君に牛肉を買ってあげたとき、確かに俺には下心があった

春風秋雄

美里が精肉コーナーでジッと牛肉を見ていた

スーパーで買い物をしていると、高校時代の同級生の佐野美里を見かけた。結婚したと聞いていたので、今は苗字が変わっているのかもしれない。精肉コーナーで真剣に肉を見ている。声をかけようと思ったのだが、その様子を見て俺は近寄れなかった。どうやら牛肉を買うか、豚肉を買うかで迷っているようだ。俺もカレーを作るときはビーフ・カレーにするか、ポーク・カレーにするか迷うことがある。肉じゃがを作る場合、関東では豚肉を使い、関西では牛肉を使うと言われている。ここ静岡では豚肉が主流だ。うちは親父もお袋も広島県の出身なのだが、何故か豚肉を使う。お袋に静岡の土地柄に合わせたのかと聞くと、単純に“安いから”だった。俺はその味に慣れてしまったので、肉じゃがは豚肉派だ。佐野美里は、何の料理で迷っているのだろう。

俺も肉を買いたかったので、いつまでも見ているわけにはいかず、近寄って声をかけることにした。

「佐野、久しぶり」

俺が声をかけると、佐野美里が驚いて振り向いた。

「小堀君?」

「おー、よくわかったね。高校卒業以来だから、もう15年くらい経つのに」

「わかるわよ。小堀君、全然変わってないもの」

「そういえば佐野は結婚したんだよね?今は佐野ではなくなったのか?」

俺がそう聞くと、佐野の顔が翳った。

「離婚したから、今は佐野に戻っているよ」

「そうなんだ。余計なことを聞いたな」

「べつにいいよ。同級生は結構知っているから」

「さっきから見ていたら、牛肉を買うか、豚肉を買うか迷っていたようだけど、何を作るの?」

「ずっと見ていたの?今日はお母さんの誕生日だから、すき焼きにしようと思ったのだけど、牛肉は高いなと思って、でも豚肉のすき焼きでは誕生日なのに可哀そうかなという気がして」

佐野が見ていた牛肉はグラム750円のものだった。決して高級肉ではない。ひょっとしたら、離婚して生活が苦しいのかもしれない。

「鶏肉のすき焼きも美味しいよ。名古屋では“ひきずり鍋”といって、ポピュラーなすき焼きだよ」

「そう言えば小堀君って、名古屋の大学へ行っていたんだっけ?」

「そう。就職も最初の配属が名古屋支店で、ずっと静岡に帰りたいと希望を出していて、やっと去年こっちの支店に異動になったんだ」

「そうなんだ。ご両親は喜んだでしょ?」

「まあね。佐野はご両親と一緒に暮しているのか?」

「父は私が結婚してすぐに亡くなったから、今は私と母の二人暮らし。妹は嫁いで今は東京にいる」

「そうか、お子さんはいなかったのか?」

「うん。まあ、いなかったことが幸いだったかなとも言えるけど」

「いろいろあったんだね。愚痴くらいなら、いくらでも聞くから連絡してよ」

「じゃあ、連絡先教えて」

俺たちは連絡先を交換した。

佐野は俺のアドバイスを聞き入れて、鶏肉を買った。俺はとんかつ用の豚肉を3枚と、グラム980円のすき焼き用の牛肉を500グラム買った。

俺が先にレジを済ませ、出口のところで待っていると、レジを済ませた佐野が出てきた。

「佐野!」

俺が呼び止めると、佐野が俺を見た。

「これ、お母さんへ誕生日プレゼント」

俺はそう言って、買った500グラムの牛肉を渡した。

「え?どうして?」

「せっかくのお母さんの誕生日なんだから、牛肉にしなよ。鶏肉は冷凍して別の日に食べな」

俺はそう言って無理やり牛肉が入ったレジ袋を佐野に渡し、駐車場へ向かった。


俺の名前は小堀祥太郎。33歳の独身だ。『ちびまる子ちゃん』の舞台で有名な静岡県の清水市に生まれたが、小学生のときに清水市は静岡市と合併し、静岡市清水区になった。俺は一人っ子で、最終的には両親の面倒をみなければならないと考えており、静岡に支店がある会社を選んで就活をした。一流企業とは言えないが、それなりの会社に入社でき、入社以来ずっと静岡支店の勤務を希望していたが、名古屋の大学を出ていたこともあり、名古屋支店の勤務が続いた。そして昨年、やっと希望が叶い、静岡支店へ異動が認められ、高校卒業以来14年ぶりに静岡に帰ってきたというわけだ。


