第2話【残響のクロノグラフ】

雨は、俺の顔に貼られた手配書のインクを滲ませ、まるで涙のようにアスファルトに黒い染みを作っていた。重要時間犯罪者。無機質な活字が、俺という存在に刻印された烙印だった。喉の奥が乾ききり、意味のない喘ぎだけが漏れる。リリ、と名を呼ぼうとして、声にならなかった。俺は一体、何者になってしまったんだ。


思考する間もなく、路地の両端から黒いコートが音もなく現れる。ウォッチャー。彼らの顔には感情というものが欠落していた。ただ、プログラムに従ってエラーを削除する機械のような、冷たい眼差しが俺を射抜く。手の中の懐中時計が、まるで生命の危機を察知した獣のように微かに震えた。蓋を開ける。カチリ、と秒針が一つ進む。世界が捻じ曲がり、ウォッチャーたちの姿が引き伸ばされた残像となって消えた。


そこからが、本当の悪夢の始まりだった。時計は俺の意思を無視し、無秩序に可能性の奔流へと俺を投げ込み続けた。空を灼く炎がビル群を舐め尽くす未来都市で、熱風に肺を焼かれながら瓦礫の山を駆け抜けた。次の瞬間には、巨大な蒸気機関が鯨のように空を泳ぐ、煤と鉄の匂いが充満した過去の街で、警笛の轟音に耳を塞いだ。凍てつく氷河期の世界で毛皮を纏った人々に追われ、見たこともない植物が繁茂するジャングルで名も知らぬ獣の咆哮に怯えた。


どの世界も、俺にとっては等しく地獄だった。心身は擦り切れ、記憶は混濁し、自分が誰なのかさえ曖昧になっていく。だが、その狂気の縁で俺を繋ぎとめるものが一つだけあった。リリとの温かい記憶。膝の上で喉を鳴らす柔らかな感触。陽だまりの中で細められた緑の瞳。その記憶の欠片を抱きしめるたび、俺はかろうじて「俺」でいられた。あれは幻じゃない。確かに、俺の世界に存在した温もりなのだ。


幾度目かの跳躍で、俺は巨大な歯車が噛み合う機械仕掛けの塔の頂にいた。眼下には、ウォッチャーの黒い影が蟻のように集まってくる。もう、逃げ場はない。時計を握りしめ、ここから飛び降りるのが最後の抵抗かと覚悟を決めた、その時だった。

「哀れな残響よ。まだ、物語の幕を下ろすには早い」

背後から、穏やかだが芯のある声がした。振り返ると、そこにはフードを目深に被った数人の男女が立っていた。彼らの手にした奇妙な杖が一斉に光を放ち、俺を包む空間がガラスのように砕け散る。視界が真っ白に染まった。


目を開けると、そこは静寂に満ちた場所だった。無限に続くかのような書架。天井はなく、代わりに星々が瞬く宇宙が広がっている。古紙とインクの匂いが、不思議な安らぎをくれた。

「ようこそ、『時のない図書館』へ。我々は『ロスト・ワンズ』。世界から弾き出された、忘れられた者たちだ」

声の主は、白鬚を蓄えた老人だった。天文学者だと名乗った彼は、俺を手招きし、星図が描かれた巨大なテーブルへと導いた。彼の言葉は、俺が必死に目を逸らしてきた真実を、容赦なく突きつけてきた。


この世界は、無数の可能性が枝分かれする大樹のようなものだという。そして、その奔流を一つの安定した流れに固定するために、時折「楔(アンカー)」と呼ばれる存在が生まれる。リリが、それだった。

運命の大きな分岐点で、世界は一つの可能性を「正史(プライム)」として選択する。そして、選ばれなかった無数の可能性は「残響(エコー)」として切り捨てられ、世界の不安定要素としてウォッチャーに「剪定」される。

「お前さんがアパートで見た『もう一人の自分』こそがプライムだ。そして、お前さんは…彼が選ばなかった可能性。捨てられた、ただの残響なのだよ」

頭を殴られたような衝撃。俺がリリと過ごした日々、分かち合った温もり、その全てが「ありえたかもしれない幻」だと断じられたのだ。俺は、俺という存在そのものが、この世界のバグに過ぎない。その事実に、足元から崩れ落ちていくような感覚に襲われた。


絶望に沈む俺に、天文学者は銀の懐中時計を指差した。

「だが、お前さんはただのエコーではない。その時計…『クロノスの万年筆』を持つ者だ。それは単なる移動装置ではない。世界の文法を書き換える力を持つ、危険な遺物だ」

彼は言った。時計を制御するには、自身の最も鮮烈な記憶を鍵として、世界の周波数に精神を同調させる必要があるのだと。

俺にとって、最も鮮烈な記憶。それは、リリとの思い出以外にありえなかった。天文学者の指導のもと、俺は訓練を始めた。それは、幸せだった日々の残像を、繰り返し、繰り返し追体験する、甘美で残酷な旅だった。陽だまりの中、リリの柔らかな毛並みを撫でる。喉を鳴らす振動が、指先から伝わってくる。その温もりに浸るたび、俺の心は安らぎと同時に、二度と手に入らないものを想う鋭い痛みに引き裂かれた。記憶をなぞるほどに、エコーである俺自身の輪郭が、さらに希薄になっていく気がした。


