世界からこぼれた僕と、秒針の猫
nii2
第1話【クロノスの迷い猫】
アスファルトに染みた夕暮れの匂いが、また一日が無駄に終わったことを告げていた。重苦しい鉛色の空の下、電柱という電柱に貼り付けた「探しています」の張り紙は、すでに街の風景に溶け込んで色褪せ始めている。雨に打たれ、風に煽られ、僕の焦燥と裏腹に、リリの顔は薄く滲んでいく。喉の奥でその名を呼ぶ。リリ。柔らかい三毛の感触も、気まぐれに擦り寄ってくる温もりも、今では記憶の中でしか再現できない、もはや触れることのできない幻になってしまった。
リリがいなくなって、もう何日経っただろう。カレンダーの数字は意味を失い、時間の感覚はとうに麻痺していた。世界が、少しずつ、しかし確実に狂い始めていることに気づいたのは、いつからだったか。
いつもと同じ時間に開くはずのクリーニング店が、別の名前で雑貨屋になっていた朝。毎朝挨拶を交わすコンビニの店員が、初めて見る客のように「温めますか」と無感情に尋ねてきた夕暮れ。昨日まで工事中だったはずの駅前の広場が、何事もなかったかのように完成し、噴水が水を上げていた光景。僕の記憶だけが、薄い膜のように世界から剥離していくような、奇妙な疎外感が肺腑に巣食っていた。人々は僕が知っている顔で、僕の知らない人生を生きていた。その中で僕だけが、取り残された迷子のように立ち尽くす。孤独は、冷たい霧のように全身を覆い尽くし、やがて肺を満たしていく。
ポケットの中で、硬質な冷たさが指先に触れた。リリが姿を消した、あの日の朝。彼女がいつも寝ていた出窓の下に、ぽつんと落ちていた古い銀の懐中時計。文字盤には星図のような奇妙な幾何学模様が刻まれ、秒針は固く凍りついたように十二の数字を指したまま、びくともしない。これがリリの残した唯一の手がかりだった。藁にもすがる思いで、意味もなく蓋を開け、沈黙した文字盤を睨みつける。その、瞬間だった。
カチリ。
耳の奥で、幻聴のように微かな金属音が響いた。固く凍てついていたはずの秒針が、まるで長い眠りから覚めたかのように、一つだけコマを進めていた。同時に、世界がぐにゃりと歪む。目の前の郵便ポストの色が、鮮やかな赤からくすんだ青に塗り替わる。行き交う人々の服装が、一瞬にして分厚いコートから軽やかなシャツへと変わる。僕だけを取り残して、世界が瞬き一つで別の季節に乗り換えたのだ。心臓が早鐘を打つ。焦燥が心臓を鷲掴みにする。これは、リリを探すための道しるべなのか。それとも、僕を狂わせるための悪質な罠なのか。
秒針が進むたび、僕は別の街の迷い子になった。時計が導く、まるで磁石に引かれるかのような奇妙な感覚に身を任せて歩き出すと、決まって秒針が一つ進み、世界は新たな貌を見せる。昨日まで通っていた、生活の一部だったはずの橋が跡形もなく消え、代わりに古風な木造の橋が架かっている世界。懇意にしていた古書店の店主が、僕の顔を見て「どちら様で?」と首を傾げる世界。まるで、ありえたかもしれない無数の「もしも」の残骸を、僕は幽霊のように彷徨っていた。そのたびに、足元が崩れ落ちるようなめまいと、自分自身が希薄になるような感覚に襲われた。
記憶だけが、かつての世界を証明する唯一の孤島だった。だが、その島も、寄せては返す可能性の波に、少しずつ岸辺を削られていく。本当にリリと暮らした日々は存在したのだろうか。僕が確かに触れたはずの温もりは、幻だったのか。僕という人間こそが、この世界のバグなのではないか。
そんな疑念の闇の中、黒い影がちらつき始めた。どの世界に移動しても、街角に佇む黒いコートの男たち。彼らは僕の存在を知っているようだった。僕を値踏みするような冷たい視線。一度だけ、人気のない路地で、彼らが落としたメモを拾ったことがある。そこには、意味をなさない単語の羅列が記されていた。「アンカーの捕獲、座標修正を優先」「不安定要素の処理」。その言葉が、僕を世界の根幹を揺るがす何かの渦中にいるのだと告げていた。彼らはリリを狙っている。僕が持つこの時計も。改変か、維持か。どちらにせよ、リリは物のように扱われている。その事実に、心の奥底で凍っていた怒りが、削り取られた最後の欠片を燃え上がらせた。
幾千の可能性を渡り歩き、心身は擦り切れた雑巾のようだった。それでも、リリの温もりだけが僕を突き動かす唯一の原動力だった。そしてついに、懐中時計の幾何学模様が、見慣れた僕のアパートの住所の上で淡い光を放った。秒針が最後の一つを、重々しく刻む。視界が白い光に染まり、次に開いた時には、全身を包む空気の質感までもが記憶と一致する、懐かしい我が家の前に立っていた。全てのズレが修正された、完璧な日常。ここが、僕が取り戻すべきだった「正しい世界」なのだ。
安堵に震える足で、アパートの階段を駆け上がる。自分の部屋のドアの前に立ち、鍵を――と思った、その時だった。ドアの隙間から、ほんのりと明かりが漏れていることに気づいた。心臓が嫌な音を立てて高鳴る。そっと窓に近づき、視線を内側に滑らせる。
そこに、いた。
見慣れたソファの上で、喉を鳴らしながら丸くなっているリリ。その柔らかな毛並みを、優しく撫でている男がいた。僕と、寸分違わぬ顔をした男が。部屋には穏やかな時間が流れ、壁には僕の知らない旅行の写真が飾られ、テーブルには二つ分のマグカップが湯気を立てている。完璧な日常。だが、そこに僕の居場所は、どこにもなかった。
窓越しの微かな気配に気づいたのだろう。「もう一人の僕」が、ゆっくりとこちらを振り向いた。その目に浮かんでいたのは、憐れみと、そして選ばれた者の優越感が入り混じった、静かで、しかし決定的な微笑みだった。
お前は、選ばれなかったのだと、その目は雄弁に語っていた。
その瞬間、手の中の懐中時計が灼熱を帯びた。カチカチカチカチ! 狂ったように秒針が猛烈な速さで逆回転を始め、文字盤の幾何学模様が嵐のように渦を巻く。世界が悲鳴を上げ、白い光が全てを飲み込んだ。全身が内側から弾け飛ぶような衝撃に、僕は意識を手放した。
次に目を開けた時、僕は冷たいアスファルトの上に倒れていた。降り始めた雨が、汚れた路地裏の悪臭を立ち上らせる。肺に染み込むカビと生ゴミの匂いが、現実を嫌というほど突きつける。手の中には、再び沈黙を取り戻した銀の懐中時計が握られていた。ぼやける視界を壁に向けると、雨に濡れた一枚のポスターが貼られているのが見えた。
そこに印刷されていたのは、疲れ果て、どこか虚ろな僕自身の顔写真。そして、その下には無機質なゴシック体で、こう記されていた。
【重要時間犯罪者 WANTED】
リリを探す旅は、唐突に終わりを告げた。そして今、全ての時間軸から追われる、孤独な逃亡が始まったのだ。僕は一体、何者になったのだろうか。そして、リリは――。雨が、僕の顔に冷たく降り注ぐ。
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