佐野美里は高校2年、3年と同じクラスだった。佐野は本が好きで、図書委員をしていて、放課後はいつも図書室にいた。俺は佐野に対してほのかな恋心を抱いていたので、それほど本が好きでもないのに、たまに図書室へ足を運んでいた。3年生になったばかりのある日、図書室へ行くと、国語教師の山口先生がいた。40代半ばと思われるこの女教師のことが俺は苦手だった。俺は山口先生の顔を見て、 “今日は帰ろう”と思い、踵を返しかけた瞬間に、山口先生が俺に話しかけてきた。

「小堀君が図書室に来るなんて、珍しいわね」

俺は国語が苦手だった。先生からしてみれば、小堀という人間と図書室が結びつかなかったのだろう。

「まあ、たまには・・・」

「今何か読んでいる本があるの?」

「いや、とくにはないです。適当に手に取ってパラパラめくっているだけです」

「そう、じゃあこれ読んでみなさい」

先生が本棚からとってきた本はサン=デグジュペリの『星の王子さま』だった。

「薄い本だから、すぐ読めると思うわ。そうね、本当は1日で読めるけど、明後日までにこの本を読んで、またここに来なさい。感想を聞かせて。そのときは、先生がコーヒーを御馳走してあげる」

コーヒー?学校でコーヒーが飲めるのか?

「佐野さん、あなたも明後日は図書室でしょ?」

「はい。その予定です」

「だったら、3人でコーヒーを飲みましょ」

佐野さんと3人で?これは何が何でも明後日までにこの本を読み終えなければならないと思った。

俺は佐野さんと一緒にコーヒーを飲むために、『星の王子さま』を必死に読もうと思った。ところが、必死になる必要はなかった。『星の王子さま』はとても読みやすく、そして考えさせられる内容だった。

読み終わった『星の王子さま』を返却しに図書室へ行くと、山口先生は約束通り、保温水筒にコーヒーを入れて持ってきてくれていた。

「小堀君、『星の王子さま』はどうだった?」

「とても面白かったです。『心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ、かんじんなことは目に見えないんだよ』という言葉が印象的でした」

山口先生は満足そうに俺を見た。

その日以来、俺は読書が習慣になった。山口先生や佐野にお勧めの本を聞いて、片っ端から読み漁った。通学時のバスの中、昼休憩時間、就寝前と、暇さえあれば読書に励んだ。その習慣は大人になっても続いている。おかげで様々な知識を得ることもでき、また感性も磨かれたと思っている。すべて山口先生のおかげだ。


そんな俺も3年生の後半になると、読書よりも受験勉強が優先となった。放課後は毎日図書室へ足を運び受験勉強をしていた。苦手な国語は山口先生が図書室にいるときに教えてもらった。

俺が座っている机の向かいに佐野が座り、一緒に勉強を始めたのは冬が近づいて来た頃だった。

「小堀君は名古屋の大学を受けるの?」

「うん。そのつもり。佐野は?」

「私は大学へは行かないことにした」

「大学へ行かないのか?」

「うちは2つ違いの妹もいるし、二人が大学へ行くのは経済的に難しいだろうから、私は就職することにして、妹が大学へ行きたいと言ったときは、私も少しは援助できるようにしておこうかなと思って」

