怖い について

 私は、痛みを伴う言葉を全部「怖い」と表現していると分かった。前の「かわいい」でいろいろ書いていて、自分は見に降りかかる指摘を「怖い」という言葉で雑に表現している。まあ、人はたいてい恐怖に敏感だと知っているから、これは私だけに限ったことではないだろう。実際Iさんという身近にいる人は私よりかなり怖がりである気がする。今日も「地下鉄で話しかけてすみませんでした」という「謝罪」をしてきて、そんなこと全く必要ないのにIさんは必要と確信していた(あるいはそうしたほうがよいと思ってわざわざ実行した)。また、些細な失敗で泣くところを何度か見てきた。何も泣くほどのことではないのに、自分の失敗に恐怖しているのだろう。もし恐怖でないならば、自責だろうか。


 ともかく私は「かわいい」という言葉を批判する一方で「怖い」という言葉を一度も批判したことがなかった。指摘と怒号は違っていて、前者には内容があり、後者には単なる個人的激怒感情しかないだろう。私は全部怒号と受け止めるところがある。生い立ちにおいて、親から怒られることがあまりにも多かったことは確かに関係しているだろう。しかし、指摘に含まれる内容を「味わう」ことなしに一辺倒に「怖い」と断じて頭の中から捨てようと努力していた。しかしすぐに捨てられるわけもなく、「怖い」という無内容な概念が日を跨いで継続されるのである。指摘の言葉には必ず内容があるとすれば、それが正しいかどうか自分で考えることが先だろう。自分の賛否を明らかにすることが必要で、逆にそれをしないと恐怖だけが卵の殻のように残るのみだろう。

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