにしておいてくれたとしても、東吾さんは多分、これを見つけることは無かったでしょう。そしてきっと、この手紙は東吾さんの本と一緒に閉架送りになっていました」

 図書館の閉架は図書委員の梓であっても立ち入ることは出来ない職員専門のエリアだ。日々必要に応じて閉架から本が呼び出されることは常だが、タイトルはおろか、著者名すらない東吾の本が日の目を浴びることはもう無いだろう。

 もし彼女が手紙を抜き取らないでいたら、今頃この手紙もそのまま閉架へと吸い込まれていた。梓がここに託した気持ちごと闇の中へ。それを奇跡的に免れて今、梓の元へ舞い戻ってきたのだ。もう還ってくることは無いと思っていた夢の原点が。

「涼子さんが守ってくれたんです。私の想いを」

 涙が溢れてくる感覚がした。

 ああもう、どうして自分はこう涙もろいのだろう。最近なんだか泣いてばかりいる気がする。白い本の作者が東吾だと分かった時も、自分の名を東吾に告げた時も、今だってだ。

 梓の目から流れ落ちようとする雫を、涼子がそっと拭い取った。

「泣くのは、それをちゃんと東吾に渡してから」

 涼子に言われて何とか涙をこらえる。それでも流れた分は、涼子が優しく拭ってくれた。

「一つだけ、聞いていい?」

「はい、なんでしょう?」

「どうして私だって分からなかったの? あの時に」

「……あの時は、自分でもまだ、慣れてなかったから」

 それを告げると、涼子は「なるほどね」と納得したような顔になった。

 目の前の優しい上級生にも、似たような経験があったのかもしれない。

 うんと頷いて、涼子は表情を引き締めた。

「それじゃあ、私そろそろ行くね。東吾は多分、夕方くらいかな? そのくらいには来ると思うから。梓、待っててやってね?」

「ええ、もちろんです。渡さなきゃいけませんから、今度こそ」

「うん。しっかりね」

 梓にエールを送った国島涼子が軽やかに身を翻し、

「あ、そうだ」

 すぐにまた梓に向き直った。

「東吾が来たら、一つだけ聞いておいてほしいんだけどさ……」

 涼子の問いは、梓自身の中にも同じく宿っていた。

 それだけを託すと、涼子は今度こそ振り返らずに図書館を後にした。

 時計を見る。まだ昼にも差し掛かっていない。

 梓はそっと手紙を仕舞い込んで、またゆっくりと読書に戻った。

 優しい指先がページを進める。大切な一日が静かに始まっていた。

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