「就職先は決まったのか?」

「普通の会社の事務で内定をもらっている」

よく見ると、佐野が勉強している本は簿記の本だった。そうか、高校を卒業したら佐野とは別々の人生を歩むのだなと、俺はそのとき実感した。


佐野が結婚したと聞いたのは、高校卒業10周年の同窓会だった。お盆休みに開催してくれたので、俺も参加することができた。佐野は参加していなかったが、地元で働いている同級生に聞かされた。

同窓会には山口先生も出席してくれていて、俺は挨拶をした。

「先生、ご無沙汰しています。先生のおかげで今も読書を続けています」

先生は目を細めて、優しい顔で俺を見ながら言った。

「あれだけ国語が苦手だった小堀君が、読書家になったとはね」

「先生が図書室で飲ませてくれたコーヒーのおかげです」

「そういえば、佐野さんは結婚したそうね。小堀君は佐野さんのこと好きだったのでしょ?残念だったね」

先生は俺の気持ちを知っていたのか。

それ以来、俺は仕事が忙しくて同窓会には参加していない。山口先生にもそれ以来会っていない。


佐野から連絡がきたのは、スーパーで会った翌日だった。

「昨日はありがとう。ちょっと会えない?」

いきなり佐野がそう言ったので、昨日言っていた離婚についての愚痴でも言いたいのかなと思い、待ち合わせの喫茶店へ行った。

「これ、昨日の牛肉代です」

座るなり、いきなり佐野が封筒を差し出した。

「いや、あれはお母さんの誕生日プレゼントにと・・・」

「母が牛肉のパックを見つけて、値札を見てこんな高いものどうしたんだと聞くから、正直に小堀君から頂いたと説明したら、あなたは同級生かもしれないけど、私は会ったこともない人なので、そんな人から誕生日プレゼントをもらう謂れはないと言って、代金を払ってこいと言われたの」

確かに佐野のお母さんには会ったことがない。どうやら相当な堅物な人のようだ。

「じゃあ、とりあえずそのお金は受け取ったということにして、そのまま佐野が持っていろよ」

「そういうわけにはいかないわよ」

「でも、佐野が見ていた牛肉はグラム750円のだったろ?俺が買ったのはグラム980円のだったから、予想外の出費になるじゃないか」

「その分美味しかったからいいわよ」

仕方ないので、俺はその封筒を受け取った。

「なんか、余計なことをしてしまったな」

「お母さんは、私に近寄ってくる男に過敏に反応するの。別れた旦那のことがトラウマになっているんだと思う」

「何があったんだ?」

「別れた旦那は同じ会社で働いていた人だったんだけど、結婚して2年くらいしてから独立して事業を始めたの。仕事の話は私には全然してくれなくて、生活費もサラリーマンをしていた時より、たくさん入れてくれるようになったから、順調なんだと思っていた。実際の経営は火の車だったようで、私に内緒でお母さんのところへ行って、銀行の借り入れの連帯保証人になってもらっていたの。お母さんには、こんな金額はすぐに返せるので、心配ありませんとか、調子の良いことを言って、安心させていたみたい。ところが、経営がとうとう行き詰って、弁護士に頼んで破産手続きに入ったの。当然連帯保証人のお母さんに請求が来て、とても払える金額ではないので、お父さんが遺してくれていた家を差し押さえられたの。旦那にどういうことかと詰め寄ったんだけど、自分は破産したので、俺はもうどうすることもできないと言うだけだった。お母さんは泣く泣くお父さんが遺してくれた家を手放して借家に移り、私も離婚してお母さんと一緒に住むことにしたの」

「そんなことがあったんだ」

「お母さんは、美里は男を見る目がない。結婚する前から信用できない男だと思っていたと言うし、本当に申し訳なくて。それで、昨日の牛肉を見て、久しぶりに会ったのにこんなことをする男は、絶対に下心がある。牛肉を返すわけにはいかないから、お金を支払ってきなさいと言われたわけ」

「下心があるか」

「ひどいこと言うでしょ?」

「いや、下心はあったかもしれない」

「え?」

「俺、高校のとき佐野のことが好きだったんだ。卒業10周年の同窓会で佐野が結婚したと聞いたとき、結構ショックだったな。昨日久しぶりに再会して、離婚したと聞いたら、こんなことで気を引けないかもしれないけど、何かのきっかけにならないかなと思って、思わず牛肉を買っていた」