そしてついに、俺は時計の針を、自らの意思で動かすことができるようになった。

「まだ行くな!プライム世界は、お前にとって最も危険な場所だ!」

仲間たちの制止を振り切り、俺は時計を起動した。彼らにとっては無謀な賭けだろう。だが、俺にはもう、それしか残されていなかった。リリを、この手で取り戻す。たとえ俺が幻だとしても、彼女が俺の腕の中にいたという事実だけは、誰にも否定させない。


プライム世界は、俺の記憶と寸分違わぬ姿をしていた。だが、全てが微かに色鮮やかで、空気が澄んでいるように感じる。まるで、俺のいた世界が色褪せたコピーであったかのように。

記憶を頼りにアパートへ忍び込むと、リビングのソファで「プライム」が静かに本を読んでいた。俺の気配に気づくと、彼は驚くでもなく本を閉じ、静かに顔を上げた。

「来ると思っていたよ、俺の『感傷』」

その目は、俺が失った全てを持つ者の、静かな自信に満ちていた。俺は怒りに任せて掴みかかろうとした。だが、彼の次の言葉が、俺の動きを完全に縫い止めた。

「リリは、一度死にかけたんだ」

彼の口から語られたのは、衝撃の真実だった。リリは不慮の事故で瀕死の重傷を負った。獣医は、もう助からないと告げた。絶望の淵で、彼は二つの選択肢を突きつけられたのだという。

「一つは、禁じられた技術であるその時計を使い、世界の理を歪めてリリを救うこと。もう一つは、彼女の死を受け入れ、ただ悲しみに暮れること」

プライムは、静かに俺を見据えた。

「俺は、前者を選んだ。リリを救うためなら、どんな代償も厭わなかった。そして、その代償こそが…お前だ。リリの死を受け入れ、悲しみと共に生き続けるという可能性。俺が切り捨てた臆病さと絶望、それがお前の正体だ」


俺は、俺が捨てた感傷と臆病さそのものだ――。

その言葉が、俺の存在意義を根底から打ち砕いた。混乱し、立ち尽くす俺を、プライムは冷たい目で見つめていた。そして、その背後で、アパートのドアが静かに開く。武装したウォッチャー部隊が、音もなく部屋になだれ込んできた。罠だったのだ。


絶体絶命。ウォッチャーの構えた武器が青白い光を放つ。だが、その瞬間、俺は最後の力を振り絞って時計を起動した。行先は一つしかない。全ての始まり。俺と彼を分けた、運命の分岐点へ。

『座標支援、実行!諦めるな、エコー!』

耳元で、ロスト・ワンズの仲間の声が響いた気がした。視界が光に包まれ、次に開いた時には、消毒液の匂いが鼻をつく、見覚えのある場所に立っていた。動物病院の、手術室の前。ガラスの向こうで、血に濡れたリリが小さな体でか細い呼吸を繰り返している。そして、その前で、絶望に打ちひしがれ、顔を覆って蹲る男がいた。「過去の俺」だ。


ああ、そうか。俺の目的は、プライムを消すことでも、俺が本物になることでもなかった。ただ、この絶望している男に、正しい選択をさせてやること。リリを救うという、唯一の正しい選択を。

その選択が、エコーである俺自身の存在を消滅させることになると、分かっていた。だが、それで良かった。リリが助かるなら、俺という残響は、静かに消えればいい。

「過去の俺」に声をかけようと、一歩踏み出した、その時。

「見事だ、被験体A。実に興味深い結論に達した」

背後から、氷のように冷たい声が響いた。そこに立っていたのは、ただのウォッチャーたちとは明らかに違う、威厳と絶対的な支配者の空気を纏った男だった。ウォッチャーの最高責任者。

「一連の事象は、全て実験だ。強大な力を持つアンカーを管理する者の適性を見極めるためのね。お前たち二人は、私の優秀な被験体AとBだったというわけだ」

彼の言葉は、宇宙の真理のように、抗いようのない重みで俺にのしかかった。俺の苦悩も、プライムの決断も、全てがこの男の掌の上で踊らされていたに過ぎない。

「そして、最終試験だ」

男は愉悦に口元を歪め、俺と、そしていつの間にか俺の隣に到着していたプライムを交互に見た。

「互いを消し、唯一の生存者として、私の前に立て。それが、アンカー管理者となる資格だ」


非情な宣告。絶望が、再び俺の心を黒く塗りつぶそうとする。だが、隣に立つプライムを見た時、俺の心に宿ったのは憎しみではなかった。初めて、俺は彼を、敵ではない、同じ運命を背負わされた片割れとして認識していた。俺たちが戦うべき相手は、互いではない。神を気取り、命を弄ぶ、あの傲慢な観測者だ。

プライムも、同じ結論に達したようだった。彼は俺に視線を向け、静かに、しかし力強く頷いた。

言葉はなかった。だが、二つの可能性に引き裂かれた俺たちの魂は、その瞬間、確かに一つになった。


雨が降り始めた。それは、俺が孤独な逃亡者となった、あの日の路地裏と同じ冷たい雨。だが、もう俺は一人ではなかった。手の中の時計が、俺と彼の決意に応えるように、確かな熱を帯びていた。

俺たちの旅は、まだ終わらない。いや、ここから始まるのだ。


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