第1章(2)
美羽は、誰かがピアノを弾く姿を見るのが、どれほど久しぶりだっただろう。
表情は遠くてよくわからないけれど、その音は優しく、時にどこか悲しげだった。
その音色は、耳で聴いているはずなのに、なぜか美しい絵を見ているかのような気さえする。
美羽は息をするのも忘れて、ただ見入っていた。
「あ、人が来ちゃった」
潜めた声で清掃スタッフが口にした。
❋❋❋
(……誰か来る)
光流(ひかる)は、鍵盤をなぞりながら、人が近づく気配を感じた。
《月の光》はまだ半ばである。
しかし。
一瞬だけ視線を上げ、すぐ鍵盤に目線を落とすと、即興アレンジをして曲をラストへと繋げた。
優しく響く、最後のアルペジオ。
音が消えると、音も立てずに立ち上がりピアノの蓋を閉める。
光流は、近づいてくるはしゃぐ子どもの声とは反対方向の通路へと足を運んだ。
❋❋❋
(えっ、あの人、こっちに来る!)
そっと様子を見ていた美羽は、その人が近づいてくるのに気がつくと、とっさに影のベンチに身を滑り込ませた。
足音が、まっすぐこちらに近づいてくる。
心臓が早鐘のようになり、美羽は動けない。
角からふっと、その人が姿を現した。
そのとたん、美羽の目の前の空気がふっと凪いだ。
無造作な短い髪、ナチュラルな装い、涼やかな顔立ち……。
その人は、こちらを一瞥するでもなく、伏し目がちに前を見たまま、美羽の目の前を通り過ぎていく。
遠ざかるその人の背中を見つめながら、美羽の中で何かが静かに灯った。
――あんな音色を、私も出せたら……。
美羽の心の中では、あの人の音色が、いつまでも響いていた。
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