「高校の時、小堀君が私のことを好きなんだろうなというのは、何となく知っていたよ」

「そうなの?」

「だって、本を読まない小堀君が図書室に通うのはおかしいでしょ?」

「そうか、バレバレだったか。山口先生にもバレていたもんな」

「山口先生も知っていたの?」

「うん。同窓会で佐野が結婚したという話題になって、“小堀君は好きだったのでしょ”と言われた」

「そうか、山口先生も知っていたんだ。じゃあ、昨日牛肉を買ってくれようとしてくれた気持ちに応えて、いいこと教えてあげる」

「いいことって、何?」

「私も高校時代、小堀君のことが好きだった」

俺は胸の鼓動がドクドクと早くなるのを感じた。


佐野とは週に1回は会うようになった。名古屋から車も持って帰っていたので、ドライブにも行った。ドライブをするときは佐野の家まで迎えに行くのだが、1回だけお母さんに会った。家の前に車を止めて佐野が出てくるのを待っていたら、どこかへ出かけるお母さんが家から出てきたのだ。俺は慌てて車から降りて「小堀といいます」と頭を下げたが、お母さんは返事もせず、ジッと俺を品定めするように見ていた。しばらくしてプイっと行ってしまった。怪しい男だと思われたのだろうか。

車を走らせてすぐに佐野にそのことを言うと、

「小堀君のことはちゃんと言ってあるから、お母さんのことは気にしなくていいよ」

と言ってくれたが、気にしないわけにはいかなかった。


佐野は日本平から夜景を見るのが好きだと言って、夕食後はよく日本平まで車を走らせた。

いつもは車から降りて夜景を堪能するのだが、その日は肌寒く、車の中で夜景を見ていた。ふと会話が止まり、横を見ると、佐野がジッと俺を見ていた。俺たちはお互いに吸い寄せあうように唇を重ねた。唇を離した後、佐野が俺の顔を見ずに言った。

「小堀君は、結婚してご両親に孫の顔を見せてあげなければいけないよね?私は結婚はもうしないから、私のことをそういう対象で見ないでね」

「どうして?一度失敗したからといって、結婚を諦める必要はないだろ?」

「また失敗するとか、そういうことを心配しているわけではないの。私の旦那のせいで、大切な家を失くしてしまった母を残して、私だけ出て行くわけにはいかないの」

そういうことか。お父さんが亡くなってからお母さんも働きに出ているとは言っていたが、それほどの稼ぎにはなっていないだろう。まだ58歳だと言っていたので、年金をもらうのはずっと先だ。借家の家賃の支払いもあるだろうから、佐野が家計を支えて行かなければお母さんは生活をすることができない。俺は言いようのない焦りを覚えた。

日本平からの帰り道、俺たちはほとんど会話をしなかった。佐野は俺に色々話しかけていたのだが、俺がほとんど返事をしなかったので、佐野も諦めて話しかけるのをやめたからだ。俺は無言のまま車を走らせ、国道沿いのラブホテルに入った。駐車場に車を止め、エンジンを切る。佐野を見ると、真っすぐ前を向いたまま動こうとしなかった。

「嫌か?」

「嫌じゃない。さっき私が言ったことを、小堀君がちゃんと納得してくれて、そのうえで誘ってくれているのなら私は全然嫌じゃない」

「さっき佐野が言ったことは、納得はしていないけど理解はした。そのうえでここに来た。それで良ければ一緒に部屋にあがってくれ。それじゃあ嫌だというのなら、このまま帰る」

俺がそう言うと、佐野はしばらく考えた末にシートベルトを外した。


高校時代から好きだった佐野美里と、こうやってひとつになれた喜びに浸っていると、美里がおもむろに言った。

「私はたまに小堀君と、こうやって会えれば、それでいい。小堀君はご両親のためにも結婚できる相手をみつけて」

「俺は佐野とこうやっていられるのであれば、結婚なんかしなくてもいいよ」

「小堀君は、絶対そう言うと思った。だから本当はこういう関係になったらいけないと思っていた。でも、小堀君とこうなりたいという気持ちの方が強くて、自分の気持ちに抗えなかった」

