第1章 音との再会(1) 

 あれは、夢だったのかな――

 そう思うほどに、まどろみの中で聴こえてきたピアノは、それ以来一度も気配がない。


 退院は間近。リハビリも兼ねて、美羽(みわ)は売店へと歩いていくことにする。


 白い壁が続く廊下に、消毒液の香りが漂う。響いているのは、自分の足音だけ。


 すると。


 ――あ、このピアノ。あの時と同じ?


 美羽の耳に、聞き覚えのある「月の光」が微かに届く。

 思わず足を止め、目を見開いた。胸の高鳴りが音の粒に重なる。


 気づけば足は、音のする方へ向かっていた。


 音が近づく。もうすぐホールに出ようかとしていたとき。


 たたずむ清掃スタッフから、そっと声を掛けられる。

「もしピアノを聴くなら、陰からそっと、ね」


 美羽は首をかしげる。


「あの人、人が近づいていくと演奏止めちゃうから」


 ずっと聴いていたい――ただ、それだけだった。

 美羽は軽く会釈すると、角の陰からそっと様子をうかがう。


 2階まで吹き抜けの、秋の午後の光が差し込んでいるホール。


 奥には屋根の閉じた1台のグランドピアノ。

 そこに、くたびれたシャツにジーンズ。飾り気の無い姿のその人が、伏し目がちに静かに鍵盤をなぞっているのが見えた。


 その横顔はどこか物静かで、周囲の空気まで穏やかに沈めてしまうようだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る