そんな美里の気持ちが嬉しくて、俺はもう一度美里を抱きしめた。


美里とは、毎週末に会い、食事をしてホテルに行くというパターンだった。泊りがけで御殿場や名古屋へ行くこともあったが、特に旅行としてスケジュールを決めているわけではなく、ホテルも適当にラブホテルに入って泊まるといった感じだった。そういった気ままな遊びが心地よかった。

俺は美里との結婚を諦めたわけではなかった。こうやって毎週会えるのは楽しいが、やはり一緒に暮したいと思う。何か良い方法はないかと絶えず考えていた。


ある日、お袋が久しぶりに俺の結婚について話し出した。どうやら俺に彼女ができたと感づいたらしい。俺が結婚できない事情を話すと、横から親父が言った。

「お前が相手の家に同居すればいいじゃないか」

「俺が?この家はどうするんだよ?」

「俺も母さんも、お前なんかあてにしてないぞ。それに同じ市内に住んでいるんだろ?北海道だとか、九州に住むわけじゃないんだから、何かあればすぐ帰って来れるんだから、何も心配することないじゃないか」

「本当にそれでいいのか?」

「いまどき、老後は子供の世話になろうなんて考えている親は少ないものさ。その佐野さんのお宅は事情があるから仕方ないけど、うちの場合はお前が名古屋で働きだした時から、まったくあてにしていなかったんだから」

俺は思わずお袋の顔を見た。お袋も優しい目をして「お前が幸せになることが、私たちの一番の願いだよ」と言ってくれた。


次の週末に美里に会ったとき、俺は親父が言っていたことを提案した。

「本当にお父さんがそう言ったの?」

「お袋も同じ意見だった」

「でも、うちは祥太郎が一緒に住むには狭すぎるわ」

「じゃあ、もっと広い部屋を借りようよ」

「お母さん、なんて言うかな?プライドの高い人だから、私は行かないと言うかもしれない」

「それを何とか説得しないとね」


美里の予想は当たっていた。お母さんは結婚自体は反対していないが、一緒に住むことは頑なに拒んでいるということだった。美里はお母さんを一人にはできないので、お母さんが一緒に住むと言わない限り結婚はしないと言っている。俺が会って説得すると言ったのだが、お母さんはそれも拒否していた。


休日に次に読む本を探そうと本屋に入ると、山口先生がいた。

「先生、ご無沙汰しています」

俺が声をかけると、先生は俺の顔を見て微笑んだ。

「小堀君、元気そうね」

「おかげさまで」

「同窓会以来ね。時間あるならコーヒーでも飲みに行きましょうか?」

「時間は大丈夫です。高校の時にコーヒーを御馳走になったお返しに、今日は僕がコーヒーを御馳走しますよ」

俺がそう言うと山口先生はニコッと笑った。

喫茶店に入り、現在美里と付き合っていること、結婚しようと思っているが、美里のお母さんが同居を拒んでいるので美里が結婚できないと言っていることを話すと、しばらく黙って考えていた山口先生が口を開いた。

「じゃあ、行こうか」

「え?どこへですか?」

「佐野さんの家ですよ」


アポもなしにいきなり行って大丈夫かなと思いながら、俺は車に山口先生を乗せて美里の家に向かった。呼び鈴を鳴らすと美里は在宅していた。美里は俺と山口先生が一緒にいることに驚いたようだ。山口先生はそれにはお構いなしに美里に聞いた。

「美里ちゃん、久しぶり。お母さんはいる?」

「ええ、いますけど」

「じゃあ、あがらせてもらうわね」

そう言って山口先生はずかずかと家にあがっていった。俺と美里はあっけにとられながらも、山口先生の後を追う。

「紗枝ちゃん、久しぶり。千恵子よ」

美里のお母さんの名前は紗枝子だ。それを紗枝ちゃんと気安く呼ぶからには古くからの知り合いなのか?

奥から美里のお母さんが出てきた。

「チーちゃんかい?どうしたんだい?」

俺は隣に立っている美里に聞いた。

「先生とお母さんは友達なのか?」

「高校時代の友達なんだって。一緒に図書委員をしていた仲らしいの」

そうだったのか。

居間に座った山口先生がいきなり切り出した。

「紗枝ちゃん、美里ちゃんと小堀君の結婚を反対しているんだって?」

「反対はしてないよ。結婚はすればいいけど、私は一緒には住まないよっていっているんだよ」

「でも美里ちゃんは紗枝ちゃんが同居しないなら結婚しないと言っているんだから、結婚に反対しているようなものじゃない」

「チーちゃんは、相変わらず屁理屈を言うね」

「屁理屈でも何でもないでしょ?実際そうなんだから。それで、どうして同居は嫌なの?」

お母さんはチラッと美里の顔を見てから話しだした。

「美里は一度結婚に失敗しているんだよ。この小堀さんという人のことは全然知らないけど、美里は男を見る目がないから、また失敗するかもしれない。前のときは帰ってくる場所があったけど、同居してしまったら、帰る場所なんかないじゃない。帰る場所がなければ、辛くても我慢するしかない。そんな思いを美里にさせたくないからね。だから、何かあったら、安心して帰ってこられる場所を、私が作っておいてあげなくてはいけないんだよ」

そういうことだったのか。お母さんは俺と暮らして世話になるのが嫌だったのではなく、美里のことを考えて同居を拒否していたのか。

「紗枝ちゃん、小堀君は私の教え子なの。今まで何千人という生徒を見てきたけど、小堀君は良い意味でとても印象に残っている生徒だった。国語が苦手な子でね。いつも赤点ぎりぎりの点数しかとれなかったの。そんな小堀君が図書室に度々顔を出しているというから、気になって様子を見に行ったら、どうやら本が目的ではなくて、美里ちゃんに会いに来ていたの。美里ちゃんと付き合いたいなら、本を読む男にならなければいけないなと思って、本を読むように仕向けたら、この子、途端に読書家になってしまった。当然国語の成績も上がって、希望の大学にも合格したの。ねえ、茂夫さんのときに似ていると思わない?」

美里が茂夫というのは、お父さんの名前だと小声で教えてくれた。

「茂夫さんも紗枝ちゃんに会いたくて図書室に通っていて、私が紗枝ちゃんの気を引きたいなら読書家にならなければいけないよってアドバイスしたら、茂夫さん必死になって本を読み始めて、そして本当に読書家になって、結局あなたたち、結婚したじゃない」

お母さんは、ジッと何かを考えているようだった。

「この子はまじめな子よ。『星の王子さま』に感銘を受けて、“心で見なくちゃ、かんじんなことは目に見えない”ってことがわかっている子だから」

里美のお母さんが俺をジッと見つめてきた。

「私が保証するわ。小堀君は絶対に美里ちゃんを幸せにしてくれる男だってことを。紗枝ちゃんは小堀君のことを知らないから信用できないかもしれないけど、私のことは信用してくれるよね?」

「もし、この小堀という男が美里を不幸にしたら、チーちゃん責任とってくれるかい?」

「そんなことはないと思うけど、万が一、離婚しなければならないということになったら、私が責任もって小堀君を家から追い出すから安心して」

「チーちゃんがそこまで言うのなら、信用してもいいかな」

「お母さん、ありがとう」

美里が泣きながらお母さんの手を握った。俺が山口先生に深々と頭を下げると、山口先生は優しい目をしてニコッと笑い返してくれた。

「あんた達と同居かぁ。引っ越すなら、部屋の壁が厚いところにしておくれ。美里の夜の営みの声なんか聴きたくないからね」

「お母さん!」

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君に牛肉を買ってあげたとき、確かに俺には下心があった 春風秋雄 @hk76617661

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